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「思い切ったことをしたねえ」
 もう何度目になるか解らない感嘆のため息をついて、キニスンは姉の、すっかり短くなってしまった髪を見つめた。
 小さな頃から肩より短くしたところを見たことがなかった分、潔いまでに晒されたうなじがいっそ新鮮でまばゆくもある。
「色々と軽くなって、悪くないわ」
 さばさばと姉は言ってのける。女の人は変われば変わると言うけれど、目の当たりにすると色々、複雑だが感慨深くもなる。
「今日は本当、荷物を取りに来ただけ?」
「ええ、しばらくは戻らないつもりだけど、近くに寄れば顔を見せるわ。何かあればすぐに呼んで」
 危なげなくはっきりとした、素直な言葉が聞けてキニスンは困ったように笑う。
 アニエスはこれから、えのぐり茸の家を出てアスランに正式に弟子入りを果たし、一人前の呪術師をめざすのだという。
 さみしくなるが、家に暮らす誰もが皆いつかその日が来る。年下の叔父は姪を、きちんと叔父らしく見送ってやりたいと思う。
「無理しないで、ちゃんと治るまでおとなしくしていなさいね」
「アニエスこそ、本調子でもないのだからね、無理はしないでね」
 首から布を通して腕を吊ったキニスンは、いまだ治療の兆しが掴みかねている状態であるが、自由に動き回れる程度に体力は回復したし順調だ。
 全身に火傷と足を痛めたアニエスだが、もともと呪術の耐性は強いので数日休めば快復は早かった。治療を怠らなければあとも残らないだろう。
「…みんなによろしくと伝えてね、イスパルにはお弁当を、カノアには薬をありがとうと伝えて。ミーシャのお守りも大事にする」
「…また会えるよ。すぐにでも。会いたいと思えばすぐにね」
 言葉を惜しまず告げるアニエスをまぶしげに見つめて、キニスンは弾けるような笑顔になる。
 アニエスも、それを目に焼き付けようとするかのように細める。
「……ありがとう、キニスンおじさま。もう私を見ていなくても大丈夫だから、きっとしあわせになってね」
 肩に手を載せられて、額にくちづけを受ける。キニスンは息を吐いて目を伏せた。
「大丈夫。アニエスがしあわせなら、おれもしあわせ」
 この世界のどこかで、生きていてくれるだけでいい。
 十人中十人から血縁だと見抜かれる顔立ちの二人は手を振って別れる。
 さよならではなく、またねの気持ちで背を見送る。その姿が見えなくなるまで。
「…何だかお嫁に行ってしまったような気分…」
 一人柄にもなく空に呟いて、キニスンはぱっと踵を返し、住み慣れた家へと駆け戻る。
 ずいぶん世話になったオセーネの病院ではなく、もうえのぐり茸の家に戻ってきていた。
 学校がまた元通りに再会するには、もう少しの時間がかかりそうだけど。
「あ、キニスンいいとこに!付け合わせの野菜が足らないんだよ、ちょっと取ってきて!」
「うん、いいけどね。イスパル無理しないようにね」
 キニスンと似たような状態で、イスパルは厨房に立とうとする。さすがに鍋を振らせるわけにはいかないが、サンドイッチなどの軽食でもきっちり手を抜かずに用意しようとするのだ。
「なに言ってんの、ちゃんと食べて栄養取った方が元気になるってモンだろ、怪我も早く治る!」
 いつも通りに好きなことをした方が、精神的にも健康的かも知れないのは解るが。
「だから、私の栄養ドリンクを試していいって…」
「いや、それは遠慮する!」
 ぬうっと柱の陰から幽霊さながらにあらわれたカノアの怪しげな雰囲気に、キニスンはいち早くその場を退散することにする。
 余分な火の粉は振り払う以前に逃げてしまった方が避けやすい。
(付け合わせ野菜、付け合わせ野菜…)
 ちいさなかごを脇に抱えて裏の畑に向かう途中で、キニスンは意外な人物を見つけて立ち止まる。
「ミー」
「あ、キィ…」
 ミーシャはキニスンがめざす畑のすぐそばで、また違う植木鉢に向かってしゃがみ込んでいた。
 彼女の持つかごをのぞき込むと、ラベンダーやミントにセージ、いい香りのする香草や薬草が並べられている。
「ミーはカノアの用事かね?」
「はんぶんは、そうなの。でも半分は、ポプリや香り人形を作ってシクさんにあげようと思って」
「そうかね」
 笑顔で頷き、はにかむミーシャの頭をなで、背中合わせでおのおのの作業をこなす。
 シクはまだ目覚めない。よほど強力な呪術にさらされた影響で、肉体は快復しても精神のほうがなかなか快復せずに意識が沈んだままらしい。
 この状態が続くことを呪式学で夢呪病と呼ぶが、治療法がまだ確立されていない珍しい状態なのだ。
「カーロが……でも、起きられないのかなあ」
「…そうだねえ」
 思い出せば恐怖と屈辱の対象であるあの呪術師は、呪術兵器発動の騒動で死亡したという。
 呪術は術者の生死に関わりなく在り続ける形も多いので、シクの状態が一概に良くなると楽観できなかった。
「でも、おれたちもいるし、きっともうすぐだよ。寝過ぎましたって笑って起きてくれるね」
「…うん」
 ふたりは信じれば必ず叶うと、甘い虚実と厳しい現実の差異を知っていたけれど、笑顔のまま頷きあう。
 ぽかぽかとあたたかな日射しの中、毎日少しずつ、少しずつ変わりながら、キニスンたちは同じ場所で生きていく。






 エニュイ・エルにある呪術師協会本部、神殿の最奥部にて、届けられた報告書を上役のひとりが卓上に叩き付けていた。
「ばかげている、こんな失態があるものか!」
「郊外とはいえ王都とは目と鼻の先で古代呪術兵器の発動を許したですと…ですからあれほどクラリティの女狐には釘を刺しておけと」
「いやそれよりも問題はノースゼネ・カーロの放置が原因ではないかね!アレは早く手を打たねば大変な事態を起こすと何度も申し上げたはずだが?」
「王都民や第二層の呪術師らにも隠しきれる惨状ではない、でっち上げでもいいから事態を明らかにせねばなるまい」
「国民の不審を得るのは痛手ですが王都のぼんくら共に落ち度を気取られるのは癪ですな。何かいい案はないものか」
 広大な円卓に座した面々は、お互いの面立ちが把握できないほど遠くに座しているが三角錐にかたどられたホールには声が良く響いたため、さしたる問題はなく討論会は続く。
 原因の追及や自分たちの立場への影響への議論ばかりで、まるで話は先に進まない。
「みなさん、静粛に」
 まるで密談を交わす声音ばかりが行き交うホールに、張りのある若々しい声が響く。
 年配の教会職員が顔を連ねる中で、中でもその男は若々しく精気に満ちた眼差しで一同を見渡し、改めて口を開く。
「なにをそんなに案じておられるのか理解に苦しみます。例の兵器呪術の発動は一部郊外を灰と化しただけで、人的被害はほぼ皆無という話じゃあありませんか」
 よく見ればその顔は理知的で整ってもおり、戸惑うばかりだった重役たちは一斉に彼の話に耳を傾けはじめる。
「原因など、そもそもこちらに問われる謂われがない。この惨劇はノースゼネ・カーロが引き起こしたことです。ヤツひとりの暴走ですよ。被害をとどめられなかった原因はシャーロット・クラリティに押しつけてしまいなさい。彼女と彼女の率いる組織に妨害され、危ういところだったのだと。それでもこれで済んだのこそが我々の手柄なのだと胸を張って言えばいいじゃないですか」
「し、しかしそんな虚言を…」
 確かに妨害され捜査が難航したが、踏み切った行動に及ばずいたのは日和見な見解であった事実が否めない。
 その背景には、呪術媒介を回収した後存在を隠蔽して教会のものとしようとした目論見など、公言できないことが挙げられるのだが。
 あまりにも大胆な提案に、尻込みする様子を見せたひとりに、青年はなおも、鼻で嗤う様子すら見せて。
「誰が虚言と言いました?」
 ざわり、今まで取り込まれるように聞き入っていた空気がざわめき、異様な興奮がうまれはじめる。
「当事者のカーロは己の呪術に身を食われ死んだという。シャーロットはヤツの呪術により意識混濁。快復の見込みは厳しいようですね。なにが起こってもおかしくはない、なにが起こってもね」
 言葉の裏に、口封じをにおわせる発言を、さらりと口にする。
 薄金の髪が頬を滑り落ちて零れる。男はそれをかき上げて、なおも不敵な発言を続ける。
「数人しかいない田舎の組織より、私たちのほうが力は強い。そうでしょう?真実は確かめられるものではない。言ったもの勝ちですよ」
 にこにこと。神を敬う聖堂で。
 青いものを赤と言えば赤にしてしまう呪術師が、国全体を欺く提案をしてのける。
 思わず腰を浮かしていた神官長は喉を鳴らした。責任の追及は逃れられないと半ば諦めかけていた矢先、この提案は単純にしてあまりにも大胆不敵、魅力的すぎた。
「そなた…あまり見たことのない顔だが、名は。所属はどこだ」
「エスカデ・ツァインバッハ。第六師教属の書館士です」
 本当に聞いたこともない名前で眉をひそめる。あたりの人員も同様らしく、ざわめきが次第に大きくなる。
 しかも書館士だと。本来ならこの場に出席できるはずもない役職。
 けれどそれだけでは目をそらせない求心力がすでにエスカデという男にはあった。
 ささやき声と検討する声、そうしようという賛同、いやしかしあまりに軽率と止める声、椅子にもたれすべてに耳を傾けて、エスカデは魅力的な笑顔で皆を見渡す。
(さあ食らいつけ、屍肉を漁るしか脳のないハイエナ共)







「俺が今居続けるとややこしくなる」
 国に帰ると言うことになって、逃げるんだなと言われたので、苦笑して群青はそう答えた。
「その通り、逃げるよ」
 本当に、その顔は申し訳なさそうなのでキリー・クアンドラは面白くない。
 キリーは基本的に善人という人種が嫌いだ。己の欲を原動力に動くウォッツ人の気性が、やはりわかりやすくて良い。
「キリーももう帰るんだな」
「もうこの国に用はねえからな」
 ざっくりとした返事に、群青もそれはそれで満足する。あんまりにやにやしていたら完全に睨まれるので控えておく。
「なんか、きみらしくないことをしたね」
「君らしくとか良く言うぜ。見殺しにしてやったよ、あんなガキ」
 あとは死を待ち望むばかりとなった少年、アルフィスのもとに、安寧を与える炎の業火は訪れなかった。
 変わりに伝えられた、唯一の従者の訃報。呪術を使い果たして死んだ、エイギル・カレイス。
 それを聞いて少年は絶望したが、キリーが自決すら許さなかった。好きに死ぬなりすればいいと思ったのだが、あまりにも身勝手な様子に、しかも長時間拘束されたので腹が立った。
 なので、王都の屋敷とは段違いの、いかにも貧乏そうな親無しの施設の前に放り捨ててきた。たしか白蓮草の家とか言う。
 あと何ヶ月、何日持つか知らないが、どれだけ生きることが死ぬより大変か思い知ればいいと思って。
 っていうか、エイギルはまだ生きていた。
 群青が去ってしばらくあと、やはり気になって戻ると駆けつけた警組に保護され病院に搬送されていた。一命は取り留めたと聞くので、運が良ければあの主従も再会することが出来るだろう。
「…なんか、めでたしめでたしだよな」
「そう言うとむかつくな。ひとりぐらい死ねば良かったのに」
(……死んでるよ)
 憎まれ口を隠しもしないキリーに、反論がいやだったので口には出さずに群青は心の中で呟く。
 所業は許されたことではないが、助かって欲しかったと思ってしまう自分は偽善者なのだろう。だって、彼が生きていたばあい、同じような同情を抱いていたとはとても思えない。
(でも、いないのなら)
 もう、どこにもいないのなら、広く遠い空を見上げて。
 彼も、悔いなくいけましたようにと、願うことが出来る。こればかりはまっすぐと。
「…で、てめえはどこまでついてくる気だよ」
「え、だって約束を果たそうかとわざわざ会いに来たのに」
 目を瞠るキリーに、群青は自分の記憶違いかと思わず不安になる。
「すべてが終わったら質問に答えるっていう」
 フェドレドの王都で交わした制約。それまではお互いを裏切らない。
「あー、べつにいい。俺お前に興味ねえし」
「あっさり振られた!!」
 手のひらまで振られて、なんかそんな気はしていたが群青は肩を落とす。
「はあーあ。じゃあ、そうだな、まだクォには色々心配が残るけど、俺もいったん自分の国に帰るよ」
「じゃあ、二度ともう会うこともねえだろうな。あばよ」
 キリーらしい言いぐさに笑みが漏れる。少しも未練を感じさせない。
 そういう、一時一時の出会いと別れも良いと思う旅人の群青だけれど。
「また、会ったっていいんじゃないか」
 あっという間にすたすたと早歩きで遠ざかってしまう背中に声を投げる。キリーは嫌そうにだが立ち止まり、振り返ってすらくれた。
「サザにだって、ツグミにだってさ、国が違うのに会えたんだ。もし会えたらさ、また名前を呼ばせてくれよ、キリー・クアンドラ」
「許可なんざ求めてんじゃねえ。呼ぶか呼ばねえかぐらいてめえで決めろ」
 即座に言われる。
 もう目も向けてくれない背中を見送って、どこまでもキリーらしい切り返しにかあっこいーと漏らして笑う。
「さあ、俺たちも帰ろうぜスクリーン」
 指笛を鳴らして呼べば、近くの梢で羽根を休ませていた相棒が嬉しそうに寄ってきて背中に止まる。
 いつにも増して甘えてくる仕草に、羽根を撫でてやりながらああ、と納得する。
「ツグミに会えなくなったから寂しいんだな」
「ぴい」
「大丈夫、また会えるよ」
 青く鮮やかな頭を巡らせて、もうひとりの青年も歩き出す。
 足を止めることはない。なにが起こったって起こらなくたって。
 この命ある限り。
   







 

 

 

 

 

 







「……私は」
 生まれた国の言葉を口にしながら、つぐみは言葉をためらっていた。
 もとの世界に帰ってしまったら、サザはどうなるのだろうか。
 生きてはいけないと言ってくれた、その言葉を疑いはしない。ではつぐみが帰れば、いなくなれば、サザは死んでしまうのだろうか。
(嫌だ)
 それを想像することもつぐみには恐怖の極みだったし、帰ったあとその想像の恐怖に怯え続けることも耐えられそうになかった。
 では残るのだろうか。でもそれは、サザが死ぬから、その結果が嫌だからという理由だろうか。
 胸に引っかかるものを感じて、自分の心を考えてみる。
(――――――ああ、私、そうなんだ)
「…つぐみちゃん」
 思考に沈んでいて、反応が遅れる。目を向けると、自分よりも背の高い年下の少女が、心配そうに顔をのぞき込んできていた。
「ゆうちゃん」
「あの、あのえっとさ、一緒に帰ろうとか、えっと、カンタンにいったじゃん、あの、あんま深刻に考えなくていいからねっ?つぐ姉がさ、イヤだったらあたしに無理にあわせることないんだって…えっと…」
 必死に言葉を探そうとしながら、いまだ不安定な心境だろうに、夕は精一杯に気遣ってくれる。つぐみはまた泣きそうになる。
「やなわけナイよ…」
(悲しい)
 悲しい、悲しい。泣き虫で無力なくせに欲ばかり持てあますつぐみは、この少女と離れることにも心が引き裂かれる想いがする。
「ごめんね、ゆうちゃん」
(私、わかったんだ、自分の気持ち、やっとちゃんと解ったの)
「ワタシ、サザがすきなの」
 涙がぼろぼろとこぼれた。ようやくおさまったはずの夕の目にも、また潤みが戻っていく。
「せかいでいちばんすきなの」
「あやまんなくていいよお」
 また、ふたりで一緒に抱き合って、耐えられない何かを分け合うようにして泣く。
 しばらくして嗚咽がおさまってくると、夕の背をぽんぽんと叩いて、朝が気まずそうにだがふたりを離す。
 兄は、妹の手を握りしめる。妹は兄の横顔を見つめて、再び前を見据える。
 つぐみはいつしか側にいたサザに支えられて立っている。目元を拭うがふれるだけで痛いほど腫れている。お互い明日はひどい顔だねと思うと、夕は不思議と笑いが漏れた。
(なんて言うんだっけ、こういうとき。ね、朝お兄ちゃん)
「サザ、おしあわせに」
 笑う、(夕も朝のこんな笑顔は滅多に見たことがない)兄の発言にびっくりしながら、後れを取るまいと夕も慌てて言いつのる。
「つぐ姉、おしあわせに!結婚式には行けないけど、ブーケはあたしに投げてねっ。身体は冷やさないでねっ、そこのサザとか言うひと!あたしのお姉ちゃんを大切にしてよね!」
「…お前はいちいち言葉が余計なんだよ…」
「いーじゃん別に!」
 朝が脱力するぐらい言いたいことを言って、夕は顔を染めながらも気持ちを落ち着けると、再び見送るふたりへ笑顔を向ける。
「勝手に言ってるだけだったけどさ、あたしの、お姉ちゃんになってくれてありがとう!」
 つぐみの顔が歪む。
 ああもう、本当に花嫁さんみたい。最初に出会ったときは気丈なお姉ちゃんだって思ってたのに。
「ゆうちゃん…あのね、あのね、これかラもワタシのいもうとでいてクレる?」
「もちろん!」
「アリガトウ、だいすきよ」
「あたしも大好きだよー!」
 このままではいつまで経っても終わりそうのない仲の良いやりとりに、朝はやはり損な役回りだなと思いながら、夕を引っ張って促した。
「じゃあ」
 不思議なことに、ふたりがその気になれば呪術の陣などなくてももとの世界への帰還が叶いそうだった。今この時が特別なのだろうか。
 土の大地のはずの足下が揺らぐ。湖面のように波打って、朝と夕の姿をいつしか覆い隠してしまう。
「つぐ姉、ずっと大好きだからね!しあわせになってねー!絶対だよー、約束したからねー!」
 夕はめげずに、その視界が完全に覆い隠されるまで言葉を伝え続ける。
 つぐみの声は、嗚咽混じりで聞こえない、けれどうん、とか、ありがとう、とか、絞り出すような声は届く。
 たぷん、と、盛り上がった水の地面はふたりの姿を呑み込み、もとの静けさを取り戻す。
 早川朝と妹夕は、そんなふうに賑やかにも穏やかに、世界に別れを告げていった。

























 灰色の世界を歩く。手をつないでいたはずの朝の姿はどこにもなく、夕は完全に方向を見失っていた。
 あ、飛んだー、帰ってきたー!というわけには行かなかったらしい。
(もしやなにかの交通事故?あたしはこのまま次元の狭間みたいなここを永遠にさまよい続けるとか?)
 いきなり悪い想像に頭を抱える。むりやり笑顔を作って別れてきたが、内心は超べっこべこにへこんでいる真っ最中だ。これ以上のご不幸は勘弁願いたい。
(あー、しかしそれって、あたし永遠に年を取らない設定とか?やりい、おいしーいって、)
「全然美味しくないっつーの、ひとりでさまよっても若さアピールする機会ないし」
 何の物音もしない世界にだんだんおそれをなしてきて、声を出して自分を鼓舞してみる。
 しかし何の反応も変化もなければ、兄の声も気配もないままなのだった。
「う、うそでしょー…っっっおーーーーいっ、お兄ちゃん、いないのーーー!???」
 手で筒を作って大声を上げてみる。どこかにぶつかれば、声は反響するはずだがそれもない。夕の声はただ虚空に吸い込まれるのみ。
(…やっべ、今この精神状態じゃ長く持たないぞー、あたし)
「おにいちゃーん、ちょっとまじですかーーー!???」
(やばいぞ、やばいぞ)
 疲れ切っているはずの全身を振り絞って走り回る。
 おにいちゃん、おにいちゃん。
 だれか。
 走り続けてもどこにも切れ間はなくて、膝に手を置いて息をつく。
「ふえ、うええええええん、もうやだっつーのこんなのーーー!!!」
 自分でもわかっていたとおり、決壊は早かった。膝を抱えて涙がこぼれて止められない。
 もうやだ、もうやだこんなの。
 少し前のはずの、ずっと前にも感じる、同じことを言っていたのを思い出す。
 もういやだ、帰りたい帰りたい、だれか助けてよう。
(ひとりはもうやだ)
「助けてよう…」
 名前を呼びそうになる自分を戒めるように、さらに声を上げて泣く。うわああん、うわああん、誰も聞こえてないんだったらなにも気にしないで。
「やかましい」
 静かな、空間に。
 あるはずのない声がしたので、夕は一瞬で泣きやんでしまった。
 目の前に組まれた足があった。白いスラックス。怖いものを確かめる気持ちで少しずつ目を上げる。
「お前の声はもはや公害じゃねえのか」
 灰色の髪と橙の瞳を持つひとが、夕を見下ろしさげすむ表情でそこにいる。
「……なんで足があんの」
 真っ先に湧いた疑問がそれだった。男はさらに馬鹿にしたように睥睨してくる。
 いつも通り、夕の知る彼だ。
「帰るならとっとと帰れ、変に未練を残しやがるから下手に迷う。馬鹿は余計なこと考えなくていい」
「未練、だって」
 つぐみちゃん。確かに寂しいけど笑って別れられた。だからちがくて。
「だって、あんたが勝手に死んだりするから」
「なんで俺が死ぬのにおまえの許可が要るんだよ」
 それもそうなんだけど。
 罵られても、今の夕にはいつも通り反論する気も湧いてこない。
 なにがしたいのだろう、自分がどうしたいのか、夢でも何でも、この絶好の機会に何か。
(言ってやりたいこととかあったけど、全部吹っ飛んだ)
 呆けている様子の夕に、男は呆れたようにため息を吐いて、
「俺は未練なんざねえよ」
 呟く言葉は、何だか夕に説いているようにも聞こえる。
「そんなに悪くなかった」
「…そうなんだ」
 確かにいつも通り、男はむっつりと不機嫌顔なのだが、見ていて不安にさせられるような危なげな雰囲気は払拭されていた。
「そっか…」
 自分の妄想でも、神様のいたずらでも、彼のこんな顔を見られたなら、なら、自分も納得せねばならない、という気になる。
 何だか顔を見ているだけで、先ほどと違う意味で涙が出そうになって、勘違いしそうになるので、夕は急いで立ち上がって彼に背を向ける。
「ああああうんじゃあ!じゃあいいや!あたしも帰るよ、達者でな!」
 声が震えて変な捨て台詞になった。
 満足したのに、納得したのに心が音を立てて張り裂けそうなんて変な感覚だ。
「あたしも、そう、そんなに悪くなかったよ!あんたと過ごしてさ!」
 声を張り上げて、とりあえず走り出す。このタイミングでつぐみの泣き顔を思い出す。
 世界で一番好きなの。女の子の顔をしていたつぐみちゃん。可愛くて、こりゃ敵わないと思った。
 走り出す、彼に背を向けて。さよなら、声が届いたかわからない。目の端から雫が零れた。
 さよなら。
「嘘をついた」
 男の声が聞こえてくる。最後の言葉。
「未練が出来たから、悪くなくなったんだよ」
 

 

 




 走り続ける。やがて行く先に光が見える。
 もう会えない、という寂寥感が胸を満たして苦しいけど、悪くはない。
 悪くはない、苦しさ。とりあえず今まで生きてきて、こんなに苦しい思いをしたことがなかったから、思い出になる。
 強烈な思い出はなかなか忘れられないものだから、一緒に生きていける。
(あたしは生きていくんだ)
 あたしの世界で。あなたとは違う世界でずうっと生きていこう。





 どこにいたって、なにをしていたって、あなたのしあわせを祈っている。




 

 

 

 

 

 

 

灰と翼 了

 

 

 

 

(2009.10.1)

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