閑話1
フェイ・ロン・クイーデ王国、首都グリディム。
第一王子が、見識を得るための旅に出たと知らされたのはひそやかに捜索の任が解かれてからさらに三日後のことだった。
古参も新参も、城の者の反応は様々だった。
王子らしいと鷹揚に笑って流すもの、何も黙っていくことはないだろう、と不満を零しながらもその実は寂しさを隠しきれないものが大半を占めたが、当然不審に思うものもいた。
何という非常識な王室だろうと、正論を抱くものもいる。
当然のように真実を知るものはその一部に限られたし、国民には王子出奔の事実さえも公表しないということになった。
まあ、地方から来る有権者などには次第に明かされることになるだろうから、市井に知れ渡るのも時間の問題ではあるだろう。
いわくお忍びの旅であるから、本人が吹聴して歩かない限り正体が知れることもないだろう。
国王オーギュスタンはその点だけは自信を持って断言できた。
(たとえベネディクトが自分が王子だと告げたところで信じる者はいないだろうしな…)
むしろその点だけは何の心配もしなくて済む。
現状における懸念は、そのベネディクトの実情を知る身内への対策といえた。
少し前ならともかく、このタイミングで旅に出る理由など簡単には用意できないし、何より唐突に過ぎる。
対応に困った国王は「一種のマリッジ・ブルーだ。しばらく好きにさせてやってくれ」と苦しいがそれで押し通すことにした。
あながち、完全な間違いでもないし。
「お父様はベネディクトに甘すぎるわ!この状況で城を出るなんて、何を考えているの」
ヴィヴィアンナの怒りはなかでもすさまじく、糾弾にはオーギュスタンも痛手を受けた。
「あんな状態のコートニーをおいて。原因を明らかにするですって?目の前の問題を放り出して逃げただけじゃないの。自分を覚えていないコートニーと向き合うのが怖いだけじゃない。それで女を守れるとでも思っているの、自分の弟ながら情けないったらありゃしない!」
「……び、ヴィヴィアンナ。落ち着きなさい」
肩を怒らせ国王のもとへ抗議に訪れたとき、執務室にはふたりきりだった。
内々の話をするには都合がいいが、いかんせん息子とは違った意味で娘も怖すぎた。
「それにあの子は王子なのよ。為政者に足る理性も知性もあったもんじゃないけど、それでも第一王子!そんな理由で王都を離れるなんて!どうして自ら行っちゃうのよ、ひとをやって調べさせなさいよ!お父様そもそも止めなさいよ!」
矛先がこっちに向いてきた。
オーギュスタンは娘の剣幕に、椅子に背を沈ませながらも手のひらを向けてなだめにかかる。
「ヴィヴィアンナ、聞きなさい。とりあえず」
―――――ひとつ息を吐く。
一通りの抗議を終えたのか、髪を乱して顔を紅潮させたまま、姉姫はようやく言葉に従って唇を結んだ。
25になろうが、人妻になろうが、その気性は少女の頃と何らかわりがない。
これでは弟のことも、そんなに言えないだろう。本人もそう思ったのか、視線はわずかにうつむいていた。
「ベネディクトはおそらく、コートニーのためだけに城を出たのではない」
静かに告げると、ヴィヴィアンナの瞳が怪訝そうに揺らいだ。
「あれはきっと、この国のことを考えて、考えすぎて、これから生まれいずる民ひとりひとりのことも、放ってはおけなんだよ。だから行った」
ロンドンの呪いは、フェイの民と切っては語れぬものだから。
「王子なのに、そんな理由で、ではなく。王子だから、行くのだ。コートニーのことは確かに大きなきっかけであったろうし、おまえのいう要因もあるだろう。あの子はきっとある意味ではコートニーの事実から逃げたのだ。それほど恐ろしかったに違いない」
「――――あたしは、自分の呪いからもコニーの呪いからも逃げたりしないわ」
「そうあればいい。それがヴィヴィアンナのやり方であろうよ」
同じように、ベネディクトの守り方がこうであっただけ。
オーギュスタンは頷いて、それでも怒りを瞳にたたえたままの長女に笑いかけた。
「甘いという、お前の忠告を有り難く思うよ。けれどベネディクトはアレでいいとも思う。あのような考え方の国王が、歴代に一人くらいいてもいいかとも思うよ、わしは」
「―――滅びちゃってからじゃ遅いんだから」
国王は思わず声を上げて笑った。
王が無能でも、この国には優秀な人材が多いからなあと冗談めかして。
「ありがとう、ビビ。ベネディクトの行動を咎めてくれるお前の存在を、うれしく思うよ。きっとベネもそれはわかっているさ」
ベネディクトは確かに理性的な統率者には向かないだろうが、国王として不向きだとは思っていなかった。それに。
(ヴィヴィアンナは、コートニーの政治力を知らんのか)
だからあのままベネディクトを育てたのだ。
将来宰相の地位を継ぐ候補として考えられるほど、婚約者の教養と見識は確かなものである。
だから、姉姫の言葉はうれしい。
ベネディクトとコートニーが側にいないのは、不安にもなる。
ふたりの仲がこれまでと変わっていくのは、今後も必然であろうから。
コートニーは、休憩の時間ふらふらと城内を散歩していた。
毎日のように、いろいろなひとから自己紹介を受ける。顔と名前が一致していっても、彼らが個々に、自分に受ける印象は異なるようだった。
不思議そうにされたり、悲しそうにされたり、何だか明るく接せられたりする。
(…忘れる呪い)
説明を受けて、コートニーは頭で理解したつもりではいた。
自分は、これから出会ったひとの名前や出来事や思い出を、いつ忘れるかという日々を過ごすのらしい。
忘れたときにはこんな、不安に思ったことも悩んだことも忘れているんだろうけど。
(忘れる前はきっと怖いんだろうな)
考えなければいいのに、なまじ頭がよい分、そこまで考えついてしまうのも早かった。
けれどみんなが同じような不安や、悲しみながら優しく話しかけてくれるのが解るから、コートニーはつとめて笑顔を浮かべていた。
その方が自然な自分の気がしたし、きっと以前もこうやってよく笑っていたはずだという気がした。
それ以外は、自分の役割らしい行儀作法や習い事の勉強の時間だったので、そちらに没頭した。
これらは、授業風景などは思い出せないのに、身体や頭が覚えているらしく、問題なく続きが出来た。
けれどもすぐには慣れない。
この広いお城もまだ構造をすべて把握しきれなくて、どころか、自分が両家のお嬢様で王子の婚約者で、今は花嫁修行中で、などというすさまじい状況も。
コートニー・フロステルという事実すら浸透していなくて。
足下がふらふらする心地を、ずっと感じている。
いつになったら。せめていつになったらコートニーと呼ばれて丁寧に扱われるのに慣れるのだろう。
足は、いつの間にか夏の花の咲き乱れる庭園にたどり着いていた。
ここは好きだった。
いつ覚えたかも解らない花の名前がどんどん浮かぶ。その特色や原産地や成長の過程まで思い出せる。
自分はきっと勉強熱心で、徹底主義なのだろうと、他人事のように思う。
ふしぎ。
この花の群れに、隠れるようにしゃがみ込んで、膝を抱えて。
服の下に隠した、ペンダントを出して眺める。
そうすると、定まらず揺れる気持ちが、なだめられるように落ち着くのだった。
紅縞瑪瑙のペンダントは、他の自分の持ち物に比べていかにも見劣りのする素っ気ない意匠の素朴なつくりだが、いくら眺めていても飽きなかった。
これを見ていると、何も考えずにいられる。とても慰められた。
――――――誰に何を言われなくても、コートニーの宝物だった。
どんな謂われで、誰にもらったのかといった経緯を、コートニーは誰にも尋ねたことがなかった。
まさか無いとは思うけど、取り上げられたりでもしたら、と思うと、見せることも出来なかったのだ。
何も悪くないと言ってくれるし、解っているけど、何も覚えていない自分はたった一人きりのように思えて、どうしようもなく寂しかった。
覚えていないことで、悲しい顔をさせるのも悲しかった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
本当に口に出してしまうと、もっと悲しませるとわかるから、ここでひとりでペンダントを手にうずくまる。
これにふれると、かなしくてつらくても、だれかに抱きしめられているような気持ちになる。
他の誰に抱きしめられても、今までの関係を、親しさを覚えていないからどうしても不安になったり恥ずかしくなってしまうのに。
この心地は、すごくコートニーを落ち着かせてくれる。
(このひとがいればいいのに)
ペンダントのようなひとがそばにいて、コートニーを抱きしめてくれたらいいのに。
きっとそれだけで、わたしはここにいるんだと実感できるから。
(2009.7.3)