どんなに空に焦がれても
どれだけ翼をうらやんでも
地を這うものには与えられないもの
だから
どんなに愚かでも
どんなに勇敢でも
本当に空を飛べるなんて思わないものでしょう?
諦めなさい。あなたには無理なのだから。
「夕、お前もういい加減にしろよ〜」
妹はさっきからひとの部屋でテレビを占領してゲームに夢中だ。最近発売した大作RPGシリーズの最新作で、友達もみんなやっていた。
けれどこう、毎晩毎晩自分の就寝時間ギリギリまでピコピコやられたらたまらない。
「お兄ちゃん先に寝ててよー。今ちょっとセーブポイント無いもん」
「むちゃ言うな」
というか、自分もいつかプレイするつもりだったのに、目の前で繰り広げられる中盤後半のイベントシーンやネタバレを目にしてしまってすっかりやる気は失せていた。
(みんなもずんずん先に進んでるし…いいよなぁ。テレビが幾つもあるうちは)
最近は豪華声優陣の起用とか、とにかくドラマティックになっていて、背を向けて漫画とか読んでいてもお構いなしにストーリーが流れ込んでくる。せめてヘッドフォン使えよな。
「俺は生まれ変わったら一人っ子の家に生まれたい…」
「はいはいおやすみ〜」
布団に潜り込みながら嘆いたところで早々に寝言扱いである。
ぶつぶつ文句を垂れながら、言って聴くような妹ではないので仕方が無く目を閉じる。
『たあ!』ばしゅざしゅ!『うらぁ!』どかーん!『きゃあ!』ずどどーん!
視界を遮断しても、聴覚はスピーカーから溢れる音声を拾う。戦闘中だ。妹はアクション操作が下手で、よくボス戦では全滅して足踏みしていた。
臨場感溢れるBGMと、主人公達の声とか攻撃エフェクト音とかだけ聴いてると、彼らも大変だよなあ、なんてしみじみ思う。
毎日毎日、戦いに明け暮れて、痛くても苦しくても次から次に問題が降ってくるんだもんなあ。
俺たちゲームをしてる立場なら、「やーめたっ」って電源落とせば終わるけど、嫌でも、続くんだからな、話ってのは。プレイヤーの指が、「ロード」とか選ぶ限り。
大分意識が沈みかけていたのだろう。ゲームのことなのに、なんだか深刻に考え込んでしまって、結局戦闘終了後のファンファーレが流れる頃には、彼はほとんど寝入ってしまった。
画面の中では戦闘メンバー4人のうち、二人は戦闘不能状態で倒れ伏せていた。夕は、「あー、また経験値がーやり直そうかなー」と嘆いている。
中央で決めポーズを取っている主人公が、「当然の勝利だな」とクールに常套句を喋っていた。
1 着水
ジェットコースター。
いわゆるそんな感じだった。彼に意識があったなら、また冷静に思考能力が働いていたなら、そう感じたに違いない。
あの、ガタガタと最高地点まで登り詰めて、さあ落ちるぞというその時、ふわっ、となる。足元が浮く。身体の内部が少しずつずれる。そんな感覚。
まさにそんな感じ。
事実、一瞬宙に浮いた身体は、しかし当然重力に従い落下するわけであって。
彼の幸いは、それよりも前に意識が覚醒したことだろうか。
「…あ?」
ばっしゃああああああん!!!
状況を把握できない呆けた呟きは、けたたましい水音に吸い込まれ、自らの体重から生まれる、水圧。
それはあまりにたまらなかった。目覚めの頭には、かなりの混乱をもたらし、たった数秒で大量の水を飲み込み、本気で溺れてしまう。
普段頻繁に水泳をしているものでもない限り、陸上生物は水上において活動を制限される。しかもこんな状況である。
おそらく彼がこのまま溺れ続けていたのなら、間違いなく溺死の末路を辿ったのだろう。だがこの苦しみは程なく終わった。
ごん。
「……っっ!!!」
後頭部を、川辺に突きだした岩に強打し、あっさりと気を失ったのだ。おかげでそれ以上余計に水を飲み込むことも、体力を失うこともなくぷかりと水面に浮かぶ。
見た様子、思い切り水死体の出来上がりだが、そんな少年のぐったりした身体に、まるで海草採りの漁師よろしく伸びる一本の棒があった。
目が醒めたらそこは知らない国でした。
某有名小説の冒頭じゃあるまいが、彼はだるい身体をのろのろと上げた。いまだによく分からない、自分の置かれた状況を正しく把握しようと首を巡らせるのだが、いかんせん、視界がぼやけている。
ああ、眼鏡だ。眼鏡をかけていない。当たり前だ、四六時中付けていても風呂と就寝時だけは外すものである。
彼にはここがどこなのかはもちろん、なぜここにいるのかもさっぱり解らないのだが、はっきりと周りが見えない悪視界でも、ここが今まで自分が居た場所でないことは理解できたのである。
トンネルをくぐった覚えもなければ、うさぎを追いかけた記憶もない。そういえば放り出されて海?湖?とにかく水に落ちた夢は見た気がする。
「…いや、あれ、夢か…?」
しゃがみ込んだ態勢のまま呟いて、おもむろに髪の中に指を突っ込んでみる。癖のある髪は思ったほど絡まってはいないが、それでもしっとりと、寝汗にしては異常なほどに湿っていた。
「夢じゃない…?」
服などは(といってもパジャマのままだ)比較的よく乾いていた。水に落ちたあれが現実ならば誰が助けてくれたのか、そしてここに連れてきた(放置した?)のは一体誰なのだろう。
「ッてか、マジで、どこだ、ここ…」
重い全身に鞭打って、ずるずると身体を起こす。手を伸ばしてすぐ側の建物の柱につかまる。知っているような知らないような、石の感触がした。コンクリートとは違うようだ。
彼のいる場所は少し薄暗い。顔上げると先のほうには明るく広い道が広がっているようで、つまりここは店の裏とか、そういった路地裏なのだろう。
とりあえず、誰かひとがいないか見て見よう。多分いきなり捕まったり殴られたりはないはずだ、多分。そもそも悪いことしてないし。
内心かなり緊張しながら明るい道を目指して足を踏み出す。ひやりとした感触にびくりとした。自分は裸足だった。
「……」
裸足で歩くなんて、一体何年ぶりだ。しかも土の上ではない、石畳の上。
小石や何かの破片を踏まないよう注意しながら、ゆっくりゆっくり、歩く。
物陰からそっと、広い通りを伺ってみた。
「…っ」
まず、朝日のまぶしさに顔を背けた。手でひさしを作って、近眼を細めてじっと、見える限りの範囲を見渡す。
そこには一見、外国のおしゃれな街並みが広がっていた。
映画や本なんかで見た、頭の中のイメージも含む、ヨーロッパ調の建物や並び。
最初は外国には違いない、という考えだった。なぜヨーロッパ?とも思った。けれど次第に気付く。理解してしまう。
彼の、確固たる根拠に基づく確信などではない。脳、というか、肉体全体が認識してしまっているのだ。
(違う。外国、とか、そんなんじゃない。というか銀河系ですらないかも知れない)
店先で、同年代の少年が窓に置かれている花に触れた。しおれていた様子の花が目に見えて花開く。
なんだ ここ
おおよそ理解の追いつかない状況に、彼はもといた場所まで戻ってしゃがみ込み、震える全身をきつく抱いていた。
冗談じゃ、無い。
テスト期間中よく、バカ妹が「ああ、テストも学校もないゲームの世界に行きたいっ。ついでに美形王子に迫られたい〜っ」とか嘆いているが、冗談じゃないよ、バカ夕。
「バカ夕」
八つ当たりに呟いて、はっと顔を上げる。
夕は、妹は今どこにいるのだろう。寝るとき一緒の部屋にいた彼女も、もしかして同じく「ここ」にいやしないか。
「……」
しかし最初からその気配はなく、探そうかという意欲はすぐに費えていった。
ここでは何をやっても裏目に出る気がした。だってここでは自分は異質なのだから。
だからもし妹が「ここ」にいるのだとしても、見つからないに違いない。
そう思考に及んだとたん、途轍もない孤独感が彼を襲った。
手が、足が、目に見えるほどにガクガクと強く震える。
ここにはきっと、いや絶対に彼を知る人物などいないに違いない。ここのことなど何も知らない彼は、怪しまれるに違いない。
そもそも、どうやって帰るのだ。自分の「世界」に。来た方法どころか理由も知らない彼が思いつくはずもない。
帰れるのか。帰れないのか。もう一生、家族にも友人にも会えないのだろうか。
自分は一体、どうすればいいのか。
一歩も動かずに、彼は色々と思考を巡らす。どれもこれも浮かぶのは悪い想像ばかりで、時間が経てば経つほど立ち上がる気力を無くしていくような状況だった。
その、嘆くだけで何をしようという様子も見せない姿は、どう見ても不審者のそれだ。
彼の深層心理はどこかで、「君、どうしたの?助けてあげるよ」と、誰かが働きかけてくれるのを待っていた甘えがあったのかも知れない。この世界に、救いを求めたのだ。
しかし何も言わずにそうしているだけでは求める結果が得られることはなかった。
この世界でも、少年の世界と同じく皆、怪しいものに自ら関わろうとする者はいなかったのだ。
少年もそれを頭で理解していた。絶望するだけ絶望すると、彼自身は何ら成長も衰退していない事実だけを突きつけられる。腹が空いたのだ。
「…もう昼時か…」
空を見上げると、灰がかった白い空に浮かぶ太陽は柔らかい日差しを注いでいる。
つい習慣で太陽と思ったけど、そもそもあれは「たいよう」でいいのかな。ファンタジーっぽく空がピンクだったり竜が飛翔していたりなんてことはないようだが。
どうしよう。
腹は空いたが途方に暮れた。もしかしてこのままだと餓死か。
何かを想定するとき、最終的な、しかも最悪の場合に思いを巡らすのはもはや彼の癖だった。
(さて、どうするか…)
裸足で寝間着姿ではどうあっても仕方がないだろうが、出来るだけ目立たないように道の端を俯きがちに歩く。自然と足は、良い匂いを漂わすレストラン街(らしきものが並んでいるのでそうだろう)に向かっていくが、どうやら本当に食事時。そちらはあまりに人が多いので引き返した。
人が少ない方、少ない方へと歩いていくと、建物が少なくなり、代わりに緑が増えてきた。
どうやら公園のようだ。入り口にでんとそびえ立つ石碑に刻まれた字を目を眇めてこれでもかと凝視したが、案の定見たこともない字だ。
「おかあさーん、早く早く!」
公園から駆け足で出てきた男の子が母親らしい女性を急かす。ああ、ご飯に家に帰るのだなと思った。
そう、これも不可思議なのだが日本ではないはずが、彼の耳に届くのは聞き慣れた日本語ばかりだった。
もちろんその理論が理解できるはずもなく、あとからやってきた母親が彼の姿を見て少し眉を潜める。
すぐに親子は見えなくなったが、その視線に、深く傷付けられた。
言葉が分かったところで、自分はやはり異邦人に違いない。
自然と顔は下に向きながら公園に足を踏み入れた。普段なら異国情緒溢れる、素晴らしい公園の造りに感動したろう。けれどそんな余裕はなく、一番最初に見かけたベンチに腰を下ろす。
片足をつかんで裏を見てみる。
やはり裸足でなど歩き慣れていないためか、擦り傷を無数に作り、ひりひりと痛んだ。
「……」
両手に顔を埋めて、深い溜息ばかりが漏れた。
朝からなにも食べていないから思考は鈍る一方だった。公園だし、水ぐらいはあるかも知れないが、ああもう思考が鈍って駄目だ。
次第に強くなる日差しに、とろとろと鈍い眠気がやってきて、ベンチの上で膝を抱えてうずくまる。
「どうしよ…」
このまま寝て起きたら、夢オチで済まないかな。
本格的に寝てしまおうかとした先に、強い視線を感じておそるおそる顔を上げる。
目の前には、栗色の瞳と髪を持つ、5歳くらいの男の子がじっと見上げてきていた。
「な、なんだい?どうかした?」
おそらく引きつっているだろうが笑顔を作って問いかける。傍目、子供相手にビビっているようにしか見えないだろう。
男の子はくりくりと大きな瞳を瞬いて、元気良く口を開いた。
「おにーちゃん、ウォッツ人?」
「う、うおっつじん…?」
どう見ても外国人の子供が流暢に日本語をつむぐ様は結構な違和感があったが、それどころではない。
やはり会話は普通に可能である。しかし彼は男の子の言う意味がわからない。
「あのね、ほんにね、ウォッツ人は黒いかみしてるってのってた」
「へ、へえ、そうなんだ・・・でもごめん。違うんだ」
男の子は不思議そうに首を傾げる。彼くらいの年頃では、「絵本に載ってたから鼻の長いのはゾウさん」ぐらいの常識だったのかも知れない。
「おにーちゃんはね、もっと違うところから来たみたいだ」
「?どっち?フェイのほう?」
苦笑しながら言うと、子供は興味津々といったように身を乗り出してくる。しかしさらにまた聞き覚えのない地名(?)が出てきた。
「そこでもないかな…なあ、ボクはどこから来たの?」
見たところ親の姿はない。一人でここまで来たのなら、家が近いか迷子の可能性が高いと思った。どちらにしろ昼食時、保護者は心配しているだろう。
「セロはねー、あっち!」
「セロくんていうのか。お母さんが心配してないか?」
出来るだけ優しく尋ねたつもりだ。けれど男の子、セロはとたんしょんぼりと俯いてしまった。
(あ、あれ…?)
「……」
どうしたらいいのか、言葉を失って戸惑っていると、ふわりと甘いにおいが漂ってくる。
たわいない会話で忘れかけていた空腹が蘇ると、セロが再びぱっと笑顔を上げて、彼を見上げてきた。
「ナップ売りだ!おにーちゃん、おなかすいてる?」
「え?う、うん」
「セロがかってあげるね!まってて!」
叱られている最中に逃げる口実が出来た子供の様子によく似ていた。セロは急いでにおいの漂う方向にかけていく。
「ちょ、セロくん!」
慌てて後を追いながら、あんなちいさな子供にも食べ物に困ってそうに見えるのかと虚しくなった。まあ、裸足だしなぁ…。
というか、ナップとはいかなる食べ物なのかという疑問は子供を追いかけてすぐに明らかになった。
荷台に車を付けた形の、簡素な屋台が公園の道途中に止まっていて、セロはそこにいた。
ようやく追いついて覗きこむと、甘い系やおかず系、いろんな具をパンのような生地でくるんだ、クレープともサンドイッチとも言える軽食なのだと察しが付いた。とたん腹がぐうと鳴って、恥ずかしさに顔が赤くなるのが解った。
「でも、おかねあるんだよ!」
「これじゃあね、足りないんだよ」
屋台を引いている親父に、セロが一生懸命訴えかけていた。
ちいさな手には小銭らしき硬貨がたくさんあった。それがどれだけの価値かは解らないが足りないのだろうか。
「あの、すみません」
さすがに大人を相手にするにはまだ気が引けるのだが、意を決して話しかけてみた。
髭を蓄えた恰幅のいいオヤジは、彼に気がつくとわずかにひるんだように身をひく。
「…何だい、あんたは。外国人か。この子の保護者か?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが。これじゃ、足りないんですか?」
「書いてあるだろ?うちのナップはひとつ60カーンからだ」
と、言われても手書きの値札に書かれた数字も知らないものなので、読めるわけがない。とりあえず通過はカーンというらしい。…握り寿司みたいだと思ったらさらに腹が減ってきた。
「セロくん、いくら持ってるんだ?」
「…72カーンしかない…」
「何だ、足りてるじゃないか」
「ひとつなら売るけどな。その子は二個欲しいって言ってるんだ」
オヤジはうさんくさそうに彼のパジャマ姿や裸足の足元、もしくは黒髪を眺めながらそう言う。思わず慌ててしまった。
「セロくん、俺のは要らないよ」
「だめー!買うの、二個買うの!!」
かたくなな様子に苦笑する。どうやってなだめるべきかと思いながら、子供の肩を軽く押さえて問う。
「俺、ナップのこと知らなくてさ。どれがオススメ?」
「んー、セロはいちごー」
いちごはあるのか。苦笑のままオヤジに告げる。
「じゃあ、苺ひとつ下さい」
「あいよ」
「あっ、だめー!二個ー!」
セロが不満そうにばたばた暴れるが、代金が足りないのならしょうがない。せっせと包むオヤジを横目に見ながら子供をおさえるようにした。
「あいよ。60カーンね」
「…どうも」
なぜか手渡されたのは彼で、足元にはとうとうわんわんと泣き出してしまったセロがいた。
うん、解るのだ。子供の頃というのは自分の意志が通らないと物凄く理不尽に感じてたまらないことは。
「セロくん、ほら。二個だよ」
しゃがみ込んで、まだほかほかと湯気の立つナップを二つに割って見せた。そもそも子供のお金で買ったのだから、手で隠して差し出す方をかなり大きく割った。
「…っく。うん…」
セロもかなりお腹が空いていたのか、素直に受け取ってもくりと一口、含む。
「ほら、向こうで座って食べよう。ありがとうね、セロくん」
「うん…」
手を引くと、すんなり素直にちいさな手が握り返してきた。
この子供のおかげで、自分はいま何とか笑えるのだと彼には自覚があった。
一口食べてみた異国の食べ物は、ちゃんと赤くて苺の味がした。噛めば噛むほど、ああ夢オチなんて事はないんだと、現実を突き付けられる気がした。
ふたり少ない食事があっという間に終わると、ベンチに足をぶら下げてセロが訊いてきた。
「おにーちゃんは、くつどうしたの?」
「あー、うん…おうちに忘れて来ちゃった…」
それを冗談だと思ったのか、きゃらきゃらとセロは笑った。子供の屈託のない笑顔は混乱しそうな心中を和ませてくれた。笑わせられて良かったと思った。
「うちねーいっぱいくつあるよー。おにーちゃんもおいでよー…あー…」
両手を振り回しながら楽しそうに語っていたのに、また、ふと思い出したように元気がなくなる。ピンと来るものがあって、顔を覗きこむようにして尋ねた。
「お母さんとか、きょうだいと、ケンカでもしたのかな」
「!?おにいちゃん、なんでわかったの?」
「…おにーちゃんも、よく家出したからね」
昔を振り返ると恥ずかしい思い出ばかりだが。当時は家出という「口実」そのものを重要視していた気がする。
子供はひとりでは生きていけないのだ。実際、もう帰ってこないと宣言してその日の夜には自分の布団にくるまっているという滑稽な「家出」ばかりだった。
もちろんそんなことまで言う気はなくて、セロの頭をぽんと撫でる。
「な、家出なんてつまんないだろ?」
「…うん…」
こくりと前に傾いた子供の頭が、ふらりと彼の腕にもたれてきた。
「暗くなる前に帰ろう。途中まで送ってあげるから」
名残惜しそうに頷く子供を、彼の方こそ別れがたく思っているのに違いなかった。
またひとりになる。
「おにいちゃん、もういいよ」
「ん?家の前まで送るよ?」
セロはかたくなにんーん、と首を振った。何か理由があるのだと、幼心に察しを付けてじゃあ、バイバイなと手を振った。セロは同じく手を振りながら、お兄ちゃん、と呼びかけてくる。
「お名前は?セロは、セロ。ごさいだよ」
「あー、うん。俺はね、早川朝( っていうんだ。とき。16歳」
予想通り、率直な子供からは変ななまえーと言われてしまい、思わず苦笑が漏れた。
「じゃあ、またねー、んっと、トキ、おにいちゃん!」
「ああ、気をつけてなー」
ちいさな背中が曲がり角を曲がるまで、振り返っては手を振るので、それを最後まで見守って、彼は視線を微かに下げた。
日が傾いて、影の形も傾いていた。気温だけじゃない、まわりの温度が本当に下がった気がした。
(おにいちゃん…か)
ひとりになっても、今度はしゃがみ込むことなく歩き出した。
この日、突如として何の説明もなく放り出され、パジャマと裸足で視界も悪い、普通の高校生、早川朝。
彼の行うべき目下の課題は、衣食住の確保だった。
(2006.5.6)