15 餞別







「ネストリア・ビアン・クォ・アーシェンテ女王陛下、御成ー!!」
 風の呪術の効力で拡声されたそれで、決勝戦の開幕を知る。
 ネストリア。彼がこの宮廷を出るときはまだ多感な年頃の少女だったあの姫が。今はもう毅然と一国の頂点に立つ国王陛下だ。国と三人の子供達の母ともなったのだ。
(年を取るわけだな)
 らしからぬ思考に自嘲の笑みが漏れる。そもそもこういった思考回路が年齢のかさばりを実感するところなのだが。
 クォの王位継承権第一位は通常第一子が持つ。性別にかかわらず。だが女王が望まれた。
 そのいわれともなるのが建国の折初代国王を護り導いた英雄、戦女神とたたえられるアレンシアだった。
 アレンシア・シィ・クォ。彼女は初代国王の一の親友であり姓を同じくしたが、きょうだいの契りと変わらぬ意味合いのもので、ふたりは色めいた関係になることは生涯無かったという。高潔な印象のエピソードがまた人気のもとだった。
 そういった経緯あってか、クォでは女王即位が多かった。信仰するディオラが女神と言うこともあるだろう。資質よりは頂点に立つものの華やかさ、気高さを民衆は求める傾向にあった。政治手腕に恵まれた女王も国王もいるにはいたが、ネストリアはそのどちらとも言えない。
 人並みに贅沢を好み、人並みに野心を持ち、人並みに情けを持つ女だった。
 今は半々の割合で臣下や民衆に好かれ、自身もそれと知りつつ現状維持に甘んじている。
 国王であることに熱意は感じられない、ただすべき事だけこなしている、怠惰にすら取られる国主だった。
「だから姫に王は向かねえって言ったのによ…」
 ちらりとバルコニーからかいま見た、久々に見る彼女は当然ながら成人した、美しい国王だった。婉然と笑いかける口元だが、目元はどこか覇気に乏しい。
 実際の年齢よりも疲れているように見えた。若草色の拗ねた瞳だけがかつての面影を残している。
 漏らしたつぶやきを、再度苦笑でかき消す。奔放に振る舞っていた若い頃、アスランは幼い少女につまらない男、と辛辣な評価を賜ったことがあった。
(昔からお嬢さんのほうが、生きることがつまらなそうに見えたぜ)
 そうか、今も、退屈なのか。あのお嬢さんは。
 そう思うと胸がつかえて、少しだけむなしかった。
 あれから十五年以上の月日が流れた。王も代替えするほどの月日。構造はともかく内装も、行き交う顔ぶれも覚えのないものになっていて、存外アスランを安心させた。
 呼びとがめられる心配はなさそうだ。入城を許された証明書は懐にしまってある。
「アスラン・ヨーグ」
 呼ばれてようやく立ち止まり、従ってきてくれた人物を振り返る。
 彼女、シクとも、初めて出会ったときからはずいぶんと時間が経っていた。
 昔から変わらない銀糸の髪と、鋭い切れ味を持つ刃先を思わせた、薄緑の両眼。
 雰囲気は和らいだが、本質は変わらぬようだった。
(あの、激しかったお嬢ちゃんがまた、ここまで変わるたあなあ)
「お話は?アスラン」
「悪ぃ、俺も城にまで来る気はなかったが、急ぎたかったんでな」
 促されて、意識を現在に切り替える。いくら顧みて過去を懐かしんだところで、年若い子供達には関係のないことだ。
 感傷よりもまず、彼らのことを考えなければならなかった。
「嬢ちゃんは?」
「ええ、もう落ち着いています。決勝戦を応援したいと言っていましたから、会場のどこかにいるかも」
「…側に誰かいるのか?」
「群青とつながりのある騎士がいますよ。あの人は本当に顔が広いので」
「…なら、まあ…ともかく、だ。同じ場所にふたりがいるのはまずかねえか」
「なぜ?」
「…会わせるつもりか?」
「いけませんか」
「俺は、よくはねえ、とは思う」
「私はそうは思いません。出来ればふたり一緒に、保護という形を取りたい」
 淡々とやりとりを交わすようでいて、揺るがぬように立っているのはシクだけだった。
 アスランは表に出すことはないが、内心はひどく焦っている。
 それはもちろん、出来るのなら安全な場所に、ふたりをそろえておきたい。
 そして何か起こる前に、もとの世界に帰す手はずを整えてあげるべきだ。
「ただの呪術師としての意見だが、ふたりを会わせず、別々に保護した方がいい。あの嬢ちゃんの式は、構築式は一朝一夕でどうにかなるもんじゃねえ」
「あの子だけひとり隔離しておけと、檻に入れておくべきだという風に聞こえる」
「そうじゃねえ。トキはまだいい。あいつは俺が喚んだ。あいつの式なら俺の頭に全部入ってる。だが嬢ちゃんはそうじゃねえ。俺が下手に手を入れれば嬢ちゃんがどうなるかわからねえ」
「アスラン、回りくどい物言いはあなたらしくない」
「俺が、トキを引き取る」
 わあああああ、歓声が響き渡る。決勝戦の幕が切って落とされたのだろうか。
 濃い影が足下に落ちていた。シクはひとつだけ、瞬きをする。
「そして先に、トキを送り返す。なにがあろうと俺の命を賭してやってやる」
「その間、あの子を私たちが護る、と」
 静かに受け答えをしていたシクの瞳が揺れるのをかすかに感じた。アスランは苦笑して、一度言葉を切ると声をかける。背後へ向けて。
「お前の話だよ、トキ。隠れないでいいさ」
「!!!」
 息をのむ気配がして、やがて萎縮したようにときが顔を出した。アスランがひょいひょいと手招きしてやると、やはりおびえるように、申し訳なさそうに寄ってくる。
「俺がお前を引き取る、ってとこからいたな?俺はそうした方がいいと思うんだが、嫌か?」
 逃れようもない直球の問いかけが真っ先に向けられた。朝は、アスランの顔を凝視し、シクの顔を横目に見、そしてそのまま固まった。
 シクは、微笑みを向けてくれていた。
 その笑みが、朝を引き留めるためでなく、送り出すたぐいのものだと、そう思ったのだ。
 朝はちっとも、惜しまれていない。ではなく、
(俺が、なにも考えず出て行けるように)
「トキ、すっかり待たせてしまいました。アスランに着いていきますか?きっとすぐに、お家に帰してもらえますよ」
 いきますか?と疑問系の語尾が、聞き返すまでもなく行った方があなたのためだと告げている。
「あ、ああ、俺。何もしていない。こっちに来た、世界の破滅。俺と同じ世界の禁呪を」
 たたみかけられて呆けてしまっていたが、本来の役割を思い出してしどろもどろに告げる。
「見つかったんだ」
 隣のアスランの声に、はっと見上げる。
「いたんだ、お前と同じ世界の人間。大祭に来てたんだ。小さな娘だった。ツグミっていう」
(つぐみ…)
 知人ではなかった。ずっと懸念だったことが解消されてそれだけは息をつく。日本人のような名前だ。おそらくは日本人なのだろう。
「最初は見つかったら、それを、まあツグミ嬢ちゃんだな、を、お前に見張ってもらう形でまとめて保護して危険が及ばないよう対処する予定だったんだ。だがなあ、嬢ちゃんに施された呪術は思ってた以上に複雑だった。予定外のことだといっていい」
 こんな術式だとは聞いちゃいなかった、一番いい対処として朝を喚んだアスランには、本当に想定外の事態だった。
 どんな禁呪であれ、朝ひとりで押さえ込める術式のはずなのだ。そういう風に朝を喚んだのだから。
(そう、相性とかいろいろ考えて導き出した先にトキが来たんだ。それに俺が当てをつけた禁呪は、火の趣のはずだ。だからトキには水を纏わせた)
 しかしあの少女に施された術式は、はっきり言って暴挙だ。子供の落書きのように稚拙で複雑で、脈絡もなければ方程式もないような。前例がないのは当たり前だった。
(ありゃあ術師のオリジナルだろう、試し書きのようなモンだ。っち、いきものに置きやがって、えげつねえヤツだ)
「…と、言うことで、出来るだけ早く準備を進めた方がいい。トキ、来るか」
 再度、問いかけられる。真摯な眼差しだった、アスランから、どこか請うような謙虚ささえ感じる。
「俺が気にくわねえのはわかるさ」
(違うんだけど)
「はい、行きます」
 言葉はするりと滑り落ちた。シクが、ふとこちらを見つめる。
「帰ります、俺」
 いっそ不自然なほど、その言葉は出てきた。アスランが頷く。
 シクの方へ向き直ってアスランは、ついでと言った風に言葉を加えた。
「アニエスも貸してくれ。少しの間でいい」
 これには若干の驚きを隠せず、シクも呆気にとられたようだった。
「事情が分からないわけではないですが…そうぽんぽんうちの子供達を持って行かれては困ります」
 少し冗談めかした切り返しにアスランが笑う。シクも苦笑している。
(笑った)
 顔には出さず、ふたりの笑顔に朝は心から安堵を覚える。
 シクは難色を示しはしたが、アスランはアニエスを一緒に連れていくらしい。アニエスなら、いいだろう。
 その思考を深く追求せず、朝はアスランに告げる。
「アサさん、このまま行きましょう。フェドレドにもう用がないのだったら」
「お、おう。そうした方がいいだろうな」
「…そうですね、その方がいい。トキがいいのでしたらこのまま。アニエスもすぐに行かせます。落ち合う場所はあちらで?」
 シクの言葉に頼む、とアスランが頷く。トキは身体の向きをシクへ向け、頭を深く下げた。
「シク、お世話になりました。本当に、いろいろと有り難う。楽しかった。みんなにもよろしく」
 簡潔に、簡潔に。素っ気なさ過ぎるくらいの挨拶で、締めくくろうとする。
「ええ。こちらこそ有り難う。楽しかったですよ、みんなもきっと、そう思っています」
 余計な言葉を言ってくれないシクがとても、とても優しい人だと思った。
 同時に身勝手な思いで、薄情な人だ、とも。
「どうかお元気で」
「シクも、じゃあ、」
 早口で告げて背を向けようとする。肩越しに見たシクの笑顔は、最後に少しだけ歪んだ。
 いつもふわりと笑顔を崩さない人だった。そのほつれを、脳裏に刻もうと思った。
(異世界の土産は、これだけで十分)
 これ以上は持てそうにない。
 アスランに促され、朝は決勝戦の結果を見ることもないまま、王城をあとにした。
 耳が麻痺しそうになる歓声が、城内に響き渡るのは、もう少し後のこと。



 フェドレドの街は大祭中のにぎやかさが無く、開店こそしてはいるが店番の店員も気もそぞろで、どこかみな、緊張していた。
 ああ、決勝戦の結果に気をもんでいるのだろう。関心事はみな同じようで、歩く朝たちを見とがめるものはいなかった。
 向かった先は天球屋だった。ここはいつも通り、静かで雑然としている。
「よお、くそ野郎」
「おう、くそじじい」
(いったいどんな挨拶だ)
 片手を上げて悪態をつきあうふたりに朝が呆れていると、店主は短い身体をおっくうそうに伸ばして、手にした荷物を放ってよこした。
「ほれ」
「あ、俺の鞄!」
 イスパル手製の鞄だった。数少ない荷物も財布もすべてそろっている。あらかじめシクが預けていたのだという。
(俺が帰ると、思っていたって事だよな)
 そんなことでほんの少し傷つく自分に嫌気がさす。
「どっちにしろ俺んところにいったん預けようって話はしてたんだ」
 思考を読むようなアスランのフォローに苦笑だけを向けておく。どっちだっていいんだ。
 もう決めたことなのだから。
「ぼうず、トキ。手伝わせた駄賃や、この店から好きなモン持って行き」
 突然ぶっきらぼうに店主に告げられて、朝は驚きを隠せずその顔をまじまじと見返す。
「…クワイラさん」
「何かね」
 目をそらされる。首の後ろをぼりぼりと掻く仕草は、どこかばつの悪そうな、照れている風にも取れた。
「ひとつだけ、教えてください。俺はあなたの眼鏡にかなったんですか」
 だからここに、アスランがいるのだろうか、と。それが少しだけ胸に引っかかっていた。
「いんや、お前が望むモンはだいたいのところでわかっとったけど、こいつが来たんは偶然ちや。それにお前はクビじゃ、クビ。何もいらんならとっとと去ね」
「…お世話になりました」
 それがどういうポーズなのか判断しかねたから、言葉通りに受け取って頭を下げた。
 土産は十分とさっき思ったばかりで、やはり何かをもらい受ける気にはならなかった。
「アサ、オイ、持って行け」
「ん、おうっ、と!」
 朝が何も選ばないのを見て、クワイラはアスランに向かって少し長い何かを放り投げた。
 仮にも店主が、ものの扱いがなってねえと零しながら、アスランは受け取ったものをぶら下げて掲げる。
 革の留め紐が巻かれている、普通のものより長く、短剣とも言えない、中途半端な長さの剣だった。
「呪式剣か?」
 式の刻まれた特殊なものを、アスランはいくつも譲り受けては改良、解呪してきた。そのたぐいかと思って尋ねる。見たところ何も感じないが。
「ただの刃物ちゃ。餞別や」
「ふむ、じゃあもらっておくぜ、じゃあな」
「あばよ」
 さっさと背を向けて退店しようとするアスランに慌てて、朝はもう一度頭を下げ、その後を追う。
 店を出てすぐ、持ってろと落とされた剣をとっさに受け止める。最初は荷物持ちの意味だと思って何も思わなかったが、すぐにアスランの顔を見上げる。
「要りません」
「持ってろ、と言っただけだ。使う必要はない」
「使わないものを持っている意味はない。俺は剣の扱いも知らない」
「使わなくても持っていることに意味があることもある。それを知っておけ」
 諭されるように言い含められて、朝は一瞬、頭に血が上るのを感じた。
「命を奪う道具だ!」
「抜けとは言っていない。覚えていて欲しいだけだ」
 俺の勝手な言い分だが、これがクワイラの餞別なんだぜと、続けて加えられる。
 すうっと血の気が引くような思いがした。
 重い、朝には、今の朝にはとても重い。物理的なだけではなく、重い、餞別だ。
「お前は何も奪う必要はない。俺たちも、何かを奪わせるつもりはないさ」
 知っている。ここに来て苦労はしたが、何も奪われることはなかった。ただただ、与えてもらうばかりだった。
(けれど、何もなくさなかったわけじゃない)
 この世界はもといた場所から、朝を奪っていった。そして与えるだけ与えてまた、取り上げようとする。
 だからもう何も、欲しくはないのに。
「……では、持っています。あとで返します」
 冷静にと自分を落ち着けて、心がけた声は思いの外堅くこわばっていた。
 アスランからは何の返事もなかった。朝が顔を上げていないから、何らかの反応があったとしても分からない。
「…アニエス嬢ちゃん」
 先を行くアスランが声をあげて、朝もようやく視線を上げた。
 身支度を調えたアニエスが、街の外へ向かう西門の手前で立っていた。
「急に呼びつけてすまなかったな」
「うるさいのを振り切るのは骨が折れたわ。何の用?」
 どちらかと言えばアニエスの心境に同意する朝は、ただ苦笑を浮かべてふたりに走る緊張を見守ることにした。
「俺のとこに来い」
 まるで口説き文句だ、場違いな感想を抱いて苦笑の深まる顔を見せないようそっと顔を伏せる。
「私がこの世で一番嫌悪するものを教えましょうか」
「お節介、だろ?いいさ。嫌と言ってもさらっていく」
「って、アサさん!???」
「!!????」
 明らかにアニエスの動揺が伝わってくるほど、アスランはいきなり足下からその身体をすくい上げるようにして抱えた。
「下ろしなさい…ッ、…!!」
「無駄だな」
 アニエスが音には出さずに呪術を紡いだのが分かった。いともたやすく、アスランはそれをかき消してしまったようだ。
 もっとも朝には、予測は出来ても感じ取ることすら出来ないが。
「アニエスも自分の足でここまで来たんだ。本気で嫌って訳じゃあねえだろうに」
「ふざけないで!シクがどうしてもと言うから仕方なく…!」
「アサさんアサさん、なんだか変態入った誘拐犯みたいな台詞はやめましょう」
 言いながら悠々と歩く背中を押し出して、さっさと街を出ようと促している。
 なんだか日に日に、言動が親分に付き従う子分化している気がする。
 今の突っ込みといい、アニエスを助ける気はあんまり無いところといい。
 呪術を封じられてしまっては、アニエスがどれだけ暴れてもアスランには堪えることはないようだった。ばたばたと暴れる細い足が、なんだかほほえましいなと朝はうっかり不謹慎な思いを抱きつつ、フェドレドの門を無事にくぐることが出来た。見張りの兵に怪訝な目を向けられたが。
 土の地面を一歩、踏み出して、頭の後ろの方でちらちらと光るものがあった。
 きゃらきゃらと笑いさざめく甘さの残る声。はにかむように微笑む控えめな愛らしさと、飛びつかれて首もとをくすぐる金糸の。
(かわいかったなあ)
 主語は思わずに、朝の思考はそこでぶつりと切られた。腰のベルトに通した剣の柄を、ぎゅうと握りしめる。
 アニエスがやがて暴れる労力の無駄に気づいて押し黙ると、アスランは何も言わずに下ろしてやった。
 もちろん機嫌の悪さが収まることはなかったが、その場で悪態を付いたり逃げ出したりするそぶりは見せずに、少女は歩いて着いてきた。
「アサさん、どうしてアニエスを連れていくのか聞いていいですか」
 ずっと気になっていたことを尋ねてみる。すぐさま明快に答えは返される。
「ちょっとな、呪術の基本からやり直させてやった方がいいと思って。資質は申し分ないが使い方がなっちゃねえ。どうせヤブ呪術師に習ったか、へたすりゃ独学だろう」
「……」
 珍しく、と言うべきか。アニエスからは何の反論もない。
(やっぱりアサさんにはかなわないって、アニエスももう分かったのかな)
 朝自身はおそらく、初対面にして真っ向から逆らう気概は消滅していた気がするが。
 召還されたから(そういう要素もないとは言えないが)ではなく、人間的に、人生経験的にも、もちろん実力でもアスランにかないはしまい。
「呪術は何でも出来る便利な力ってわけじゃねえ。アニエスもそれを分かってるくせに無茶な使い方をしてやがる。だからタチが悪いってんだ。シクは甘やかしてたんだろうな?」
 水を向けられても、ぷいっと顔を背けてだんまりを続けている。
 今まで感じたこともないような印象がアニエスから感じられて、ふと口元がゆるんでしまった。
「まあその辺から基礎だけでいいからきっちりと鍛え直してだな、あとは、そうだな。トキを送り返す手伝いをしてもらえたらって思ってな」
 続けられた意外な言葉に、頭ひとつ分は高い顔を見上げる。群青ほどではないにしろアスランも長身だ。
「お前を喚んだときも俺ひとりだけでやったわけじゃねえ。ほとんど俺だけどよ、準備とか、もう話は聞いてるんだったか、純度の高い水の準備とか。媒介はさすがにひとりじゃあ無理だったな。国の要請だったし、せいぜい派手に喚んでやったんだぜ」
「そ、そうだったんですか…」
 想像しにくいことだが、そう言われると大事のような気がしてきた。実際落とされた先はオセーネの街だったわけだが。
「ま、俺の住処に着いたら何だろうが答えてやるから」
「はい」
 朝は短く答えた。どこかで、もう必要のないことだとは思うけどと、ねじれてひねくれた思考が頭をかすめるが、本当に帰してもらえるのかという不安はみじんもなかった。
 この人は、言ったから。帰してやれる約束で喚んだのだと。
 アニエスの修行(?)やそれらの準備にはどうやら一日二日では足らないようだから、朝もそれまでいろいろと学んでいこうと思う。
 せめて、納得して帰りたいと思う。不気味なほど冷静にそう思う。
 始終無言のアニエスと、時々世間話を向けてくれるアスランと答える朝の道中は、途中交通機関を、といっても商家の荷台に乗せてもらう程度だが(この世界では立派に交通機関だ)経ても四日かかった。
 えのぐり茸の家に帰るほどではないが、アスランの住まいも首都からそれなりに離れている。
 クォにはその地形的に山が多く緑が深い。ここも例外なく山間部で、木や切り立った崖に、少し歩けばすぐに突き当たった。
 町はずれで、あたりには人家もろくにない。
「遠い方がいいさ。無駄な金を使う機会も減るしな」
 みっともないとも取れるが、どこか格好いい台詞を吐いて、アスランが木造のこじんまりとした一軒家に招いてくれた。明らかにひとり暮らし、もしくはその程度と分かるような小さな家だ。
「近くに、ここからじゃ見えないがカウクス湖がある。山を歩きゃあ山菜や獣もそれなり。ま、冬でも食うには困らねえさ。走って一木すりゃあ街に着くしな」
(サバイバー!!)
 えのぐり茸の家でも自給自足だったのだが、なんだかここはそれ以上に野性的な生活感を感じた。
 室内も小さな石造りの暖炉、本棚、本棚、積み上げられたよく分からない小物や書物、なんか魔法使い、否、呪術師っぽい。ほんの少しの調理器具や食器類。放置された衣類。
 奥に続く狭い一室があって、そこが寝室らしかった。そこもすごい紙束が積み上がっている。書き机も見えた。自室兼仕事部屋だろうか。
「ま、狭いが楽にしてろ。なんか飲むか」
 ばっさばっさと、無造作に積み上がったものを蹴飛ばし投げながら(おかげで違うところが散らかっていく)アスランはソファらしきものを掘り出した。
「汚い…」
 今まで黙っていたアニエスがぼつりと、あまりにも核心的で致命的な一言を放った。
 残念ながら朝も、相手がアスランでなければうんと頷いてしまっていた。今回ばかりは内心の同意にとどめる。
「なんだよ、男の家が小綺麗に片付いてたら気色悪いだろうが!」
「いや、それはあなたの主観で、きれいな方がいいです」
 一瞬前の自重はどこへやら、耐えきれずに朝もずっぱりとアスランの主張を退ける。
「こんなところで呼吸したくもないわ。肺にほこりが積もる。外に出ているから、用があれば呼んで」
(ちょ、この惨状に俺ひとりで!??)
 くるりと背を向け、真っ先に退場しようとするアニエスを、朝は反射的に呼び止める。
「用はある!アニエス、片付けるの手伝ってくれ!」
「……」
 おそらく完全無視されるよりはましだったのだろうが、振り返ったアニエスに表現できないほどすさまじく凍えた目で睨まれてしまった。
「ええー、お前らあれだけ歩いてきてまた働く気か、若いな。俺はもう寝たいぞ」
「こんな状態でくつろげますか!アサさんも!捨てられたくないものを先に確保してくださいね!全部燃やしますっ!ちくしょう、俺だって疲れてるっちゅーの!」
「お、おう…しかしだな、この書類は捨ててもいいがまたいつか必要になったときに使えるかもと思うとだな」
「片付けられない人間の典型ですよそれっっ、どうしても、どうしても必要な分だけ避けてください!」
 朝の剣幕に飲まれたのか、だらだらとではあるがアスランも分別を始める。
 朝だって、以前から片付け上手だったり特にきれい好きというタイプではなかった。しかし、この惨状は。ひとり暮らしだろうから本人の好きでいいのだろうけど。
 人を招く家じゃない…!自分の健康のことを考えてない汚れッぷり…!!
 埃もひどいのだろう、実際肌が乾燥するようなかゆさも感じる。これを放置したまま休むなんて、ひととしてアレだ、とすら思う。
「…イスパルみたいね、トキ」
 アニエスの静かな突っ込みに、顔面が引きつるのを感じた。
 きれいにすれば気持ちよく過ごせるのだと言うこと、自分でもきれいに出来ると言うことを、確かにたたき込まれた。
「……あー」
 強迫観念だったのか。
 確かにこれを見たイスパルは、アスランをぼっこぼこに殴り倒した後徹底的に掃除し尽くすことだろう。
 その代行だ。まるで憑依されたかのような、突然湧いた憤りの訳が解明された。

 

 

 

 

(2008.11.08)

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