自由意志を主張する王子とその婚約者の話
5 俺のほうだ
こればかりは、どれだけの腕を持つ医師や術師にも予測がつけられない。
診察の間、ベネディクトは部屋から閉め出され、何をする気も起きずに意味もなくサロンのソファに両手を投げ出して腰を下ろしていた。
――――――コートニーに呪いが発動したという話だった。
あまり単純ではないもので、処置と診断結果が出るまで時間がかかりそうとだけ告げられている。
「リード」
やがて近づいてくる気配に顔を上げ、それが誰か認識するとベネディクトは急いで立ち上がった。
「大丈夫ですか、ベネット。顔色が悪い」
リード・バーンズは五十路を前にした中年の宮廷呪術師であり、国王オーギュスタンとは長い付き合いの友人になる。
長年の勤続ゆえにベネディクトのことも生まれたときから知っている。家族でもないのに不敬を承知で名前を呼び捨てる数少ない人物でもあった。
「リード。…コートニーは」
「いまはミレナが着いていますからご安心を。容態も落ち着いて、ゆっくりと眠っていますよ」
「…そうか」
ひとまずは息を吐いて、促されるままもう一度ソファに腰を下ろす。
ミレナはリードの妻で、バーンズ夫妻は揃って優秀な宮廷呪術師だった。
「気持ちはわかります。私もレディアに呪いが発現したときは天地が割れんばかりに混乱したものです」
「ああうんうんアレは見物だった良く覚えてる」
穏やかな物腰とは印象を違えて堅物の、バーンズ氏が度を過ぎた親バカ妻バカなのはもはや有名すぎてネタにもならない。
「…で、もう解ったんだろ、呪いの症状」
真っ向から向かいに座るリードの目を見据える。深緑の優しげな目元に、うすく皺が刻まれているのを何だか不思議に思う。
(年取ったんだなあ、リードも)
「――――ベネディクト」
思考が横道に逸れているのを、見咎められたようで背筋がぴんと伸びた。
大きな手が、肩に置かれた。
ききたくないと、思った。
あと数秒だけ、告げるのを待って欲しい。それはいやな予兆。
ベネディクトがコートニーの面会を許されたのは陽が落ちてしばらく経ってからだった。
今夜は本来なら晩餐会の予定だったのだが、オーギュスタンは息子の心情を察して欠席を認めてくれた。気分が優れないという理由でも申し訳の立つ、王子の身分様々である。
(や、実際すげえ気分は優れねえっつーか)
コートニーは滞在中に与えられている自室に移されていた。扉を叩いて返事を待つ。
中からリードの妻、ミレナ・バーンズが顔を出した。
「ベネディクト。落ち着いた?」
「俺に訊いてんのか?」
「あなたにきいたのよ。死んだみたいになってるんじゃないかと思った。大丈夫ね?」
ぺちりと額を叩かれる。そこまでひどいはずはないと思うが、鏡を見ていないので自信はない。
「じゃあ私はいったん外すけど、コートニーも疲れてるから大きな声出したり負担をかけたらだめよ。解ってるわね?」
「おう。…ありがとな」
ミレナは苦笑するとベネディクトの頭をくしゃくしゃっと撫でて、入れ替わりに部屋を出て行った。
足音をわざと立てて、奥へと進んでいく。
半天蓋付きのベッドは今はカーテンが引かれていて、ベッドの上で上半身を起こして座るコートニーがいた。起きている。
開け放たれた窓から涼やかな風が室内に入ってくる。コートニーの髪がさらさらと踊る。
こちらを見上げる、サファイヤの瞳。じっと、現れたベネディクトを映している。
コートニー・フロステルを、友人を、一番子分をじゅうぶんに視界に捕らえた。
良く見知った、その姿を。
「―――コー」
「あなたはだあれ?」
一度開いた口を、ベネディクトは遮られて噤んだ。
そしてなにも言わずに部屋を出た。
「ベネディクト」
「何も言ってねーよ安心しろ、あと頼むわ」
部屋の外で待っていたらしいミレナは、足取り荒く現れたベネディクトの剣幕に表情を変えた。
とても放ってはおけなくて、立ち去ろうとする腕を掴む。勢いよく振り払われる。
「ベネ」
「―――悪ぃ、ちょっと考える時間くれ」
もうそれ以上は何も言えない。一瞬だけこちらを見たベネディクトの目はひどく冷えていて恐怖を覚えるほどだ。
しかしどうしても、泣き出す一歩手前の子どものようにも思えてしまって。
「―――ベネディクト」
立ち去る背中を見送るしかなくて、ミレナは名前を呟く。その心境を思うと、自分の胸も押しつぶされそうに痛む。
「コートニーの様子はどうだい」
「身体に異常はありません。はじめはすこし混乱気味でしたが、だいぶ落ち着いて先ほど寝付いたようですよ」
「そうか、ありがとうリード、ミレナ」
晩餐会も無事終えた深夜の王宮。部屋のひとつに王家一家と診断した呪術師夫妻が集っていた。
その中に第一王子の姿はない。オーギュスタンは頭を垂れ、すっかり落ち込んだ様子で息を落とした。
「あなた」
「いいじゃないか。泣きたいのはベネだけじゃないんだぞ。コニーはもうすでにわしらの娘も同然じゃないか」
たしなめるキャサリンに、ほとんど身内も同然の集まりだからかこそ、オーギュスタンは泣き出さんばかりに顔をゆがめた。
「それは誰だってそうよ」
3年前に人妻となったヴィヴィアンナだが、公務のためにしょっちゅう里帰りしていて今回も居合わせていた。
こちらは気の強い顔立ちが台無しの、泣きはらした赤い目で、けれど毅然とリード夫妻へ向き直る。
「けど、大変なのはコニーの方でしょう?泣いてばかりじゃなくて考えなきゃならないわ。そうでしょ、リードおじさま!」
「その通りですよ、ビビアン。コートニーのことを考えなければ」
オーギュスタンが大袈裟に音を立てて鼻をすすると、大人達の間に緊迫した、静寂が下りた。
一同の、悲痛であったり不安そうな顔を見渡して、改めてリードは頷いた。
「コートニーの呪いは、一般の医学的な診断で言えば、全生活史健忘と呼ばれるものに近いようです。今までのことを思い出すことが出来ない、逆向の症状ですね」
つまり、ここはどこ?私はだれ状態である。
「これから新しく覚えることには障害は見られません。また思い出せないのは自分に関することばかりで、知識として得た教養や一般常識は指摘すればほとんど理解できています」
「そうか…」
オーギュスタンが耐えきれなくなったようで、深いため息とともにそう呟いた。
他の女性陣は黙ったままだ。
「ただ…そうですね。これはロンドンの呪いですから。今後同じようにまた、蓄積した記憶を失う可能性は、高いのでしょうね」
それがコートニーの呪い。
ロンドンは、フェイに安寧と呪いをもたらしたとされる太古の神の通称だ。
いつもは畏敬の名称であるが、今回ばかりは恨めしく思わずにはいられない。
「…発動を、止めたり、記憶を元に戻す方法はないの?」
悲しい声でヴィヴィアンナが尋ねた。リードも悲しそうに、ゆっくりと首を横に振るしかできなかった。
その夜、城のどこにもベネディクトの姿を見かけることは出来なかった。
翌朝になって王子捜索の命令がひっそりと通達されていた。久しぶりの指令に衛兵達は首をかしげつつ、それなりに張り切ってベネディクトを捜し始めた。
当然のことだがコートニーの呪い発現のことはしばらく、身近なものをのぞいて伏せられることになった。シールヴィルにいるフロステル夫妻には書状で知らせることになるだろうが、今からその心情を思うと気が重い。
「ミ、ミレナ様…」
朝早くからコートニーの様子を見にミレナが部屋に向かうと、コートニーの侍女が戸惑った様子で駆けてきた。
告げられた内容に思わず言葉を失う。
確かめに早足で向かうと本当にきいた通り、いまだ眠りから覚めないコートニーの枕元にベネディクトがいた。
腕を投げ出して顔を伏せてはいるが、その瞳は開いていて、ミレナを認めるとかすかに笑った。
「おはよう、ミレナ」
「ベネディクト、あなた」
声がかすれ、目元がわずかに赤いのが解った。
かわいそうに。この子は一晩中起きていたのだろう。コートニーがいないと眠りにつくことも出来ないのだから。
触れて眠れなくても、朝が来ると側に行かずにはいられなかったのだろうか。
「どうしたの」
「話がしたい」
出来るだけいたわるように尋ねると、間を置かず答えてくる。
「――――ひどいことを言うようだけど」
何を言っても何をしても、記憶が戻ることはない。
呪いとはそういうもので、発動したものが解かれることはない。無効になって消えることも。たんなる呪術と異なる、それがロンドンの呪いだ。
「わかってるよ。ただふつうに、話がしたいだけだ。問いつめたりしねえから」
「……わかったわ。でも私も付き添うわよ」
「いいよ」
ベネディクトは答えて、再びコートニーの寝顔を眺める姿勢に戻った。
このふたりはいつも仲が良く、ふれあいにも遠慮がなかった。婚約者同士と言うよりは、じゃれあう子犬同士のような、ほほえましい関係が感じられた。
けど今はベネディクトは触れようとしなかった。
遠慮しているようにも思えてかすかに違和感を覚える。ベネディクトなのに。
やがて幾度か寝返りを打って目を覚ましたコートニーは、枕元に大勢いて起きざまに萎縮したようだった。
「おはよう、コートニー。よく眠れた?」
まずミレナが笑顔で声をかける。コートニーは、大きなサファイヤの瞳を何度も瞬いて、部屋の内装を見渡して、何とか頷く。
「コートニー、ああ、そっか…わたしの名前、うん」
自分に言い聞かすように。ベネディクトはその横顔をじっと眺めていたが、
「おはよう、コートニー」
枕元に身を乗り出したまま、声をかけた。
「え、えっと、はい。おはようございます…?」
戸惑ったように頭を下げられる。顔を合わせたのは一瞬ほどなので、誰だか思い出せないと言ったところだろう。
「俺は、ベネディクト・リディオン・フェイロだ」
「べねでぃくと、さん…」
復唱される呼称にむず痒い思いになって苦笑を浮かべる。
「ベネでいーぜ。みんなそう呼ぶ」
「う、うん…ベネ…あ、昨日、一度会いに来てくれた?」
ようやく思い当たったようで、コートニーはわずかに顔を明るくして尋ねてくる。ああ、と頷く。
「だれなんて言って、ごめんなさい。もう間違えないわ、ベネ」
「そっか」
ベネディクトは気がつくとちゃんとした笑顔になって、コートニーの頭を撫でていた。
「そうしてくれるとありがてーわ」
くすぐったそうにするコートニーの、頬に手を添える。サファイヤの目が瞠られて、困惑したような顔をされる。
しばらくじっと見つめて、唐突に目を逸らして手を離す。
「…じゃ、また来る」
「……あ…」
立ち上がり、去ろうとするベネディクトを不思議そうにコートニーの目が追う。
けれどかける言葉が浮かばなくて、結局口を閉ざしたまま背中を見送る。
(もう、いなくなってしまうの)
そんな風に思ってしまう、なんで。
理由がわからなくて、もどかしい。
コートニーはただでさえ何も解らないのに、胸の奥が痛いような気持ちになってうつむいた。
ベネディクトは続いて父王の執務室に足を向けた。
オーギュスタンはいろいろと積み重なる頭痛の種に加え、今回の愛娘の悲劇を受けてすっかり落ち込んでいた。
しかし仕事は待ってはくれない。大勢の書簡や決裁待ちの書類の山に埋もれ、鬱屈とした時間を過ごしていた。
「――――オヤジ」
何の断りもなく現れた息子の姿を見て、安堵するよりもまずぎょっとした。
オーギュスタン自身も多くの武道を修めた身である。これほど接近を許すまで気配に気付かずいたとは。
「ど、どうしたベネディクト。ああ、昨夜は無事だったか」
「俺とコートの婚約ってどうなるんだ?」
予想だにしていなかった息子の第一声。問いかけに二度虚を突かれて反応が遅れる。
さすがにコートニーの呪いは意外だったとはいえ、それで何かが変わると言うこともない。
「それは心配ない。お前達は予定通り結婚するよ。もちろんコートニーがどうしてもというなら再考もあり得るが…」
硬い表情のベネディクトを見て、ふと思った。
もう最近はなにも言わなくなっていたから、息子なりに納得したと思っていたのだが。
「お前がまさか、嫌になったのか?やはり結婚は嫌か」
「―――――コート以外と結婚なんて考えたこともねえ」
思いの外断言されて、しかし内容とはうってかわった剣幕にたじろぐ。
どうやらベネディクトは怒っているらしい。非常に。
その怒りの対象が父でないことを祈りたいが。そういうわけではないとは思うのだが。
「オヤジ、これから何年かかるかわからねえから、何だったら縁を切れ。俺は王子をやめる」
「……ベネディクト」
何を言い出すのか、問いかけようとする前に、低いままの声が続ける。
「ロンドンってのは何だ?フェイの神か?どっかにいんのか?俺たちの呪いはだれが決めてんだ?だれが操ってる?全部確かめてくる。捜して突き止めてやるまでは帰らねえ」
「ベネディクト、聞きなさい」
「オヤジ、止めるな。もし誰か連れ戻しに差し向けて、俺を妨害しようとするなら誰が来ても斬る。頼むからフェイの民を俺に殺させないでくれよ」
驚くほど、ベネディクトは据わった目をしていた。狂気に駆られたと思いこむにはひどく、冷静に冷え切っている。
それが、18年間見てきた息子とは思えないほど、恐ろしく映る。
――――探し求めるものが、答えが、実在するのかも解らない。無謀な。
無駄といえる行為を。それでもベネディクトには許すわけにはいかなかった。
「そいつはコートを泣かせやがった。許さねえ」
「………」
ベネディクト・リディオンは、愚かにも自らの私情に駆られ優先すべき多くの責務を放棄してしまった。
後世にはそう記されるかも知れない。しかしそう育てたのは自分だ。
オーギュスタンのひとり息子だった。確かにこの時から、ベネディクトはフェイの王子ではなくなっているかも知れないとしても。
「ベネディクト!」
名を呼ぶ。他に何も語ることなく立ち去ろうとしている息子へ。
「止めはせん!だからいつでも戻ってこい、お前と親子の縁を切るつもりはない!」
―――――国王にしては威厳のない、ひどく悲壮な表情で。
けれどそれが精一杯の、父に出来る言葉。国王として何か命じたところで、聞き分ける子ではなかった。小さな頃から、ちっとも聞きやしない。
「か、帰ってこいっ。キャサリンが、みんなも、寂しがる…ッずず」
「……はは、ありがとよ、オヤジ。…じゃあな」
最後には、張りつめた気配をゆるめて笑顔も向けてくれた。
ベネディクトの背中を見送ってオーギュスタンは肩を震わせた。
息子の背はひどく大きく見えた。わしも歳をとるはずだ。
いまだ王子捜索の任が解かれない警備の中、ベネディクトは王城を脱出した。
だれがどういった警備の癖があるのか、知り尽くしている。生まれてからずっと見てきて、それをいつも突破してきていたのだから造作もなかった。
きっと長く留まり、見上げるようなことをすれば間違いなく感慨が芽生える。
ベネディクトは一顧だにせず、茂みを伝って宵闇の中駆け下りた。
手がかりも情報も何もない、ゼロからのスタート。
けれどちっとも衰えるとは思えない、胸に燃えさかるこの憤りがあれば、どこまでだっていってやる。
(コートニーを泣かせやがった)
一番の友人で、一番の子分だった。怖い、いやだとベネディクトにすがりついて泣いていたのに。
子分を泣かされたら、親分がその報復を行うのは当然だった。
あのあと目覚めたコートニーは、すべてを忘れて笑顔を浮かべるようにもなっていたけど。
なぜだろう、コートニーはまだ泣いている気がしてならないから。
走る。走ろう。
俺は決して諦めたりはしない。
(…いや、本当に、泣いているのは)
かがり火がわずかばかりの王宮が、ベネディクトの後ろ姿をずっと見送るように、月に照らされ佇んでいた。
(2009.6.20)