16 要素
最低限のシーツや衣類をまとめて洗濯に出し、積み上がっていた紙束や雑貨もすべて外に出してしまう。
アスランは分厚い辞書のたぐいの上に腰掛けて、それらの分別を億劫そうにこなしていた。
その間アニエスは川に洗濯へ、朝は芝刈り、ではなく屋内の埃払いに必死になる。
合わせて二つしかない窓と戸を全開にして、ごみを掃き出し、水を直接かけてこする。
日はまだ高かった。快適で清潔な寝食のためならば、と朝は心を無にした。疲れた身体にむち打って。
「ホント感心するぜ、クワイラがお前を重宝した気が分かるってモンだ」
たき火に不要なものをくべて処分しつつ、枯れ枝で炭をつついているだけの当の張本人を無言で睨む。苦笑が返ってきた。
(…まったく)
アスランは独身で、家族は誰もいないという。本人が世話焼きで人好きだという噂が本当だと、朝はもう知っているので少し大目に見てやる気にもなる。偉そうなことに。
大掃除を決心したとはいえ二間しかない小さな家だ。完璧に、となるともう少し時間がいるが見逃せない汚れは排除した。手をぬぐって朝が外に出ると、たき火をくすぐっているアスランに手招きされた。
「嬢ちゃんはまだか。遅くはねえか」
「アニエスのことだからたぶん、ひとりでうろうろしていると思います。もう少ししたら見に行こうかなって」
「そうか、まあ座れや」
と、いつのまにかけていたのか銀色のポットが火から外される。
アスランの手元にはカップが三つ。豆茶のいいにおいがする。
「いただきます」
豆茶はコーヒーより素朴で甘い渋みがある。朝にはせめてミルクが欲しいところだが、これはすっきりとした味わいで飲めた。
「冷めるとまずいがな、うまいだろ」
「はい」
「豆茶と酒に金は惜しまねえ主義でな」
安酒も安酒の良さがあるが、いいモンの価値ってのはやっぱり相応のモンになるのさ、と零すアスランの横顔を眺め、大人だなあとしみじみ思う。
朝もいずれ、そう遠くないうちに、父親と酒の善し悪しについて語る日など来るのだろうか。考えたこともなかった。
すでに十一月( を越えた風は冷たく、火からもたらされる熱がありがたい。
アニエスは洗濯などして手を凍えさせているだろうか。少し心配になる。今からでも呼びに行こうか。
朝は一度首を巡らせ腰を浮かしかけたが、アスランが幾枚かの紙を手にじっと見入っているのに気がついて中断した。
再び向き直る。それは、と尋ねる。まだここにあるのだから、処分できないたぐいの大事な書類であるのだろう。
「ああ、これか。お前をこちらに喚んだときの、術式の走りのたぐいだ、さすがに覚えちゃいねえほどの膨大な量だからな、確認しとかねえと」
「……」
自分で尋ねておいて、言葉が詰まる。豆茶の入ったコップを手の中で回しながら、何だか苦い笑いを漏らす。
どうやらこちらに喚ばれるというのは、ずいぶん手間暇をかけた大がかりなことだったらしい。国内随一の呪術師が駆りだされているだけでも大層に思っていたが。
それを送り返すのもまた、大がかりで大層なことになるのだろう。
「俺、何のために来たんだろうか」
ぽつりと、漏れた。それはずっとずっと、こちらに来てから抱き続けていたもの。
分かっている。話は理解できている。必要があったから喚ばれ、必要が無くなったから帰らせてもらえる、それだけのことだった。
「……」
アスランはそのつぶやきに含まれた逡巡をくみ取ってくれたように、紙片を紙であぶらせるよう揺らすだけで、何も言わない。
だから朝は遮られることなく、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「出来ないなら死んでくださいと、最初は脅されたんですよ、シクに」
苦笑を向けると、アスランからは本当に苦笑いといった表情が返ってきた。
「切羽、詰まってたんだろうよ、非情になりきらなきゃ巻き込めやしない」
そうだったんだ、冷たくされた時間なんてほとんど皆無だったけど、当時を思ってもう一度朝の顔が歪む。
「俺が何をしたんだって思った。ただ普通に生きてきただけなのに、家族や友人と離されるし裸足だし警組にいきなりボコ殴りにされて。俺が悪いのかっていじけてた」
自然と視線は落ちていって、少しずつ冷めていくカップの中の豆茶を見つめる。冬の幹の色。琥珀より濃く黒曜よりは淡い。
「文字は読めないし、暴力的だし破天荒だし、一緒に暮らす人たちはみんなにぎやかで俺をおもしろがったり分け隔て無かったりなついてきたりした。ご飯は美味しかったし夜になれば眠りは来た」
たんたんと、語っていった。こんな風に口に出すことはなかった、出さないと思ってた。
「俺はそんな自分が許せなかった」
ある日から。
いつだっただろう、覚えていないある日から。出来るだけ自然に振る舞いながらも、心にきしみを覚え始めた。
「危険な目にも遭ったし解らないことだらけだったけど、毎日楽しかった。俺がそういうものだからだとしても、みんな大事に扱ってくれたし、苦しいこと悲しい事なんてちっぽけなことだった。ただ、俺だけが俺を許せなかった。俺は、もとの世界が好きだったんだ」
過去形ではない。好きだったと、気づかされたのだ。
ふっと、顔ごとアスランを見上げた。喉元から冷えた何かが、下りるような感覚があった。
「あんたのせいだ」
ずっとずっと、言いたかった言葉が出た。
「俺じゃなくても良かったじゃないか。似たような姿形、性格の男なんて、俺の世界、捜せばいくらだっているんだ。こんな、何もしていないだけのただの旅行者、何で俺じゃなきゃいけなかったんだ」
八つ当たりになると解っていたから、誰に対しても思いをぶつけることが出来ずにいた。
ぶつけるならば、悪態の対象は、名前しか知らずにいた術者そのひとに違いないと。
そのひとにしか言えない。
「あんたの所為で、俺はこんなに苦しまなきゃいけなかった!」
アスランはただ、静かに朝の吐露に耳を傾けていたが、やがて顔をわずかにしかめ、らしくなく歯切れの悪い様子で。
「お前、この世界も、ずいぶんと好きになっちまったみたいだな」
「!」
どこか小さなつぶやきに、朝の頭にかっと血が上る。
言って欲しくなかったと、この人は解っていたろうにあえてそれを突きつけてくる。
「俺が選んだ訳じゃねえけどよ、この俺が喚んだんだぜ、トキ。お前でなきゃいけない何かがあったのさ」
その理由で納得して貰わなくてはならないと、それでもばつの悪そうにアスランは答えてくる。
「何かって、なにかって、何だよ、俺が、俺が何をした!?この世界に来て滞在して、俺は何もしていない!」
「本当か?」
ひやり、と冷えた汗が背中を伝う感触がした。本当に、いつしか汗をかいていたのかも知れない。
「お前ここに来て、何もしなかったし何もなかったか?」
「……」
強い眼差しでアスランをにらみ据えるようにしたまま、そうではない、と思う。
一所懸命だった。今まで生きてきた中できっと一番と思うほど毎日、学び働き取り組んでいた。理由はいろいろとあるが、そういう環境にあったからだ。身体は自然と慣れていき、辛いと思うことはなくなっていた。
朝が言うのは局面的な話ではあるが、そうでないならば十分に充実し破綻した日々を過ごしてきた。
「生きてた。この世界で。でもただ、それだけだ」
「いいんじゃねえの」
上等な答えだ、とアスランは相好を崩した。朝の返答が、気に入ったとでも言うように。
「いい、って、なにが…」
もし朝が、異世界にわざわざ飛ばされたという大事に足るなにかを成し遂げたあとならば、納得してもとの世界に帰ったのに。
こんなに渋るのは、最後の最後に逃げるようにろくな別れもせず、さらに呪術師に当たって喚いているのは。
解っている。わかって、いるのだ。
「こんなに、くるしいのに…」
胸のあたりの服を、きつく握りしめる。
もとの世界に帰れず苦しい。寂しい。一刻も早く帰りたい。その思いが風化する事はない。帰る方法が何もなくてもう少し年月が経てば解らないが、今の朝にはそれはない。
たった三つの月。その程度だ。けれどどうしてこんなにも。
「そうだ、俺は、この世界も、好きなんだ」
帰りたくないという思いが、一瞬以上で介在してしまうほど、異世界は朝を受け入れすぎた。
この物騒で不思議な世界。広大な山を駆け上ることも一面の平原、同じ景色を望むことも、異形の化け物に襲いかかられることも。
笑いかけられて、カタカナ発音でトキ、と呼ばれることも、二度と無い。
つらい、辛い、苦しい!早く帰りたいのに、この日が来るのが何よりも怖かった!
爪痕しか残さない、そんな滞在だった、朝は少なくともそうだった。
思い出が悪いものになるとは言わないけれど、ひどいトラウマになって残るだろう。
後悔をしないようにしようと思った。もとの世界に戻ったならば、もっと必死に生きていこうと誓った。
では今はどうすればいいのだろう。
帰りたくないと言っても、帰る決意を持続させても、後悔が残るのは目に見えていた。
「どうしても、選ばなければいけない…!」
「…そうだな」
いいながらアスランが、手に持った紙片をひらっと手放した。朝の、術式の描かれた、
「……!!」
「っぶね!!」
勢いよく身体を乗り出しすぎて、炎に巻かれそうになった紙片を見事キャッチしたはいいが体勢を崩す。アスランが反射的に手を伸ばして朝を引き戻して事なきを得たが。
「なんて事するんですか!」
「悪かった。まあでも、そんなに血相変えて飛びつくんだ。帰った方がいいってことさ」
「………」
冗談が過ぎる行動を、咎める気力は続かない。
「これから先、いくらでも選ばなきゃならねえぜ、トキ。何を選んだって間違いはねえ、その代わりきっと、どんな答えを選んでも正解って訳でもねえさ」
頭に手を乗せられた。ぽん、ぽんと叩かれるにつれて、朝の顔はどんどんうなだれていった。
「お前がここに来て拗ねて怠けてるだけのようなガキだったら、誰だって見向きもしなかったさ。お前はここで生きてたって言った。ここが好きだといってくれた。それがあかしなのさ、あいつらだってこの世界だって、お前さんのことを好きになっちまったんだろう」
とうとう、涙が目の端ににじんだ。すぐに袖でぬぐう。
「有り難うよ、俺の呼びかけに応えてくれてな」
礼を、言われるとは思わなかった。朝はアスランに何もしていない。当たり散らしただけの、役立たずの術式だったろうに。
「…いやだ、嫌だ、クォが滅ぶのは嫌だ」
「大丈夫だっての、俺がいるし、シクも群青とか言うのも、他の奴もいるんだぜ。心配すんなって」
落ち着いたとたんちっとも変わっていない窮状に心が苛まれた。
そんな励ましでも気持ちは晴れない。何も出来ない、それがこんなにも心苦しい。所詮違う世界の人間なのだ、文字通り、閉め出されるのは朝に違いはないのだった。
(けれどもう、俺に出来ることはない)
それどころか、いない方が状況的にはいいという話だった。虚しい、というよりも、悲しい、という無力感が強い。
「…すみませんでした」
ようやく、高揚した気分が落ち着いてきた朝は、わずかに頬を赤くして謝罪を述べた。やはり頭は重く思考は沈んでいるため表情は暗いまま。
「いんや。出来た男だなあって感心してるぜ。貴族連中に依頼されて面倒ごとになると解ってて喚んだのは俺だ。どんな糾弾も受ける気でいたんだ、これでも会うのにびびってたんだぜ」
(それでですか)
あんまり殊勝な態度は感じられなかったけれど。今の今に至っても。
朝はわずかに脱力して、居心地の悪さに顔を逸らすとカップに残った豆茶を一気に煽った。
「渋ッッ」
次に時間があったとき、もう少し話を聞けるかも知れないと思った。
もう聞いても仕方がないといわれればそれまでだが、きちんと知っておきたいと思っていたのだ。
朝が喚ばれた経緯を。今までのいきさつを。
朝はそれでも戻らないアニエスを探しに歩くことにした。アスランへ断りを入れて。
「湯は沸かして待ってる。嬢ちゃんもあったかくして休みな」
「伝えます」
小さく笑って返す。もしかしたらずっと言わずに取っておこうかと思っていた恨み言を吐き出して、朝の表情は澄み切った森林の空気と同じくらい清々して見えた。
(俺にしては大胆なことも、言うようになったな)
それもひとつの岐路なのかも知れなかった。異世界ともとの世界。朝を分かつ、心を、分かつためのひとつの兆し。
「アニエス」
騒いでは疎まれると思いながら、声は自然とはやってしまった。
おそらく洗濯をしていたと思われる形跡のある場所も、ロープを張って作った簡易な物干し竿にはためく洗濯物の側にも、金髪の少女の姿はない。
賢明な彼女のことだ、地の利のない場所でそう遠くには行かないだろう。けれど。
(ついうっかり、道を見失うことはあるかも知れない)
フェドレドでのことを思い出す。アニエスは観察眼が劣ると言うこともないのに、見知らぬ場所で道を見失うと連鎖的に迷っていってしまう、そんな風な印象と実績があった。
冷静な判断が出来なくなると言うわけでもないだろう、おそらく、致命的に方向音痴なのだ。
(そっちの方がやばい気もするな)
ともかく少し慌てて、早足でアニエスの姿を捜す。
朝が捜していると知れば、もしかしたら逆にアニエスは遠ざかっていくかも知れない。そこまでは、いやそこまではないだろう、そんなには嫌われていないだろう、断言できないあたりが悲しいが。
「アニエス」
果たして、少女はいた。薄暗く生い茂る木々のさなかで、少女の鮮やかな金髪はとても良い目印となってくれた。
「捜した、怪我とかはない?」
「……」
問いかければ否定の言葉が返ってくる。それを承知で疑問視を投げかける自分はどれだけ愚かなのだろうと、思いはするが。
アニエスからは何の反論もなく、朝の顔を見つめるとやはり少しきつい眼差しが向けられた。
「?え、えーっと、この辺は寒いから、アスランさんが戻って休憩しろって…豆茶も入れてくれたんだけど」
「そう」
返答は短く、目をそらすとアニエスは朝が来た方向へと歩みを進めていった。慌てて後を追う。
アニエスに何事もなく無事で良かった、と思う。そうして彼女の無事に安堵する自分に、苦笑する。
前をゆくアニエスの金髪の毛先がふわふわと揺れている。弟の髪の指触りは知っている。彼女も似たような感触がするだろうか。触れたいと思ったわけでもないが、ふとそんな疑問が過ぎった。
「アニエス、いきなりなんだけど」
アスランに話をした、その勢いついでのことだった。先を行く彼女の背中に声を投げた。
「有り難う、アニエス。アニエスは俺のこときっと、嫌いで疎ましかったろうけど、それでも感謝してる」
少女の足は止まらない。ただ感謝の言葉にぴくりと肩が揺れたのが見えた。
返事は要らない。何も要らない。むしろ、アニエスらしく何も返してくれない方が、朝にとってはありがたい。
「嫌っていてくれて、有り難う。おかげで俺は錯覚せずに済んだんだと思う」
そこで、アニエスはようやく立ち止まると振り返りわずかに高い位置にある朝の顔を凝視してきた。とても怪訝そうに。相変わらず眼差しのきつさにひるむけれど、もう傷つくことはない。
「俺は、この世界のこと結構、嫌いじゃないし、みんなのことも結局、好きになってた。でもアニエスはずっと俺のこと、嫌いでうっとうしいって態度で接してた。だから俺は錯覚せずにちゃんと理解する。俺はただの早川朝だって」
なおも怪しいものを見るように眉根を寄せるアニエスに、苦笑した。彼女が朝の言わんとすることを理解したら、平手では済まないかも知れないなと思う。覚悟の上で。
「いい気にならずに留まれたって事」
「……」
ぎゅっと、アニエスの顔が険しくしかめられ、朝は反射的に目をつぶったが、かつての痛みは待てども与えられなかった。
目をそっと開くと、アニエスは相変わらず黙って朝を睨み付けているだけだった。
「……勝手な話だ。でも、嫌われていることでずいぶんと救われていたよ」
嫌われてている、否定されている、たったひとりとはいえ、拒絶を感じる。
はじめはひどく傷つくこともあった。思い当たる節がなかったから。
でも今は、理由なんてたいした問題ではないように思う。
「俺は弱いんだ、ほんとうに、びっくりするほど弱い人間だ」
(アニエスと、仲良くなって見たかったなと、思わないわけではないけれど)
軽く目を伏せる。強い瞳。揺るがない薄青の、きれいな顔立ちの少女。泣くよりも怒っていた方がきっといい。
「だから、ありがとうアニエス。君がそのままでいてくれて嬉しかった」
(俺はアニエスを思い出して、泣くことはない)
「私が」
澄んだ空気の風景に、その澄んだ声はひどく響いた。鳥肌の浮いた腕を自覚しながら、朝は耳を傾ける。
「あなたを嫌う、理由を知りたい?」
まっすぐな眼差しだった。相変わらず強い光をともした、けれどアニエスのそれに、今は敵意を感じられなかった。
好奇心はある。聞きたい、と思う。聞きたくない、というと明らかに嘘だ。
けれど、だから。
朝はゆるゆると首を横に振った。
嫌う理由。聞いてしまえば、朝はきっとそれを意識するだろう、どうにか、改善できないかと思うだろう。今の今、アニエスに感謝をしたばかり、この段階で、聞けるわけがない。
そこまで愚かでは、無いつもりだ。アニエスがどういった思惑で、どういった答えを聞かせてくれるのかは計れないが。
「…俺を嫌える要素なんて無限にある」
「…そうね」
笑って自嘲すると、どこか素っ気ない返事があって、アニエスは瞳を伏せ目がちに逸らした。
仕草のひとつひとつが、映えて、目が釘付けになる。柔らかな日差しが金髪を弾いて、うすぼんやりと夜に浮かぶ花明かりのような。きれいな子だなあと思う。
あらためて、しみじみと見惚れてしまう。見慣れていると思った矢先に、こうして目を瞠るように気づかされる。彼女の弟も同じようなことが良くあった。澄んだ空気をとても自然に纏うひと。
「――――アニエスは」
(君を嫌う要素なんてどこにもなかった)
それだけが朝の過ちだった。
(俺がいなくなっても泣くことはない)
それだけが朝の心を軽くする。
「俺を嫌ったままでいてくれた方が、アニエスらしくていい」
その言葉に対してアニエスがどんな顔をしたのか、朝はついぞ見ていない。
アスランの住まいを心ゆくまですっきりと片付けて、ようやくそろってお茶で身体を温めくつろぐことが出来た。辺りはすっかり暗くなっていた。
「もう全部明日だ。今日はもう寝るぞ」
来たばかりの、年少の来客者に自宅を引っかき回されたというのに、すっきりとした我が家にまんざらでもないのかアスランははきはきそう告げ、しかし疲れは隠せずひとりさっさと奥の自室に引っ込んでしまった。
そんな後ろ姿を見ると、やりすぎたかもなと思わないでもないが、清潔なシーツに横になりあっさり眠りに落ちたアニエスの寝息を耳にすると、やはり良かったとも思う。
朝の前だというのに、心身共に疲労がたまっていたのだろうか。アニエスはすんなりと眠りについた。
ベッドが足りないので、朝はもらい受けた毛布を被ってクッションを敷いて横になる。
あくびをかみ殺し、自分自身も眠いのだが、イスパル特製の鞄を引っ張り出した。
落ち着いたら、開けようと思っていた。
中身のそう入っていない鞄の奥から、カノアに託された木箱がある。
その、薬瓶達のさらに下に、取り付けられた包み。きつく紐で縛られた、謎のもの。
(今は特に、緊急事態でもないんだけど)
もう、開けておかないといつになるか分からなかった。今度開けよう、の今度が、いつだって来るとは限らない。
「……」
やはりしばらく指を使って解こうと苦戦してみたが、攣りそうになるほど筋を痛めるだけでびくともしない。ていうかカノア、これどうやって縛ったんだ。
迷った末に、枕元に置いていた、クワイラからの餞別を手に取る。微妙な長さの、剣。
そうっと、慎重すぎるほど丁寧に引き抜く。暗がりの中では弾く光もなく、刃は暗くおとなしかった。
(もっとぎらぎらしているものかと思った)
改めて間近に手にした刃物は、凶器と言うよりはただの堅い物質だ。そういう印象すら抱いて、怖いとは思わなかった。朝は包丁でさえ、手に持つと少しひるむ気がするのに。
そうっと、中身を傷つけないよう紐に刃を押し当てる。そう力を入れずともふつりふつりと紐は切れた。
シンプルな刺繍のされた布袋に、包まれていた。それは。
(眼鏡)
両手で手を伸ばして、目の前に掲げてみた、いつものように。いつもそうしてくもりを確かめていたように。
この世界にも視力矯正をする眼鏡があることは聞いていた。その値段や性能はピンキリだが、庶民には高級品だと言うことも。
いわゆる度の強いものともなれば、時計や宝飾品と並ぶ値段もざらだと、なので。
朝は諦めていた。緑に囲まれて視力はましになったかも知れないけど、目をすがめてものを見る癖が付いてしまっても、それはそれで、と。
黒炭のような黒いフレームに、透明なガラスが填められている。よく見るとフレームの端々には紋様が描かれている。素人目に見ても、職人芸で、安物には見えなかった。
(カノア、作ったのか?眼鏡を?っていうか買った?)
ひどく動揺していて、焦るような心境で眼鏡を観察し通す。
カノアが作ったとか、こんな高そうな眼鏡を買ってしまうなんてとか、そんなことはどうでもいい。どちらだって、いいのだ。
世界を見ろ、と言われた気がした。
きちんとした視界で、そのままに世界を受け入れて欲しいと、望まれた気がした。今になって。
この時になって。
もっと早く開けておけば良かったと朝は思う。
そうすればほんの少しでも、多くの世界をしっかりと目にすることが出来たのに。
後悔はいつだって、あとから湧いてくるものなのだ。
(2008.11.19)