ディヤマンテ 1


 私はこの先の、未知なるものに対しての畏れがある。
 それは、例えば行ったことのない土地や、出逢ったことのない人々に対してに抱く、希望や期待とはまったく異なり、狭く限定された状況下での話だった。
 私は何よりも、自分を制御できないことに不安を覚える。
 普段からとくに、私が私の感情や行動を自分で制御出来ているかと言えば、首を傾げるところではあるけれど、それでも大多数の人が、出来ている方である、と私を見てくれていることは確かだ。
 つまり、突然私が取り乱したり、いかりくるったり、泣き喚くようなことはきわめて「まれ」なのだ。
 それは確かに事実であるし、私自身自分のそういった面を自覚していた。
 感情はわりと動きやすいとは思う。ただそれを表情や仕草で、相手に伝わるようあらわすことはしないほうである。
 したくないわけではないが、おそらく私はにぶいのだと思う。
 おおむねにおいて、心を一定に保っていられる。それは守護天使として、私の目指した我が師のような、望む姿に近い形で、今も悪いとは思っていない。
 時にそれを、薄情であるとか不気味だとか捕らえられても、だ。
 だから、だから。
 私は不安定が恐ろしい。


 私は私を制御している。すくなくともある程度は制御し切れている。
 無意識のなかで自然と身に付いたそれらを、切り崩されるというのは水中で足の着かない感じにも似て、恐怖に近いものをもたらす。
 正確には、私は、自分をある程度、把握し制御し切れているのだと、思っていた。
「ルイン君」
 ――――――あなたは私も知らなかった私を、引きずり出してしまう。
 私も制御しきれないものを、あなたは一言、微笑み、腕のつよさ、そんなひとつひとつで抑え込んでしまう。
 私を制御してしまうのもあなたなら、くるわせるのもあなたにはお手の物だ。
 私のことを、まるで特別な存在のように、大切なもののように扱う仕草や、言葉や、眼差し。
 どうしたらいいか解らなくなって、胸が痛くなって唇を結ぶ。
 ――――――あなたは知らない。
 きっと。私が途方もない困惑と不安と、幸福に目を回しているなんて、きっと。
 この先も知ることはない。



(格好悪いから、知られたくないだけなんだけど)
 ルインは時間にして一瞬足らずの感慨から抜けると、ゆっくりとまたたきをした。
 レイヴァンを前にするといつも、そこだけ世界を切り取ったよう。どこよりも安全な場所にいて気を抜いていられる。
 それなのに、世界一単純な生き物になってしまったようで、落ち着かない。
 どちらもルインの真実だった。
 彼の手にかかれば、自分はどんなふうになってしまうのか全くの未知数だった。
 それは恐怖であり憂鬱であり、望ましくない要素を含むが、相手がレイヴァンであれば嫌悪はなかった。
 整ってはいるが節だった男の指が、思惑を込めて自分に触れているのを不思議に思う。
 知識としてはあったし、単純に興味はあったがルインの欲はもともと薄いらしく、自慰のようなことも知らなかったので。
 ルインにふれるのは、レイヴァンが本当に初めてだ。
「ルイン君」
 唇を併せて吐息を交わす。レイヴァンは何度も、その顔に悲哀や嫌悪はないかと確かめるように。
 胸を柔らかく撫でられるよう探られて、そこから熱が広がって自分に満ちていくよう。
 興奮よりも、言い知れないような気持ちが広がる。
 心臓の上を、手のひらに探られているから。
 情が無くても動物は性を交わせるが、ルインは情を持って交わしてしまうと大変なことになる、と頭のどこか冷静な部分で思考した。
 ルインはぎゅっと、レイヴァンの腕をつかむ。
 どこか頼りなげに見える、その表情を宥めるよう、レイヴァンは微笑んで額にくちづけを落としてくれる。
 優しいふれあいは春の陽だまりのようで、ルインはぎゅっと目を瞑る。
 目眩のしそうな幸福感。けれど居心地の悪い、全身を縮めてレイヴァンに背を向けてしまいたい。
 いっそ、いたわりなど無く勢いのままに行為を進めて欲しかった。
 はやく、訳がわからなくなりたい。己の弱い心が、この行為に耐えられないと思考する前に。






 ルインはレイヴァンに恐怖を抱いている。
 それはこの先、彼が知ることのない、ほんの側面の事実。





(…私はこのひとが、)
 それはこの先の未来、あらゆる恐怖だった。



 一緒のベッドで上掛けにくるまって、体温を感じて眠る今ですら、寝顔を見つめながら。
 このひとはあっという間に、ルインの恐怖や不安や猜疑心を暴いてしまう。
 普段、自分ですら気がつかない部分の感情も、根こそぎ引きずり出して。
(怖いなあ、このひと。怖い)
 じっと端正な寝顔を見つめて、しみじみ思いながらぎゅうっと裸の胸にしがみつく。
 心臓の音が聞こえてくる。自分の音と重なるのを感じると、どうしようもない安堵が胸に広がる。
 このひとを縛りたいとは思っても、表に出したいとは思わない。それは今も変わらないのだけど。
 ただ、そう、自由な鳥が大空を羽ばたいても、疲れたときに羽を休められる、止まり木にはなりたいとは思う。
(帰ってきたい)
 帰ってきて欲しい。それもひとつの、利己的な、独占欲だとは解っている。
 ひとはすべての思惑をさらけ出し言葉を発しはしない。それに、発した言葉の思惑のすべてを、実現することも出来はしない。
(いいかな、だめかな。ムシが、良すぎるかな)
 朝が来たら、お願いしてみよう。
(私と結婚してください)
 今度は、約束のためでなく心のために。



 

 

 

 



(2010.6.2)
まさかの婚前交渉レイルイ。 ←
ルインのこういう、心境をあばくのは種明かしと同じくらい詰まらないかも知れない(彼女はいわく不思議っこの部分が魅力のひとつと思う)が、あえて。