17 質問
「アサさん、薪が足りないようなので調達しに行ってきます」
「おう。気をつけてな」
「はい」
朝とアニエスがアスランの住居に寝泊まりを始めて、あっという間に二日が経った。
アスランは一日のほとんどを朝を送り返す準備のために費やし、アニエスは渋々それにつきあわされている。
だので必然的に、手伝えない朝が雑用係となって衣食住管理担当となった。
何せ二人とも、ろくな休憩も取らずにぶっ通しで作業を進めているのだから。
(俺の作れる料理なんてたかが知れてるけど)
それでも、なにか食べて貰わなければ。それらの準備や湯沸かし、早朝深夜の防寒対策に薪は欠かせないものだった。蓄えはあるけれどちいさな作業のために補充する。
本当は太い方がいいのだが、木こりでもないので伐採は出来ない。基本的に木枝や枯れ葉を集めて回る。
落葉で敷き詰められた森を歩くと、少しずつ寂しくなっていく景色に心細くもなってくる。開けた視界は今までになかった迫力で、朝に直接語りかけてくるようだ。
よく、見える、遠くまで。
カノアの眼鏡をかけて現れた朝に、アスランはどうした?と訊いただけでなかなか様になってるんじゃねえのといってくれた。
アニエスは数秒表情すら消した後、不愉快だからあまり見ないでくれる?とらしい言葉をくれて朝を苦笑させた。
辛らつな言葉を放っても、笑顔のひとつもなくても、アニエスは驚くほど美少女だった。
改めて再認識する。文字通り視界が開けたのだからそうなるだろうけど。
そういう発見がたびたびあって、やはりもったいないことをしたと、ちいさな息を落としつつ思うのだ。
視力に神経を使わずに済んだせいか、あたりの気配や物音にもずいぶん余裕を持って気を回せるようになった。
前よりも心なしか、歩む足取りもしっかりと淀みない気がする。
「うわ、ここ危ないな」
蔓植物が膝下あたりで絡み、たわんでいた。気がつかねばつまずくところだったと、しゃがみ込んで千切っておこうとするがなかなか強い。
「…ふう」
腰のポーチと同じくベルトに留めておいた中剣の鞘を支えて引き抜く。生活必需品としてだが、刃を扱うことにも抵抗はなくなってきている。自分でも不思議なほど。
剣は剣だが、ただの道具には違いない。以前使っていたはさみやカッターと同じ。
使うひとの、使い方の問題であって、刃物それそのものに関係のないことなのだ。
(人とひとの関わりにも似てる)
もちろん対人関係においては、思いやりとか立場上とかもっと複雑だろうけど。
どれだけ嫌われていても、そのひとのことを好きだと思うことが出来るんだ。
(もちろん、好きだといわれたら相手を好きになってしまうかも知れないけど)
すべてにおいて、自分次第なのだ。影響を受けはしても、意識を切り替え行動として動くのは、他でもない自分。
いつだったか確か、キニスンとも似たような会話をしたことを思い出す。
彼は悪いところがあっても、一緒にいれば補えると言ってくれた。
(そりゃあ一緒が一番だけど、一緒じゃなくてもきっと、俺はお前を忘れたりしないぞ、キイ)
だから何も言わずに離れてしまったことに、あまり傷ついてなければいい。
いい思い出になりたかった。最初に二人で話した時に、キニスンが見せてくれた気遣いのように、朝も本当にそう思った。
今までは明確に意識しなかった自分の意志を、その方向を、しっかりと見据えることが出来る。完全といえば嘘かも知れない。それも理解した上で。朝は。
(深呼吸して、笑顔で、きっと、帰ることが出来る)
後悔しても、この選択をもうためらうことはしない。
両手で抱えるほどの薪を確保して、二人が待つ家まで戻ろうと踵を返す。自分が歩いてきた道は目印を欠かさないので割と迷うことはない。
ふと、今までも何度か感じたことのある空気のこわばりに、朝の足は硬直した。
「!」
まだ、距離はある、遙か斜め前方、けれどしっかりと視認できる、枯れた木立を縫った先に、濃い灰の毛皮をもつ獣が居た。
しっかりと両者の視線は交差し、朝は息を詰めた。獣は標的として見据えてきている。
浅い息が、薄く開いた唇から漏れた。
今までも注意してきたし、以前にもこういう場面はいくつかあった。
目が合う前にささっと身を隠すかさっさとその場を離れてしまうのだ。それが最善だと聞いたし、事実追ってくる獣は居なかった。
しかし対峙する四つ足の獣はいずれのものとも風格からして違った。
ぴん、と逆立つような毛並み、しなやかな体躯、遠く離れた先からも感じる、威圧感。
狼のように見える、いささか大型に感じる。きっと朝の世界には居ない、超巨大な犬型。
(目が、合ってしまったら、)
逸らしては駄目だ、背を向けた瞬間に襲いかかられる。一番いいのは、襲いかかられる前に視界から消えてしまうこと。
身動きする機会を、何度も何度もうかがって、何時間も経ったような錯覚の中、物音を立てぬよう後ろに足を引いた。
二歩、三歩、葉のほとんどは落ちてしまったが、幹は多い。姿を消すのはそう困難ではない。
けれどあの獣が、においを追って駆けてくれば朝など、あっという間に組み伏せられその餌食となるだろう。
ザグルでなくとも、何の制限もされていない森のただ中、凶暴な獣は当たり前のように本能のままに人を襲う。
まあ、食う奴はあんまりいねえけど。
(ほんの少しでもいるってことじゃないですかー!!)
さらっと告げられたアスランの説明と、その時の自分の突っ込みをそのまんまに心の内で叫ぶ。
いくら身体が強くなったって、獣を撒けるほどの脚力がある訳ないし、群青( の教え通りに身体が動けたって、野生の獣との対処法はさすがに。
さすがに、教えて貰ってなかったなあ。
どこか脳裏で途方に暮れながら、手のひらににじむ汗を握りしめ、なおも後退を続ける。
薄く光る両眼を睨み据えたまま、緊張で血管が切れそうになる。
(あと、もう少し…)
そのわずかに、気がゆるんでしまったのだろう、獣が全身をふるわせてまっすぐに疾駆してきた。
「……ヒッ…!」
あっという間に距離が縮まる。それは本当に一瞬のことだったのに、思考は妙にスローモーション展開をした。
心臓が飛び上がりパニックを起こしたのは確か。目をつぶり反射的に、叫びだして逃げだそうと思ったのも確か。それなのに。
朝の手は、ゆっくりと、手遅れになるほどの動作で腰の剣に伸びた( 。、、、、、、、 )
(…あ)
その、柄に手をかけたまま、思考が停止した。それは朝にとっての愚行だったのか、英断だったのか、どちらにしろ獣が飛びかかる猶予を作るには十分で。
「ガアッ!」
「!!」
声もなく、引き倒されて背中をしたたかに打ち付けた。肺が痛んで咳き込む、その間もなく眼前に牙が迫って、本能のままに顔を、眼鏡をかばって両腕を前に出した。
(…い…っっ!!!)
皮膚が裂ける感触と、そこから入り込んでくる強烈な痛みと熱さに、頭が一気に熱を持った。
痛い、今までに感じたどの痛みより、尋常にならないほどの衝撃。このまま気を失ってしまいそうになる。
もがけばもがくほど、その抵抗に獣の方も闘争本能を煽られるのだろう、さらに腕に歯を立ててくる。
「う、うあ、あああっっ」
痛みから逃れたい気持ちと、獣に対する憤りの心がふくれあがって、ただ無我夢中に腕を振り上げた。
片手で引き抜いてかざした刃が、獣の前足を突き刺した。
「ギャウッ、グアウ!!」
飛び上がり、朝の上から巨体が退いたのはいいが、さらにその怒りを買った結果に終わったようだ。
鋭い眼差しは衰えを知らず、しゃがみ込んでもう動けない朝を睨み続けたまま。
倒れ伏せたまま、血を流しながらも闘争本能を失わない獣を、脱力したように見つめ返す。苦笑すら浮かぶ。
(元気だなあ、おまえ…)
開いた手のひらから剣が零れた。お互い血を流して、何だか無様だ。朝にはこれ以上、刃物を振るうことが出来なかった。
指先が震える。歯の根が合わずにかちかちという。
(あー…いってえ…)
腕から出血が止まないのを感じる。体温と同じく流れていくなにかを感じる。
抵抗する気力を失ってしまった時に、しかし獣が再び襲いかかることはなかった。
興味を失ったように、痛み分けといわんばかりにふいっと尾を向け立ち去ろうとする姿が見えた。
目を、細めて、やがて固く閉じた。
獣を突き刺した感触が、指から消えなかった。
(……俺)
足は無事だ。出血が本格的にひどくなる前に助けを求めに急いだ方がいいと解っているのに、体中から力が抜けて動けなかった。
恐怖も衝撃も、確かにあったのだけど。
正当防衛のために獣を突き刺した事実にではない、とっさの危機に、腰の武器に手を伸ばした自分が恐ろしかった。
悪いわけではない、普通に考えて冷静な判断だ、正解だと言える。
けれど、けれど、けれど。
臆病者と笑われても、情けないと飽きられても、そんなところはかつてのままでいたかった。
真っ先に、暴力を選ぶような。無意識のことだったから、なお痛いのだ。
じくじくと腕から走る痛みはひどくなる一方だった。トキには癒しのまじないは効かないのだから。カノアの声がよみがえる。
早く早く、起きなくては、また違う獣が血のにおいをかぎ分けて寄ってこられては、今度こそ往生際というもので。
「う、うう、いってえ、いてーよちくしょう」
口を開けば呟くような泣き言しか出ない。指の先からぽつぽつと雨のように血が滴る。
こんなに自分の血を見たのは初めてで、見慣れない色に文字通り血の気が引く。
人の血の色は見たことがある。あのときもやはり気の遠くなる思いがしたものだが、今はもっと直接的な意味で気が遠い。
怪我になれていない分耐性が無くあっさりぶっ倒れてしまいそうだった。足を引きずって何とか帰ろうとする。足下に散らばった薪につまずきそうになる。
血を吸ったそれらを、改めて拾う気にはなれない。たとえ怪我が治ったあとでもきっと。
「…はあ、はー…」
近くの幹にもたれかかって、息をつく。行きは早かったのに、帰りはずいぶんと遠く感じる。いつもは逆だ。目的を果たしたあとの方が足取りは軽くなるもの。
(早く帰って、芋のスープを作ろうとか)
早く帰って、ゲームの続きをやろうとか。
家路はいつも、軽快なものだったはずだ。
(………)
ずるずると、そのまま再びしゃがみ込む。目を開けたら数匹の獣に取り囲まれていたって、あんまり驚きはしないだろう。困るけど。
(………かえりたい)
意識を暗く、馳せて、伏せたのはもしかすると一秒にも満たない。もしくは結構な長さだったのか、風の流れが変わったように感じて、朝がそっとまぶたを開くと、視界の先に。
足があった、暗い色彩の履物。二本足。なにか圧迫感を覚えながらじりっと視線をあげていくと、果たして。
忘れたくても見覚えのある顔が自分を見下ろしていた。橙の両眼は相変わらず乾いて鋭い。
「…サザーロッ…?」
「その名を呼ぶな」
すべての問いかけの前に遮られた。だからそう言われても、朝は彼をどう呼んだらいいか解らないのだが。
ある意味、どんな獣の大群よりも恐ろしいいきものを呼び寄せてしまったようだ。
「アスラン・ホーグ・ヨーグはどこだ」
どうしてここにいるのか、朝の疑問は彼にも伝わったはずなのに真っ先に自分の用件を向けてくる。
あの、見て解りませんか。身動きもままならないほど負傷中です。
ろくな返事も出来ずに青ざめたままサザーロッドの顔をただ見る。寄せられた眉にはどこか親しみを覚えて、場違いに苦笑を浮かべる。
彼自身が、俺の前に姿を現すなと言っていたくせに、こんな窮地に現れるのだ。
五体満足なら、まあ案内してやれただろうけど。
「……」
何の感情も伺えないサザーロッドはその顔面を保ったまま、自らのマントを引き裂き細い帯を作り、しゃがみ込む朝をいささか乱暴に立ち上がらせて、
「いっっ!!!おおおおお、痛い痛い痛い!!」
傷を負った方の肩を強く縛る。止血してくれたのは理解できるが、加減がない。怪我人に対する気遣いというものが皆無。
介護する、という認識はあるのに何でこんな乱暴なのか。
「黙れ」
それだけの声が出せるならたいした傷でもないといわんばかりに、サザーロッドの声は辛辣だった。
それでも痛いものは痛く、マジ泣き入ってしまった朝はすっかりおびえて口をつぐんで高速で頷いた。
「アスラン・ホーグ・ヨーグは」
(うわああ、ごめんアサさん!俺超危険人物を呼び込んじゃったかもー!!!無力で無能な俺を許してくださいー!!!)
当たり前のように抵抗するすべも気概もなく、朝は真っ青で脂汗の浮かんだ顔のまま頷いた。
縛られた、未だに激痛の走る腕をかばいながらひょこひょこ歩き出した朝にじれて、サザーロッドに軽々と担ぎ上げられる。
「っっいぃ!??」
「やかましい」
あいかわらず声だけでも殺されそうで、その一言で朝は石のように固まり口を閉ざした。
たいして筋骨隆々に見えないサザーロッドに担ぎ上げられたところで、慌てはしないが驚きはする。
ひとを抱えたりするのだ、このひと。
いや、ひとであるかどうかは、失礼ながら朝は疑いを抱いたままだが。
その、行動自体が不思議だった。こういう一面を見るとどうにも、恐怖だけを抱くわけにも行かずに。
「運んでもらって済みません、あの、俺、トキです」
肩に担がれているため彼の顔は見えない。けれど朝は繰り返す。耳障りにならぬよう抑えた声で。
「あなたの名前は?」
そう訊いた。たいしておかしな問いかけとは、自分でも思わず。
だって呼んではいけないのなら、彼にとってそれは名前ではないのだ。
わずかに、はかりかねるような、そう、戸惑うような気配を彼から感じた。気のせいかも知れないが、やがて静かに答えがあった。
「サザだ」
二音で覚えやすくていい、いつかのキニスンのような感想を、朝は思って少し笑った。
「おう、トキ…」
屋外で、地面になにか書き記していたアスランは確認する前にそう呼びかけ顔を上げ、一瞬だけ目を瞠った。そしてすぐにいつもの顔色を取り戻すかと思ったのに。
「おいどうした!血を流してるじゃねえか!」
突然現れたサザーロッドへの追求をせずにまず、担がれた容態に血相を変えて大股に近づいてくる。その真剣さにかえって気圧されるように、朝は情けない顔になった。
「ごめんなさい、なんか、おっきな動物に襲われまして」
「だから気いつけろって言ったろうが!ああー、そうじぇねえ、ああー…くそっ」
だらりと垂らされた腕をそろそろと持ち上げられ、朝は顔をしかめるが、それをのぞき込みじっと見入ったあと、なぜか砂を噛んだように舌打ちするアスランに、首をかしげる。
(そうか…まじないで治そうとしてみてくれたのかな)
彼は呪術師だから。朝の特性を解っていた上でも、身近にあるちからを試そうとしたのかも知れない。
「薬、まず消毒だな、まってろ、確か作り置きがあった!」
「あ、アスランさん、俺の鞄の中にもあります」
「そうかじゃあそっちを使うぜ!」
ばたばたと慌ただしく駆けていく。出かけるときは二人一緒だったが、アニエスの姿はなかった。と、この騒ぎを聞きつけたのか、まばゆい金髪が家の奥から入れ違いに見えた。
「トキ?」
「…やあアニエス。あ、ああサザ。そろそろ下ろしてくれて…」
みなまで言わずともサザは意外な丁寧さで朝をその場に下ろし、アスランが座っていた椅子の側に置いてくれた。担ぎ上げるときの強引さとはうってかわって感じた。
「サザ?」
アニエスは当然、アスランと違って突然現れた不審な青年を怪訝な目で見据えている。
サザの方はといえばアニエスにはなんの関心も無さそうに、アスランの消えた家の方角へと視線を向けている。
アニエスから説明を求める視線で見られて、朝はやはり力なく笑い返す。
「サザ?」
「うん、サザーロッド・リビット。有名な傭兵らしいけど、アニエスは知らない?」
「…そう、サザーロッド・リビットなの」
なぜか、アニエスからのそれ以上の追求はなく、すんなりと信用したらしい。どこか気が抜けたような変化すら感じられた。
「なぜ血を流しているの」
そこでようやく問いは朝に向いた。同じ言葉を繰り返す。喋っていた方が痛みも紛れるし。
「森で、獣に、おそわれて」
「そう」
罵られたり、嘲笑されなかっただけましなのだろうか。アニエスの返事は淡泊にそれだけで終わった。
(エエー。きいといてそれだけエー!??)
と、いつもなら心中で盛大に突っ込みを入れる場面だ。けれどその素っ気なさは、少し寂しくもある。
きついことを言われたいんじゃなくて、以前よりずっと、朝のことに無関心のようで。
でも一言、尋ねてくれたことは正直に嬉しかった。どうでも良ければそもそも訊きもしないだろう。
(どっちだろ、よくわからないな)
だんだんと血を流しすぎた腕が痺れてきて、やがて意識がぼうっとしてきて頭が傾きだした頃、年齢を感じさせない豪快な走りでアスランが戻ってきた。
息は荒く、立ち止まったときには咳を繰り返しながら。
「お、おまえら最年長に走らせてぼんやりくつろぐなよ!げほっ。ああー、運動不足がたたる、トキ、ほら治療するぞ腕出せッッ」
「…え、できるんですか…」
「バッカ。重傷以外はふつうに包帯巻いて自力で治した方がいいんだぞ、少なくとも俺はそう推奨してる。俺もこういう手当は慣れたモンだ」
そう言う言葉に安心して、朝は腕を差し出しておとなしくアスランの治療を受けた。
液体を浸した布が、塗り薬が、空気が傷口に触れるだけで身をよじりたくなったがじっと耐える。変なうめき声が漏れそうになるのも何とか耐える。二度ほど失敗する。
「よし、あとは変に動かしたり重いものもったりせずにな。明日も巻き直してやるよ」
「ありがとうございます…」
終わった頃はぐったりしていた。なんなら寝てろと言われたが、まさかこの空気の中ひとり寝ているわけにも行かない。
朝が半眼でぶるぶる首を振ってようやく、アスランの視線がその横で突っ立ったままのサザーロッドに向いた。
「よお。サザーロッド・リビット」
「アスラン・ホーグ・ヨーグ。答えろ」
彼の真意は知れないが、それまで行儀良く待っていたサザーロッドは自分に関心が向けられたとたん挨拶もなく要求を突きつけてくる。
「何だよ」
それに対してアスランも普通に返す。手元の薪を目の前の簡易暖炉に放り、つぎたしながら。
「ネネはどこだ」
「俺が知るかよ」
むしろこっちが知りてえよ。
表情は、いつも通りのアスランであるのに、声質が一変したのが解って朝は身をすくませた。
がらりと、冷えるように、アスランの声が不機嫌を通り越した不快なものになったのだ。
(ネネ)
何だか解らない、始めて聞く。名前。ひと?もの?
そのアスランの豹変に気をとられ、数秒遅れたが、アニエスへと視線をやってぎょっとした。
アニエスも、おかしなことになっていた。
顔面が、真っ青だ。いつか、みた。ああ、大祭中の、町中で。
倒れそうにふらふらになっていたとき、こんな顔をしていた。
「アニエス…?」
小さく呼びかけるがわずかの反応もない。よく見ていると、かすかに全身をふるわせている。今にも倒れてしまいそうなほど、状態が良くないのが解った。
ネネ。そのふたつの音で、二人の様子ががらりと一変したことがわかった。朝だけが解らない。
「あの、ちょっと、いいですか!」
本当は声を上げるのも億劫だったが、精一杯声を張り上げた。視線がざっとこちらに向く。
「俺、少しのどが痛くて、でも身体もだるくて。あ、アニエス。良かったらお茶とか、欲しいなーなんて…だ、だめか?」
アニエスへ向けた笑顔はきっとこわばっている。彼女の瞳が揺らいでいるのが見えた。
やがて、ようやく意味を結ぶように、いつもの済んだ蒼になる。
「いいわ、煎れてくる」
すうっと踵を返して、アニエスは家に戻っていった。あんな、顔で居るくらいなら、聞かない方がいい話だ。
「…嬢ちゃんもネネを知ってんのか」
なぜか朝に問いが向けられて曖昧に首を振る。
「いいえ、知りません。それに俺もその、ネネというのがなんなのか解りません」
「シクは何も教えちゃくれなかったか」
苦笑だった。その言葉は、朝へ対する哀れみでもシクに対する糾弾でもなかったから、朝はほっとしながら頷いた。
「サザーロッド。急いじゃいねえなら一泊ぐらいしていけ。こいつの護衛をしてやってくれ。俺はちょいと手が離せねえし」
「俺には何の関わりもない」
ぎょっとする朝をよそにアスランはテンポ良く話を進めていく。確かに腕を痛めてしばらく雑用もろくに出来ないだろうけど。
「それが関わりがあるのさ、このトキはあの嬢ちゃんと対でね」
(あの嬢ちゃん)
思わず、サザの顔を見上げ、朝は動揺してしまった。鉄面皮で瞳すら揺るがないサザの表情が、はっきりと苦痛めいて歪んで見えた。
ひとの、心に波紋を起こす、容易な名前があるものなのだなあ。
朝にはない。誰にどんな名前を呼ばれても、今はまだ無い、特別に響く名前。
「嬢ちゃんとトキのためにも、まずこいつをもとの世界に送り返すことにしたのさ。何故だかお互いに良くねえ作用が起こってるってのが解ったしな」
「…ネネは」
「だから奴のこたあ知らねえって。しかし関係のねえ奴はこれ以上危ないことに巻き込むことは出来ねえ。嬢ちゃんも同じだ。協力しちゃくれねえか」
「………」
きっとサザーロッドには、朝の安否もその背景も興味のないことなのだろう。けれど今回の召還騒ぎには深く関わっていたようで。
深い逡巡を感じた。その分の沈黙も。
「いいですよ、サザ。俺は、もう無茶しないようにするし、あなたは、そう、俺と対という、ええと、ツグミさんの側にいてあげてください」
煩わせたくなくて告げると、瞬間、峻烈な視線に貫かれた。いつものように睨まれて怖い、と思うのとは違う。
それはあまりに強く、痛い、と思った。泣きたいほど。
「…すみません」
理由も分からないまま、謝罪する。真摯に。そうするのが自然だと思った。
サザーロッドの視線は元の通り、どこか無機質に戻っていた。腕を組み、けれど億劫そうに、いいだろう、と口元が動くのを見た。
「ただし少しの間だけだ」
「もちろん無理はいわねえさ。感謝する」
「あー、あの、もしよければ訊いていいですか…ネネ、のこと」
アスランの機嫌悪化を目の当たりに、口にするのはずいぶん気が引けたが、この場を逃してはと思いおそるおそると伺ってみた。
返事は簡潔だった。やはり口にしたくもないことなのか。
「嬢ちゃんを呼んだ呪術師だよ。クソッタレの若造な」
(……なるほど、つまり悪い魔法使い)
すべての元凶、ラスボスの名前と言うところか。
シクがそれを黙っていたと言うことは、どう解釈すればいいのだろう。
訊いたのは自分なのに、それは、そうか。朝にはもう関係のない名前なのかもなと思った。
自分の望む情報が得られないのなら話は終わりのようで、その場を離れようとするサザーロッドにアスランは朝の代わりの薪拾いを命じた。
恐縮する思いもあるが、一晩だろうが滞在を意外にも感じた。
常にとどまることなく先へ突き進む印象があったようだ、勝手なことに。
アニエスは本当に暖かくほんのりと甘いお茶を煎れてきてくれて、すぐにその場を立ち去っていった。
いろいろ訊いてみたい気もした。答えが無くても構わないから。姿が見えなくなってしまうとやはり、心細く感じるものがあった。
(サザは山へ散策へ、アニエスは小屋の中で調べもの、かな)
「方式の組み替えにゃもう少し精度を高める必要があるからな、嬢ちゃんにゃ助かってるよ」
自身も言いながら、朝がほんの少しも理解できない文字や図形などで足下を埋め尽くしている。
いわゆる魔法陣、いや呪法陣というやつなのか、単なる書き付けなのかすらわからない。地面に書いていいものなのかも。
けれどそれは朝自身に関わるものなのだと思って、じっと眺める。
断続的に襲う痛みに顔をしかめさせながらじっと沈黙していると、アスランがぽつりぽつりと言葉を零してくれた。
「たしか…秋の初めかそのころだったかね。王都や、エニュイ・エル…神殿のある都市な、高等呪術の機関がある。で、高度にして強力な呪術の発現が関知された」
天災などの災害にも近い感覚で、それらは高精度、高密度に観測感知のもと、管理されているのだという。
ちいさなものなら見落としもするが、遠く離れた都市にも確認されるような、大気を揺るがす強いもの。
かつて、そう創世記の大戦以後類を見ないような複雑怪奇な呪術の発生。
「すぐに発生地を調査し呪術の有無を確認しようとしたが特定は出来ず、呪術師のじいさま達は口をそろえて緊急性を訴えたが王族をはじめとする王侯貴族たちは裏付けに足る事実は少ないと軽視した。問題を先送りにしたのさ、見えない驚異に裂く金も暇もないとね」
「呪術は見つけられなかったんだ」
朝の相づちとも言えない呟きに小さく頷きが返される。
「そう、それからひと月もたたねえうちに、俺んとこに宮廷呪術師のお偉いさんに頼まれたシク達がやってきた。どうにかしてくれとな」
うんざりと零す口調に苦笑が漏れた。アスランはきっと関わりたくなかったのだろうけど、結局頼まれたことを断り切れなかったのだ。
「めんどくせえことこの上なかったが、当時の観測記録や呪術の残滓をたどっていって色々と解ったこともあった。どうやら発現したのは古代遺産を思わせる構築呪術のたぐいだ、世界に驚異をもたらす兵器級のな」
朝はずっとアスランの手元あたりで視線をさまよわせていた。ここまで聞くと、あとは語られることはだいたい解った。
「相性とか色々占ったり計算したりして、用意されたんですよね、俺」
「そうだな、まさかどちらもひとで、どちらもちいせえガキだとは思わなかったが」
苦笑が、また漏れた。だからやさしいのだろうか、朝がいかにも無力な少年だったから、不憫に思われて。久しぶりに卑屈な思考が浮かんで沈む。
「ネネ、はどうしてツグミさん、ああ、あっちもツグミさんが来るとは思ってなかったかな…どうして呪術を使ったんだろう、そんな危険な」
会ったこともない人物を語るのは不安定な感覚で、朝の口調もどこか揺らいだ。
ネネ。どういう風に発音したらいいかも戸惑う、不思議な名前。
「別にあいつが術者だって自供した訳じゃねえけどな、こんなクソッタレな呪術を扱えてなおかつ使おうとする奴なんざ、クォ中どこを捜してもあいつっきゃいねえのよ」
「……」
消去法。らしい。
サザーロッドの態度から見ても、どうやら彼がもうひとりの術者なのは間違いがないようだが。
そんなに強力な呪術師なのだろうか、実は目の前に座る不機嫌な中年男性も勇名を馳せる凄腕呪術師だと言うことをもちろん忘れてはいないのだが、いかんせん親しみすぎて馴染みすぎて、その実感が薄れてしまう。
「自分で言うのも何だがな、俺はそれなりにましな呪術師だ。則を守り礎を崩しはしねえ。出来ねえことはねえがな。ネネの野郎は違う。何だってしちまう。それも世界の形を保ったまま。てめえへの反復も、ものともしねえ」
専門用語が混じりすぎてか、朝にはよくわからない。
つまりアスランはルールを守った上で呪術を行使している。
しかしネネはルールを無視して呪術を使うが、それによる罰則をも逃れてしまう、反則をおそれない呪術師だということだろう。
「あいつの呪術センスは化けモンのモンだ、人間が抱えられたもんじゃねえ」
(化けモンの呪術師)
そのフレーズが過ぎって、真っ先に浮かんだのはサザーロッドだった。失礼な話だが彼も違う意味で化け物じみている。
「会ったことは一度や二度はあるが、よく知るわけもねえ。だから知らねえし、どんな理由だろうが驚きゃしねえな。あいつがどんな理由で何を企んでいようが」
(とんでもない人物みたいだな…)
会わずに済みそうでよかったと思うし、一目会ってみたかったかもなと思うのも正直な気持ちだった。
ネネはサザーロッドのように雇われ呪術師として方々を渡り歩き、そのたぐいまれなる呪術の腕を気まぐれに現れては売り歩いていたという。裏社会ではそれなりに知られた名前。
ここ一年ほど、第一層の貴族であるカレイス家に買われていると。その程度の情報しかないらしい。
本人はまだ年若い、いけ好かない、アスランからはそのくらいしか話を聞き出せなかったけど。
最後にひとつ、一言告げられた。会わせるつもりはねえけどよと、苦渋の顔で。
ネネは友達も恋人もいない男だったが、お前ならもしや、話して見りゃあ、ダチになれるかもしれねえな、とか、ふと思うことがあった、と。
まさか、朝は友達を作るのが得意ではないし、自分から作るよう働きかけるタイプでもない。
こちらに来るまで特にひとに好かれたと思ったこともない。まさか。そんな。
けれど。
けれどもしや、そういうことなのだろうか。
朝が選ばれた、というのは、この世界に存在している現状は。
そういうこと、だったのだろうか。朝が思うような、剣を取って立ち向かう資格ではなく。
(何を、しようとして、そんな呪術を)
雇われているカレイスの指示だろうか。ネネ本人の希望だったのだろうか。
アスランからあさってには準備が整うという説明に頷きながら、朝は今になって思案する。
まだ見ぬ誰か。きっと見ずに終わる誰か。
その思いを、考えを、答えの出ない問いかけを。
(2008.12.31)