12 相席

 






 アニエスが倒れた。



「え、え!?アニエスどうしたんだ…?」
 本当に突然、ふらっと立ちくらみを起こしたようにしゃがみ込んでしまった。
 ときはすっかりうろたえて、助け起こしたいのに触るといやがるんじゃないかとおろおろとするしかできない。
「…い…っておいて…」
 両腕に伏せた顔面は蒼白で、汗がにじんでとても具合が悪そうだった。まともな言葉になっていないけれど漏れた声が拒絶だとわかっていて、けれど。
「何言ってるんだ、ばか!」
 朝は不意に、感情にまかせて叱咤していた。
 びくりとアニエスの肩が震える。それを見なかったことにして、そうっと腕を取って、肩にかけた。
 同年代の女の子を抱えたことも支えたこともなかったけれど、驚くくらいアニエスの体は頼りなかった。
 むしょうに、腹立たしさが起こってしまった。自分でも不可解なくらい。今までアニエスにはひどく嫌われていると思っていたからずっと遠慮していたけど。
 それとこれとは話が別だった。まだ小学生だった妹とのやりとりを思い出して、朝の気は尚更はやっていった。


 家族で久しぶりに動物園に行くと決まって、前日からはしゃぎまくっていた妹は結局その日熱を出した。
 仕方がないね、また行こうねとなだめて看病する両親の前で、当然妹は大泣きした。
 行く、絶対行く!風邪なんて治るもん、動物園に行くったら行くのー!
 妹のかんしゃくも、どれだけ喚こうが今日は中止なのだということも、理解できる当時の朝は、それでもやはり憮然としていた。
 両親は共働きで、なかなか休みが合わないのに、せっかくの家族そろっての外出。楽しみにしていたのは妹だけではない。朝だって泣きたい。
(…熱なんか出しやがって、バカゆう
 ぶん殴って黙らせたかった。妹はいつだって感情のままに甘えて振るまい、変なところで妥協も知っているから、両親を筆頭に愛情を受けやすい子だった。手のかかる子ほど可愛い、とでも言うのか。
 朝は一方、わがままの言い方が、使いどころがよくわからなくなり、そのまま大きくなってしまったので、意見をもてあまし諦観のまとわりつく卑屈な少年に育っていった。
 お兄ちゃんだから、ちゃんとしてね、しっかりしてね。お兄ちゃんがいてくれて、お母さん本当にうれしい。
 ああ、子供の頃からの言葉って、呪術に近いんじゃないか。日本は言霊の国って本当かも。
 病床の妹は、真っ赤な顔で泣き疲れて寝込んでいた。
 両親が少し離れている隙に、間抜けな寝顔をさらすほっぺをつねってやろうかと思ったけれど、
「…かぜじゃないもん…げんきだもん…」
「……バカ夕。寝てろよ」
 朝の姿を認めると、ぼんやりとした眼で言い訳めいたことを言う。その弱々しさに、すっかり気持ちがそがれてしまった。
 ああ俺、あにきなんだなあと嫌々思い知らされた。
「……おにいちゃん、ごめんなさいぃ〜…」
 ぐしゃっと顔をゆがめて、それ以上はきっと目が痛いだろうにまた泣く。妹はちゃんと、自分の咎も知っていた。いや、違う。
「悪くないよ、夕はなにも、悪くないから、寝な?」
 妹の、と言うか病人の卑怯さを子供ながらに思い知る。あれだけとげとげしかった心が、すっかり丸くなって優しくしてあげなくちゃという気持ちにすり替わっていた。
 頭をぽんぽんとしてやると、妹はしゃくり上げながらうんと頷く。普段はちっとも可愛くないのに、こういうときはどんなものよりも妹が可愛くて、守らなきゃなあと思うのだ。


アニエスが、こんなに辛そうにしているのに頼る手がないことに憤りを覚えた。
 いやもしかしたら、朝がそばにいるから弱音も吐けなかったかもしれないけど、この際どうでもいい。
 アニエスはつんとしていて、鋭利な刃物のような毒舌を吐いて朝を萎縮させる。そのいつもの姿を望むわけではないが、こんなうずくまって苦しそうな状態よりよほどいい。
 守らなければ。キニスンのたった一人の姉を。ときどき思慮深そうに瞳を伏せる、この少女を自分が守らなければ。
 朝は出来るだけ負担にならないよう、アニエスを支えながら天球屋へ急いだ。
 ああもうっ、女の子一人抱え上げる腕力があれば、と少し非力さに歯がみしながら。


 宿に戻るとまず、店主の視線とかとかち合った。眉がひそめられる、その表情。
「…すみません、迎えに行って会えたんですが具合を悪くして、一度宿につれて戻りたいんですが」
「姉」
 キニスンが、少しだけ目を瞠り、けれど取り乱しはせずに駆け寄ってくる。
「あほっ、とっとと行ったらええちゃね。それだけいいに来たんか、だぁほっっ」
「すみません、また出直します」
 唾を飛ばして責め立てられたが、朝は全くひるむことなく頭を下げ、同じく駆け寄ってきたミーシャと四人で店を出た。
 愛想は良くないが、店主なりの気遣いを受け止められぬほど愚鈍ではない。背を向けた朝に、
「トキ、ちゃんとまたいよ」
 声がかかって、小さく笑みを浮かべながら肩越しに頷き返した。
 クワイラの話も、ちゃんと伝えていない。そうでなくとも情報が足りない。どうあってもまたこの店主に話を聞きに来ることになるだろう。
「トキ、代わるね」
「あ、ああ、うん。ごめん」
 キニスンが、もうほとんど意識がないらしいアニエスを代わって抱え上げてくれた。
 わかっていたとはいえ自分より身長のある姉を軽々と抱え上げる小柄な美少年の図は圧巻だ。そしてちょっぴり朝は傷つく自分を自覚する。
(ミーシャもきっと軽々なんだろうな)
 内心自嘲気味にミーシャを見やると、いつもはにかみ気味で表情の動きの少ない子が、心配そうに見上げてきていて首をかしげた。
「どうした、ミーシャ?」
 ゆるゆると首を振られる。困って、話題を変えてみることにする。
「アニエス、体どっか悪いのかな」
「そんなこともないがね、緊張すると体をこわしやすいことはあるね」
 答えたのは少し前を行くキニスンだった。そうか、遠く歩いてきて知らない街に来て疲れてたのかもしれない。
 自分がみんなより丈夫だと思ったことはなかったが、内面的なところはアニエスが一番繊細かもしれない。
 医者に診せることもない。ゆっくり休んでいれば大丈夫と、身内の言葉を信用して、宿に戻って今日は休むことにした。
 道中出店の軽食を包んでもらって宿で遅い昼食にする。(買ってる余裕があるのか、と朝なんかははらはらしたが)
 ミーシャに服をゆるめてもらい、布団に寝かしつけると顔色は悪いままだがアニエスが苦しそうにしていることはなくなった。
「ごめんねトキ」
 部屋にしつらえられたテーブルセットに座って、ポテトサラダみたいな料理をさじで潰しながら、突然キニスンが謝罪してきた。
 悪いことを認めながらもまっすぐに言えない、小さな子供みたいだなあと思いながら、何のことかわからずに目を瞠る。
「おれの所為だね、トキの帰りが遅れたのも、姉が倒れてしまったのも」
「意味がわからない」
 あんまり反省の空気が伺えない淡々とした言葉に、朝は思ったままを口にしてさらなる説明を促す。
「トキと姉を仲良くさせようかと思ってね、ふたりきりにさせようと考えたね」
「だからついていくのをやめたの」
 目が、点になった。
 やっぱり悪いとはあんまり思っていない様子のキニスンに対して、ミーシャの落胆ぶりが顕著だった。今にも消えてしまいそうにうつむいている。
「だからごめんね。おれはトキを守るべき立場にあるし一緒に行くべきだった。姉が探しに行く段階になってどちらかついていくべきだった。一人はいけないとジョーにも言われていたのにね」
「な、なんで、そんなこと思いついちゃったんだ?」
 確かに朝とアニエスの仲は良いとは言えず、けれどもアニエスは朝に限ってのあの態度ではないし、自分自身少しずつこのやりとりにも慣れてきたところだったし。それもどうかと思うが。
 そういえば出発する前二人が訳ありげに内緒話をしていたり、意味深な目配せをしてきていたのを思い出す。こう言うことだったのか。
 朝の疑問に、相変わらず悪びれも恥じらいも、ましてや遠慮という言葉もなくキニスンが告げる。
「だって、アニエスはトキが好きだから」
 ………………はっ?
 今度こそ全身を硬直させて、朝の思考は停止した。
「キイ」
 めずらしく、いつも仲良しのふたりであるのにミーシャがとがめるように彼の名を呼ぶ。
「そういうこと、キイが言っちゃだめ」
「だってそうだものね。まあ正確には、絶対姉はトキを好きになるからね。トキにも姉を好きになってほしかった」
 考え過ぎかもしれない。朝が一瞬思ってしまった好き、とは意味合いが異なるかもしれないが。どの好きにしてもそのベクトルがアニエスから自分に向くとは、どれだけ時間が経ってもかなり困難なように思われた。
 少しずつ自分を取り戻した朝は、勝手にシミュレートしてくれちゃったふたりに待ったの手を挙げる。
「あの、キニスン、くん?できればおにいさんに、どうしてそんな考えに至ったのか教えてくれ、わかりやすく」
「おれがトキを好きだから」
 わーお、簡潔かつ尚更意味わからなくなった。
 ていうか美少年に好きと言われてもちろん悪い気はしないが(単純な好意だとわかっているし)、まあそうなんだろうなと当然のように動揺していない自分の心境もどうなのか。
「おれが好きなものは姉も好き。なぜか昔から同じものを好きになって同じものを嫌いになる」
「…よく似てるもんな」
「うん、百人が百人そう言う」
「わたしもトキさん、すき」
「あ、ありがとうミーシャ」
 少し恥じらって告げられて、さすがに頬が赤くなるのを感じると、なんかキニスンの機嫌が悪化した。
「…俺も、二人とも好きだよ」
 がらじゃない、というか。こんなこと口に出して言うことでもないのだが、場に流されてためらいつつ言ってみるとぱっとキニスンの表情が輝いた。ぶんぶん揺れる犬のしっぽが見えるようだ。
(っていうかオイ、さっきの不機嫌はミーシャへの嫉妬か、俺への嫉妬か!?どっちもか!?)
 頭を抱えたくなる、わがままな美少年だ。
「姉は!?姉のことは好き?」
「だからキイがそんなこと訊いちゃだめ」
 ミーシャの女の子らしいつっこみに、朝は正直な話困り果てながらも言葉にすることにした。当人が今意識がないのも幸いしているが。
「好き、だと思うよ?まだなんかちょっと怖いけど、放っておけないし」
「そうかね!」
 自分のことのように、キニスンが満面の笑顔で頷いた。
 ミーシャもなんかにこにこしていていて、話題が一段落してみるととたん、顔に急激に熱が上ってきた。
(一生分の好きを言われた気がする…)
 生まれた国柄もあるだろう。朝の生国ではおおっぴらには表現しない傾向にあった。まあ個人や年頃にもよるだろうけど。
 だいいち、何でこんなにキニスンやミーシャに好かれているのかもわからなかった。うれしいことはうれしいけど、朝もふたりをなんだかんだ可愛い弟妹分のように思っているし(力関係は逆だが)
(俺が、異世界から来た人間だからかな)
 やはりみんなとは違う、物珍しいものだからなつかれるのだろうか。それとも朝を喚び出したという、稀代の呪術師による呪力かなにかが、人を惹きつけていたりするのだろうか。
 あいかわらず卑屈な思いにぼんやり沈みながら、緩慢に夕食のパンをちぎっては口に運ぶ。
「そうだ、そうだった。今晩群青さんと会うんだ」
 食事を終えると間もなく頭にひらめいて、朝は早口にふたりへ告げた。
「ええっと、カラリオが来たんだ。群青さんの青い鳥。アニエスはまだ寝かせておきたいし、どうする?」
 ふたりの意見を求めると、目配せは一瞬で、キニスンがにこりとほほえみをくれた。
「おれが行くね。姉が起きても寂しくないね」
「そっか。うんじゃあ待たせてごめんなミーシャ。頼むね」
「うん」
 朝が頭をなでると、謝罪だったにもかかわらずミーシャはうれしそうに笑う。なぜかキニスンも笑顔になる。
「??もう少ししたら出発しようか」
 朝には不可解な、こういうことがこちらに来てからぽつぽつとある。朝が何かをすると予想外にうれしそうにされる。自分でも理由がわからない。朝だけが理解できずにそれをする。
 理解せずにしているから、喜ばれる、という方が近いのだろうか。
 身支度を整え少し休憩する間、三人でいろいろな話をした。たわいない雑談、離れている間の話、首都のにぎわいについて、気になった建物、朝は主に聞き手に回っていて、自分の事情を話す機会を逸していた。
 いや、あえて話さなかったのかもしれない。
 一人で巻き込まれた騒動。倒れ込んで息絶える男の死体。橙の双眸。サザーロッドリビット。
(出来ればもう二度と会いたくないんだけどな)
 きっと向こうもそう思っていることだろう。
(ああ、でも群青さんに訊いてみたらもしかして話が通じるかもしれない。なんか名前叫ばれてて、有名人っぽかったし)
 いやな方向に有名人っぽくはあったが。
 そこまで思考して、結局心にとどめている自分に苦笑した。さすがに、そう簡単に忘れてしまえるような出来事ではなかった。今でも思い出すと震えが来て、今夜はぐっすり眠れるか自信もない。
「トキ、そろそろ行くかね?」
「ああ、うん」
 意外にも結構時間が経過していた。窓から夕日の赤い光が差し込んできていて、朝の意識を引き戻す。
「じゃあミーシャ、行ってくる。帰りが遅いようなら先に寝ているんだよ」
「おみやげ買ってくるね!」
「いってらっしゃい…気をつけてね」
 代わる代わる頭をなでたり手を振ったりして、見送られふたりは部屋をあとにした。


 
 西通りはどちらかといえば宿屋や飲食店が多く繁華街のような雰囲気で、パン屋は珍しかったので指定の定食屋はすぐにわかった。
 しかしすぐに後悔した。キニスンを連れてくるべきではなかった。
(いや、うん俺も未成年だけど…)
 煌々と明かりがともる、にぎやかな宿屋などはまだいいが賭博場や酒場、ひとつ角をのぞき込めばいかにもな大人な店舗がひしめいていた。
 大通りからはずれているとはいえ、いままで硬派な印象のあった首都も、やはりこういった歓楽街があるのか。都会だしなと朝はうなだれた。
 逆に、女性陣を連れてこなくて良かったと前向きに考えるべきなのか。こんなところを集合場所にする群青さんの非常識を詰るべきか。
 そのどちらをもはかりかねていると、あっさり店の前まで到着した。おおむね、何事もなく。
 実はキニスンのきらっきらした容姿にちらほら好奇の視線やたわいないヤジが飛んできてはいたが。朝ばかり反応して本人はどこ吹く風だ。
「おれは美少年だからねえ」
「さいですか。うんうん、かっこいいしかわいい」
 棒読みで褒めてやると周りの人たちの賛辞や口笛には平然としていた子がにこにこと照れ笑いみたいな顔になる。こっちが照れる。
「よし、行くぞ…おおお落ち着いていこうな、びくついてると逆に怪しまれるからな!」
「おれはいいけどトキが落ち着こうね」
 冷静につっこまれて引きつる顔面をどうにも出来ず、一度深呼吸して西部劇に出てきそうな戸を押してはいる。
 照明の絞られた、落ち着いた雰囲気の店内だった。定食屋という話だったが突き当たり奥では何か楽器の演奏がされており、高級感のないレストランかバーといった方が良さそうだ。
 各テーブルやカウンターではまばらの客が思い思いに食事やお酒、談笑を楽しんでいるようで、ざっと見渡したが群青らしき姿はなかった。あの青い髪を見逃すとは思えない。出入り口で、朝は途方に暮れてしまった。
「とりあえず中に入ろうかね?ここにいては邪魔になると思うね」
「あ、ああうん、そうしよう、か」
 ファミレスやファーストフード店ならともかく夜の居酒屋などに免疫などあるわけがない。すっかり尻込みしていた朝に対してやはりキニスンは平然としていた。
 この世界ではこれが普通なのか、それとも子供ならではの大胆さか、いやキニスンが特殊か。栓のないことを考える。
 それでも子供の二人連れというのは店内でも珍しく人目を引いた。やはり美少年はどこにいても注目の的か。
「トキの黒髪も珍しいね」
「そうか、そう言えばそうだったな」
 暗い色彩はクォでは珍しい。大祭中でいろいろな土地から旅人が多く訪れているであろうにもかかわらず、とりどりの髪が見えるのに朝と同じ色はいなかった。
(今日、ぶつかったあの女の子くらいか)
 思い出して苦笑しているうちに、キニスンが真っ先に端っこの席を確保して座る。
 他の席とも距離を置いた四角いテーブルだ。椅子は四つあった。
「ここでジョーを待とうかねっ」
「うん、それがいいと思うけど…群青さん、何かあったのかな」
 もしかして店を間違えたかなあとそわそわしていると、ウエイトレスらしきお姉さんが近寄ってきた。上品な艶のある美人さんだ。
「いらっしゃい坊やたち。お食事に来たの?お父さんを待ってるの?」
「どちらかといえばおにーさんを待ってるね」
 ぎょっとしてうろたえる朝とは違い、すらすらキニスンが愛想よく答える。ああ俺だめだなあ年上なのにと頭を抱えるのもいつものことだ。
「そうなの、早く来るといいのにね。何か頼む?お酒は出せないけど」
「ライチのピクル」
「俺もそれで…」
 ピクルは主に果物ジュースをさすが、ものによってはミネラルウォーターに香り付けしたようなものもあった。ライチもそんな感じで喉ごしがよい。
「わかったわ。それでね、待っているところ悪いんだけどこの席って指定席なの。相席でもいいかしら」
 少し申し訳なさそうに言われたが、朝はとんでもないと首を振ってすぐに席を立とうとした。それならばこちらが違う席に移動するべきだ。
「いいの、よかったら座っていて。大勢で飲むのが好きな人だから」
 ウエイトレスさんに押しとどめられ、結局席に座り直す。いま店内にはいないようだが、誰かの席を勝手にとってしまって、本当にいいのだろうか。
「ああ言ってるし、いいのじゃないかね。この街の人だったらいろいろ聞けることもあるかもしれないしね」
 予想通りのお言葉が正面から帰ってきた。キニスンは前向きでいいなあ。俺もそういう思考展開になりたい。
「トキはそのまんまでもいいと思うけどね。朝が後ろ向きになる数だけおれが前向き思考していくからね」
 口に出して言うと、なんだか結構恥ずかしいことを眩しい笑顔で言われてしまった。
「そういうわけにも、いかないだろ。俺が、俺自身が変わって行かなくちゃよくはならない」
「そうかね。でも一人には限界がある。出来ないところを他人が補ってくれることも、悪くはないと思うけどね」
「……」
 そうかもしれないけど。
「トキが後ろ向きなことを思うたび、おれが前向きに笑い飛ばすね」
 そしてアニエスの拒絶のたびに、笑顔を浮かべてきたのだろうか。
(そりゃあ、ずっと一緒にいられたら、いいんだろうけど)
 キニスンともアニエスとも、ずっと一緒にはいられないじゃないか。
「よお、坊主ども」
「!!」
 ふいに、テーブルの端に落ちていく視線が、かけられた声とすぐ隣で引かれた椅子の音であがる。
 ごつごつとした厳つい手の甲が真っ先に写った。目を上げて、すぐに瞳がかちあった。
(あかい)
 火のような、陽のような赤ではないけれど、その瞳は赤かった。朝はもちろんそんな色を知らないのだが黄茶に近いログホーンの髪は短く頭の形に添って刈られている。
 白めの膚も、目元に刻まれた皺といい脆弱な印象はなかった。丈の長い外套を脱ぎ、椅子にかける。その下は動きやすそうな旅の衣装だった。
 40代は越えていそうに見える、男は顔面になぜか面白そうな笑みを浮かべてふたりのテーブルにどっかりと腰を下ろした。
「大祭見学か、坊主ら!どっから来た?」
 いきなりフレンドリーな、というかその声の溌剌さに面食らう。息をのまれる威力がある。
 それ以前に朝は、未だに目の合った衝撃から、なぜか身がすくんだように硬直してまともに反応できないでいた。
 キニスンも目を瞬いて、少し飲まれたようだった。けれどすぐにいつも通りの笑顔になる。
「まあ、そんなところかね。オセーネの方から来た!おっちゃんはこの席のひとかね」
「まあな!悪いね邪魔して」
 なんか、頭がぐらぐらする。あんまりしゃべってほしくない気持ちになってきた。
(今日はいろんな特殊な人と会いすぎな気がする…)
 しかもあんまり歓迎されざる出会いばかりのような。
 朝は今まで自分が感覚過敏だと気にしたことはなかった。人と出会うだけで、何らかの印象を抱くようなことはなかった。
 インパクトとか、そういうものとは別だ。
 その人のもつ「存在感」。そう言っていいのかわからないが、そんなものに、これほど引き込まれることなんて、ここに来るまでなかった。
(シクとか、サザーロッドリビットとか、ある意味群青さんとか…このひととか)
 これも一種の、朝に刻まれた能力なのか。アスランの呪力とでも言うべきだろうか。
「どうした、そっちの坊主は具合でも悪いのか」
 話題を振られてはっと顔を上げる。ずいぶんとこわばった顔をしていたようで、とっさに愛想笑いを浮かべて首を振った。
 そこでちょうどピクルが運ばれてきて、男の自分の酒と軽食を注文する。女性は笑顔で応じ、
「お子さんがいたんですねえ、お父さんが来てくれてよかったわね。ごゆっくり」
 とそれぞれに言って去っていった。
 キニスンがあらかじめ、お父さんではなくお兄さんが来ると言っていたのに。冗談だと思われてしまったのか。
「す、すみません。ちょうど人を待っていまして」
「いや、いいんじゃねえか?俺もお前らぐらいのガキがいてもおかしくない年だ」
 萎縮しきる朝に対して彼の反応はけろりとしたものだ。というか、三人とも少しも似たところがないのに血縁と思われるとは。
「待ち合わせ相手は親父か?相席がまずくなきゃこのまま邪魔するが」
「おにーさん。そのひとが来次第だけどね、おっちゃんさえよければそれまでいてくれるとうれしいがね」
 確かに子供ふたりだけではいろいろと悪目立ちしてしまう。群青が来る間大人が一人いるだけでも心強いだろう。幸い気のいい男のようだ。
「そうか、じゃあそれまで親父でいてやるよ。お前らメシは!ちゃんと食ったか?」
 言うなり本当に父親化する男に、なぜこんなにがちがちに緊張していたのかわからなくなるほど体中から力が抜けて、小さな笑いがこみ上げた。
「腹はすいてないけど、まだです」
「じゃあ俺のつまみでも食うか。オッ、ちょうど来たな」
 運ばれてきた数品の軽食が卓上に並ぶ。おつまみにもおやつにもなりそうな品々は色とりどりで見栄えもする。パーティーみたいだ。
「じゃっ、闘威大祭に乾杯!」
「相席に乾杯!」
「ぶっ…乾杯!」
 キニスンの合いの手に軽く吹き出しつつ、木製の杯をがこがこ打ち付け合う。
 酒を一気にあおって、くーっとうなりを上げる様は本当に一般のお父さんを彷彿とさせた。
「おっちゃんも大祭見学?実は参加者かね?あ、おれはキニスンね」
「トキです」
 キニスンが先に名乗ってしまったので、そのままの流れに従って朝も名乗った。名字はやはり耳慣れない日本名だと変に怪しまれてはと思い、朝なりに気を遣って名乗らずにおいた。
「おう、冷やかしの見学者だよ。参加はなあ、さすがに気が引けるからな」
 首の後ろを掻いて照れたように笑う。今はなんだか砕けているが、すごく雰囲気を持つ男で、とても強いんじゃないかと思ったが。
「名は、そうだな、アサと呼んでくれ。親しいヤツはそう呼ぶ」
「あさ?」
 きょとんと反芻する向かいのキニスン以上に、朝は隣の席の男を思わず凝視してしまった。
 それは朝の、かつてのあだ名だ。










 

 

 

 

(2008.8.29)

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