自由意志を主張する王子とその婚約者の話
1 その出会いの話
むかしむかしのお話。
おおきな戦争がありました。たくさんのひとが死にました。
もうこんな思いをしたくはないと、いくさから逃れ集まった人々が新しい国を作りました。
予想以上に大きくなってしまったその国で、新しい王様は考えます。
この国が再び戦禍にさらされないためにはどうすればいいだろう。
そうして、かみさまにお願いしたのです。
かみさま、この国で戦が起こらないようにするには、どうしたらいいのでしょう。
――――――みんながひとつずつ、我慢をすることが出来たなら。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――フェイ・ロン新暦566年、呪月十日。
新緑がみずみずしく雫をたたえ、柔らかな日差し溢れる朝の庭園で、ベネディクトは息を潜めた。
腕利きの庭師によって毎日手入れを施された見事な樹木や色とりどりの花々は、彼の身体をしっかりと隠してくれてはいるが、渋みがかった茶色の瞳を、油断無くさまよわせて辺りをうかがう。
しゃがみ込んだふくらはぎの裏が痺れはじめ、握りしめた手のひらににじむ汗をキュロットで拭った。
それでもまだだ。じっと機をうかがう。
「―――ベネ!ベネットどこにいるの!」
来た。明らかに険を含んだ女の声が朗々と東の棟からこの庭まで響いてきた。
滅多なことでもない限り淑女の悲鳴など響くはずがない。厳重な警備のしかれたこの、王城内であればなおのこと。
とたんあたりは騒然と音を増した。
衛兵の駆け回る足音と鍔鳴りの金属音。侍女達の嬌声と教育者達のため息。
ベネディクト、ベネディクト様、王子殿下、と、自分を呼び探す声。
ベネディクトは混乱を思い描いて口元に笑みを浮かべた。声が漏れないよう手のひらで覆い隠しはするが、肩が震えてしょうがない。
自分がひとつ何かをしでかすたびに、物入れをひっくり返したみたいな大事になる様はいつになっても飽きなかった。
やれ国宝の大皿を割っただの、5階の窓からカーテンづたいに飛ぼうとしただの。
ベネディクトは自分の価値をよく解っていた。けれど王子としての自覚や国の威信がどうだとか説教されてもどこ吹く風。ちっとも改めようとは思っていなかった。
同じような失敗やいたずらを、城下の同じ歳の子がしてもたいした騒ぎにはならないだろうに、どうしておれだけがしてはいけないということになるのか。
そういったすこしの不満と、自分に振り回される大人達が見ていて面白くこんな所業を繰り返した。けれど今回ばかりは話が違う。
ベネディクトは憤っていた。いわばこれは反抗である。
(こんやくだって。ふざけやがって)
父親が国王であるからと言うそれだけで、この歳で結婚だの何だのの話がベネディクトにも降りかかっていた。
その婚約者(まだ候補らしいが)が、まさに今日この城に初訪問するということだった。
ベネディクトは細心の注意を払って、いつにもまして頑強な自分の護衛達をかいくぐり脱出に成功していた。
あいつらと来たらベネディクトがどれだけ酒や茶を勧めても手をつけようとしない。もちろん曰く付きの薬を仕込み済み。
勤めはじめの頃は素直にだまされてくれてかわいげがあったものを―――ともかくベネディクトはなんとか軟禁されていた自室を脱し、ここ中央の庭園まで逃げ延びることが出来たのだった。
今回は、物をなにも壊していない。いっそ、この日のために用意された衣装やセットや花束らを台無しにしてやろうかとも思ったが。
らしくもなく気が咎めた。ベネディクトが物を壊すのはいつも故意ではなくやんちゃな行為の結果ゆえだったので。
城に仕える技師や、いつも献上に訪れる職人が精魂込めて作り上げた物ばかり。それはさすがにベネディクトでも知っていた。
乳母のジャネットが作ってくれた料理を一度床に落としてしまったときは、彼女が泣き出してしまって焦ったものだ。泣かせるのは、ベネディクトの望むところではない。
ただ捕まる気はさらさら無かった。
強行に婚約など結ばせようというなら、彼はどこまでもあらがう心づもりだった。
子どもだから当たり前と言えば当たり前だが、ベネディクトは結婚なんてしたくなかった。
だいいち女ときたらドレスや宝石や男の噂話ばかりに夢中で、遊びと言えばお喋りやせいぜいカードゲームしかしない。
外歩きなんてもってのほか、靴がすこしでも汚れようものなら泣き出す娘までいるくらいだ。
姉や母はまだ女にしては話がわかる方だけど、父のように、これからたびたび女の機嫌伺いに会いに行ったりしなければならないと思うと、気が滅入るどころか息が詰まる。
仮だろうが、候補段階だろうが、今回の話に関してはベネディクトひとりであっても断固反対を訴え続けるつもりだった。
――――この日に至るまでたいした反抗は出来なかったのだけど。
そして逃げ続けたところで、本人のいないところで話は進められてしまうのだ。王室とはそういうものだ。
だけど見合いは拒否してやると決意した。婚約者側にも、いくら王子が相手であっても難色を示す権利は与えられているだろう。
向こうが断ればいいんだ。
グリディムの第一王子は、年齢の割に手のつけられない愚か者だと。嫁がせるのには気乗りしない相手だと。
「殿下ー!こら出てきなさい殿下ー!」
さすがに動作は焦ってはいるが、王子に困らせられることも慣れている衛兵達の口調には、おそれおおさなどどこにも残っていない。
ベネディクトはほんの少し唇をとがらせつつ、いつもそれに満足する。
「やべ、そろそろ来たかっ」
目の前に咲きこぼれる大輪の花を勢いよく握りつぶして弾みをつけ、ベネディクトは立ち上がった。すこし佇みすぎたためか足下がふらついたが、構わず走り出す。
頭は上げず、茂みを盾にとったまま次の目的地まで一気に駆ける。
「あ、いたっ!いました!王子いましたー!ベネディクト殿下ここですーっっ!!」
茂みの切れ間から勢いよく飛び出してすぐに、衛兵と目があっても覚悟の上。姿勢を低く保ったまま足を止めず走り抜ける。
「王子、止まってくださいーっ」
伸ばされる手をかいくぐり、
「観念しなさい、王子ーっ」
いきなり目前に広げられた袋を即座に地面に転がって身をかわす。
わらわらと増すばかりの王子捕獲人員に、うちの奴らは本当に暇だなと呆れすら覚えて、けれどベネディクトは遊んでいるわけではないのだから。
(誰が捕まるか、よッ)
勝って知ったる我が家。文字通り自分の庭である広大な庭園を、小柄な身体を活用して衛兵達の目を欺いては交わし、巧みなフェイントを織り交ぜすり抜けていく。
しかし、多勢に無勢。大人と子どもの差も大きく、ベネディクトは三人の手を逃れ息をついた隙に茂みから忍び寄る手に身体を拘束されてしまった。
「うげっ」
「やっと捕まえたぜ、ベネー!見合いが怖くて逃げ回るなんざ格好悪いぞおいー」
「ううううるせーよっ!はなしやがれ、くそセルゲイ!」
屈強な肉体の不敬きわまりない男はセルゲイ・ガソットといい、王子の武術指南役のひとりだった。
であるので、いくら王子が両手足をばたつかせたところで捕らえた腕はびくともしない。
今まで衛兵達をかいくぐってきた身ごなしも、多くはこの男からの指南のたまものでもあった。
「ベネ、いくらいやでも怖くても立ち向かうのが男だろうが。お前がそんな腰抜けとは思わなかったぜ」
「こわくなんかねーよっ!まともに見合いとかしたら話がまとまるじゃねーかっっ」
遠巻きの多くの衛兵達に見守られるなか、指南役に諭されるように声をかけられるのはベネディクトにはひどく恥ずかしかった。
力一杯暴れて、セルゲイの手から一瞬力が緩んだところを振り払う。
「あ、おいっ」
「イヤだっつってんだよ!おれはもうずーっとやだって!誰もきかねーじゃねえかオヤジもかーさんもアネキも考えてねーじゃねえか!おれはこんやくなんかしたくねえって!」
さらに伸ばされる手のひらを弾いて、ベネディクトは声の限りに叫んで両手足をむちゃくちゃに振り回す。
ゆびさきに触れた植木の、白く美しく咲き誇る花々を衝動的に引きちぎってばらまいていく。
花びらが舞う。飛び散る。
それらが庭師達が丹誠を込めて育て上げた、大切な花たちだと、いつものベネディクトなら知っているのに。
「おれはけっこんなんかしねーからなっ」
声を張り上げ顔をあかくさせて、ベネディクトは叫ぶ。
本当はそうもいかないことを、課せられた多くの「せきにん」を、ベネディクトだって解っている。
けれど、まだいいじゃないか。まだいいじゃないか。子どもでいさせてくれたって。
やりきれない思いに歯止めが利かずに、花びらをちぎって投げつけていく。
来るな来るなと、戸惑いの表情で距離を詰めかねている使用人たちへ。
その人垣の隙間から、ぱたぱたと軽い足音が、誰に悟られることもなくベネディクトに近づいて。
「あ」
セルゲイが気づいたときには、暴れるベネディクトの手を、後ろからのぞき込んでにぎる、手のひらがあった。
「おはな、かわいそう」
「……ッ!?」
突然与えられたぬくもりに、ベネディクトはのけぞって驚きのあまり動きを止める。
そこには自分よりもさらに小さい、見たことのない子どもがいた。
(ピンク)
真っ先に目についたさらさらの髪が肩口で揃えられている。わずかに首をかしげ、こちらをまっすぐに見上げてきている瞳は大きくてまん丸いサファイヤの色をしていた。
小さくて柔らかな両手はあたたかく、ベネディクトの手をにぎって離さなかった。
いきなり与えられた感触と、あんまりにもじっと見つめられてベネディクトにも目を逸らすことすら出来なかった。
子ども達は硬直したように見つめ合う。あたりの大人達も一瞬言葉を失っていた。
静寂を破ったのは穏やかな、しかし困惑しきりの婦人の声だった。
「コートニー。どこに行ったのコートニー」
その声に、ぱっと桃色の頭が動いてサファイヤの瞳が逸らされた。ベネディクトは知らず詰めていた息をようやく吐くことが出来た。
「かあさま!」
「…ああ、コートニー!そこにいるの?どうしてこんなところに…」
あわてて使用人達は現れた婦人のために道を作った。安堵の表情を浮かべた妙齢の婦人が探し求めていた子どもの顔を見いだし駆け寄ってくる。
「コート…じゃあやっぱりそうか、この子が」
セルゲイの呟きに気をとられていると、子どもはベネディクトの手を離してさっと、母と呼んだ女性のもとへ走っていく。
「コートニー・フロステル。婚約者候補のお嬢さんだ、ベネ」
走り去る背中に目を向けていたベネディクトは、思わず耳を疑って隣にそびえる長身の、セルゲイの憎たらしい笑みを見上げていた。
――――――あれが?
(2009.6.17)