物陰に潜む、息を殺した4名の人影がひそひそと囁いていた。
 その八つの視線の先にあるのは同様に、奇っ怪な服装と、裸足で歩む10代半ばの少年。
「どう思うかね?」
「最低。こんなにぼんくら臭がするとは思わなかった」
ねえの評価はズンドコね。ミーはどうね」
「…えっと、あの、やさしそうなひと…」
「うんうんそうね。その肯定的な意見は貴重だね」
「そういうあなたはどう思いましたか」
「おれかね。おれはねえ。面白いと思うね」
「おもしろい、ですか」
 三者三様の反応を見て、一人保護者のように年長者の人影は、くすりと口元に笑みを上らせた。
「確かにおもしろい」
 彼は一体、これからどんな変化と展開をもたらしてくれるのか。
「みんなは甘すぎる」
 しかしそのうちの一人は、それぞれの評価に納得のいかない様子で憮然としていた。
 





2 泥棒






 今までの人生の中で、これだけ食べ物のことばかりを考える時間があっただろうか。
 ときは結局、あのあと公園に戻り夜風のしのげそうな東屋を見つけて横になった。
 案の定、石のベンチと間断なく襲いかかる空腹。なによりも突然の事態に対する混乱と不安で眠れそうな状況ではなかったが、一日の疲れと、考えることを放棄した脳は、次第に彼を眠りへと誘った。
 人間の身体って図太くできてる。朝は皮肉めいた思いでそう思う。
 けれどやはり、布団もなく転がっていたので、寒さでまだ夜が完全に明ける間際に目が醒め、寝不足気味の頭で眼鏡を探す。
「……」
 深い深い溜息と共に肩を落とす。あるわけがなかった。
 そしてやはり、夢オチでも何でもないらしい。
 彼の眼前に広がるのは、少女漫画にでも出てきそうな、立派な造形の庭園だった。
 昼の様子からすれば普通に一般の人が利用して良いのだろうが、テーマパークのような凝った作りに、もしかして国立公園とかかと思う。
 ぐぐぐぅー…
「……」
 朝っぱらから腹が鳴いた。結局昨日目覚めてから口にしたのはナップという菓子を3分の1ほどだけで、今まで自分がどれだけ恵まれた環境にいたのかを思い知らされる。
 3食の食事はいつも時間になれば母親が用意してくれた。出来たわよーと呼ばれる声にリビングに行けば良いだけで。
 時に皿を並べたり片付けたり手伝ったこともあるが、微々たるものだ。
 味噌汁の具に文句を言っていた自分を殴ってやりたい。
 それに、小腹が空けば何でも揃っていた。棚を漁れば買い置きの菓子やパンがあり、無ければお小遣いで買いに行けば10分で済むのだ。
(…そのお小遣いも親の稼いだ金なんだよ)
 朝は未成年だった。その立場に甘えきっている状態で、その現状が当たり前に享受されるものだと信じていたのだ。
 でも、可能性を考えることを、しただろうかと思うのだ。
 (縁起でもないが)突然、母親が倒れたら?父親の勤める会社が倒産したら?
 そうだ、自分はもっともっと、しっかりするべきではなかったのか。
 遅いのだ、今更、何もかも遅いのだった。
 今こうして、食べるものがないとひもじく思うよりも、胸にこみ上げてくるのは寂寥感だった。
 俺はどうしようもないぐうたらな息子で、あの人達はどう思うだろう。今心配してくれてるんじゃないのか。少しは良い息子であっただろうか。いつか笑顔で、思い出してくれるのか。それとも、いつか忘れられてしまうのだろうか。
 たまらなかった。


 帰りたい。
 自分をここへ連れてきた、誰だか分からない相手に叫びたかった。
 俺に何をさせたいのか。出来ることなら何でもやる。なんでもやるから。



 帰してくれ。帰してくれ。俺を、俺のいたところに帰してくれ。

  





「……」
 こんなおしゃれな公園に、日が昇ってからはさすがにいられないと朝は思い、場所を移動することにした。
 銀の蛇口を見つけ、扱い方に苦心しながら水を出して、顔を洗わせて貰う。少し躊躇ってから頭から水を被る。
 すっきりしたところで口もすすぎ、カルキくさくない清涼感溢れる匂いに安心して喉を潤した。
 閉め方にもまた苦戦して、朝はぽたぽた雫の滴る前髪を絞りながら一夜を過ごした公園をあとにした。
 朝は、無一文である。
 このままでは冗談抜きに飢え死にか衰弱死が待っていた。意外と病死かも知れない。実際丸一日以上ほとんど何も食べてないのは生まれて初めてのことだった。日本は飽食文化を謳歌しているのだ。
(もしかして俺、駅のホームレスさんみたいな事になるのかな)
 苦笑が浮かんだ。
 空腹感は頂点を通過して、今や胃の痛みを訴えるほどで、下手なものを口にすればお腹を壊す危険性もあった。
 日本人は、胃腸が弱い。
 一昔前の歌のタイトルを思い描いて、項垂れた。実際朝も胃は強くなかった。
 もし自分が、スポーツ抜群の鋼の肉体を持つ健康体。だったら話は違ったのではないかとか、また栓もないことに思いを巡らせてしまう。
 どうして俺なのだろう。
 部活もやっていない、帰宅部の、視力も悪くて成績も悪くはないが良いとも言えない。
 女の子にもてたためしもない。つまり外見も中身もぱっとしたところはないのだ。
 通知票には必ず「物事に真剣に取り組みましょう」と書かれ、ほぼ3の数字しかない。2と4がひとつずつあるくらい。
 将来の夢も特になかった。ぼーっとしていて、何を考えているのかわからないと良く言われた。友達は(朝が一方的に思ってただけかはさておいて)5人もいない。
 どうして俺なのだろう。
 朝は、まともに働かない頭で、繰り返し疑問を巡らせていた。
 やがて、これは本当に死ぬかもな、と思った。
 朝が巻き込まれているこの事態は、明らかに普通ではないのに、この世界は朝を置き去りにして、つまりあまりにも普通に流れているからだ。
 ここで諦めて死んでしまうのが嫌で、何かの可能性(つまり自分が何をすれば良いのか)を掴むためには働かないといけない。
(職安とかあるんだろうか。ここ…)
 ちょっと、途方に暮れる。交番みたいなところに行って、実は自分は昨日突然ここに放り出されたみたいなんですが、全く別の世界(?)の人間ですなどと説明しても、この様子だと不審者扱いされると思った。
 朝のような黒髪は珍しいらしいが、この世界のべつの国にこういった人種がいるらしい。つまりいいとこ不法滞在者扱いだろう。どっちにしろ捕まる。パスポート持ってないし。
 そもそも朝がそう思う最大のネックは、彼らの操る言葉と朝の喋っている日本語、、、が、なぜか通じるかということにあるのだが。まさか日本語圏じゃあるまいし。
 職業安定所(の様なところがあったとして)戸籍も本籍もない、身分証明も後ろ盾もない朝は、どうすればいいのだろう。
(…いっそ…)
 とぼとぼ歩いていると、漂ってくる焼きたてのパンのにおい。顔を上げると小振りで赤い屋根の、可愛らしいパン屋さんがあった。(もちろん看板は読めないがおそらくパン屋だろう)
 窃盗。いくらお腹が空いたからって、それは許されざる犯罪だった。今度こそ逃れようもない。
(……第一そんな度胸もないしな)
 朝は口元を引きつらせて自嘲した。極限まで追いつめられないと分からないが、平常の彼は捕まるくらいなら黙って餓死を選ぶ少年なのだ。
 高水準の治安を誇る司法国家に生まれ育ったため、やはり罪の意識への抵抗も人一倍強いのだ。
 だが、その目の前で。
「キャアアア!泥棒ーっっ!!」
「え!?まだ何もしてないですよ!?」
 朝の新鮮な空気をつんざくおばさんの悲鳴に驚いて、朝はぶんぶん首を振ってしまった。
 その目の前を、薄汚れた服装で帽子を被った小柄な影が走り抜けていく。
「え?うわ!!」
「誰か!誰かアイツを捕まえて!!うちのパンを盗ってったんだよ!!」
「あああわわわ…ははははいっ!!」
 朝のまわりにも何人か人はいたが、自分が一番近かったので返事をしてしまい、逃げた方に駆け出す。
 しかし相手はおそらく街の地理も熟知した泥棒、かたやこちらは来たばかりで運動不足、さらに昨日から空腹続きと、その足に開きが出るのは当たり前だった。
「はあ…はあっ…見失った…ぐ!」
 いきなり走ったので、気持ちが悪くなって前屈みになる。しかしその先に、誰かの足先が見えた。
「お前、見ない顔だなぁ」
「……君は…」
 それは先ほどの、パン泥棒だった。思ったよりずっと若い少年で、朝よりも年下かも知れなかった。小脇に抱えたちいさな紙袋をゆらす。その中にきっとパンが入っている。
「ありきたりのことを言うと思うけど…盗みは、良くない。あのパン屋さんに返してくれ」
 泥棒との対面に、息も切れたままだしかなり緊張した声が出た。
 それをどう受け取ったのか少年はばかにしたように笑う。
「お前あのパン屋と何の関係があんの?何も無さそーだな」
「そりゃそうだけど・・・盗みは悪いことだろ?そりゃ、食べ物無いとしんじまうけど」
 実際、自分もプチ遭難状況だから良く分かる。
 少年のぼろぼろの服の状態を見ていたら、きっと生活が苦しいのだろうと想像も付く。だが。
「いいじゃねえか。あのパン屋。売れ残りはその日の夜にゴミ箱行きなんだぜ?かなりの量になる。それを出来たてのうちに少し、貰っただけだ。実際の売り上げの何分の一にもならねえよ」
「……家族が、多いのか」
「ああ、多いね。あの店のおばさんの3分の1も身体がないような、ガリガリのチビだらけだ。なあ、見逃せよ。今回だけで良いからさ」
 なぜ、この子が足を止めて、朝に話を持ちかけてきたのか、分からない。分からないけれど。
 彼は、盗みを正当化したがっているのだ。誰かに、許して貰うことで。
 つまりそれは。
「……じゃあ、もう一度、話に行こう」
「!?」
 望む台詞とは違う事を言う朝に、少年は怪訝な表情を浮かべた。
「お願いを、しに行こう。その日捨てる前に、パンを分けてくださいって。焼きたてじゃなくても、きっとみんな喜んでくれる。その方が、君が辛くない方が」
「う、うるせえな!ゴミを漁れってのか!?」
「…ち、ちがう。そうじゃない。一方的に盗るのは犯罪だけど、それなら」
「だまれだまれ!」
 少年が、顔を真っ赤にさせて吠えた。
 朝は焦ってちゃんと説得しようとする。うまく言えないのがもどかしい。
 何かいけなかったんだろうか。彼を傷付けてしまったのか。
 胸中の動揺から、顔に熱が集まっててのひらが汗ばむのが分かった。声が、喉に絡む。
「だから…」
「黙れよ!変なカッコーの外国人が!裸足でフラフラしてっくせに金持ちクサイせっきょータレんな!」
「!!」
 叫ばれて、朝のなにかにずぐんと突き刺さる。それは、鋭利な言葉の刃。
 変な格好の、裸足の外国人。金持ちくさい、説教。
 確かに今は一人放り出されて空腹だが、昨日まで朝は屋根のある家で衣食住の心配などしたことがなかったのだ。
 戦争もなく、とにかく命は尊ばれ守られる国に、生まれて育ったから。
 だから目の前の、ぼろぼろでやせ細った、生きることにただ必死の少年に、かけた自分の台詞が、どれだけ陳腐なものかを突きつけられた気がしたのだ。
 朝は、朝の常識とか、観念とかを、他国の、切羽詰まった少年に押しつけたのだ。
「…あ…」
「じゃあな、もう邪魔すんなよ!」
 そして彼は、言葉を失った朝にもう関心はないといった様子できびすを返し、突き当たりと思われた金網をひょいひょいと登り、その先へ駆けていった。
 茫然と立ちつくしてそれを見送っていると、背後に突然、数人の急ぐ足音がして、止まる。思わずすくみ上がって、だが振り向くと、
「パン泥棒はどこだ!」
 群青色の制服と帽子を被った中年男性が3名、怖い形相で朝を睨み付けていた。
「いや…えっと」
 思わず後ずさる。だが彼らはその3倍は詰め寄る。一番手前のオッサンが一番恰幅が良くて髭面で鼻がでかくて怖かった。日本人はとにかく髭が怖い。
「こっちから話し声が聞こえたと思ったがな。お前、共謀者か?見ない顔だな!」
「す、すみません違います」
 とにかく悪くないのに謝ってしまう。怖い。
「じゃあパン泥棒がどこへ逃げたか見ただろう!ぼろ切れみたいな格好の薄汚れたクズガキだ。どこへ逃げた?」
 朝は反射的に、目を見開いて答えていた。髭面のオッサン(たぶん警察か何かか)を一瞬だけ真っ向から見ていた。
「あっちです」
 朝はオッサン達が来た方向の、先を指さした。
「嘘をつけゴラァ!」
 ハイ嘘ですごめんなさい。当然口には出さないが、恫喝されて朝はたまらず俯く。
「俺たちはなあ、この角を曲がるのを見てここまで来たんだよあーん?公僕舐めてっとイタイ目みんぞクソガキよお」
 そりゃあ嘘だとばれて仕方がなかった。っていうかさっきの少年といい何でこうも口が悪いんだ?お国柄か?
「…でも本当に、見てないんです」
 正しいのは、正直に言うことだと知っていた。盗みは犯罪、ここでも変わりない。
 けれど今の朝は、「正しいこと」より「したいと思うこと」を取ったのだ。
 前後の行動は矛盾している。けれどあの少年に、捕まって欲しいとは思わなかった。
「よーしわかった。じゃあお前を連行する」
「え、なん…っ!?」
 疑問を口に上らせる間もなく手に持っている短棒でぶん殴られた。たまらずに膝を折ると、腹に足先を入れられてもんどり打つ。
「…っ」
「何だ、もうのびちまいやがった。だらしねえやつだ」
 髭面の男が地面にうずくまる朝の足を掴む。このまま引きずっていくつもりだ。
「あー、3番街C地点より。不審者を発見。抵抗したため実力行使にて制圧。今より連行する」
「りょうかーい」
 少しふざけた口調に、後ろの二人が含み笑いを籠めて返した。
「ん?」
 しかしその行く手をさえぎる者がいた。
 無駄に身体の大きい三人組に対しては、あまりにも頼りない華奢な人影。
「嬢ちゃん達道に迷ったなら中央区のナビゲーターに訊いちゃくれねえかね。おじさん達は見ての通り、お仕事中でよ」
「困るわ」
 言葉をろくに聞きもせずさえぎったのは、二人立ちはだかるうち髪の長い方だった。
 凛、とした声が、何かの呪文のようにあたりを静まらせる。少女、は繰り返した。
「その少年を連行されては困る。引き取るので置いて行きなさい」
 それは上からものを言う、歴とした命令だった。威厳さえも漂わせる声音に、中年男達は一瞬、呆気にとられた間抜け面を晒す。
「だがこのガキは窃盗犯の手引きをした疑いがある。格好も怪しい。不法入国者かもしれん。だから連行して調べると言うんだ」
「そんなことはどうでも良いからあなたちは少年を置いて立ち去りなさい」
 しっかりと、道理の通った言葉で説明したのだが、きっぱりと遮断される。
 やはり命令だ。譲る様子など微塵もない。
 男達は弱り切った表情でお互いの顔を見合わせ、そしてにやりと顔を歪めた。
「じゃあ、しょうがないなあ?お嬢ちゃんらも来な。礼儀ってヤツをたっぷり教えてやるよぉ」
 ずいと、太い腕が少女の細い肩に伸びる。キッ、と睨み返してくる瞳。その唇が短く。
「ガーテ」
 紡ぐ。
 とたん、絶叫を上げて痛みにもだえうつのは屈強な体格の男の方だった。
「触るな」
 眉間に皺まで寄せて、少女は嫌悪の表情を隠しもしない。虫けらを見るような目つきで足元の男を一瞥し、声を失う髭男と骨っぽい体格の、残った二人に目を向ける。
「き、貴様呪術を…!」
「公務執行妨害及び呪術違法使用法で連行する!現行犯で逮捕だ逮捕!」
 唾を飛ばしてまくし立てる大人二人に、ふっと笑いを漏らして答えたのは今まで黙っていた髪の短い方だった。
「公務ねえ。無抵抗の少年をいきなり殴って無理矢理連れて行くのが公務かね。この、権力のカスがね」
 くすくすと笑う髪の短い方の少年は、いっそ楽しそうに笑っていた。他ならない、嘲笑だった。
「こ…この、ガキどもがああ!!!」
 激昂した男が身体ごと、短棒を振りかざして襲いかかってくる。
「姉は、後ろね」
 ついと少女を押して、少年が前に出る。
 少年はその場で二回、短く屈伸してみせる余裕すら見せ、そして飛んだ。
 ふっと、男は彼が目の前から消えたような錯覚に戸惑う。しかし違う、彼は上。男のさらに頭上にいる。
「ぐげっ!!」
 そこで彼は回転していた。足裏が正確に男の首裏を捉え、体重差を感じさせず、豪快に引き倒す。
 すたんという着地音と、ずだんという男の倒れる音が重なる。最後に残った骨っぽい体格の男は、いきなり降りかかった事態に言葉を失っていた。
 ただいつも通り、業務の最中、適当に浮浪者や不審者を見繕っていびり倒す退屈しのぎ。それをやろうとした矢先に。
 だから、根は小心者の彼は完全に我を失った。ただ自分はあんな目に遭いたくないという思いが高まる。だから、放置され気絶したままの少年に手を伸ばす。
「…く、来るな!来るとコイツを…!」
「どうしますか」
 声が、背後からした。
 忽然と現れたとしか思えない人物の出現に、姿は見えない相手に、心の底から恐怖で震えた。
 わけが分からない、説明できない。説明できないだけに、おぞましいまでの威圧感。
「うわ、うわ、うわあああああああ!??」
 なりふり構わず悲鳴を上げ、男は倒れる二人を放って走っていった。
 横目に見やり、肩をすくめた少年が第三の人物に問いかける。
「逃がして良かったかね」
「構わないでしょう。ここの警組けいそに私の知り合いがいます。処分は任せましょう」
「…おわった…?」
 物陰からひょこんと顔を覗かせた第四者が、ぽてぽてと三名に駆け寄る。
「よしよし、言いつけ通り大人しくしてたね、ミー」
「うん、見てたよ。こわかった…」
 俯く第四者の小さな頭を、少年が鷹揚に撫でてやる様は仲の良い兄妹そのものだった。
 そして、少年少女は視線を向ける。
 中年男達と同様、気絶して目を固く閉ざす、中央の少年に。
「長かったね」
「うん、まった」
「私はまだ納得しない」
 めいめい、心の内を述べ。
 一人、保護者のように年長者が、朝の額に白い手で触れて、微笑んだ。
「でもやはり、おもしろい」
「…う」
「起きたかね」
 朝のうめき声にいち早く気付いた少年が、近くまで寄って自らもしゃがみ込む。それにミーと呼ばれた子も付いてきて、朝は囲まれ覗きこまれるようになった。
 ので。
「…っってー…って、うわあ!?」
 起きて早々知らない顔に囲まれて仰天した。
 そしてすぐ、ずきずきと痛む側頭部と腹部に顔を顰める。
「っつ!」
「だいじょうぶ?」
 訊いてきたのは明るくオレンジがかった黄色の髪を持つちいさな女の子だった。黄色い大きな瞳がおずおずと見てくる。
「まああれは情けないやられっぷりではあったね。見事な打たれ弱さ。耐久力無さ過ぎね」
 必要以上に罵られた。
 さらっと初対面の人間をこき下ろしてくれたのは中学生ぐらいに見える、金髪碧眼のえらい美少年だった。ちょっと女の子かと思った。でも仕草とかを見る限り男の子らしい。
 そしてその言葉で、朝はあの、塗り壁中年男3人組に尋問された際、いきなり暴行を受けて気を失っていたのだと知る。
「…君たちは…」
「はじめまして。私たちは、君を迎えに来た者です」
 後ろを振り向いて驚いた。今までその存在に気づけなかったのだが、もう一人いたらしい。
 そのひとは一人年かさで、30代後半から40代といった頃の、お母さん世代の婦人だった。びっくりした。銀髪の持ち主だった。
 上品な物腰と柔らかい微笑みを浮かべたその人が、戸惑う朝にこう続ける。
「私たちは君と共にあり、守り、鍛え、学ばせる義務があります。しかし決定は君の意志に委ねたい。返答は?」
 呆けた思考で居続けることを許さない、早急で真摯な、これ以上なく的確な問い。
 朝はこういった言葉を待ち望んでいたかも知れない。けれど即答は出来なかった。訊くことがあった。
「…俺の義務は?」
「…魔王をたおし、世界の破滅を防ぎなさい。それがあなたの義務。ここにいる存在理由」
 朝は、腹を抱えて笑い出したい衝動に駆られた。もちろんそんなことはしない。
 だが。
 魔王をたおす?
 世界の破滅を防ぐ??
 どこの勇者に言ってるんだ?どこの英雄を見てるんだよあんた達。
 っていうか俺を呼んだやつ。召喚師?そんなのいるのかこの世界。知らない。
 どうして俺が選ばれた。
「俺が義務を果たさなければどうなります」
「世界は滅ぶ。そして私たちも義務は果たさない。だからあなたは七日以内に干涸らびて死ぬでしょう」
 表面上冷静さを保つ(ただ脳内が真っ白でまともな反応も出来なかっただけだ)朝の問いに答えたのは、まるで預言者だった。
「もしくは無理矢理にでもあなたを英雄に仕立て上げる手もある」
「…そうしてくれた方が気は楽か」
「それがあなたの答えですか?」
 始終、丁寧で柔らかだった雰囲気が硬化する。
 朝は、ようやく、我に返った。最悪のタイミングで。
 本物の恐怖を知った。朝は以来、死ぬまで一番怖いのはあのひとだと明言し続けることになる。
「…ごめんなさい」
 ようやくそれとだけ言った。心境的には部屋の隅っこで頭を抱えて小さくなっていたい。
 婦人も、朝がいきなりガタガタ震えだした様子に息を吐く。また、柔らかな人格が露わになる。もともとはそういうひとなのだと思う。
「…私たちも、あなたの心境状態は計り知れない。混乱しているとも、思います。非情だと、罵られても。あなたが、必要です」
「………朝、です。俺」
「トキ。私はシクです」
 柔らかく微笑むこの人は、どうしても悪いひとには見えなかった。
「おれ、キニスンね」
「…ミーシャ、です」
 今まで黙ってやりとりを見守っていた二人も名乗る。
 キニスン、ミーシャ。そしてシク。3人の顔を見て、よし、覚えた。頷く。
「選んでください。迷いながらでも、少しの差から出した答えでも、あなた自身の答えが聞きたい」
「……俺の望みは、帰りたい」
 正直な言葉が漏れた。その事にほっとして、表情が動かないシクの瞳を見据える。綺麗な、薄緑。
「それが叶わないなら、俺に出来ることをしたい。連れて行ってください」
 世界を救うなんて、あり得ない。人違いか何かだと、今でも思っている。
 けれど俺が必要だと言う。この人達の気が済むなら、何でも良いと思った。今はそれで。
 この世界に来た、意味があるのならそれこそ。 



 朝はすぐ、この判断を後悔することになるのだが。
 そして遠くでこの様子を見ていた金髪美少女の名前も、まだ彼の知るところに至らない。






  

 

 

(2006.5.24)

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