20 少年
「…わ、早川」
囁くように呼ばれ、とんとんと肩を叩かれているのがわかった。けれど反応が遅れる。
呼ばれている、誰かに叩かれている、自覚はあるのに、そうと判断して行動にいたるまで、脳は長いこと休止状態に陥ったままだった。
「早川、悩みがあるなら後で職員室に来なさい」
大きくはないが低く怒りを押し込んだ声が響く。静まりかえった室内にそれはよく聞こえて。当然少年の耳にも届いて。
ようやく覚醒して、真っ白のノートから視線を上げる。
教壇に立つ年配の数学教師と、ばっちりと目があった。
あちゃあ、後ろの席の男子がそう零すのが聞こえた。少年の心境もおおむねそんなところで大差はない。
「夜眠れないほどの悩みがあるなら誰かに相談しなさい。だが今は授業中だ、せめて受ける努力をしなさい」
「…はい」
すこし嫌味の込められた、低い声で言い含められて少年はすっかり萎縮して頷く。
教師が再び黒板に向かいチョークを滑らせる段になると、後ろの女子数人のくすくすと忍び笑う声が聞こえた。
(…うーん)
寝ていたわけではない。深く深く思いにふけっていたのだが、授業中人の声も届かない状態なら違いはないか。
あわてて黒板の内容を写しにかかる。この教師は次から次に生徒の了解も無しに消してしまう。
(あ、ああ、左半分消されたっ)
「じゃあ早川、試しにここの答えは?」
焦り動揺していたところに名指しされ飛び上がった。いつもはこんな嫌味を続ける教師ではない。今日は機嫌が悪いのだろうか。
因数分解の応用問題。いきなりのことで慌ててしまう。いそいでノートに問題を書き、式を立てていって。
「えーと、(a+b)(a−b)(b−c)の2乗…です、か?」
導き出された答えをおそるおそる述べてみる。
教師は眼鏡を指で押さえ、わずかに目を瞠ったようだった。
「正解だ」
教室の一部からわずかなどよめきが走る。おそらく少年と親しい方の男子達だ。
「なんだ、やれば出来るじゃないか、早川。見直したぞ」
むすっとしていた教師が、満足そうに笑顔になった。どちらかといえば堅い印象の教師の笑顔に、少年もほっとして笑い返す。
答えられたことよりも、不機嫌であるらしかった教師の雰囲気が和らいだのが嬉しかった。
それからはきちんと授業を受け、終礼の鐘が鳴り、教材をまとめて数学教師が出て行く。
次の授業まで十分の休み。その間に特別教室へ移動しなければならない。
「早川ー!おいー!」
クラスで一番少年とつるむことの多い男子が早速絡んできた。
「どうしちゃったのおいー!かっこよく答えちゃって早川じゃねえみたい!」
「俺も早川じゃないみたいって思ったけど」
むしろ正解しちゃってびっくりしてたぐらいだけど。
せこせこ教科書ノートを整えて、いまだ興奮冷めやらぬ様子で騒ぐ彼を無視して移動にかかる。長くだべっている暇はない。
「ちょっと昨日、復習してたから」
「ふくしゅうー!?リベンジじゃなくってふくしゅう!??おまえがあー!??」
それは騒ぎすぎだろう、と恥ずかしくなるぐらい廊下に響く声。
「何でそんないきなり?お前進学すんの?就職するって言ってなかったっけ。もしくは専門学校とかで。勉強好きじゃねえって言ってたじゃん」
「うん、べつに勉強は好きじゃねえけど」
隣を早歩きで歩く彼はやはり教科書もなく手ぶらだ。せめて、せめて筆記用具ぐらい持参しようぜ、いつもいつも他人に借りるの無しで。
「進学すんの?」
「うん、しようと思って」
まっすぐ前を見据えたまま答えるクラスメイトを、友人は一瞬怪訝そうに見て眉をひそめる。
別人みたいじゃん、何があったのこいつ、とは思う、けれど。
「好きじゃねえけど、やりたいことあるから、大学行きたい」
「…っへえー。今時不景気だもんなあ、学歴あるからいい職見つかるって訳でもねえけど、あるに越したことねえよな。うん。しかし…へえー」
「なんだよ」
しきりに感心したように言われてむっとする。まだ両親と担任にしか伝えていないことだったのに。
「何か、かっこいいじゃん。早川。さっきびしっと答えたときも、すげえって思ったけどさ」
「そうか?」
別段すごいとは思わないが、そんな風に言われると照れてしまって適当に返す。
もう高一の二学期だ。自分の将来を考えていない生徒もたくさんいるかも知れないが、考えてもけして早くはない時期だ。
「で、大学行ってまで将来何やりたいの?」
「…それは大学落ちたら格好悪いから、受かるまでは秘密」
「おお、そういうところは早川らしいまんまだな」
ほっといてくれ。
授業には無事間にあって、教師がまずプリントを配る。みんな真っ先に右上の欄に名前を書く。
最初、みみずののたくったような文字を書いた。隣の男子がなにそれアラビア語?とからかう。
少年は首を振って、消しゴムで文字を消した。
その上からもう一度、日本語を書く。早川朝( 。
帰宅部である少年は放課後図書館に寄って世界史の本を借り、まっすぐ家路についた。
グラウンドから響く気合いの声やバッティングのインパクト音に耳を傾け、空を見上げる。
電線が視界をまたぐけれど、秋晴れのきれいな青空だった。端の方から少しずつあかね色に染まっていく。早く帰らなければという気持ちになる。
学校から自宅はそう遠くない。バスに乗って徒歩を交えて15分ほど。
「ただいまー!」
玄関先でわざわざ息を整えて、大きな声で告げて中に入っていった。
今日は非番だった母が、エプロン姿で驚いた顔で現れ出迎えてくれた。
「おかえりなさいお兄ちゃん。大きな声が聞こえたからびっくりしたわ」
「チャイム鳴らして入るわけにもいかないだろ、母さんにも聞こえるかと思って。あ、弁当ごちそうさま」
「おそまつさまでした…あれ?お兄ちゃん今日は流しまで持って行ってくれるの?」
手を洗ってうがいして(これは早川家の鉄則だ)、弁当ハンカチに包まれた空箱を提げてキッチンに向かうとやはり首をかしげられた。
「べつに…普通だと思う」
「あ、洗うのはやるよ?いきなりそんないい子になられたら戸惑っちゃう」
「…そう?」
(いい子…か)
では今までの自分はどうだったかと思い描き頭をうなだれていると、弁当箱を受け取った母親が察したような笑顔でやさしく告げる。
「子供はわがままで元気でいてくれたらいいの。思うとおりにやったらいいの。こんな風に気を遣われると照れちゃうわ。お腹すいてない?おやつにする?」
「夜入らなくなるからいいや。お茶だけもらう」
「あ、すぐ煎れるわ。座ってテレビでも見てなさいな?」
(………)
なぜだろう、すっごく甘やかされている気がする。
母親はこんなに彼に気を回すひとだったろうか。どちらかといえば放っておいても大丈夫よね、お兄ちゃんしっかりしてるから、といった何の根拠もない信頼で放置されていた傾向にあった気がした。
逆にここまで甘やかされても、照れるというものだが。
一度はソファに座ってリモコンを手に取ったが、テレビを見る気になれずにいまだ干されている洗濯物に気がついて取り込みに向かった。
「あ、ごめんなさい忘れていたわ。本当にお兄ちゃんいきなり大人になっちゃってどうしたの?」
「いきなり大人になんかなれるはずないだろ」
呆れてため息をつく。他人がどう感じようと、そこまで変わったわけがないではないか。
ちょっとだけ、やめているだけだ、面倒くさがりを、敬遠を。放棄を。
「母さんここで勉強してもいい?べつに静かにしててとは言わないし」
一度部屋に戻って着替えて戻りそう言うと、今度は母親が泣き出してしまった。
「どどどど、どうした!??」
「ご、ごめん…ご飯が終わるとね、みんな自分の部屋に帰っちゃうでしょ。それが最近、私もさみしいなって思ってたから…」
うん、いいよ、もちろんいいよと母親は頷いて、息子の好きな濃度と甘さでコーヒーを入れてくれた。
リビングで教材を広げて早速宿題に取りかかる。キッチンから母親が炊事をする音が聞こえる。
自分の部屋の方が静かかも知れないが、実は漫画や音楽やDVDやらと。誘惑が多いのもまた同様なのだ。
母親の言うような要素も、全くないわけでもないが、うん。リビングがいい。誰かの存在がすぐわかる、家の中心がいい。
自分でも予想以上の集中力で宿題を片付けていると、時間の流れもあっという間で父親が帰ってきた。
ただいまー…かすれるように小さい声が聞こえたので、おかえりー!と声を張り上げた。聞こえなければ意味のない。
「今日はちょっと遅かったのね」
「うん、ちょっと寄るところがあってな。息子よ、みやげだ」
「へっ?うおっっ!!!」
落とされた重量のある紙袋を、座った状態のままとっさに腕を出して受け止める。
ずきん、と引きつけたような痛みが腕に走った。怪我なんてどこにもないのに。
「父さん何これ」
「お前が行きたいっていった学科のある大学の資料だ。せっかくだから参考書も数冊先輩に見繕ってもらったぞ。父さんの会社には大学生の子を持つ親が多いからな、何でも訊きなさいっ」
(の、ノリノリだ…この人、ノリノリだよ…!)
両親に進学の意志を告げたのはほんの昨日のことなのに、何という行動力か。
「焦ることもないし今後心変わりすることがあってもいい。でも俺は昨日のお前の真剣な様子に胸を打たれてなあ。あんなにはっきりものを言うお前を久々に見たよ。精一杯、応援するからなっ。俺はばりばり働くぞ!!母さん、風呂はっ」
「ええ、湧いてるわよ。今日は入浴剤を入れてみたの」
うきうきと盛り上がる両親(特に父親)に圧倒される。あのポジティブシンキングと底抜けな明るさはばっきりと息子を避けて妹に遺伝したに違いない。
「そんなに期待されても困るんだけど…」
やはり後ろ向きな思考が紙袋をのぞき込んでため息を落とさせる。
万が一落第したら、とか。ここまで盛り上げておいて就職に転向になるとか、先のことは何もわからない。
その時が来なければ何も、わからない。
ふう、ともうひとつため息。父親が帰ってきたと言うことはじきに夕食だろう。テーブルを片付けて紙袋にすべて突っ込む。一度上にあがってこよう。
「あ、もうすぐごはんできるから、お兄ちゃん、夕を呼んでー」
「へーい」
答えて階段を上がる。隣の部屋にいる妹は帰ってすぐに遊びに没頭だろうか。メールをしているかゲームをしているか、はたまた珍しくまじめに部活にいそしんでいるかいずれかだ。
無駄な、時間なんてひとつもないように思う。自分の学力からすれば、あと二年あるとはいえ基礎からちゃんと理解しなおして、気を抜かずに錬磨して行かなくては進学なんて。
――――――に、なるなんて、とてもとても。
深いため息を吐く。部屋に戻って照明をつけ、紙袋を置く。学校鞄に手を伸ばして、今日借りた世界史の本をかざしてみた。
古代から中世、近代と、戦争の変遷がよくわかるもの。どの国もどの時代も、本当に戦いに明け暮れて、領土やら権力やらありとあらゆる理由をつけて、人々は争っている。
それらの本を、少年はなぜかここ数日読みふけっていた。おかげで世界史の授業の理解が進んだ。べつにそれが目的ではないけど。
中は開かずに本を一度置く。目を転じれば、自分の部屋だ。小学生から使い込んだ勉強机があり本棚があり、高校に上がってから買ってもらったコンポがあって、妹がよく占領する20型テレビもある。
さらにベッドがあって、枕元の引き出しの中にはウエストポーチと大根ほどの長さの、包みが置かれてあった。
少年は目を伏せて、じっと思案するように、己の右腕をさする。
やがて意を決して立ち上がると、隣の妹の部屋へと声を張り上げるのだ。
「夕ー!母さんがメシだってー!」
そして遠く遠くのどこかで、交わされる何か。
「帰ってしまったわ、帰ってしまった。消火の水。水の男の子」
鈴を転がすような愛らしい声がさえずる。年端のいかない少女のようにも、艶を纏う成人女性の声にも通ずる、甘ったるい声。
「おまえもそう仕向けたろうに」
詰まらなそうな声が低く応じた。澄んだ声。まっすぐに響く、男の声だった。
「逢ってみたかった?逢いたかったのネネ?あの子は危険よ危険だわ」
ちっとも緊張感のない声で繰り返す。ネネ、と呼ばれた男は苛立ちを隠しもしない。
「黙れ」
「安心したでしょう?安心したネネ?あの子はあなたのお姫様をあなたから奪う子だわ。たったひとり、それがかなう子だわ。だってあの子は水だもの」
「ああやかましいクソ女だ」
言っても口を閉ざさない相手に焦れて、彼は舌打ちをすると両手で己の耳を塞いだ。
こうすればほんの少し雑音が遠ざかる。それもそうだ、この場には彼ひとりしかいないのだから。
きゃらきゃらとさえずり彼の機嫌を損ねる、女などどこにもいないのだから。
雑音がとぎれたのを確認すると、男はひとり、無人の回廊を行く。と、油断するととたんに。
「お姫様に逢いに行くのネネ?」
「いい加減消えろクソ女」
彼にしか聞こえない幻聴は、今日もひとりに囁き続ける。
(2009.1.12)