13 解答
群青は、そのあと間もなくやってきた。
遅参を詫びて、相席になってしまった旨をキニスンから説明されても渋る様子もなく朗らかに受け止める。
さすがだなと感心しつつ、朝( は群青の登場に心から安堵していた。
悪い男ではないと見るからに理解できるのだが、アサと名乗った中年男はどうも緊張して、構えてしまう。シクに対するときと似たような感覚だった。
「ジョーです。俺が来るまで一緒にいてくれて有り難うございます」
群青も、アサにそう愛称を名乗る。朝一人が、群青と呼んでいることに思い当たって気を引き締めることになる。
(そう言えば群青さんは偽名でクォに滞在しているんだっけ)
フェイ人であることを明らかにしてはいけない理由があるのだろうか。それはもちろん、彼の携わる事態の重さからすればそう言うことになるのだろうけど。
「で、どうだった二人とも。フェドレドは」
「大きい!にぎやかね」
「…早速痛い目に遭いました」
アサのいる手前、どこまで詳細に伝えるべきか考え考え、はきはき答えるキニスンとは対照的に苦笑混じりに返す。
「どうかした?」
「買い出しに、一人で出たんです。なんか、諍いに巻き込まれました。はは…」
促されて正直に答えたはいいが、付け足した笑いは完全に乾ききっている。
落ち着きをもつ群青の、紫の双眸がふと、険しげに潜められた。
「ああ、北通り?怪我はないな?」
「ありません。俺はまあ逃げ回ってただけなんで」
十分死線をくぐり抜けたかとは思うが。ついでに言うと、いくつか軽い傷を負っているが、たいしたことではない。
「ええと、その、風貌の怪しい男がたくさん出てきて、囲まれまして、あとはザグルも…」
アサを前にここまで話してもいいのか、もちろん体験談は事実であるのだがためらいながらも伝えていく。
とぎれとぎれに逡巡しながらも口に出せたのは、アサがこの首都の住人ではなく旅人であるとあらかじめ耳にしていたこともあるだろう。
「ザグルも?町中に?」
「はい…」
「……」
ようやく何があったのか口にしてみると、じわじわとあの恐怖感がよみがえってくるようだった。こちらをじっと見やってくる、キニスンの視線が改めて痛くて直視できない。
「そりゃあ穏やかじゃねえな」
本来なら第三者であるアサが口を開いてきた。
にっと口元に深い笑みを刻んで、杯をゆっくりと傾けている。
最初の一杯以降、この男は非常に緩慢なペースで酒を進めていた。
「よく無事だったもんだ」
「う、ええ、はい。その場にいた剣士が、まあそいつらの目的だったらしくて、彼があっさりと片付けてくれました」
本当は、最後の呪術の助けがなければ血の惨劇に遭っていただろうが。
あんまり思い出したくはないが、なかなか強烈に刻まれた記憶は簡単に剥がれそうもない、彼の姿。榛の、揺るぎなく強い眼差し。
「「サザーロッドリビット」」
朝は思わず瞬きをして、ぴったりと声の重なっていた隣のアサを見返した。自分は今、声に出して彼の特徴を説明していただろうか。
「やっぱり有名人なんですか?すっげえ強くて…彼は大祭に出てるのかな…」
だとしても開会式には不参加と言うことになるだろうが、時間的に。
「出ていないよ。サザーロッドは目立ちたがりじゃあない」
答えはすんなりと群青の口からもたらされた。
「知り合いなんですか」
「俺は顔が広いといったろう?」
にこりと笑みを向けられて言葉が継げなくなる。そう言えばそうだったなと納得はしたが、何か釈然としないものが残った。
「おおかたヤツの出場を快く思わないヤツの差し金だろうよ。悪いときに居合わせたな、坊主」
「それだけであそこまで手の込んだことを…」
頭痛がしてきて本当に頭を抱えた。確かにサザーロッドリビットが大祭に出場しようものなら面白くもない結果が待っているだろうけど。
(自分が強くなって相手のすごさがよくわかるって聞いたことはあるけど、それでもサザーロッド(どうやらここまでが名前)のすごさは俺にもわかった)
まあ、俺はへなちょこだけど。彼が出場しないだけでも大祭は揺れそうだ。
しかしまあ、出場しないと口で言ったところで納得しない輩が彼に絡んでいたのだろう。朝からすれば凶悪に念入りに。まあ何の障害にもなっていないみたいだが。
気がつけばサザーロッド寄りの思考をしている自分に気がついて首を大袈裟に振った。
怖いひと、悪くはないだろうけど恐ろしい男だったのだ。朝とは真逆。
シクも底知れず怖いひとだと思うがあの男とは非にならない。
「キニスンもサザーロッド・リビットって、知ってる?」
「んん?オセーネ方面は田舎だしね。けれどシクから話くらいは聞いたことあるね、凄腕の傭兵が場所も雇い主も問わず名をはせてるって。確か4、5年くらい前から」
自分には関わりのない話と思ったのか、ひとり黙々とおつまみに手を伸ばしていたキニスンは(子供だなあと思った)話を振られて少し上機嫌になって答えてくれた。
4・5年も前だったらサザーロッドは明らかに十代の頃からあの恐ろしさだったと言うことになってしまう。下手をすると朝よりも年若い頃から。
「あんまりにもその強さに容赦がないから、子供が悪さするとサザーロッドが来るよーっていう仕置き文句が一時期はやった」
マジで!??
「その効果たるや絶大で、子供がよっぽど怖がるものだから次第に廃れていった」
バカな、と思うのだが。顔も知らない噂だけの強豪が、今時お化けも怖がらないような子供よりもおそれられる時代なのか。時代って言うか世界か。
「サザーロッドの名前でも泣き出さない子供が、当時そのころ英雄扱いだったなあ…」
どんな度胸試し。
すっかり突っ込みの隙すら見失っていた朝だが、まさかそこまでの有名人とは思わなかった。本人は頓着していない様子だったが。と言うか迷惑していそうだな、あの性質じゃ。
「ヤツが出ねえんじゃあ、今年は楽しめそうだな。滞在を延ばすとするか」
アサの発言に思わず、朝は視線を向けていた。それこそ意識する間もないうちに、口にしていたと言っていい。
「アサさんは、アスラン・ヨーグを知っていますか?」
わずかに意外そうに、目を瞠って反応を見せたのはアサだけだった。群青もキニスンも朝のうかつな問いかけにも顔色ひとつ変えていなかった。
言ってしまってから本人だけが、まずったかもしれないと今更青くなっている。
「ヨーグ。アスラン・ホーグ・ヨーグね。そりゃあ知ってはいるが、元宮廷術師に用があんのか」
「う、あ、あの、はい。この大祭に来てるって話を小耳に挟んで、捜してるんですが何かご存じないですか」
出たものは戻らない。覚悟を決め、わらにもすがる思いで情報を求めてみる。つっこんだ事情はさすがに話せないけども。
「やめといた方がいいんじゃねえか。ヤツは自分の気の向くことしかしないという。今も王家や貴族連中から呪術の要請を受けることもあるが、そのどれも断ってる。まあ、一度座を辞した身だから当然といやあ当然か」
「そうですよね。むしろそれは依頼してくる方も図々しいというか・・・」
素直に相づちを打ってしまい我に返り口を塞ぐがもう遅かった。そりゃあ今まで助けてくれた術師の実力が確かであるほど、頼りたくなるのも仕方がないのだが。
口がすぎたと慌ててうつむく朝を見て、アサは豪快に笑った。
「まあヤツも人間だしな、万が一出会うことが出来りゃあ諦めず話してみるんだな。用件そのものが何であれ、気に入った相手の頼みは聞く気になるかも知れねえ」
「…詳しいんですね」
まさか本当の意味で知人なのか。彼の口調はそういった風に感じられて、じっと横顔に見入ってしまった。
「まあこの辺暮らしが長いモンでな。噂に詳しくもならあ。情報通の知人も多いし、それほど外しちゃいねえだろ」
「そ、そうですか。助かります。有り難うございました」
難解な課題であることに変わりはないが、発見さえ出来れば望みは皆無でないとわかっただけでも進歩だと思う。対抗策は結局何も浮かんではいないのだが。
「お、もうこんな時間か。長居しちまってすまなかったな。俺はもう帰るとするわ」
カウンターに飾られた時計(朝の世界のものとはずいぶん形が異なるが)を見て、アサが立ち上がる。いくらか過分に見える硬貨を台の上に置く。ここは彼の払いと言うことだろうか。それにも恐縮するが、それよりも。
「宿、とかに戻るんですか」
「おうよ、楽しかったぜ。縁があれば大祭中にまた会おう」
一番近くにいたからか、気がつけば尋ねていた朝の頭をぐりっとなでて、アサは軽やかな足取りで店をあとにしてしまった。その背中が見えなくなるまで目で追って、自分でもいぶかしく思う。
(変なの、最初はあんなに、妙に緊張していたのに)
いなくなると思うと、なんだか急にむなしくなった。心細い。寂しい、ような心地になった。
「トキ?面白いおっちゃんだったね」
「あ、ああうん、訳ありそうな感じだったな」
「あっちにしてみれば俺たちもずいぶん怪しかったろうけどな」
話しかけられて朝はようやく我に返る。穀物のお酒を楽しんでいる群青は、その様子をしばし見守るようにしていたが、
「さて、遅い時間にごめんな。せっかくだからみんなでメシでも、と思ったがふたりは留守なんだな?」
「姉が体調壊して、ミーと待ってるね」
「それじゃあ、帰りはふたりに土産を買おう」
群青の発言に、朝は完全に意識を引き戻された。
「帰りって、用事は、いいんですか?」
「もう少しかかるかなと思ったが意外と早く済んでね。またいずれは様子見に戻るだろうけど、シクさん到着までみんなといるよ。ごめんな、ばたばたしていて」
いつも通りに笑いながらも、やはりどこか申し訳なさそうな語調に、朝はぶんぶんと首を振る。
「いいえ、ぐ、ジョーさんがいてくれると心強いです。っと、キニスン達も強いけど、やっぱ俺たち、どう見ても未成年ですしっっ」
目の前にいるキニスンがもしや機嫌を損ねるかとフォローを重ねてみたが、どちらも杞憂だったらしい。
「トキは群青、と呼んでくれていいよ」
「今もミー達が少し心配ね。ジョーがいるといろいろ安心するね」
と、それぞれにフォローを返される始末。なんだか恥ずかしくなりながらうつむき、ピクルを飲み込んだ。
アニエスはうっすらと目を開き、数度瞬きをしたあと息を吐いた。
とても爽快と言える目覚めではなかった。意識を手放す前後の記憶をたどれば、それも仕方のないことだった。
「アニエスさん、」
同じ部屋にいたミーシャが、様子に気がついて小さく控えめな声をかけてくる。
視線を向けただけで、何も返事する気にもなれずに再び目を伏せる。
「平気?つらいところは、ない…?」
おずおずと伺うように声がかけられる。
大丈夫だから放っておいてと、いつも通りのその言葉さえ今は容易には出てこない。
脳天気な弟や、無神経な異邦人と違い、この少女に辛辣に当たるのは気が引けた。
ああそういえば、今日街で遭遇した少女も似たところがあった。アニエスがずっと捕らわれて抜け出せない焦燥感や苛立ちを、どこか不思議と解きほぐしてしまった少女。
そうして再び、不調の原因に心が立ち戻って不快が逆流してくる。
あんなもの、どうって事はない、煩わされていること自体、自分の弱さを露呈し認めるようで、気持ちが悪い。吐き気すら催す。
(何言ってるんだ、ばか!)
耳元で不意に、叱咤が響いた。あれは誰の声だっただろう。すごく最近のことのはずだった。
(…トキ)
思い出して正直、驚いた。あんなふうにつよい声で打たれるとは思っていなかった。
反目する気持ちが全く湧いてこなかった。その時そんな状況になかったと言うこともあるが。
まっすぐにぶつけられた怒りが、彼らしいお節介すぎる心配の現れなのだと、アニエスにもわかっていた。
トキはいつも、何もわからない、何も出来ない存在のくせに、ひとのことを気にしている。
(馬鹿はあなただわ)
そして、私だって馬鹿だ。思考を振り切るように、アニエスは再び眠りに落ちていった。
ミーシャがうとうとと船をこぎ始める刻限に、そうっと足音を忍ばせて土産を抱えた三人は戻ってきた。
思った通り、朝はその夜眠ることが出来なかった。
群青は悔しいぐらいに分かり切った顔をしてくれて、一晩話につきあってくれた。
彼の話はためになった。翌日も天球屋の主人を訪ねる予定になっており休んでおかねばならないのだが、夢中になって朝を迎えた。
「か、貫徹なんて久しぶり…目、目がしぱしぱする…」
ここぞとばかりにカノアの目薬に頼ってみると、悶絶して地を這う羽目になったが効果は絶大だった。さすがカノア。諸刃の剣だ。
いささか過分にすっきりした頭と眼球をもてあましながら、群青とふたり夜明けのお茶などをすする。
「どうする、トキ。今日は俺も着いていこうか」
少し挑発的な問いかけだった。一晩語り明かした間柄故か、朝は少しばかり強気になっていたらしい。かっちーん、ときたのだ。
「いいえ、俺ひとりで行ってきます」
なのでこちらも、語気を強めて言い放つ。寝ていないのでテンションが上がっていることもあるだろう。無駄に気が大きくなっているようだった。
群青はそれに対して早朝にふさわしくさわやかに笑い返してくれた。
「心強いな。朗報を期待するよ」
(あ、久しぶりな気がする。群青さんのさわやか兄さん笑顔)
相変わらずにこにこ笑ってくれていたけど、油断ならない気配を感じられた。
えのぐり茸の家と異なり、やはり王都。彼の用事ものんきなものではないのだろうし、気を張らねばならないのだろう。
「あ、あのそれで、よかったらアニエス達を…」
お願いしてもいいですか。なんて、すごく偉そうな物言いだなと思って言葉がとぎれてしまった。別に年長者なだけでみんなの引率を気取る気はない。しっかりしなくちゃと意気込んではいたが。
それにすぐに、異なる思いもわき上がってしまったのだ。群青の用事はたいそう込み入っていそうだと想像が付く。
「と、思ったんですが、あの、用事があるなら、そっちに行っても…?」
「あんまり寂しいこと言うなよ。頼ってくれなきゃ、俺なんて出る幕ないんだからな」
皆まで言わせてもらえなかった。その毅然とした言葉も笑顔も、やはりどこまでも頼もしい。
これ以上、「頼りになる」と信じられる存在は、またとない。
朝はこっくりと、謝罪と、改めて感謝を込めて頭を傾けた。
昨日はなんだか気に病んでいたし、着いていくと言い張るかと思ったキニスンも、朝がひとりで行くと告げるとあっさり頷いた。
いやいやいや、そこまでばっさり切り捨てられて少しショックとかね、そんなことないよ?
昨日の今日でまた怖い目に遭わないかとかびびってもないよ?大丈夫大丈夫。祭りの間だから人出は多いし!
とかいろいろ自分フォローにあわただしい思考を落ち着かせて、何とか表面的には平静を保っておく。
「ん、じゃあお互い気をつけて王都を楽しもうな」
「そうだね、なんだかトキが巣立ちのようで感慨深いね!」
からからと笑って告げる生意気な少年を、腕で羽交い締めにしてみた。思った通り堪えた様子もなくはしゃいでいる。ちくしょう。
「トキさん、これ…」
「あ、ありがとう。もしかしてミーシャが?」
宿に借りたのか、水筒と弁当らしい風呂敷を手渡された。ミーシャは気恥ずかしそうに頷く。
そうか、毎日買い食いじゃあ節約できないもんな。関心と感激と、感謝でミーシャに笑いかけた。
弁当一式は人数分用意されている。うんじゃあ王都にいる間また当番制でもいいかも、と思う。かつての日常を取り戻したようで楽しくなった。
「…アニエス。えっと」
やはり少し離れた位置に立つ少女を呼ぶ。いつも血色がいい方でもないのだが、少しは調子を取り戻しているように見えた。
「……」
いつもは逸らされたままでこちらを見向きもしないのに、今日は違ってアニエスも朝を見返してきた。
どこか緊張感が漂う、稲光でも走っていそうな見つめ合い、いや、睨みひるみあい。
(駄目だ、完敗している…!)
完全に当初の方向性を見失い、そっと目を伏せ逸らしたのは朝が先だった。アニエスに、何か言おうと思っていたのに、言葉なんて出てこなかった。
心配したよ、もう大丈夫か?無理するなよ、どんな言葉も、瞬殺されるか黙殺されるかの末路しか浮かばなかった。だから、結局、
「俺、頑張ってくる」
一言。たぶん一番、アニエスにはどうでもいい言葉。
けれどアニエス自身の事を問いかけたりするよりよかったかも知れないと自分に言い聞かせ、朝は群青ら4人と別れて再び天球屋へと足を向けた。
「おう、トキかね。待ちくたびれたちや!」
「お、おはようございます…待ちくたびれたって」
まだ朝も早いと思うんですが。続く言葉を飲み込んで、朝は店主に迎えられた。
それからというもの、彼は朝にあれやこれやと雑用や使いを言いつけるようになった。
折を見てはアスランの情報を探ろうとはするのだが、うまい具合にはぐらかされてこき使われる。気がつけば、通いで雇われバイト君のような状態のまま五日が過ぎていた。
「うう、疲れた…」
(たいした収穫もないままもう五日か。そりゃあ大祭も準々決勝にもなるだろうよ)
ふてくされて机に突っ伏す。本当に天球屋に通い詰めて、アスランないしクワイラの情報は得られるのだろうか。
キニスン達は朝のいない日中王都観光を楽しんだり、おのおの調べ物をしたりと有意義に過ごしているらしい。朝も一日間だけみんなと街を回る機会があったが、やはり息抜きを楽しむには余裕が足りなかった。
早く早く、と気ばかりが急いてしまう。
「よ、ずいぶんと参っているな」
「群青さん…」
朝は力なく笑い返した。群青もずっと大祭の様子を見に行っていたらしい。だれか知り合いが出場しているのだろうか。訊いたことはないけれど。
「何でかわからないけど、すごくこき使われてるんですよ…明日も来い絶対来いと念を押されて逆らえないし」
「あはは、人が良いんで聞いちゃうんだろう。性分だな、トキ」
どうにかしたいんですけどねえとうなだれて、机に額を乗せて伏せた。
「今大祭は、キリー・クアンドラが勝つな」
変に慰めるでもない群青は、不意に話題を振ってきた。そちらの方が朝にとってはありがたかったが、なにぶん唐突すぎて反応が鈍った。
「きりー?」
聞いたことがない。昨日の対戦で絞られた10名は、街の至る所に名前を張り出されていたが。さすがに全員は覚えていない。
「やっぱりお知り合いですか」
「うーん、まあ俺はキリーに賭けてるんで。勝ってもらわないと困るんだが、まあ大丈夫だろう」
問いかけの答えではない返事が返された。
準々決勝となる今日からは、各試合ごとにチケットが用意され優待席券はダフ屋が出回るほどらしい。
立ち見もいとわない観客数になり、大祭は佳境を迎える。
「一日三試合ずつで、四、五日後に準決勝、一日おいて決勝、でしたよね」
最高潮の宴は、七日間続いて幕開けとなる。
試合そのものは、半月もないんだな…
大祭はその後も戦勝者を称え喝采して騒ぎ開かす。希望者は士官への登用もかなうと聞いた。
「大規模だなあ…って、群青さん、賭けてるんですか!?」
「少し突っ込みが遅いぞー」
自分で関わるなと釘を刺しておいたくせに、訳のわからないだめ出しをされたが、朝はひるまなかった。
「賭けたものは金じゃないよ。でもまあ、ないと困るモンで、トキも祈っていてくれよ」
「…危ないことしないでって言ったの、群青さんじゃないですか」
少しとがめる口調でつぶやく朝に、群青はうれしそうに笑って何も言わなかった。
確かに彼は大人で、朝達とは事情も異なるのだろうけど、そう言っておかずにいられなかった。
祈ることで群青が困らない事態になるのなら、いくらでも祈るけどさ。
その日、シクがやってきた。店の前で水をまく朝の眼前に。
普通のお客さんのように。
あんまりに自然と現れたものだから、顔を凝視したまま硬直して言葉が継げなかった。
「お久しぶりです、トキ」
「お、お久しぶりです…」
やはり変に緊張している。シクはおっとりと微笑んで、ひとりなんですねと尋ねた。
トキはかいつまんで今までのこと、現在の状況を話し、滞在している宿の名前と場所を伝えた。
「来てくれてよかった。えのぐり茸のみんなは、相変わらずですか?」
「ええ。でもあなた達がいなくなって寂しそうにしていますよ」
少しはにかんだ。自然と顔がゆるんでいるのを自覚して、すぐにあっと気がついて声を上げる。
「し、シク。お茶、飲んでいく?来たばかりでしょう?疲れていないですか」
「お仕事の邪魔になってはいけないから。トキは宿に帰ってくるのでしょう?その時にしましょう」
シクはなんだか目を細めてやわらかな声でそう告げる。言葉にされてなくても褒められたのだとわかった。その理由も。
だから妙に照れてしまって、うつむいたまま頷く。
「う、うんじゃあ、また宿でっ。群青さんもずっと側にいてくれているから、みんなそろって会えると思う」
ええ、と答えて、シクは細い指をそっと上げて朝の前髪に手を伸ばした。
撫でるように髪に触れた指先は、慈しみに満ちて朝の動揺を誘った。
「トキ、つよくなりましたね。目が、とても優しく揺るぎない」
「…え、え、あ、そ、」
そう、なんですか。全くわかりませんでした。
そういったことを動揺しながらも、伝えようと思ったのだが言葉にならなかった。
「久しぶりのフェドレドです。みんなと過ごせるのはとてもうれしい。また、お話をしてくださいね、トキ」
「はい…」
指が離れて、シクの薄緑の視線が外されて、ようやく深い息をつけた。
やはり緊張してしまい萎縮しっぱなしで、でもやはり優しい人だと思った。
もうあんまり、怖いという気持ちが起こらない。きっと怒らすと誰より怖いけどさ。
そこでなんだか、シクももしかしたら王都では動きにくいのかも知れないと思った。
人々がさらなる熱狂と関心を大祭に向けるこの時期に、ようやくおっとりとやってきたのだから。
(シクも顔、広いみたいだし、有名人って動きづらいんだろうな)
自分は至って一般人でよかったなあと、思うのだ。
実情は、一般人どころか国家機密レベルの重要人物だが、本人が気づいていないのはいつものことだ。
「トーキ。いつまで庭掃除しちょるか。そろそろ昼飯にするぞ」
「あ、はい」
店主に呼ばれて掃除道具一式を片付ける。雇われ業もずいぶん身に付いてきた。
天球屋には毎日多くはないが様々な客が訪れる。
大祭の賭け事で資金をなくしたのか、せっぱ詰まった表情で怪しげな小道具を買い取ってくれと訪れる傭兵風の男性とか。
はたまた呪詛を増強する装身具を捜してはるばるやってきたという、年期のいった呪術師とか。
はては駄菓子を買いに来た近所のお子さんの姿も珍しくはない。何せ「何でも屋」なのだから。
店主はそのどれもに、なぜどうしてその品を求めるのか問いただし話を引き出していた。
朝はそれを、後ろに控えてお茶を用意したり、棚を拭きながらも聞くとはなしに耳を傾けさせてもらった。
どの話も意外と興味深い。自国のようなセルフサービス形式のマーケットでは、こんなやりとり聞けないだろう。
(こんなに人が来るんなら、アスランの話も聞けそうなんだけどな…)
新鋭の人物ではなく、昔からこの国では有名の呪術師なのだから。
今は客足も途絶えた店内で、店主とふたりチーズと野菜を挟んだベーグルのようなものを昼食としていると、戸が来客を告げる鈴を鳴らした。
「あ、いらっしゃいませ」
愛想のよいとは言えない店主の変わりに、出迎えは朝の役割になっていた。最初は朝も尻込みしてうまくできなかったが、慣れとは怖い。ぎこちない接客と、自然に笑顔も浮かぶようになってきた。
急いで手を拭いて駆け寄ると、客人の姿を確認する前に足が止まった。
(どきん)
胸がひとつ鼓動を打つ。
肉体の反応だ、と思った。だって心の方は、やっぱり訳がわからないままついて行けない。
「おっ、トキじゃねえか。偶然だな」
顔を出して笑いかけてきたのはアサだった。朝の中にはやはり、という声と、なぜ、という声が同時に響いてせめぎ合った。ほんの一瞬だった。
「こんにちはアサさん。少しここで、ええ、働かせてもらっています」
自分でも驚くぐらい平然とした言葉が出てきた。
「お?おお、アサか!てめえ今までどこほっつきあるいちょった!」
店主が顔を出し、気安げな言葉を交わし出す。
「悪い悪い、すぐ訪ねようとは思ってたんだがいろいろ回ってたら遅くなったぜ」
勝手知ったる不遠慮さで奥に進み、アサは従業員室でもある間のテーブルにどかっと着いた。
「相変わらずしけたツラしてんなあ、じじい」
「お前は相変わらず生臭そうなツラしちょおなあ」
軽口を叩いて笑い合うふたりを、知り合いなんだ、世間って意外と狭いとぼんやりとした心境で眺めながら、朝は自分の事がわからなくなっていた。
俺、どうしたんだろう。
今までいろいろ言われていたし、漠然とではあるが理解できていると思っていた。
この世界に呼ばれて、大量の水を媒介にして存在できているとか、呪術は全く効かない身体だとか。
でも朝は朝だった。16年間生まれて生きた、早川朝のままのはずだった。
相変わらず運動音痴だし、視力は悪いし、要領もよくないし、某金髪美少女には相変わらず蛇蝎( のように嫌われている。だかつ )
(俺、いろいろやっぱり、変わって、るのか…?)
この世界に来て、生活をみんなとともにして身につけたあれそれではない。
今まで確実になかったものが、朝の中に内在されている、その事実を、今更のように感じて足下がひやりとしたものに包まれたのだ。
水中の藻のような、不確かで不快を催すものが、手足にまとわりついて朝をとらえる。
そんなイメージが脳内でうごめいて、離れてくれなかった。実際に、溺れてもいないのに息苦しくさえ感じる。
「――き、トキ?」
はっと目を上げると、自分は荒い息をついていて汗だくで、目の前にはのぞき込むアサの顔があった。
細かな傷があちこちに見える白皙の膚、彫りの深い目鼻立ちは端正とは言えなくても見栄えがする。淡い緋色がじっと、朝を見下ろしていた。
今までこんな、外国人の中年のおじさんとなんて、関わる機会皆無だった。だから何の感慨もないはずだ。自分にあるのは、初対面に近い相手に対する、警戒心と、ほんの少しの好奇心。その程度のはず。
だけどどうしてだろう、じっと目をこらして、見つめ返す。
親にすがる子供のように、手を伸ばして上着を掴んで、無条件に頼りたくなる。そんな気配をこの人から強烈に与えられている。
そう、与えられている。これは朝が自発的にもっているものではなくて、空から降ってくるような、そんなものだった。
アサが朝に、零しているものだ。それにひどく、惹きつけられている。
「トキ、具合でも悪いか」
ごつごつとした手が伸ばされて、朝の額に触れようとした。その前に、視線をそらせず瞬きも出来ずに目を見開いたまま、問うた。
「アスラン・ヨーグ?」
アサの目が、かすかに瞠られた。よく、この表情を見ている。わずかな時間しか見てなかったのにそう感じて、朝はなんだか訳がわからず苦笑した。
それにアサは、なぜだか苦いものを飲んだような顔になって、肯いた。
「そうだ」
くしゃりと、額に伸ばされた手のひらが朝の髪を乱した。
「俺が喚んだ」
そうか。
アサはうつむいたままの朝を、しばしばつが悪そうに苦笑して見やっていたが、後ろを振り向いて店主を呼んだ。
「じじい。ちいとトキを借りるが良いか」
「おお、返せよ。手離すにゃあ惜しい雑用だかんな」
「少しはてめえで動けよ、クワイラ」
小さな笑いとともに呼ばれた名前に、朝は思わず顔を上げてアサの顔を凝視していた。
アサはやはりなという表情で、けれど苦笑したままだ。
そうか。そうだったのか。
店主と、数瞬だけ目があった。やはり彼は平常通りで、早く戻ってこいと目が急かしていた。
(借りる返すとか、まったく俺をなんだと思ってるんだ)
怒りというか、脱力した呆れがまず沸き起こった。
そうかそうだったのか。
答えはすでにあったのだ。
(2008.9.21)