20 風待ちて
―――――――夢を見たんだ。
いつもと違う、真っ白の舞台。
青空の下で、みんなが笑っていて、俺も笑っていて。
視線の先には、紅がいる。
何故か、白いドレスを着ている。
良く分からないんだけど、白いドレスって事は分かる。
凄くよく似合っていることも。
紅も―――――笑顔。
少しはにかんだように、微笑みかけて、手を伸ばしてくる。
舞う、花吹雪。
あふれる祝福の声。
ああ、そうか。
そっか、これは。
未来を誓う、夢なのだ。
そして、そして。
20 風待ちて
朝からカゲロウの姿を捜したが、どこにも見あたらなかった。
「……」
しょんぼりと項垂れる紅を見かねて、フクロウが手探りに頭を撫でてくれた。
「気にするな。カゲロウがじっとしてられないのはいつものことだ」
「でも」
昨夜の宴会でも少ししか会えなかった。
紅の前には存在を明らかにしてくれるようになっていたカゲロウだが、マスターと同様宴会でも顔を見せなかったのだ。
だから時間が足りず、ろくな挨拶もしていない。
「もう…」
会えないのに。
言いたいことが、たくさんあったのに。
「あの男は繊細だからな。会って別れなんて、言いたくなかったんだろうよ。察してやれ」
「……そう、だけど」
ぐりぐりぐりぐり。せっかく整えた髪型が乱されるのも構わずに、紅は頭を撫でられ続けていた。
この手とも、今日でお別れ。
サーヴのアジトには、朝になればもう、フクロウとローザの固定メンバーしか残っておらず、紅が訪れたままの状態に戻っていた。
もともと、他人の集まりなのだから。
それぞれの生活があるのだから、当然といえば当然だろう。ウォッツはフェイに比べれば小国だが、気楽に行き来できるほどは狭くない。
「紅」
本名を呼ばれて顔を上げると、フクロウが褐色の肌に良く映える、白い歯をむき出して笑った。
「今でも十分だけどな。いい女になれよ。病気とかすんじゃないぞ」
「フクロウ…」
別れの言葉だと思った。
抱きしめられて、父親とさえ久しくしていない抱擁だったが抵抗感は皆無だった。
出立の準備はすでに出来ていたので、簡単な支度を調えて、日持ちのする食料をローザから手渡された。
「なんて顔してんのよ」
昨夜あれだけ飲みふけっていたのに、今朝の彼女は早起きだった。
早々に弁当をこさえ、紅の身支度を手伝ってくれた。
「……」
湿っぽくならないようにと努めていても、紅の表情は自然とこわばっている。
「可愛い顔が台無しじゃないの」
相変わらずローザはからっとした様子で言って、紅の顔に手を伸ばし、ぺたぺたと冷たい液体を塗りつけていった。
「な、なに?」
「保湿液とかその他諸々よ。外を長く歩くんだから、若くたって少しは気を使いなさい?」
「……ありがとう」
ローザにも、本当に長い間良くして貰った。
多少、遊ばれたりもしたが、今となっては思い出すのが辛いほど嬉しくて。
「ねぇ、紅。ぎゅーってしていい?」
「えっ」
返事を待たずに引き寄せられて、言葉通りにぎゅうっと音が出そうなほど抱きしめられる。
「良い子、良い子」
後頭部に回った手のひらが、ゆっくり髪の流れに沿って撫でてくれる。
紅はしばらく黙ってされるがままだったのだが、やがてぎゅっと抱きしめ返して、腕を伸ばした。
「これが今生の別れだなんて、思ってないわよ?でもね、ずーっと一緒にいたんだもの。しばらくアンタに触れないんだもの。これぐらいいいでしょう?」
だから、ね。
忘れないで。
どうか覚えていて、と。
たくさんの愛情を受けて、紅は夢中で頷く。
忘れないし、覚えている。
この国を。この町を。この人達を。
だから泣かない。
涙はけっして、流したくない。
昔ほどはないが、今日も尚この大陸は外国との交流が浅い。
土地柄はあるが、外国人への偏見や風辺りも根強く、それと知られれば行動制限が多くかけられる。
唯一、三国の中ではフェイが最も規制が甘いだろう。厳しいのは閉鎖国ウォッツだと言われている。
そのように差はあるが、ゆえに、よっぽどの後ろ盾がなければ外国人は他国で生きていけないのだ。
自国と永久に別れを告げ、他国での永住を決意する。
その程度の覚悟は必要といわれていた。
そして、自分が未だ力のない子供に過ぎないことを、紅自身が一番よく知っていた。
「紅」
玄関を出ると、旅支度のラグが待っていた。
「行こう」
呼ばれて頷き、駆け寄る。
初めて出会ったときと同じ、肩口で結ぶ、マントを翻して、ラグが先を行く。
紅も、ブーツだけは外歩きようのものを借りて、あとは全くこの国に来たときと同じ。 ラグを、追いかける。
いつかをなぞるように。
レヴンの大密林までは半日。
そこから森を抜けてフェイの、紅の知る道に出るまでは丸一日と計算された。
口数の減る紅が見えていないといった様子で、ラグはたびたび話しかけてきた。
ずっと寝込んでいたから外歩きは久しぶりだとか。
レヴンの大密林は年中飢えをしのぐに事欠かないとか。
紅は適当に相づちを打つ。
次第にラグも黙って歩き出す。
道無き密林で、後ろを歩く紅のために道を作って黙々と歩いていく。
無言の心遣いに胸がきゅうと音を立てて軋んだ。
もうこれ以上、優しくしないで欲しいのに。
すでに、ラグのやさしさに裏がないと知っているから。
全部が全部、愛情だと信じているから。
余計に辛かった。
このまま、今誰もいない密林で、帰りたくないと。
ラグと離れたくないと、子供みたいに泣き喚いたら、どうするだろうか。
さらって、くれるだろうか。
「……」
馬鹿みたいだと思って、首を振った。
弱音を吐いて、愛情を求めるのは昨夜で十分足りたはずだ。
ラグは応えてくれた。
嬉しかったから、嬉しい気持ちのまま、ありがとうと言ってお別れがしたい。
押しつけたくない。
彼の愛情は本当に不器用で、純粋だと思った。
紅も同じくらい、綺麗な気持ちでラグを好きだと思いたかったから。
「紅。」
呼ばれて、顔を上げる。
ラグが真っ直ぐに手のひらを上に差しだしていた。
「……」
きっと、この行為に意味がないといってしまえばそれまでだ。
山歩きは危ないから、ラグが気遣ってくれただけだ。
でも、この手を取っても良いのだろうか。
たったそれだけの行為でも、戸惑う。怖い。
「あっ」
逡巡して、瞬きをしていると、あっさり手を引かれる。
ラグの手の中に、自分の手が収まる。
「もうすぐ日が暮れるね。野営地を捜そう」
何でもないように笑う。
ほら、もう。
たったこれだけで、想いが募るから。
離れられなくなるから。
時間は驚くほどに早く過ぎていき、見つけた水場の近くで火を焚いた。
眠る時も、手を繋いで離さないラグを、紅は無言で見上げて、目を逸らしてごまかした。
それ以上は指一本も触れないけれど、ただそれだけの接触が嬉しくて、笑顔になるのも怖かった。
自分はものすごく、弱い人間になってしまった。
「紅」
自分の名前の響き方を、声を。
まだぎこちない、本当の笑顔を、しっかりと、目に焼き付けておこうと思った。
この大地を。
出会った人々を。
驚きも喜びも。悔しさも安堵も。
全て脳裏に刻んでおこう。
きっときっと、生きていける。
胸に抱いて、少しは泣くかも知れないが、明日には笑顔になれる。
だから。
「ラグ」
応えて、名前を呼んだ。
ほとんど初めて、歩き出してから呼ばれた声に、ラグの顔がぱっと輝く。
笑顔で、来た道を遡っていきたい。
初めての恋の終わりは、そんな風が良い。
そうして、前半の静かさを取り払うように、たくさんのことを話して歩いた。
砂嵐のこと。みんなのこと。ラグが病床の時にあったできごと。意外と話題は尽きなかった。それぐらい、どうしようもないことも話す。
今までこんな風に、笑いながら話したことがあっただろうか。無かったと思う。
目が合えば言い合いをして、色々あってからは一方的に逃げ回るようになって。思えばどちらも紅が起因だ。
「……」
あっというまに、日が暮れる前には森を抜けた。
ペース配分を考えてなかったためか少し息は上がっていたが、ザグル(呪いを受けた動植物)一匹にも遭わず、無事たどり着けた。
見渡す限りの平原。
もう少し前方にはすでに街道が見える。ここはもうフェイ国内なのだ。
「…ゴールだね」
静かな声でラグが呟いた。これからは急いで行動しなくては、ラグの身に関わってくる。彼は不法侵入者なのだ。
「あ、あの…ッ、もう遅いし!この辺りでもう一晩野営しない?その方が、明日の朝にラグが帰った方が…夜の森歩きは危ないし…」
慌てて口をついた言葉に、紅自身が驚愕する。真っ赤になって口を塞いだときにはもう遅い。
「もう一回俺と寝てからさよならにする?」
「!!なっ…」
平坦な声に、あけすけに告げられて愕然とする。
紅は、そんなことを望んで提案したわけではない。ラグもそれは分かっている。
離れがたいのは、どちらも同じ気持ちだから。
「…二晩も好きな子の寝息が耳元でしてるのは辛いよ?」
ラグは苦笑を向けたが、それはけして冗談でも何でもない。
分かるから、紅は口を閉ざす。
身体で繋ぎ止めておけるのなら、それで良かったかも知れない。
いや、きっとそうすることも出来たし、紅は従ってくれたかも知れない。自意識過剰だろうか。
実際に、昨日の朝も、どこかに閉じこめて、どこにも行けないようにする、願望がないわけではなかった。
でもしなかった。
そうしたくなかった。
本当の「好き」の意味が、今は少し分かっているつもりでいるから。
「じゃ…じゃあ、ここで、お別れね。色々あったけど、楽しかったわ。ラグ、今までどうも―――――」
「あ、紅、ちょっと待って」
急いで別れを終わらせようとするので、今も繋がれている手を引っぱって、ラグは実力行使で紅を黙らせた。
「っ!????」
卑怯だったかも。
絶句してしまった唇を、名残惜しむ様に舌で舐めて、ようやく顔を離す。
「あのね。俺夢を見てね、それがあんまり素敵だったから、いっそのこと将来の夢にしたいんだけど、どう思う?」
「い、いきなり何の話よっっ!??」
慌てて逃げようともがく、元気の良い紅が何だか懐かしくて嬉しい。
手はけっして離さない。
「俺の将来の夢の話」
「それがいま何の関係があるのよ!?」
手を振り解こうと、ばたばたと暴れる紅は、怒りのためか、それともこらえていた感情が爆発したのか涙目だ。
「それがあるんだよ。あのね、俺ってずっと18歳になってからの自分が想像付かなくてね」
構わずに、肩を抱き寄せて、耳元で落とすように語る。
紅は少し身じろぎして、すぐに大人しくなった。
「最近になってやっと、見えてきた。俺、きっとこれからも生きていける」
夢を目指して。
「紅がいなくても、きちんと出来る、しっかりした、ちゃんとした大人になる。それが夢」
真っ直ぐに、お互いの目を見て。
ラグはきっぱりといった。
強い意志が見て取れた。
紅が、いなくても。
「…うん。うん…い、いいんじゃない?大丈夫。ラグなら、きっと」
声が震えないように紅は必死だ。
もう、いいだろうか。
腕を離してくれないだろうか。
今すぐ消えてしまいたい。
恥ずかしい。
心のどこかで、引き留めてくれることを期待していた自分が恥ずかしい。
自分のことしか、考えていなかった。
「わたしが…っ、いなくたって…っ」
「紅?」
声が震えて、たまらず顔をうつむける。ダメだ、止まらない。押さえられない。
「……っ」
ぶんっ、と掴まれたままの腕を振る。それでも指は離してくれない。
「紅?」
「もう、もういいでしょ?さっさと、お別れしたいの!ラグの顔なんかっ、もう見飽きたんだから!早く家に帰らせてよ!!もう二度とっ」
逢いたくない。
その声を、もう一度、ラグに吸い取られる。
「……ふっ」
あふれる涙が、止まらなかった。
「紅?」
呼ぶ声が、穏やかに紅のこわばる身体を抱きしめて、子供をあやすように背中をさする。
「そんなの…いや…っ」
腕の中で、小さな小さな、本音。
背中に手を伸ばして、力いっぱいしがみつくと、もう二度と離れられないのを意識する。
いつの間にこんなになったのか。
全然見当が付かない。覚えていない。
でも気がつけばこうなっていたのだ。
いなくても良いなんて、平気なんて、言われたら、心が裂けて死んでしまいそうなくらい苦しい。
「……あのね」
頬を伝う涙を、長い指がなぞって拭う。
顔を覗きこんでくるラグの表情はとても静かだ。優しい眼差しで紅を見つめてくる。
「俺はすごい汚い人間で、本当はこうして紅に触るのも怖いんだよ?」
紅まで汚れちゃうんじゃないかと、むしろ、汚してしまったんじゃないかと。
「だから、俺は相応しくないとか何とか言うつもりは…無いけど。やっぱり、色々、俺みたいなのがすぐにしあわせに出来るなんて、護れるなんて言うのもおこがましいし」
「???」
なにやら頭の上で語られ始めた内容に、紅は涙の残る瞳のまま見上げる。
「でも諦めるのも、誰かに譲るのも、全然出来そうにないし、だから時間をおいて、紅にも冷静になって考え直して貰って」
「ちょ…ちょっと、あなた何の話をしているの?」
「それでも俺で良いなら嬉しいし、俺も自信を付けてから…」
「ラグ!」
こんな時に無視されるのはさすがにあんまりなので、紅は容赦なくラグの首を引っぱる。
ぐぎ、と嫌な音がした。
「い、いたい…」
「あなたが無視するからよ!ねえ、何の話!?」
「え、だから、俺の将来の夢の話」
「それって?」
「……」
ラグは、真っ向から向けられる紅の視線を受け止めて、少しだけ照れたように顔を赤くした。
「…いつか、綺麗な、蒼い瞳のお嫁さんを貰って、子供をもうけて、家族と家を護って、孫に好かれて老いてなお奥さんとラブラブを保てるような、そんな男になる、って夢」
「………」
それは。
「どう思う?」
途方もなく、しあわせな未来予想図。
「そ、その、えっと、お嫁さん、って…」
「髪が赤くて怒った顔も泣いた顔も笑った顔も可愛い、紅って名前の奥さん希望」
「………!!」
涙が吹っ飛んで、羞恥と驚きに顔面が染まるのを感じる。
「でも俺って、そんな男にはまだまだほど遠いから、ね」
こつんと額を合わせる。
ラグは笑っている。
待っていて、なんて言わない。
この勢いなら、いろんな男の子と付き合って俺と比べてみてとでも言われそうだった。
それでも、俺を選んでくれるのなら、もっと嬉しい。
「紅?返事は?」
額を合わせたまま、甘い声で呼ばれる。「どう思う?」に対しての返答がずっとまだだった。
「…えっと、あんまり、気が長い方じゃないから…」
目を背けようとしても、両手に頬を捕らわれてかなわない。
「あんまり遅いと、拗ねる……」
「善処しましょう」
可愛くてたまらなくて額をぐりぐりとすりつけると、恨みがましい目に睨まれる。
そのまま顔の距離を詰めて、口付ける。
お別れのキスだと分かっていたから、紅は素直に応えてくれた。
海も空も、青い世界に生まれて。
世界にあふれる数々の美しい青も、彼の心に響かなかった。
その中に埋もれるような、蒼のただ一色を。
手に入れることが出来るのなら、他には何も要らない。
もういちど、あの蒼と、ぬくもりに触れたくて、黒髪の青年は暮れかける平原に背を向けて歩き出した。
(了)
(2005.6.27)