19 絶叫







 一度ばらばらになった全身の細胞が再構築されて凝縮され、場に満ちる。足が地面についてやっと、まるでSF映画のような体験を認識する。
(瞬間移動って気持ちわるっっ)
 もっとも、それは特殊な状態にあるときに限っての話だったかも知れないが、ぐるんぐるん揺さぶられる脳と覚束ない足下に、顔を思い切りゆがめてしまった。
 しかしすぐさまあたりを見渡す。サザーロッドもアニエスもすぐそこにいて、けれど見える景色は。
 えのぐりだけの家まで、歩いて十分ほどの街道。微妙な距離。
(って、アスラン・ホーグ・ヨーグーーー!???)
 国随一の呪術師の精度に向かって、思わずフルネームで問いかけてしまった。
 やはり何らかの制動があって心の中のみの叫びではあるが。いや、単に朝が突っ込みとはいえ声を大にして叫べないだけかもしれない。
 昨日の夜は見事な星空で、早朝は晴れていたはずなのに、少しずつ雲が多くなってきていた。
 時刻は昼中のはずだ、もう、ご飯を食べる頃。
「…!行こうアニエスッ」
 ぼうっとあたりを見渡している間にも、駆けだしたサザーロッドの背に触発されて声を上げた。アニエスもはっとしたように顔を上げ、朝に続いて駆け出す。
 間を置かれたおかげか、焦り混乱していた頭が冷えてきた。ぐんぐん遠くなり見えなくなる榛色の髪を持つ青年の背に、当然といった疑問が今更ながらに浮上する。
(彼はネネを捜していたみたいだった、けれど現れたと告げたのは彼だ、居場所がわからないのに出現が解るって…おかしくないか?)
 けれど、えのぐり茸の家を知らないはずの彼が(知らないはずだ)、まっすぐに朝たちにとっては家路をたどっている。
 いまだ不明なことだらけの、不思議な青年ではあった。ここに来て、帰る間際になって朝の疑問を山積みにしてくれる。
(……あ、そうか)
 四足歩行の獣かよ!という速度で疾駆していったサザーロッドに、朝は今更驚きもしないが(それもどうかと思うが)その速さにも頷ける。
 いるはずなのだ、その子が。サザーロッドの瞳が映す子。
 本当は側にいたいはずなのに、なぜか離れてしまっている相手。
(………)
 朝は頭を振って駆ける足に集中する。自分に置き換えられる話じゃない。自分の事情とは異なる。違う、違う。
「…トキ!」
「え?あ、アニエス?」
 呼ばれて振り返るとなぜかアニエスが少し後ろを走っている。あれ?いつのまにか。
 彼女は少しだけ辛そうだった。反射的に、無意識に速度をゆるめる。
(ずっとカンヅメで準備してくれてたもんな、体力が落ちてるのもしょうがない)
 本当はそれだけではないのだけど。
 アニエスは横目に、眼鏡をかけたこと以外変わったようにも思えない少年を見る。
「トキ、あなたは、少し離れたところで待っていて」
「ま、まだそんなこと言うのかよ!」
 さすがにむっとしたように、いや、焦る風といった趣が強いが反論しようとする。
 俺をのけ者にするのかよといったたぐいのことは口にしたくはないが。たいした心理的な差はないのだろうが。
「風に、火と…鉄の、においが混ざる。あなたには遠い世界のこと、見たいと、思う?」
 切れ切れの息の間に紡がれた言葉に目を見開く。
 もうすでに、諍いのさなか、もしくは後になっているのだと、その言葉が告げている。
 朝にはにおいも、音すらも届かない。だから実感を伴っていない、それらに。
「あえて、見たいというのあなたは。地獄を」
 現実感の遠い言葉なのに、実感を植え付ける、アニエスの凍えた声。
 地獄。
 もといた世界では意外と簡単に紡がれる言葉。生と死。天国と地獄。
 単なる死んだ後にたどり着く場所を、指す言葉ではないということは解る。死した後に辿り着くのは終焉であり、痛苦の終わりだ。おそらくは。
 ただ、生あるものが受ける地獄は、終わり無き絶望の開幕である。
 アニエスは、すでに見知っているのだろうか。この世の地獄を。
 少女の肩はわずかに震えていた。走る振動でもごまかせず、朝の目にも見えるほど、顔色も白く張りつめて。
「行く」
 きっと、自分の声も震えている。情けないなと思うけど、それでも何とか苦笑を作ることは得意になっていた。
 アニエスの戸惑う気配が腕の横から伝わるけど、少女の顔を見ることはなかった。前を見据えて走る。
 わざわざ告げるまでもないことだが、朝はいつだって自らに何かが降りかかるとき、悪い想像をしてしまうのだ。卑屈な性分ゆえ。自分に自信がないために。
 だから、彼にとってもっとも最悪な地獄を、すでに描いている。
 だから、確かめるために、行く。
 この先に待つのは、地獄ではないのだと。




 …最悪の地獄ではなくとも、地獄には違いないのだとしても。





 かつて暮らしたその場所は、見覚えのない様子になっていた。
 もう、朝にも見える。煙、焦げたと思われる黒。異臭が、伝わって。
 無意識に足が鈍る。鈍らないアニエスの足取りに後れながらようやく自分を励まして進む。
 懐かしの…我が家が見えた。ただいまと言うべき場所だから、もう、そうとしか。
「…イスパル!!」
 遠目にもそれと解ったのはどうしてだろう、彼女の特徴であるココアブラウンの髪も、溌剌とした陽気な笑顔も何もなかったのに。
 彼女は入り口である玄関の前で、砕かれた戸の前で倒れていた。全身を血で汚して。
「あ、ああ…、イスパル、だ、だい…」
 明らかに愚直なことを口にしそうになって歯を食いしばった。これ以上口を開けば嗚咽が漏れそうだった。
 ぴくりとも身動きしなかった彼女が聞き覚えのある声に導かれたように、まぶたをふるわせた。リーフグリーンの瞳。
 今まで一度も見たことのない、力のない眼差しで、二人を認めて小さく笑う。
「おかえりぃ…」
「…た、ただいま…って、それどころじゃないだろ!!イスパル!!」
 すぐ側にしゃがみ込んで手当をと思うけど、どこをどうしたらいいか解らない。
 両足の太ももには穿たれたように穴が開いている。全身ところどころに裂傷があって、右手は異臭を放ち黒ずんでいて。イスパルの右手。
 料理を作って家を整えて、誰かをしかりつける右手。
「一応あたしが年長者だから、玄関でお出迎えしたわけよ…」
「い、イスパル…喋らない方が」
 がちがちと、震えて歯が鳴っていた。
 これは恐怖?恐怖?怪我に対する?何かの破綻に対する?
 その中でも、シクはどこに行ったのだろうと思考する。おそらくこの家で一番強い、一番の年長者。
「トキ、そんな顔するなって…あたし生きてるよ、死にゃあしないよ」
「いいいい生きてるけど…!!」
 痛いだろう、ものすごく痛いはずだ。立ち上がり、すこしも動かせないほど痛めつけられて。
 というかこんなに血を流していたら、普通は死ぬと思う。そこでようやく思い当たる。
「あ、アニエス、アニエス、呪術!呪術で治せない!??」
「……万能のように思われても困る。体力を失いすぎている相手に強力な癒しのまじないはかえって危険だわ。今止血と大事な組織の修復だけをやっているから黙って」
「ううううあ、あはい!!!」
 反射的に敬語。朝がおろおろとしているだけの間にも、アニエスはイスパルに手をかざして真剣な表情を向けていた。
 本当に、本当に、役立たず。
 少しの間その様子を見守っていたが、やがて耐えられずに立ち上がる。イスパルは意識もある。他の人の様子が気になってしまった。
 ネネはもうすでにこの場にいないのだろうか。もし居るのなら、鉢合わせればたとえ呪術が利かなくても朝がかなうという保証はどこにもないが。
 そんな考えは今はどこにもなく。家の中を、すべての部屋を捜しても特に荒らされてはいない。いつも通り、そして誰の姿もない。
 すぐに廊下の突き当たりから裏口に出て、水くみ場の側に、
「…カノアッッ!!」
 木登りなどして遊んだ幹がへし折れていた。その根元にもたれかかった女性の姿。
 皮肉なことに駆け寄るまでもなくよく見えた。彼女のくれた眼鏡のおかげだ。
 上半身が、ひどく血濡れていた。上着なんて真っ赤に染まって、もとの衣服が何色だったか解らない。
「わたしの血の色も、赤かったみたい…ああ、トキ?眼鏡がよく似合うわね…」
「いきなり素っ頓狂なこと言ってる場合か!」
 アニエスはまだイスパルの手当をしているのだろう、あたりには自分しかいない。
 想像が出来ていた分先ほどよりは落ち着いて、朝は自分のポーチを探って救急箱を取りだした。
 教えられたとおりに。落ち着け、落ち着け。まず血止めと、細胞の崩壊を塞ぐ薬を混ぜて、水を、ああきれいな水がない!水ばなのに井戸の中さえも土埃と血で汚れて。
「偉いわトキ…ちゃんと覚えていてくれているのね、でも待って、痛いの、さわられるのはいや」
「そ、そんなこと言ったって…!」
 すぐに手を施さねばいけない重傷に見える。どうしようもなく狼狽える朝に、カノアは力なく微笑んで。
「痛み止めだけ、口に入れて?そうしたらもう少し我慢するわ…」
 どうして我慢しなくちゃいけないのか。
 耐え難い、想像するのも難しい痛みを伴うだろう、そんな状態で。
「私はいい、から、子供達の所へ行ってあげて、逢いたがっている」
 言葉を、失った。
 今まで進むことを止められていた分、はじめて、促すような言葉に。そしてその内容に。
「ええ、うん…私も、逢いたかったわトキ」
 柔らかく、細めた瞳が微笑んだ。とても弱々しくはあったけれど、笑顔だ。
 ちゃんとこうして逢えたわ、逢えると思っていた、少し、想像していた再会とは違ったけれど。
「カノア、カノア…」
「死なないわ。イスパルだって、そう言っていたでしょう?」
「う、う、うん…」
「逢いたかったの、逢いたがっていたわ、あなたに、あの子達、すごく逢いたがっていたの」
「うん、わかった、わかったから…!」
 震える指で痛み止めを探り出し、血を零す、冷たい唇にふれて、押し込んだ。彼女は素直に嚥下して、ありがとうと笑う。
 その場に倒れ伏せて声を上げて泣きたかった。
 俺だって逢いたかった。逢いたかった逢いたかった。帰りたかった。みんなの居るここに。
 ゆっくりとまぶたを伏せたカノアが、行って、と唇をわずかに動かしたので、それ以上その場にとどまることも出来ずに朝は立ち上がる。
 足が、膝下からがくがくと震えていた。踵を返して先を行く。足はどうしたってもつれたようにうまく動かない。
 鬼の多い鬼ごっこのような。
 そんな生易しいものでもない、どんなホラー映画よりも臨場感のある、恐怖に押しつぶされる、現実だ。
 そう、現実だった。虚実や幻想はどこにもない、五感すべてで朝を押しつぶす、どの壁を曲がっても、どんな絶望が目の前に飛び込んできてもおかしくはない。
 そしてそして、毎朝体操や、群青と訓練をした、裏庭に出て、裏山へ向かう、その途中、朝は喉を引きつらせて息を詰めた。
 確かに一秒かそれ以上、心臓が凍り付くのを感じた。
 悲鳴のように狂ったように名前を上げたはずだが、脳の裏から響いてよく聞こえなかった。手を伸ばして転ぶように駆けだして、ぴくりともしない身体を抱き上げる。
 予想以上に小さく、軽くて、華奢だった。記憶通りの面影もないほど、ちっぽけな重さしか腕に伝わらず。
 その姿も黄色のさらさらの髪もそのままなのに、あたたかな瞳は閉ざされたまま、抱き上げてもこちらを見てくれない。頬は白すぎて、何より、何より、
「ミーシャ、ミーシャ、ミーシャ…!」
 冷たい、冷たい!まだほんのりと残るぬくもりが、朝が抱きしめても少しずつ失われていくのがわかって。
「うそ、だ、うそだうそだ、ミーシャ、ミーシャ!!」
 彼女には他の二人と違って外傷はどこにもないように見える。どこからも血を流していないのに、意識がない。そして今まさに、失われていく灯を感じる。
「うそ、だ…、ミーシャ、死なないって、言ってくれよ、ミーシャ。他の二人みたいに、笑って、へいきだって…」
 今、今すぐに何とかしてもらうから。きっと、アニエスかアスランに頼めばまだ間に合うはずだ、ここは不思議が通る世界なのだから。
 朝はひどい頭痛に目眩を感じてまぶたを強く閉じる。
 何も出来ないってこういうことなのか、
 覚悟ってこういうことなのか、
 ちいさな女の子を抱きしめて、大事な大事な、もうひとりの妹を腕に抱いて。
 歯を食いしばる。涙は出ない、嗚咽のような声が喉から漏れる。
「………!」
 自分以外の出す音が、何もなかったから、それは容易に朝の耳にも届いた。
 ざり、と。
 土を擦る、靴の、足音。誰が立っていても、これ以上の衝撃なんてと思いながら、早鐘を打つ鼓動を抑えられぬまま、顔を上げて。
「…あ、…うああっっ」
 うめき声が漏れた。ミーシャを膝の上に横たえて、駆け寄れないので精一杯に手を伸ばすと、そちらからも手が伸ばされた。
 彼はいつも両手で飛びついてきていたのに、片手だけ。血塗れの右手だけ。
 左手は、腕の半ばから無くなっていたから。
「…あ、、あああ、ああああっっ、」
 他の三人と違って一人だけ両の足で立っていた。けれど全身の傷の具合がもっとも凄惨に見える。顔の半分も出血により赤く染まっていて、きれいな顔立ちが見る影もなく。
 ふらふらと寄ってきて、しゃがみ込む朝と、ミーシャの前まで来るとすとんと膝をついた。目線があって、顔がよく見えた。
 ゆっくりとこちらに伸ばされる手に触れられず、朝は頬に手を伸ばした。
「キィ」
 どこが無事で、どこに傷を負っているのかわからない。流血を免れ白いままの頬に、細心の注意を払って手を添えると、キニスンの淡い碧眼がゆるんだ。微笑むように。
「トキにー」
 ああ安心した、と、茫洋としていた瞳が澄んで、安堵するように緩んだ。
 朝もなぜか、あまりにも受けた衝撃が大きくて弛緩していた思考回路が、よくわからない感情を生み出していて、笑い返した。
「よく頑張った、キニスン。えらいぞ」
「うん…でも、まもれなかった…おれ、まもれなかったよう、トキにー」
 弱々しく、どこか呼吸がおかしいとぎれとぎれの言葉。
 朝はキニスンになんと呼ばれているのかわからなかった。二度目でようやく理解する。
「う、うえっ、うえええええ…っ」
「ごめんな、ごめん、ごめんな。兄ちゃん側にいてやれなくてごめんな」
 はじめて零される、少年の涙と嗚咽に、何の逡巡もなく頭を撫でて片手で抱きしめる。
 痛かったろう、辛かったろう、悔しかったろうに。
 どれだけ心細かったかを思って胸が張り裂けそうになった。
 何の事態の解決にもならなかっただろう、悪化させたかも知れない。何が出来たか出来なかったではなくて、側にいてやりたかったと思った。それは確実に強烈な無念だった。
 膝に乗せたままのミーシャとは対照的に、キニスンの身体は熱かった。やがて嗚咽が小さくなって、全身の力を抜いて朝に体重をかけてくる。
 二人分かかっても、ちっとも重いと思えない、こんな、ちいさな子達まで。
(よくも、みんなを)
 病気を患ったときのようにだるい全身と頭の奥が、やはり熱を伴うように温度を増して。
 感情を火種に燃え上がる。それは今までに感じたことのない強いもの。
 身体は、手は冷静に、キニスンの身体を丁寧に横たえて、怪我のひどい部分の止血をしているのに、心臓はひどく鼓動を打って。
 運動をしてもいないのに息が切れ、目の前がちかちかと瞬くように。
(よくも)
 こんな感情の発露を、彼はかつて知らなかった。
 こんな感情が、本当にこの世に、しかも自分の中にあったことを。
(よくもよくもよくもよくも!!!)
 憎悪。
 こんな惨劇を生み出した、この地獄を朝に与えた、誰か、そう、誰か。
 誰か。人間なのだ。いのちある人。けれど同じひととは思えない、どうして傷つけられる、こんなひどいことが出来る!?
 朝は血で汚れた手で、気に留めることなく目元をぬぐった。涙ではない。熱を持ちすぎて炎症を起こしそうな気さえしたから擦ったのだ。
 そして、顔を上げて、それを認めた。
 ネネとやらだったらいいのに、と思ったけれど、違った。ほんの先ほど、笑顔で別れたはずのひと。
(アスラン・ホーグ・ヨーグ)
 彼は別れたときと、まったく同じ状態でこちらを見ていた。その表情だけが違う、すなわち、呪術を紡ぐ体勢。
 杖を水平に立て、緊迫した面持ちで呪文を唱えている。
(…あ…?)
 ぞくり、と背筋が冷えた。理屈でも何でもなく理解したのだ。
(だから言ったろう、トキ)
 せわしなく、両目を瞬く。視線がまっすぐ、アスランから離れなくなった。
(お前は行くんじゃねえって言ったろう)
 言葉が、届く気がした、幻聴だろう。彼の唇はそんな動きをしていない。けれど目を見るだけで意志が伝わる。
「…っっ、嫌だ!アサさん、アスラン、俺は嫌だ!!」
 朝は、気がつけばその場にすごい勢いで立ち上がって叫んでいた。
「帰らない!アスラン!!!」
(………)
 ああ何も響いてこない。声は返ってはこない。訴えているのに、朝は本心から必死に訴えているのに。
 家の前で準備した陣の様なものがないのに、ぐらり、と足下が揺らぐ感覚がした。
 それはまさに地面を失うかのような不安定な気持ちを呼び起こして、朝は後ずさる。
 嫌だ、こんな、思いをして。
 みんなを、このままにしてひとりで。
「……っっ!!」
 何を言ってもアスランの意志は固いと痛感して、朝はその場から踵を返して駆けだした。
 遠ざかれば逃れられると踏んだのだ。一か八かの賭け。その証拠にアスランの表情が険しくなる。
「うわっ!??」
 しかし何かに足を取られて朝はそれ以上進めず、膝をついてしまった。即座に顔を上げて、もたらされた何かを見つける。朝の足を阻んだもの。
 呪をつむぎ、まっすぐに見据えられる、碧眼。
 長い金髪が翻って、こんな時も一瞬見入ってしまう、その感情もとたん、たぎるように強烈な、
「アニエス!!!」
 ほとんど怒鳴り声で名前を叫ぶ。低く、朝の声ではないような。
「俺はそんなに要らないか、不要か、邪魔か!!知ってるよ、知ってるさ、この世界に何の益もない!!俺が一番知ってる、知ってるけど!!!」
 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ!
 両手を着いて両膝を着いて、泥に四肢を奪われたように動けなくて、自由になるのは喉と視線だけ。
 苛烈な眼差しで異界の少女を睨み付ける。異界の、そう、けしてひとつにはなれない。
 どう足掻いても、同じ所にはいられない。
「けど!!俺は君たちとなら怖くても傷ついても構わないのに!!!」
 声に、アスラン・ホーグ・ヨーグはゆっくりと目を伏せる。辛そうに、どこか満足そうに。
「私はいやよ。トキ」
 飛ぶ矢のように、血塗れよどんだ空気を裂いて、アニエスの声が静まりかえった場に響く。
「あなたがいるのがいや。この世界にいて私と同じ空気を吸い話し立って生きているのが嫌。姿を見るのも嫌」
「俺が構わないって言ってるんだよ!!」
 珍しく、即座に強気の反論が返されてアニエスはわずかに目を瞠るけど、それ以上言葉が紡がれることはなかった。
 二人の呪術師の詠唱は止まない。朝にとっての幸いは、その声が苦痛を伴うような不快な音でないということだけだ。
 やがて、眠気を伴うような強烈な意志に押しつぶされる。
 反抗したいのに、アスラン一人の時はわずかながら抵抗できた気がしたのに、少女の言葉にはひどく傷ついて。
(やっぱり俺、少し嫌われすぎだと思うんだ…)
 心は嫌だ嫌だと暴れるのに、どれだけ想いが強くても、けしてきらえない二人になだめられるようにして、朝の力は抜けていった。
 ごぼ、と、固い土のはずの地面が波打ち、泥よりもなめらかな曲線で沸き上がり朝を呑み込んだ。
 ざぶん、何か重いものが沈んだ音が立つと、地面は元通り、そこには、もう。
「…っはあっ!はあっ!」
 大量の汗をかいたアニエスは、立っていられずその場に膝をついた。
 ろくな下準備もない送還の呪術は、ひどい負担となって彼女の心身から力を奪っていった。
「よくやったアニエス。休んでな。みんなの手当は俺がやっておく」
 額に汗をかいてはいたが、アスランは平然と告げてまず意識のない少年少女のもとへ小走りで向かっていった。
 そんな彼に呆れもするが、何だかやはり誇らしいような、憧憬の念が強く湧く。
(…キニスン)
 けれどすぐに、ミーシャの様子も気になるけれど、弟の惨状に心はひどく暗く沈んでいく。
 彼をもし失うようなことがあれば、自分はどうすればいいのだろう。たったひとりの弟なのに。
 ……もう、彼もいないのに。
 自分で、自ら送り返してしまった。
(だって、嫌だもの)
 私と同じ空気を吸って、生きて、立って話して、そばにいるのが嫌。これ以上、一緒にいるのが嫌。
 こうして血濡れて死にそうな目に、いつかあなたが遭うのが嫌。絶対に嫌。
(あなたの罪なんてどこにもなかった)
 ただ巻き込まれただけ。ごめんなさい。
 ごめんなさい、トキ。





 ぶくぶく、と沈んでいく。
 深海?いや、湖?とにかく水がいっぱいあるところ。
 透明なはずなのに青い。水中は空の色を映して青く見えるのだって。
 口の端から空気が漏れた。ちゃんと水中。窒息したらどうしよう。
 思考はばらばらに感じる手足のようにまとまらない。
 ただただ、失われゆく感覚のように、剥がされていく何か、全身から。
 それが悲しい、悲しくてたまらない。
 水中だから構わないだろうか、彼は少しだけ泣いていたと思う。









 

 








 ―――――――ね?諦めなさいよ。どうせあなたには無理なんだから。






 女性の声がした。














 

 

(2008.1.8)

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