1 鹿子木さんちのふたり
両親は共働きで、なおかつ父親は一年のほとんど出張中の看板を掲げていた。
さらに母親は家庭よりも仕事の人で、小学校高学年に上がる頃には家のことを取り仕切るのは俺の役目になっていた。(一割ほどはばあちゃんだが)
そんな淡泊な母親が、よれよれのスーツ姿で帰宅早々俺に告げた。
「これ、雪見ちゃん。今日からうちで一緒に暮らすから、あんた面倒見たげなさい」
そんな、猫の子拾ってきたみたいに。
すっかり目を丸くする俺の前に、つないでいた手を引いて、女の子が前に出た。
なんかのコスプレですかと、思わずくちばしりそうになるほど顔の半分や手足が包帯に覆われていた。
残念ながら今は10月でもなかった。
俺は思いきり戸惑いの表情を、母親とその子両方へと向ける。
「ほら、なにぼうっとしてんの!自己紹介は!」
母親は今思っても、少々KYじゃないかと思う…それはそれで彼女の持ち味かも知れないが。
「あー、鹿子木、均です…」
「……」
「この子は中水流雪見ちゃん。あんたと同じ小学六年生。いい?女の子なんだから丁寧に扱って、ごはんもおやつもあげるのよ!」
やっぱり母親はこの子を犬か猫かなんかと間違えちゃいないか。
果たして、説明不足すぎる母親に押しつけられるように、うちで女の子、雪見ちゃんを預かることになった。
というか、ろくな説明もなかったのは母親の確信犯なのかも知れない。こんな包帯だらけの背景を、詳しく知ってしまえば俺の態度はさらにぎこちなくなっていたろうから。
どこかぼんやりとした眼差しを向けてくる雪見ちゃんを、控えめに見ると目があった。
「…プリンが、あるんだけど、食べる?」
同世代の女子との接し方に窮した俺は、とりあえず餌付けからはじめてみた。
雪見ちゃんはほんの少しだけど目を輝かせて頷く。
その時ははにかむようなその仕草に胸をときめかせたりして、少しこれからの生活に期待してみたりもしたものだけど、まあなんて事はない。
俺の受難の日々のはじまりだった。
※※※※※
雪見は中学二年生になった。
間違えた、俺と雪見は中学二年生になっていた。
包帯が取れるごとに元気になった雪見は、どんどんと年相応の女の子らしさも取り戻していった。
「均くん、おなかすいたおなかすいたー!なんかおやつー!」
「………」
女の子らしさ…か?
別に、過剰に甘やかした覚えもないのだが、雪見はすっかり傍若無人なお姫様かのような振る舞いの子になった。
自由奔放、活発で快活、ものは言い様である。中学校での友人も多いようだし。
第一ここまでわがまま放題に当たるのは、どうやら俺相手に限った話のようであるし。
しかしこのままでは預かっている子の教育に支障が出るのではないかと、若干十四の俺が苦慮している次第である。
「雪見、食べた弁当はきちんと流しまでもってこいって言ってるだろ!出来れば自分で洗う!脱いだ制服もハンガーに掛けなさい!しわになるだろ!」
「うわっ、超うざいんですけどー」
「雪見!この孫ギャルが!」
思わず自分でも訳のわからない叱り方をしつつ、中学生の男子らしく曲がっている暇もない。
なんで同い年の女の子を育てなきゃ行けないのかとうなだれつつ。
うなだれつつも家事は毎日止めどなくやってくるので苦悩も食器を洗いながらでは様にならないが。
「………」
なんかもう、どこかへ行きたい。ここではないどこかへ。
昔のビジュアルバンドの歌詞を頭の中で追いながらため息をついていると、哀愁漂う背中に、さすがに言い過ぎたと思ったのか雪見がのぞき込んできた。
「…均くん怒った?」
「怒ってねーよあれぐらいで怒ってる暇なんかないっつーか。あ、おやつは戸棚にロールケーキ」
「……あとで一緒に食べよーよ。ねえさ、あたしが拭こうか」
「いーよお前割るから」
「……」
言い過ぎたかなと思った。皿を割ると怪我して危ないから、と付け加えるのも忘れた。
……こういうところが甘やかしすぎているかも知れない。
「じゃあ待ってる。飲み物だったらあたしも作れるしっ」
「俺のに砂糖入れるなよ」
俺に嫌われまいとする雪見が少し可愛いと思うあたり、やっぱり甘いのかも知れない。
※※※※※
二年生に上がるとクラスが変わった。当然知らないヤツも中にはいるわけで。
「鹿子木だっけ。おまえ2組の中水流と住所一緒なんだってー?」
「……そうだけど」
「うひょー!どーせーしてんのってマジ!?やっべー」
このやりとりも一年目で慣れた。
「同棲じゃねーって。あいつ親戚の子で、事情があって預かってるんだよ。大体親もいるし」
まあほとんどばあちゃんがいるとき以外はふたり暮らし状態だが、ややこしくなるので言う必要もない。
「でも一緒に暮らしてんだろ?兄妹でもないのに。風呂とか鉢合わせすんの?」
なんかもう疲れて顔を引きつらせる気力すら湧かない。
去年までの俺はそれなりにムキになって否定して言い返したりもしてたが、雪見の対処とかしているうちにすっかり大人びたと言えば聞こえはいいが老け込んでしまったようだ。
ちょっとやそっと、こんな子供じみた挑発にも動じられない。
「なあなあ、着替えとかってのぞけんの?」
耳元でこそっと囁かれる下世話な問いに、こいつらの頭こんなんばっかかと呆れる。
まあ、俺も本来なら頭の中をこんな事で占めていてもいいトシゴロのはずだが。
っていうか、何だか去年とは違う意味で胸がむかむかと、静かな怒りが湧いてきていた。
こいつら雪見をそんな目で見ているのか。しかもそれをわざわざ俺の耳に入れるなよ。
「エロマンガみてーなシチュエーションだよな。美味しすぎー…」
「同棲じゃないし雪見と俺はそんなんどころか親と子だし、エロマンガはまだ読むなーーーーっっ!!!」
しびれを切らした俺の一喝に、教室は取り巻いていた男子のみならず全体的に静まりかえった。
……あーあ、今年こそおとなしくしているぞ計画が早くもパアか……。
「いいかお前ら!」
もう捨て鉢になってぐるりと周りの奴らを睨み付ける。
「今俺に言ったようなこととか余計なことで雪見を質問攻めにしたりすんじゃねーぞっ」
「…あ、ああ…」
「なんか…うん、わり」
なかなか根は素直な奴らだ。俺の剣幕に押された勢いのようだが、うんうんと頷いてくれる。
「鹿子木…クールとか大人っぽいとかむっつりエロとか色々噂されてっけど…」
そのあと彼らの間でこそこそと交わされたやりとりは、幸いにも俺の耳まで届かない。
「親バカだ…ありゃ頑固オヤジとかシスコンのたぐいだ…」
彼らは一様にうんうんと頷き交わした。
※※※※※
「均くん、均くんあのねー」
「うんうん」
雪見は帰宅後よく、家事にいそしむ俺について回っては今日あったことを話したがる。
母親のエプロンにしがみついて離れない小学校低学年の子みたいだが、邪魔ってほどでもないので放置している。
「新しいクラスでも友達ができたんだけど」
「へー、よかったじゃん」
今日も、聞くとは無しに耳を傾け生返事や相づちを返す。
「やっぱり均くんとの関係についていっぱいきかれたよー」
「やっぱりかー」
タオルの四隅をきっちり揃えてたたみながら、俺は苦笑いを隠すこともできない。
「なんて答えた?」
「親戚で、うちの事情でお世話になってるって」
「それでいんじゃね」
そのあと、うちの事情とやらについては追求されなかったか気がかりだったが、雪見のことだ。うまくごまかすか交わすなりしただろう。
お喋りはだてではなく、こいつは話を逸らすのも手慣れているのだ。
「でもその流れで鹿子木くん格好いいよねって話になって、うらやましがられた」
「へ、へー…」
担ぎ話か、と身構えたが、雪見の顔を伺うとそうでもないらしく、とたん顔が熱くなるのが分かった。
「均くんけっこうもてるんだよ」
「ふー…ん」
思わずうつむきがちになってしまう。こんな話をされて、本人的にどんな反応をすれというのか。超いたたまれない。
正直そんな話聞いたこともないし。
それまでずっと休み無く話していた雪見の声が、ぴたりとやんだ。どうしたのかと顔を向けると、何だかむっつりと機嫌を損ねたような顔をしている。
「なんかちょっともやもやした」
「もやもやしたのか。ほーう」
思うに雪見も俺と同じ心境を味わったんだな。人のことは言えないが子どもっぽい反応に可愛いやつめと、思わずにやにや笑いが漏れる。
「……それで、もしかすると均くんのことちょっとすきなのかもしれないって思った」
うつむきがちに、なにやらもじもじと居心地悪そうに、恥じらいに頬を染めた雪見がそう呟いた。
俺は思わず顔をしかめ、気がつくとくちばしっていた。
「そんな子に育てた覚えはありません!」
殴られた。
※※※※※
それからの雪見は結構頑固だった。
シュークリームで釣っても、弁当を豪華版にしてみても怒りは軟化しない様子で、俺に近寄りもしないのだ。
アレ、俺ってもしかして最低?と思わずにいられないほどにはそれなりに動揺してきた。
雪見が俺のことをすき(かもしれないという話だったが)と口にして、それに対する俺の反応に怒っているのだろう。それは間違いないはずだ。
しかし、俺にとって雪見とはナイ、のだ。明らかにナイ。
友人が兄妹のように育った幼なじみと付き合っている、という話を聞いても何とも思わないのに、リアルに兄妹で好きとか嫌いとか言ってるマンガとかは本当にむりだ。生理的に受け付けない。
いや、雪見と俺が法律的に結婚できることは理解しているが、俺の中では一年半一緒に暮らしただけでもなんか違うのだ。
うまく言えない。雪見に説明できるとも思えないが、なんっか違うのだ。
雪見が好みじゃないとかかわいくないとか言う次元ではない。むしろ可愛いとは思う、身内として。
(だからややこしい)
はじめて対面したときには、異性として意識していた気もするがもはや遠い記憶のようだ。
雪見はかわいい。大事な子だ。けれどそれだけだ。ややこしい。
きっと誰にも正確にはわかってもらえないんだろうな。
だから雪見にも説明とか、弁明の仕方がわからなくてぎくしゃくとした仲違い、のような状態が続いている。
そんなに機嫌を損ねたのかと思うことに、少々気持ちが沈みがちになる。今までずっと鍵っ子でひとりで留守番をしていた俺は、雪見のいる明るい暮らしになれてしまっていた。
話してもくれないのはこたえる。
(………)
今日は土曜だった。雪見は朝から友達と遊びに出かけたし、俺は特に用もないのでいつも通り主婦業にいそしんでいる。
散歩ついでに夕食の買い出しに行くしか外出予定がないとか、寂しすぎる中学生男子の実態だ。
(…なんかうまいモンでもつくって待ってるか)
仲直りしよう、と言ってみよう。言葉は何も浮かばないけど。
フローリングシートでリビングを磨き上げる手を止めて、レシピを検討すべく料理本を漁りに向かう。
と、家のチャイムが鳴った。俺はエプロンをかなぐり脱ぎ捨て(着て出れるか!)玄関に向かった。
宅配か新聞勧誘かと、思ったのだが…。
※※※※※
玄関先に立っていたのはセールスマンには見えない、30前後の女性だった。
「鹿子木、三津子さんのお宅ですよね…?」
「はい、三津子は母ですが。失礼ですがご用件は」
気弱そうに尋ねる女性に、留守番も年季の入った俺はこころもち丁寧に答えた。
「前もってご連絡もせずに、ごめんなさい…そうよね、三津子さんはこんなお時間はお仕事よね」
「いえ、休みなんですが今日は夜まで出てます」
実際は学生時代からの友人と遊びに行ったのだが。うちの女性陣はバイタリティが高くてよろしいんじゃないか。
「そう…ですか。また改めて伺います…あの、えっと」
「?なんでしょう」
ふいに、彼女が首を巡らし俺の背後、家の中を気にするそぶりを見せた。振り返るが当然何もない。
「いえ、いいんです。よかったらこれを三津子さんに渡してください。本当に急に来て、ごめんなさいね」
彼女は名刺サイズの紙を俺に手渡すと、ぺこりと頭を下げて帰って行こうとする。その背中はずいぶん、落胆というか悲しげにも見えて。
俺は手元の紙に目を落として、気がつけば大きな声で呼び止めていた。
「あのっ!」
――――名詞には、中水流楓とあったのだ。
女性は、中水流さんは振り返って首をかしげる。
「…雪見、ちゃんのお母さんですか?」
わずかの間、ためらうようにしながらも、中水流さんは神妙に頷いた。
「迎えに、来られたんですか。一緒に、暮らすんですか」
「……そうしたいと思っています。あの子が望むかは別ですが…」
悲しそうに肩を落とす中水流さんを見ていると、それ以上訊きたいいろいろなことを尋ねることができなかった。
「…あいつ、や、雪見ちゃん今日出かけてて、家にいないんです。また、お越しください」
できるだけ冷静に言ったつもりだった。中水流さんはゆっくりと、深々と頭を下げて、今度こそ帰ってしまった。
「………」
この日を、想像しなかった訳じゃないし、もし親が来るようなことがあれば言ってやりたいこともあったような気もしたけど。
中水流さんの最初から傷ついたような様子に、すべての出鼻をくじかれた気がした。
――――何にせよ、イヤーなタイミングではある。
俺は足音も荒く家の中へと進む。携帯電話をひっつかむために。
まずは母さんへメールだ。
※※※※※
「いやっ、会わない!帰らない!!」
仲直りどころの話ではなくなってきた。
帰ってきた雪見に今日のことを話すと、かたくなにこの反応で、母さんが帰ってくる頃には部屋に閉じこもって返事もしなくなっていた。
「おせーよ、母さん」
「今来てるわけでもないのに今日急いで帰るなんて友達に悪いでしょー、そりゃ心ゆくまで遊んでくるわよ」
正論かもしれないが力一杯わがままだ…。
風呂から上がって一息つく彼女に、俺はコーヒーまで出してやって待機の姿勢を取った。もちろん、無言の視線で訴え続けながら。
「……まあ、あんたももう中学生だしね。話してやってもいいか」
母親は、ため息とともに、若干失礼な呟きで語りはじめた。
「雪見がこの家に来たとき、覚えてる?怪我だらけだったでしょ。あれはあの子の父親がやったの」
忘れるわけがない。あれからあの子の自宅治療を(半ば強制的に)担当したのは俺だ。
あの痛ましい惨状を、一年やそこらで忘れられるわけがない。
そして、母親の口から飛び出す予想以上の、衝撃の言葉に唾を飲み込む。
雪見の両親は若い頃に、いわゆる出来婚で結婚し、生活資金などで苦労を強いられ楽な暮らしではなかったという。
そして次第に父親は帰宅後雪見の母に当たり散らすようになり、手まで出すようになっていった。それに耐えかねた母親は、突然雪見を置いて家を飛び出した。
母親に捨てられたと思った父親は、その怒りを、今までは無かった、子どもである雪見にぶつけた。妻の好意を裏切りのように感じ、その制裁という思いだったのだという。
雪見が腕を骨折してようやく、父親は我に返って病院へ連れて行き、ことが発覚したのだという。
「父親は傷害罪込みで逮捕。行方が知れた母親も子どものことは気がかりだけど、離婚を望んで成立した。ひとりぼっちになったあの子を、養う親戚もいなくてうちが引き取ったの。施設に入れるのは忍びないって楓に頼まれて、ね」
「………あれ、えっと、じゃあ楓さんって…」
「父親の妹。叔母って訳ね。あたしとは学生時代の先輩後輩の仲ってとこ」
母親はきっとわざとなのだろう、さらりと語って聞かせてくれたが、俺はしばらく口を閉ざして考え込んでしまった。
「…離婚が成立したって、雪見は?母親と暮らしたいとは望まなかったのかな」
「言ったでしょ。母親は一度父親の暴力から雪見ちゃんを置いて逃げたって。自分を捨てた親の、愛情を疑っちゃうってもんでしょ、事実はどうあれ子どもならそう感じるんじゃない」
俺は、今すぐに部屋にひとりでいる雪見の側に行きたいとも思うのに、なんて声をかけたらいいのか、解らなかった。
※※※※※
楓さんが来た日は土曜日だった。
母は久しぶりの連休の予定を変更して、日曜である今日に楓さんと会って来るという。連絡が付いたらしく昼前には出かけていった。
雪見はいなくてもいいんだろうか。まあ、あの状態では嫌の一点張りだろうけど。
そして大人だけで話すこともいろいろとあるんだろう。
楓さんは、雪見の両親が大変な時期収入が安定してはいなくて、子どもを養っていける状態ではなく、迎えに来るのが今になったらしい。ちなみに中水流家の祖父母はすでに亡く、母親側の祖父母は離婚の際に一切の縁を切るという話になってしまったらしい。
――――雪見は本当に、たったひとりでこの家に来たんだな。
「………」
昨日の夜から顔を出さない雪見は、部屋の前に置いていたおにぎりやお茶は口にしたらしいが、まだまだ籠もり続けている。
俺もさすがに、怒濤の展開で落ち込み気味ながら、マフィンを焼きはじめていた。雪見の好きなバナナマフィン。
やがて、オーブンをセットして待つ間、いいにおいが漂ってきて、開けっ放しだった扉に目をやると雪見が立っていた。俺はほっとして笑いかけた。
「お茶にする?なんかメシ食うか?」
「…マフィン食べたい」
うし、と頷いて、雪見にはミルクたっぷりのココアを、自分にはアイスコーヒーを用意した。
久しぶりにテーブルに向かい合って座り、しばらくマフィンを頬張る雪見を、直視はできないがちらちらと見守る。
さすがに空腹だったのか雪見はマフィンを一度に三つ平らげ、ココアをすすると俺に視線をくれた。
「母さん、昨日来た、楓さんに会いに行った」
俺から会話を切り出した。雪見はそう、と頷く。
聞いたよね、と言うので、何も問うことなくうん、と頷く。
「…あたし、ここにいたい。三津子ママと顕子おばあちゃんと、均くんと一緒にいたい」
今にも捨てられそうな子どもの顔をして、雪見はそう言う。
雪見はそう言うと思っていたんだ。俺は困ったように笑ったと思うけど、すぐに表情を改めた。
「俺は、雪見は中水流さんのところで暮らした方がいいと思う」
とたん、はっきりと雪見の顔色が変わって、泣きそうに顔をゆがめる。
傷ついた表情に、胸が痛んだ。
「――――あたしがこの前、ヘンなこと言ったから、厄介払いができると思ってるんでしょッ」
そんなこと言うな。
※※※※※
「―――雪見、聞いてくれ。雪見がここに来たとき、怪我だらけで口もあんまりきいてくれなかったよな。それが今では笑ってるし、友達もできた。元気になってくれてうれしい。おまえがいいなら、ここにずっといるってのも、別に悪くないとも思う。でも、いいのかって俺は思う」
「……」
すっかり機嫌を損ねた雪見は、憮然としながらも無言を保っていて、俺は続ける。
「このままじゃお前、過去のことから目を背けたまま、抱えたまま生きてかなきゃ行けないんじゃないかって。うまく、言えないんだけどさ、中水流雪見として、ちゃんと立ち向かっておいた方がいいんじゃないかって」
傷ついた心を、優しさやあたたかさで癒やして塞ぐことは、この一年半で大事なことだったと思う。
でもその傷は、またふとしたときに開くんじゃないか。塞ぐだけじゃ、消せはしないんじゃないかと思ったんだ。
「俺は、雪見に戦って欲しい。俺の言いたいこと、えっと、いじわるで言ってるんじゃないぞ、解るか?」
「うん、何となく…」
お互い、ぎこちなく身じろぎしてしまう。雪見は俺の顔を見ようとしないまま、唇をぎゅっと引き結ぶようにして。
「こんな、こというと、もっと嫌われちゃうかも知れないけど、この家と、三津子ママと、顕子おばあちゃんと…均くんと、離ればなれがいやなの。寂しいの。それが、一番、やだなあって…」
俺が思わず雪見の顔をじっと見たので、彼女は何か誤解をしたらしい。目に涙をためながら、零すように必死な言葉を。
「きらいにならないで、均くん、あたしのことすきじゃなくていいからイヤにならないでっ」
「ば、ばか。嫌いなんて言ってないだろ。そんでもう二度と来るなとか言ってないし。いいんだよ、来たきゃ毎日うちに遊びに来いよ。マフィンだろうがグラタンだろうが作ってやるよっ」
「……ケーキも?」
「ケーキも!」
そう言うと、雪見は目に見えて肩の力を抜いたように、息を吐いて。
「わかった。雪見、がんばってみる」
「うん」
笑った。ようやくその顔を見ることができて、今度は俺が力を抜く。
話したことを、母親へすぐにメールで伝えた。
その日の夕食は楓さんも交えて四人で摂ることになって、何だか話はどんどんと進んでいった。
※※※※※※※※
「説得した均本人が、実は一番寂しいんじゃないの?」
うちから雪見が新しい家に引っ越していく、その当日、仕事に向かう母親に揶揄された。
俺は怒って追い出すように母親を急かしたけど、あながち的はずれな指摘でもないとは思う。
当然、そりゃ、何も思わない訳じゃない。
雪見ひとりの荷物だ。そこまでの量にはならないので、楓さんがレンタカーを借りてきて午前中のうちに運んでいってしまった。
あとは本人と、身の回りのものを持って行くだけで雪見はうちからいなくなる。
「あ、これ忘れてるじゃんか」
引っ越しの手伝いついでに食器の整理もしていると、雪見お気に入りのマグカップや、湯飲みと茶碗のセットが出てきた。母さんが去年の誕生日にプレゼントしたやつだ。
「あ、いいの。それおいとくの!」
古い広告で食器を包もうとしていた俺に気がついて、雪見が慌てて止めに来た。
「おいとくのか?」
「だって、また来るもん。この家にあたしの居場所がまだあるって思いたいから。…だめ?めいわくかな」
「…別にいいけど」
首をかしげておねだりするように言われては、頷かないわけにも行かないよなあ。
「引っ越し作業で今日は楓さんも雪見も疲れるだろ、昼はうちで食って行けよ」
「うん。夜はどこかで食べに行くことになっちゃうだろうし、今日まで均くんに甘えちゃう……もうっ!」
突然、怒ったようにばしっと、肩を叩かれて目を瞠る。
「均くんが甘やかすからだよっ、せっかくさあ、少しは大人になろうって思ってたのに、全然あたしだめじゃん、離れらんないじゃん!」
顔を真っ赤にして、泣きそうなのか恥ずかしいのかとにかく、せっぱ詰まった様子の雪見が俺の肩に顔を押しつけてくる。
ど、どうしろってんだよ!?慰めるにも励ますにも、何だかどぎまぎしてしまってすぐに行動に移せない。
俺が戸惑っていると、構わずに雪見が顔を上げる。その目元に涙のあとはなく、ほっとしたのもつかの間、彼女が浮かべる表情は、何とも不敵で、強気なものだった。
「覚えててよね!あたしが本気になったら怖いんだからっ」
「……??あ、ああ、おう。覚えておく…」
よく解らないが、彼女は何かに闘志を覚えているらしい。
新しいことに望む前には、それはふさわしい心構えのようにも思うし。
雪見の前向きな表情を、うれしかったり誇らしかったり、俺の手から離れることに、寂しさを覚えたり。
まぶしくも、思ったりする。
(2009.7.17)
(2009.9.4)