14 封印
一目見てすぐわかった、とアスラン・ホーグ・ヨーグは言う。
奇妙なものだな、自分の一部が喋って歩いているように見えるのさ、気を悪くしないでくれよ。
彼は笑っていなかった。
もちろん、朝もそれに笑い返したりは出来なかった。
天球屋のすぐ裏手にある、小径でふたりは立ち止まった。目をそらせばすぐに人通りがある、危なくはないが静かな通りだ。
アスランの気遣いなのだな、と思うと、ぎしりと胸が乾いた音を立てた。
(自分の一部が、喋って、歩いている)
それはどんなふうだろう。
アスランの目には首輪が着いて見えるのだろうか。足枷だろうか。あまり心地のよいイメージは湧かない。
朝には、アスランは光のように見える。強すぎておかしな違和感すら覚える光明。
大勢の人の中でもきっと探し出せる。家族やごく親しい人に感じる信頼と興味と、少しばかりの畏怖がある。
(ああ使い魔か下僕とか。本当に使役された獣にでもなった気分)
最初はそうでもなかったのに。短い時間だけしか過ごしていないからだろうか。一緒にいればいるほど、目を交わして言葉を交わすほど、強制力は深まっていく気がした。
そしてそれを、当たり前のことなのだと思う。この男に、男の呪術に生かされている。
「…あらためまして、早川、朝です」
やがて沈黙が続くのに耐えられなくなり、しかし毅然と顔を上げて先に告げた。
その顔面は青く、声は張りつめている。
アスランは少しだけ眉をひそめて、あいかわらずばつの悪そうに苦笑する。
「アスラン・ホーグ・ヨーグだ…ああ、悪ぃ」
名乗り、少し息を吐いて、舌打ちをして頭を乱暴にかき乱す。
「くそ、なんて言ったらいいか、わからねえ」
視線を泳がせて、うつむく。なんだかそれはらしくない仕草のように思われて、朝はアスランのその理由がはかれず首をかしげる。
(なんだか久しぶりに対面した親子みたいな気まずさだ)
そうか、気まずいのだ。朝はようやく思い当たる。
朝からすれば探し当てた人が見つかったのでそうでもないが、アスランからすればそれもそうだろう。もしかするとこうして会いに来たことも迷惑だったかも知れない。もちろん、会いに来ることも想定内だっただろうけど。
「迷惑だった、ですか。俺の出現は」
早くも身に染みついた下僕体質、以前に、生来からの気弱な性質がそうした発言を促していた。
「……いや、いいや。そんなこたねえよ」
沈黙をおいて、アスランはわずかに息をのんだようだった。つとめて静かな声が返された。
「……」
「……」
そして改めて両者見つめ合うというか、あんまりにも朝が緊張しているためかにらみ合いといった緊迫感を伴った間が生まれた。
今の今まで手がかりがなさすぎたためか、正直な話見つかるとも思えずにいた矢先だったので、あらかじめ用意していたありとあらゆる問いかけが頭から吹っ飛んでしまっていた。
「アサさ、ああ、アスラン、さん?」
「好きに呼ぶといい。と言いてえがアサが良いな。やはり気づかれちゃ面倒だし」
呼ばれ慣れているのも確かだ、と言われて朝はうなずく。どうもかつての自分の呼称を呼ぶのはとまどいがあるが。
「アサさん、俺はあなたに訊きたいことがあって、いろいろ本当にあって、ここまで来ました」
「おう」
腕を組み壁に背を預けもたれかかるアスランはぶっきらぼうに相づちをくれたが、機嫌が悪いようではないらしい。それどころか少し気を抜いているのではないかと雰囲気が感じられて、朝もほっと息をついて言葉を続ける。
ここまで口にしておいて、それでも問いはこれであっているだろうかという疑問が頭をよぎった。けれど考えがうまくまとまらないままに、結局声に出す、それはすべての根源。
朝の一番の懸念。
「俺は帰れますか。もとの、元の世界に帰れるんですか」
アスランの瞳に一瞬、ほんの一瞬痛苦のかげりがよぎったが、本当に瞬きのことで朝は気がつくことがなかった。
「帰れるぜ」
まっすぐに朝を見据えたまま、答えが落ちた。
「ああ、帰れる。帰してやれるさ、それ前提で、お前を喚んだ」
(――――――ああ)
すとん、と朝の中でくすぶっていた何かがほどけていった。それは安堵であったし解放であったし、あるいはよくわからないぐちゃぐちゃとしたものであったろう。
「…今すぐってわけにゃあいかねえが」
アスランはやはり居心地の悪そうな様子で顔を掻いているが、朝はその場に脱力してしゃがみ込みたい気持ちにすらなっていた。
今すぐ帰してくれとなりふりも構わず自分の要求を挙げて詰め寄る時期は、いつの間にか過ぎ去ってしまっていた。
ただ寂しそうに、わかってます、大丈夫です。とアスランに苦笑をかえして頷く。
それを見やったアスランがなにも言わずに朝の頭をぐりっと撫でた。父親がするように。
「喧嘩だ!」
にぎやかな喧噪に突如、騒然とした緊張が走った。
高く響く女性の悲鳴。動揺して上擦る男達の声。
朝の脳は理解を把握するのに数秒を要したが、目の前のアスランの顔を見て、戸惑いをはっきりと浮かべたまま、何度も何度も瞬きを繰り返す。
「ま、人が集まりゃ諍いのひとつも起こるだろうよ、じっとしてろよ…」
言われなくても石のように固まる朝を手のひらで制して、アスランは物陰からほんの少し身を乗り出して様子をうかがう。
背を向けられてその表情は見えないが、漏れた舌打ちは耳に届いた。
「やりすぎだ」
「アサさん?」
おそるおそる、アスランに近づき状況を尋ねようとする。その背を追い越すことは許さぬと言うような腕の拘束で、あっさりと前進は阻まれた。
「うぐっ、」
「動くなっつってんだろ。たちの悪い喧嘩だよ、チンピラ同士のな」
見ることは出来ないが、争う男達の声は聞こえてきた。どう控えめに聞いても脳内には柄シャツでパンチパーマなおじさん達がメンチを切り合いつかみかかろうとしている図しか浮かばない。
「良い度胸してんじゃねえかっ、ああっ!?」
「テメーこそ舐めた真似してっと痛い目遭わすぞコラ!」
…交わす言葉も母国で耳にした台詞のようだ。もちろん芝居でも何でもなく、行き交う人々の視線や近くの店舗の迷惑顧みず口汚く罵り合っている。
これはもはや、いつつかみ合いに発展してもおかしくなく、人々は皆距離を置き困惑した表情で硬直していた。
「いるんだよなあ、大祭中はこういった手合いが。血の気の多いヤツ同士ほど手のつけられたもんじゃねえ、ったく、警組はまだか。対応遅え」
明らかにいらいらし始めたアスランの様子に、朝はぎょっとして冷や汗をかいた。
今にも喧嘩をいさめようと飛び出そうとしている気がした。厄介ごとというか、顔が割れてるから困るとか言っていたのに。
「だ、大丈夫ですって。すぐ来るだろうし、今のところ騒音の迷惑だけでそこまで危険な事態には…」
朝の言葉を遮るように、ひときわ高い悲鳴が上がった。
男のうち片方が、腰にはいていた剣をすらりと引き抜いたのだ。
「って、エエエエエエエエ!??」
アスランの腕に捕らわれながらも顔を突き出していた朝は、事態の深刻っぷりに驚愕の声を上げる。
いやもう、本当に、何でここまで事態が悪化したのか予測も付かなかった。
「痛い目を見ないとわからないようだな…?」
「そっちこそ、先に抜いたからにはあとでほえ面かくんじゃねえぞ…?」
お互いなんだか引っ込みが着かなくなったのか、血走った目でおのおの武器を引き抜く。
周りの迷惑なんてこれっぽっちも考慮に入れない。完全に頭に血の気が上っている。
「あーあ、見てらんねえ」
「あああアサさんストップ!危ないですよっ!?」
「お前俺がやられるとでも思ってんのか」
危惧していたとおり陰から身を乗り出そうとする男の腕にがしっとしがみついて引き留めにかかる。朝の狼狽振りに対して呆れた顔を向けられたが、もちろんそうではない、と思う。
「どっちかって言うと周りの影響の心配です!」
「おお、出会ったばっかりなのに耳がいてえな」
アスランはあさっての方向を見てぼりぼり頭を掻く。少し進む力がゆるんで、ほっとしつつも朝ははっきり言いすぎたと今更寿命を縮めて震え上がった。
「ん?」
そうこうしているうちに話は進んでいた。人々が遠ざかり円が出来ている諍いの中心地を、空気の読めない大胆さでひとりが通り過ぎようとしていた。
お互いへの敵意さえも一瞬そがれた様子で、片方の男が通行人をとがめた。
「オイ、オイオイオイオイ、聞いてんのかよそこよう、こちとら取り込み中だよ!」
一瞥もくれずに返した言葉はにべもなかった。
「だからなに?目障りなだけで私には何の関わりもない」
朝は今度こそ血の気の引いた顔面で、気がつけば口笛を吹くアスランの腕を離し飛び出している。
「てめえこのガキ!」
「あああああニエス!!」
見当違いな激昂の矛先に、振り下ろされた剣が少女に迫るのと、呼ばれた名前にアニエスの意識が一瞬向くのはほぼ同時だった。
がむしゃらに飛び出したはいいものの、なにを出来るわけでもない朝は結局勢いのままに少女の身体を押しやって剣を避けようとした。が、腕を伸ばし、少女の肩に手が触れる前に。
「え」
すぱんと浮くような感覚があって、あっという間にひっくり返る。地面に手をついてから足を払われてこけたのだと悟った。
「邪魔」
見上げた先で金の長髪が翻る。アニエスはどこも焦った様子もなくなおもつかみかかる男の剣をかいくぐり懐に飛び込むと白い指先を眉間に押し当てた。
「はっ、」
「!!…ぐお!!」
見開かれた男の眼球がぐうっと寄り、顔面が苦痛に歪んだかと思うと、その場に昏倒した。白目を剥いて倒れた男はぴくぴくとけいれんして泡を吹いている。
「あ、あわわわ…」
「な、何だってんだよ!」
こちらはいくらか冷静さを取り戻したようだが、もうひとりの男も喚きながら詰め寄ってくる。
伸ばされた腕が、アニエスの肩に伸びる。朝は慌てて声を上げ少女の手を引き逃げようとするが。
風が吹いた。
「うっ、ぎゃ!!」
男の腕は横から伸びた手に捕らわれ、不自然なほどひねり上げられていた。
「どうかしたかね?姉に用事なら聞くけどね」
「キニスンっ」
文字通り飛んできたように現れた少年は、驚いた朝の声に呼ばれてにこりと笑顔を向けた。
「おっちゃんたち、みんなの邪魔だから、まだ続けたければ外に行くと良いね。それとも」
「いっ、いでででで!離せこのガキッ…」
「おれがふたりまとめて門まで運んでやろうかね?気絶させれば案外楽そうだしね」
「……ちっ、分かったよ!消えてやるから離しやがれいでででで!オイ!」
まあしょうがないなあと言う不遜な態度を隠しもせずに、キニスンは痛みに喚く男の腕をようやく離してやった。
さんざん恨みのこもった眼差しを残しながら、男は見物人達に悪態を付きながら立ち去る。
「もうひとりはきっと警組が何とかしてくれるね」
「ああ、うん。そうだな…って」
(この状況を何とかしたい…!!)
諍いは無事落着したかに思えたが、次に注目にさらされているのは自分たちの方だった。
「と、とりあえず移動しないか。ちょうど話したいことが」
というか、一刻も早くこの場を立ち去ってしまいたかった。しばらく人々の注目は離れそうもなく、下手をすれば呼び止められるかも知れない。
その時。
ぱちん、ぱちん、と軽快に、気の抜ける破裂音がした。中央の市街地の方向だ。
「開場だ!急げ、席が埋まっちまう!」
人垣から声が上がると、人々は気を取り直して我先にと駆けだした。あっという間に滞っていた通りが元通りになる。
「い、行こう」
どこか違和感を覚えながらも、この機を逃してはいけないと朝はふたりを促して逆方向へと向かう。
きょろきょろと辺りをうかがってアスランの姿を捜す。
先ほどの物陰から少し出たところで、よっと手を挙げて眉を上げる人物を見いだした。
(あっ)
そこでようやく気がついた。以前もこんな風に、タイミングよく助け船を出されたことを。
「もしかしてさっきの花火みたいな音、呪術ですか?」
いろいろな前置きをとばして、真っ先に尋ねていた。アスランは首をかしげ、
「ハナビ?煙弾( の事か?さあてな、開催運営者も少し気がはやって時間を間違えることもあるだろうよ」
ではやはり予定の時間よりもまだ早いのだ。しれっと言い放つ男のとぼけた横顔に苦笑して、朝はそれでもまっすぐに告げた。
「また、助けていただいて有り難うございました」
「覚えがねえなあ」
この人は何か諍いを目撃するたびにこんな風にちょこちょこ首をつっこんでいるのだろうか。
暇人なのか、身体がもたないんじゃないかと思うけど、それをどうこう非難する気は起きなかった。
「ええと、アニエス、キニスン。キニスンは会ったと思うけど、この人はあす、アサさん」
ふたりに向き直って言いかけた名前を言い直した朝を、アスランは少し目を瞠って見る。
「覚えてるね、ジョーに会いに行ったときのおっちゃん」
「よお、キニスンだな。で、そっちのぶすっとしてる嬢ちゃんも紹介してもらって良いか?」
軽い問いかけに、アニエスの顔がさらに険しくなった。
「ええと、アニエス」
「おれの姉!」
「ふうん。あんまり似てねえな」
真っ先に告げられた感想に、朝とキニスンの二人はそろって目をまん丸にし、顔を見合わせた。
「こ、こんなにそっくりなのに!?」
「百一人目だね!」
「顔かたちじゃねえよ。ぱっと見、体外に放出してるモンなんか似つきもしねえ。雰囲気って言うの?」
アスランはアニエスの視線に受けて立つように険しい顔つきになった。二人はしばしにらみ合っている。
険悪な空気とは違うような気もしたが、朝ははらはらと落ち着きない気持ちにさせられた。
そりゃあ、雰囲気の話だとこの姉弟は天と地ほどの開きがあるように思うが。
「嬢ちゃん、あんな風におおっぴらに呪術を使いなさんな」
「…あなたがそれを言うの?」
(確かに説得力はない)
思わず心中でうんうんと頷いてしまった。
即座に返された言葉に、アスランはひるみもしなかった。想像していたような苦笑もない。
「あんたの呪術は、あんたがかわいそうだ」
「……」
ふたりの神妙なやりとりに、朝とキニスンのふたりは言葉もなく視線を交わすしかできない。
何か、呪術を扱うもの同士、アスランにはアニエスのそれに感じるものがあったらしい。
「そう言えばキニスン達は、あの辺に用があったのか?買い物?」
「違うね、天球屋で働くトキを訪ねて遊びに行こうかとしていた途中だった。姉を無理矢理引っ張ってきたね!」
「また何でそうやって無茶するかな…」
重い空気を慮ってひそひそとやりとりしていたが、次第に声はいつも通りの大きさになる。
苦笑を残して視線を先に外したのはアスランだった。そのまま少年達の方を向き、朝の頭の上に背後から手を置く。
「あのくそ店主にまた寄るって伝えといてくれ。じゃあ、またな」
「えっ?」
ぐしゃっと髪を乱されてもかまわずにすぐに振り返るが、少し埃っぽいコートの背はすでに遠ざかっていた。
(またな、か…)
まだいろいろと聞きたいことがあったのに。
朝は自分でも落胆しているという事実とはっきりと感じて、髪を戻しながらうなだれた。
「気を遣ったかね?そういうおっちゃんには見えなかったけどね」
「あーうん、たぶんあの人もいろいろ用事があるんだよ…あ、そういえばシクには会った?」
「シク?来ていたのかね」
ではまだ合流していないのだ。入れ違いになったのだろうか。
気分を害したように顔をしかめていたアニエスが、シクの名前にわずかに顔をこちらに向けた。反射的に小さく笑いかけると、また睨まれてしまった。
(ああなんか、うん。アニエスにもずいぶん慣れてしまったなあ)
もちろん睨まれれば傷つくしきつい言葉にひるみもするけど、あの態度をどうにかしてほしいと思わなくなった。このままでも、構わないのだ。
いつからだったか、そう思うようになった。だから睨まれたって、朝は阿呆みたいにアニエスに笑いかけることが出来るだろう。
「さっき会ったんだ。着いたばかりみたいだったけど。どうする?店に来るなら俺は仕事でお茶ぐらいしかだせないし構えないけど。店長がいろいろ構ってくれると思う」
「うん、行く行く!あのおっちゃんもお店も面白いよね!」
「…私は帰るわ」
「駄目、姉も来るね」
ここぞとばかりにくるっと背を向け逃げ出そうとするアニエスの腕をがっしり掴んで、朝に先んじる勢いでキニスンが行く。
それを笑いながら朝が追う。
(ああそういえば、店長、がクワイラだって、言ってたっけなあ)
なんかもう、いっぺんにいろいろやってきて、なにがなにやらと頭が混乱し続けている。
それはもう、ここに来てからずっとのはずだった。
店に戻って朝はいつも通りに店番と雑用の仕事を言いつけられ、姉弟は手伝ったり退屈そうに書物を広げていたり好きにくつろいでいた。
店主はいつも通りに怠慢で好き勝手に振る舞っており、名前が明らかになったことなど気にもとめず、話題の端にも上らなかった。
だから朝も、なにも追求せずにその日を終えた。
「おかえりなさい」
夕刻になり、宿に三人でたどり着くとすぐにシクが出迎えてくれた。
旅行先に、久しぶりのその言葉を聞くと不思議な心地がする。先頭だった朝は笑顔になってただいまと答えた。
首都に来てから、目的の進行は思わしくないし(今日の日まで)、いろいろめまぐるしく退屈はしなかったがこういう時に、帰りたいなあと思うのだ。
「なんだかそろそろイスパルの料理が恋しくなってきたね」
タイミングを見計らったようにキニスンが言うので、そうだな、と実感を込めて頷く。
「イスパルも作りがいがないとすっかり落ち込んでいますよ。みんなやはり寂しそうにしていて、大祭が終わったらおみやげをたくさん買って帰りましょうね」
寝泊まりに借りている部屋まで移動しながら、じゃああれが良い、これもどうかとおみやげ候補を挙げていく。
「大祭の終わり、帰るのって、決勝戦のあと?それとも、大祭自体の終わり?」
今年の優勝者が決まるのは約七日後。大祭自体が終わるのはさらに十日後のことになるので、ずいぶんと違ってくる。
「用事が終わればいつでも構いませんが。どうせなら決勝戦は観に行きませんか?」
言ってシクが取り出したのは金属製の版だった。
「なにこれ?ぴかぴかしてるね」
興味津々ののぞき込むキニスンを、やはりゆったりとした笑顔で見守りながら告げる。
「王城の通行証ですよ。決勝戦は王城の中央広場で行われますから」
「いわゆる御前試合って事か…って、シク、何でそんなもの持ってるの!」
問いのあとすぐ、まずいこと聞いたかと朝は焦った。いつもそうだ、発言や行動に常に自信がない。
「むかし偉い方にいただきました。私が偉いわけではないですが、みんなも一緒に入らせてもらいましょう」
それに頓着もなくシクはおっとりと、何の当たり障りもない答えをくれた。
そんな大層なものが、何でもない人物に与えられるわけもなく、シクも十分に訳ありの事情を抱えているのだろうに、誰も疑問を挟まなかった。朝も、さすがに挟むことは出来なかった。
やはり本音を言えば試合を見に行くことには気が乗らないが、せっかくの提案だ。しかも決勝戦だけならばと言う思いも手伝って、ではその日は開けておきますと朝も頷いた。
「ええと、誰だっけ。群青さんが言ってた。キリー…どら?ああ、キリー・クアンドラが勝てばいいなって。シクは知ってる?強いのか?」
「キリー、クアンドラ、ですか。ううん…」
シクは少し考え込むようにうつむいて、緩やかに首を横に振った。
「いいえ。もしかすると国内の方ではないのかも知れませんね。来たばかりで今どなたが勝ち進んでいるのかもよく分かってはいないのですが…」
「張り紙が今町中に張り出されているね、シクも見ると良いよ!」
「サザーロッド・リビットが出てないからまだ荒れるんじゃないかな」
朝がぽつりと零した名前に、シクが目を向けた。少し驚いているような表情だったので、朝の方が目を瞠ってひるんでしまった。
「シクも、知ってる?強い傭兵」
「ええ。橙の瞳の。知っていますよ」
朝はシクが視線を外すより早く目を伏せた。ああ、どうしてかなあ。
(誰もがみんな知っていることも知っている人も明らかにしないでぽつぽつと欠片ばかりを落としていく)
もしかしたら、突っ込んで尋ねればどれも答えてくれることかも知れない。
朝はそのどれもしたくはなかった。
自分から踏み出すことは、したくはない。
やはりたいした変化もなく、日々とともに挑戦者の数は半数から半数へと削られていった。
シクは首都までやってきた用事を済ませているらしく、宿にいないこともしばしあったが、その代わりのように群青やアスランの顔を見かけることも増えた。
群青は相変わらず屈託なく朗らかで、アスランからはぎこちなさが抜けずにいた。
「よ、よお。邪魔して良いか」
やはりなんだか、久しぶりに再会した物慣れない親子のようなやりとりになる。
(無理して、会いに来ることはないのにな)
どこか遠慮を感じ取ってそうも思う。アスラン自身を厭う気持ちはない。けれど気の乗らない訪問なら、別段会いたいと思う親しさもなかった。
(…嘘だけど)
朝個人は、アスランを好人物だと思っているが、そう思うこと自体呪術の作用ではないかという思いがぬぐえない。全くないとは言えないだろう。
だから、彼の訪問時に、同時に群青もいると心底気が抜けた。彼は本当に朝の気を読んだように緩衝材になってくれ、アスランとの会話に割ってくれた。
クワイラの店にも相変わらず通っていたが、この数日間は比較的キニスンやミーシャと遊ぶ機会が増えた。限りのあるお小遣いで王都を存分に見学しては遊んで回った。
さすがにもう十分かなと旅の新鮮さも抜けきった頃、とうとう決勝戦の日を迎えた。
対戦者の両名は、ヤコフ・デリスとキリー・クアンドラ。
「残ったなあ」
感心する思いで張り紙を見上げていると、隣を歩いていた群青が得意そうに笑った。
顔を向けられたのでつられて反射的に笑みを返すと、なぜか少し、群青の表情は苦いような笑みに変わった。
「?」
「こいつ、知り合い、うーんまあ一応友達なんだ。たいした怪我もなく勝ち進んでくれたんで、ほっとした」
「…あ、ああ。そうだったんですか。よかったですね」
以前はぐらかされた問いが、今になって群青本人からしっかりと返された。
なので少しうろたえてしまった。その事実をどう受け止めるべきか、うれしいのか複雑なのかも分からない。
そしてこうも思う。
群青さんの知り合いなら、やっぱりこの人が優勝するんじゃないだろうか。
それは結構、確信に強い思いが湧く。
合間に乗合馬車などの交通機関を経て、フェドレドの北端に当たる城門前にたどり着いた。
近くまで寄ってみたことはあるが、さすがにその先は未知である。
王族や王侯貴族が暮らし、敷地内の維持に関わる多くの人間が暮らすクォの王城は深く険しい谷底と入り組んだ渓流を背後にそびえ立つ。町並みと同じく白が基調の質実剛健な外見だが、その威容と荘厳さは見事だった。
シクの証明で難なく門をくぐり抜けた6人は、それまで徒歩だったのにそれからは馬車へと押し込まれた。
「歩いていくと、城内に入るまでに日が暮れてしまいますから」
もはや想像の域すら越える規模の話だ。朝は内心がっちがちに萎縮する心身ときらびやかな車窓からの庭園に、めまいを覚えながら頭を下げた。
(城って、初めてだ…)
当たり前のことを思う。現実感がないのも相変わらずで、けれどまごうことない実感。
そわそわしながらもやはり泰然とした子供達と、気を張ったままのアニエスと、久しぶりだなあなんて余裕で談笑している大人ふたりと。
朝はそれを眺めてひとり、切り離された心地になる。
眠たくて疲れている風を装って、少しの間だけ目を伏せる。
それからも言葉のでない驚きは続いた。
テレビの旅番組で見るような、教会や神殿を彷彿とさせる城内は、どこもかしこも作りが大きく天井は遙か頭上にあった。
連れだって歩く回廊は思ったよりもすっきりと、豪奢さの感じないつくりではあったが扉などはどこも天井まで続くほどの高さだった。巨人が暮らしてるのかこの城は。おそらくきらびやかな内装の場所は、朝達が通れる場所ではないのだろうけど。
「シク、フェドレドの街でもよく見たけど、城でも多い。あれって、同じものだよな?」
朝が見上げていたのは城のそこかしこに見られる装飾のひとつだった。首都の柱や、門の角、建物の端々にも、同じようなものを見た。
「ええ、クォの女神ですね。ディオラ・アーシェンテと言います。氷炎( と愛を司ると言われていますよ」ひえん )
「クォは寒いからね!冬の日差しは彼女の恵みと言うね!」
「そこかしこに信仰が根付いてるからな。首都は総本山なんだ」
零した問いかけに一気に三人が答えてくれる。キリスト様みたいな象徴だとは思わなかった。
しかし神様か。偶像か実在の何かかは分からないが、やはり実像は結びつきにくい形だった。
緩やかな長髪とやわらかな微笑みをたたえた大人の女性の彫刻は、色を失ったままただそこで、朝を見下ろしているだけだ。
やがて衛兵の先導で辿り着いたのは、四方をバルコニーで囲まれた中庭のようなところだった。
目で楽しめるような植樹もなく、石が敷き詰められた一階部分は中央に台座がおかれているだけだ。
「ここがいわゆる、謁見の間だな」
「えっ、こんな形初めて見た!」
朝は思わず群青のつぶやきにそう驚きの声を漏らしたが、こんな形に限らず謁見の間など肉眼で見たことがあるわけもない。
たしかに、ゲームなどでよく見る王様と謁見者が直接向かい合うような形では、いろいろと危険なのかも知れないが。
バルコニーの中でも一方向だけ隔たれ、いかにも荘厳なオーラを醸し出している、あの一角とその二つ並ぶ玉座が王様の席なのだろう。朝達は側面の末席、二階のバルコニーに立っていることになる。
その他の席も盛装し談笑し合うおそらく貴族の紳士淑女で埋まっていた。満席と言うほどでもないが。
「もしかして、決勝戦を見られるのってこういう、上流階級の人だけ?」
声を潜めて群青の高い背に尋ねる。苦笑とともに、頷きが返された。
(第三層の人かと思っちゃった)
以前、白蓮草の家につとめるニナに、そう言われたことを思い出した。その時は意味がよく分からなかったけど。
(みんな、あんなに大祭を楽しそうにしていたのに)
決勝戦を、よりによって、決勝戦を見られないなんて。
権威を示す、とかそういう効果があるのだろうか。この、もったいぶるとしか思えないやり方の、意味が分からなかった。
「トーキ。座ろう?」
腕を引っ張られて、キニスンの顔面に我に返って苦笑する。ここ最近ずっと、考え通しでいろいろなことが混ざり合って、少し頭痛がしているようだ。
「うん、座ろう…」
「シク、ちょっといいか」
促されて今まさに腰を下ろしかけたところで、響いた声に膝が伸びた。反射的に、振り返る。
「アスラン?珍しい、どうなさいましたか」
シクが答え、出した名前に子供達全員が何らかの驚きを見せて顔を上げた。群青だけが苦笑いを浮かべて腕を組んでいるので、彼はすでに承知していたか、何かを感じ取ってはいたのだろう。
「話がある。少しはずせるか」
「…ええ。ジョー。みんなを頼みます」
「頼まれました。いってらっしゃい」
すこしかたい声で用件を促したアスランは、朝の方を一瞥もしない。
シクを促して、ふたりで再び回廊へと下がってしまった。朝は硬直したまま、高鳴る動機を押さえられない。
「ト、トキ。アスランって、あのおっちゃん?」
ああ珍しい、キニスンが動揺して目をぱちぱちとしている。なんだか場違いに和んで笑顔を向ける。その隣のミーシャが、そんな朝の様子を気遣うように身を乗り出して、見つめてくれていた。
「そう、あのおっちゃん。俺はもう知ってたんだけど。黙っててごめん」
「そんなこといいけどね、トキ、トキ、おれ」
「どうした?」
いきなりそわそわと、落ち着き無く腕を動かしている、きれいな彫刻のされた肘掛けに身体を寄せ、朝の方へを身を乗り出して、とても不安そうに、澄んだ青い瞳が揺れる。
「トキ、帰っちゃ」
「キイ!」
がたん、
ミーシャが顔色を変えて名前を呼ぶのと、何かを言いかけたキニスンの口を、アニエスが手のひらで塞ぐのはほぼ同時だった。
「黙りなさいキニスン。耳障りだわ」
「……」
しばらくおかれたままの手のひらに、キニスンはやがてうなだれて、肯定を示した。アニエスはやっと手を離すと、黙ったまま自分の席に戻っていく。
しん、とその場が静まりかえってしまった。朝もなにも言えなかった。けれど動機は、収まらない。
「…群青さん」
「いっといで。俺はみんなを見てるから。まさか城でザグルはないだろうけど、気をつけてな」
「はい」
付け加えられた忠告に口元がゆるむ。とっさにうつむいていた顔を上げたキニスンが、おれも、という形に口を動かそうとした。
朝は立ち上がりながら黙ってその頭を撫でた。柔らかな髪を乱すように。
そのまま誰も見ず、ふたりを追って謁見室を出た。
足はどんどん早歩きになった。頭がいっぱいでなければ、目からは涙があふれてくる気がした。
(トキ、帰っちゃ)
その後に続くおそらく二文字を、朝は永遠に封印しなければならないと思った。
(2008.11.2)