感情こころさえなければ


 このおもいがなければ




 これほどの痛みも知らずにいられたろう





 ――――――いっそのこと、そう、心なんて、
 いらない、いらない、いらない。



 なくしてしまいたい。











「まだ起きてんの?もう寝なよぉ」
「あっ、うん。もう寝るよ。おやすみ、ひばりちゃん」
「おやすみぃ〜」
 部屋の戸の、開いた隙間から覗きこんだ眠たそうな眼差しが遠ざかって、くすくすと少女は笑みを漏らした。
 勉強机の灯りを落とし、閉じた日記帳を鍵付きの引き出しにきちんとしまう。
(ひばりちゃんたら、きっと気付いてないんだろうな)
 今頃隣の部屋で眠りに就いただろう相手を思う。
 今からその時を迎えるのが楽しみだった。
「ふぁ」
 漏れたあくびを手で隠し、自分も素直にベッドへ向かう。
 新調した水色のベッドカバーと肌布団は心地よくて、すっかりお気に入りだった。


(…おやすみなさい)
 見慣れた天井を見上げて、誰にともなく心で告げる。
 いつも通り、昨日と何も変わらない、安心に浸る眠りの時。
 けれどそれなのに、彼女に訪れるのは昨日とは違う明日。



 ふ、と気がつくと、寝間着姿のまま部屋の中央に立っている自分が居た。
(…あれ…?)
 きょろきょろと辺りを見渡す。外はまだ真っ暗だった。
 寝ぼけたにしても、普通では考えられない所業に、頭が真っ白になる。
(……なんで?)
 疑問がほどけるよりも早く、“時間”はやってきた。
「!?」
 車のライトを突然浴びせられたような白光があたりを包む。
「…えっ…」
 その、呆けたような呟きの一音すら残さずに。
 全てはもう終わっていた。


 少女が立っていた室内に、ひとの姿はもはや無かった。  





1 依頼





「リビット。サザーロッド・リビットだな?」
 大勢の人間が行き交う大通りの雑踏のただ中で、いきなり不躾に名前を呼ばれた男はあからさまに顔を顰めた。
「その名を呼ぶな」
「失礼。じゃあなんて呼べば良いんだ?」
 振り向いた先には良く言えば人懐こそうな、悪く言えば軽薄な印象の男が肩をすくめて笑っていた。訂正するよ、と続けるので。
「サザ」
 そう、短く指定した。
「分かったよ、サザ。いきなりで悪いな。あんたに頼みたい仕事がある」
 軽快な口調で話を切り出した男は、この国には珍しい蒼髪をさらりと揺らした。
 当然こちらの、サザの顰め面は一層険しくなる。
「……」
 いかにも怪しい。
 この男も、その依頼とやらも、まっとうなものであるはずがなかった。数多の依頼を受け、こなしてきた経験と、自らの鋭敏な勘がはっきりとそう告げていた。
 しかしこんな、誰が聞いているとも知れない人通りの多い場所で切り出すとは。
 得体の知れない相手に対する警戒が伝わったのだろう、男はなだめるように笑う。良く笑う男だ。しかもその笑みには不思議といやらしさはなかった。
「なあに、簡単な仕事だ。辻馬車の護衛なんかケチな仕事より、あんたに相応しい仕事だと思うがな」
「辻馬車を襲えってか?」
 サザは真顔で返した。もちろん皮肉だが、自分でもそちらの方がずっとらしいと思っていた。だがしかし男も真顔でまさかと返してくる。
「護送さ。とある商品を、フェドレドまで運んで欲しい」
「……」
 「とある商品」を「護送」ねえ。
 サザはやや視線を俯けて鼻を鳴らした。こちらが疑問を持つことも、怪しいと勘繰ることも承知の上で、仕事を依頼してきたのだろう。
「仕事の詳細はこの封筒の中の書類に書いてある。報酬は…」
「いいだろう」
 言葉をさえぎって、サザは了承の意を示す。
 今から肝心の報酬の話と言うところで、さすがに目の前の男も驚いたように目を瞬いていた。
「い、いいのか?」
「なんだ。俺に頼みたいから来たのではないのか」
「いやそうだけど…じゃあ、これがその書類だ。ちゃんと目を通してくれよ」
「ああ」
 依頼の概要にしては、薄い紙封筒を受け取って、もう用事は終わったとばかりにサザはきびすを返す。
「ちょちょちょ、ちょっと待てい!」
 当然慌てて呼び止めたのは蒼髪の男で、むしろサザはうざったそうに、何とか足を止めて振り返る。
「なんだ」
「何か、訊くこと無いのか。い、いろいろと。ヤケにアッサリしすぎてないか?」
「必要なことは全てこれに書いてあるんだろう。俺は依頼をこなすだけだ」
 淡々とした言葉に、依頼を承諾して貰って喜ぶはずの男はなぜか口をへの字にしたり頭を両手で抱えたり奇っ怪な動きをしばらくしていた。
「……」
「うがー!だからお待ちなさいそこぉ!」
 再度煩い声に呼び止められて、サザはもうはっきりと不機嫌と分かる表情で振り返る。
「用もないのに呼ぶな」
「あるから呼んだんだって!俺の名前はぐ…じゃなくて、ラシード・セッテ!何かあれば俺宛に手紙を出せ!いいな!?」
「無用の心配だな」
 蒼髪の男、ラシードの訴えをずっぱり両断して、しかしサザは数瞬彼の瞳を見据えた。
 真剣な眼差し。久しく見ることの無かったそれは、濃い紫色をしていた。これもまたこの国には珍しいもの。
 そして今度こそ背を向けて歩き出す。いつかあの男の顔や名前は忘れても、瞳の色彩は脳裏に残るのかも知れない。なぜかそんなことを思った。



 第一の国アーシェンテ、クォ。大陸の北側に位置するこの国家は、古い歴史と伝統を重んじる信仰と呪術研究の盛んな土地である。
 ただしその風潮も地方家柄によって異なったり、年々衰退の気配を見せてもいた。
 さらに首都近辺に住む者は豊かで華やかに暮らしているが、郊外や田舎に住む者は平均して貧しく、その貧富の差別化も問題視されるようになっている。
 東南の野蛮国(と言われている)ウォッツほど乱れていないが、南の隣国フェイほど平穏でもない、そんな国情である。
 その国でサザは傭兵をしていた。
 請われれば基本的に拒まず、何でもする。人助けも人殺しも同じ速度で、同じ温度で。
 彼にとって造作もないことだった。
 ただ、ひととあまり関わらず、強くあればいい。それがサザの現在の望みだった。
 そんな風に時間を過ごしていると、いつしか傭兵仲間の中でもサザの腕が認められ、こうして突然依頼を受けることも少なくなかった。
 時には彼を妬んだり危険視した相手からの、策略じみた依頼も請け負った。
 けれどサザは「依頼は問題なく完遂してのけた」。依頼主の安否は内容に組まれていないことも多かったので気が楽だった。
 今ではそんな依頼も激減して、名は轟くばかりである。しかしそれがうざったくも感じてきたところで(宿などで英雄視されたりしたときには辟易する)彼は自分の名すらも疎ましく思うようになっていたのだった。
(名前なんて、なくてもいい)
 呼んでくれる、否、呼んで欲しいと願う相手が、いるわけがない。
 欲しいのは自分の名前を呼んでくれる誰かの声ではない。ただ純粋に力が欲しかった。
 誰にも負けず、何にも屈さず、たった独りで生きていけるだけの強さがあれば、それで。
 それでサザは生きていける。



 サザはまず街から出た。
 轍道に沿って歩き、人気のすっかり無くなった(もちろんあたりの気配も探ってからだ)ところで紙封筒を開いた。
 歩みをやめずに斜め読みする。そしてその目的地と大まかな概要を理解したところで紙を縦に引き裂いた。
 手紙の左半分は懐に仕舞い、右半分を、彼にしては珍しく処分を考えるように数秒見つめたあと、あたりの適当な地面にナイフで土を掘って埋めることにした。いつもは焼却処分してしまうのだ。
 自分の実力は誰よりもサザが解ってはいたが、こうした傭兵仕事を始めてから一度も欠かしたことのない守秘行為だった。
 選んだ土壌は十分に柔らかいものだったので、埋没のあとは目立たない。それを確認してから、目的地へ足を向けた。
 文面によると、護送対象「商品」は呪術媒介であるらしい。
 ちいさな子供でもこの国が呪術によって栄えてきたことは知っているように、サザもそれらに携わる仕事は多くこなしてきた。
 呪術媒介のことも、呪術を行使しないサザも囓る程度には知識を持っている。
 そもそも呪術とは、行使する術師の「音」と「解」と呼ばれる工程を経て直接発動する「展開呪術」と、
 あらかじめ呪術の法則や理を刻んでおき、簡単な働きかけで発動可能な「構築呪術」に大別されるのだが。
 呪術媒介はその、「構築呪術」に用いられる道具を差すことがほとんどだ。
 こちらの呪術の8割は呪法陣という図式化したものに刻まれており、その呪が刻まれた物体を媒介と呼ぶのが大抵なのだ。
 良くある仕事である。
 しかし難ある呪術ほど高度かつ慎重な扱いが要求されるため、腕っ節だけといった風情の傭兵には敬遠されがちな依頼でもあった。
 万が一のことで呪術が誤発動したり、それだけならまだしも暴発して被害を生むようでは、お話にならないのである。
 しかしまあ、文面を見る限りそれほど繊細な扱いが必要と言うことも無さそうだ。その「呪術媒介」は。
 ただ、「原形を崩さないよう要注意。他の誰の手にも渡すことなく指定fへ」と走り書かれていた程度。呪術媒介にしては異例といえるほどのぞんざいな指示だとも思った。
 まあ、いい。依頼人側の事情には端から興味はない。
 サザは強風に煽られて首許にまとわりつく外套を煩そうに手で払い、目指すは北西のアイア山へ視線を向けた。



 山の麓にほど近いアイアヌという、ちいさな村にたどり着いたのはサザの足で丸一日ほどかかった。常人なら三日かけるところの道のりなので、あのラシードという男が聞いても信じたかどうかは不明だが。
 村はいかにも山間の農村と言った静けさに満ちた、家畜と森のにおいに包まれた貧しく素朴なところだった。サザは臨時で宿を商うという、村唯一の屋敷で必要最低限の食料などを買い求め、休息もそこそこに早朝山に向かった。
村人達は武器を腰に帯びたサザの訪問に、眉根を寄せてけしていい顔はしなかったが、表だってそれを口にすることはなかった。
 サザを一晩泊めてくれた屋敷の子供が、彼の背中を見送りながら「あのおにーちゃんは森に帰るの?」と親に訊いた。
 親は苦笑してたしなめる。ばかね、あのお兄さんは人間よ。
 確かにどちらかといえばひとというよりけものの気配を放ってはいたけれど。


 山の麓にはさほど深くはないが鬱蒼うっそうとした森が広がっていた。
 すぐに朝露がまとわりつき、しっとりとした早朝の冷気がサザを包む。むろんその程度で歩みを鈍らす彼ではないが。
 まともな方向感覚を持たぬ者ならとっくに行きも戻りも出来なく、途方に暮れる頃であろう長い時間迷い無い歩調で足を進めていたサザの足が、不意にぴたりと止まる。呼気を潜める。
 それと同時に彼は利き腕である左腕を振り抜いていた。頭上に散る、色彩と異臭。
(――――ザグルか)
 自らの獲物である曲刀を振り払い、返す動きで血糊を飛ばす。サザは冷静に足元に横たわる死骸を、改めて目の端に捕らえた。
 構築呪術の余波や大気にたゆたう微量の「ちから」に冒されたりと、原因は無数にあるらしいがそれによって生態系を狂わされた、主に凶暴化した動植物を総じてそう呼んでいた。
 ザグル退治も傭兵の日常的な仕事といって過言ではない。
 人間の一方的な我欲の犠牲者であるというのに、それで金を稼ぐのだからおかしな話である。
 まあ世の中というのはえてしておかしいのだろう。サザは思考を完結させると視線を動かす。――間もなく、身体を右足を軸に一回転させた。左腕を翻しながら。
 ぞん。
 鈍い音がして、声もなく鳥のザグルが落下する。胴、首の順に落ちたそれは、元の場所におさまるように綺麗に垂直に着地した。
 ――――ああ、お前らは幸福なほうだ。
 次々に、頭上を覆い、ほとんど視界を埋め尽くす量のザグルが襲いかかってくる。
 サザは思考を完全に遮断し、殺戮に全神経を集中させた。
 ――――深い森に抱かれて、静かに土へと還っていける。
 変形、もしくは進化の末にひとの三倍はあろうかという巨大なザグルばかりというのに、サザはいともたやすく紙でも切るようにすぱすぱと胴を、首を、頭を削ぎ、断ち、落としていった。全て一太刀のもとで。
 どんな名刀でもこれだけの数の肉を斬れば刀に脂が回り、切れ味も悪くなるところだが、それもまるで見られない。血も、脂もさほど刃に乗らないのだ。
 返す刃が、早すぎて。


 一方的すぎて面白味に欠ける殺戮が一通り終わると、死骸の海に、さすがに返り血皆無というわけにいかなかったサザが立っていた。もちろん、本人は無傷である。
「……」
 息ひとつ乱さず、汗ひとつ流さずに自らの築いた屍の山を見渡して、サザはようやく頭の血の気を引いていく。
(…なぜ、こんな田舎の森に、これだけのザグルが)
 疑問はただそれだけだったが、それさえ清らかな空気をもっても浄化しきれない臭気に阻まれてうまくいかない。頭を軽く振って、サザは足を進めた。 
 そしてしばし足を進めたあと、サザは眉を潜め、確実に既視感を覚える光景を目にしていた。
 すなわち、今しがた通過してきたもの。ザグルの死体の山である。
 否しかしそれらはサザの殺したもの達ではない。これは本当に、「何かの上に積み上げた」様相で山になっていたのだ。
 警戒を解かぬままに近づくと、異様がさらに明らかになる。サザの目は聡い。おびただしい死骸の下から伸びる、異質な色にいち早く気付いたのだ。
 最初は、骨か何かかと思った。茶系の鳥のザグルの山。黒々とした色にまみれてそれは、ひどく映えた。骨ではなかった。
 白い腕が伸びていた。
 まるで怪談話だな。サザは場違いですらある「それ」に苦笑じみた表情を浮かべた。
 ぴくりとも動かぬそれに、サザはそっと手で触れた。つめたい感触がした。
 ほとんど事務的な理由からザグルの山を崩しにかかった。サザにかかれば簡単である。剣を斜めに突き刺し、てこの要領で連なる死骸を蹴り飛ばせば早かった。
 蹴り飛ばし、硬直した筋肉から新たに血が零れて散った。中でも妙に、鳥のザグルが多い所為か汚れた羽が視界を覆い尽くすように散らばっては舞った。
 そして、除去作業が終わると、白い腕の先が現れた。さすがのサザも目をみはった。
 子供だった。人間の。
 確かに見かけた腕は人間のものだったが、その先まで人間であるという確信は、サザには全くなかった。
 果たして、こうして出てきたものが人間の子供であったのだから、どうしたものか。
 しかもあれだけのザグルの中、どこか食われた様子も、さらに圧迫されて潰れ、変形した様子もない。五体満足のようだった。
 しかし、死体には違いない。俯せのその頭は、短く深い漆黒の髪をしていた。ふとサザは、その髪に手を伸ばして、触れてみる。
 頭に置いた手を、動かしてみる。ふわ、と音がしそうなほど繊細に、髪が揺れた。
 そしてどうしてか、身体を寄せて抱き起こしてみた。ゆっくり、仰向けたその子供は思ったよりも年少ではない、けれど年端のいかない少女には違いなかった。
 ところどころ血に汚れ、力を抜いた全身と、この状況がなければあどけない顔立ちは寝ているとしか思えない。
 ――――いや、本当に、この少女は死んでいる?
 サザは、思いがけず息を呑む。疑問を抱いた瞬間、彼に答えるかのように少女の身体は少しずつ熱を帯び始めたのだ。
 そしてしばしして、上下する胸と、健やかな呼吸を繰り返す口元。まるでサザに助け出され抱き起こされるまで息を詰めていたかのような、奇妙な違和感がそこにはあった。
 あまりにも不自然な少女の存在。解消されない謎は残るが、サザはひとつの真実を見いだしていた。
 遠慮も躊躇もなく、彼女の服をくつろげる。そこから、予想したとおりのものが現れた。
「…そういうことか」
 呟いて、少女の細い身体をひょいと抱き上げる。冗談なくらい軽かった。
 サザはひとつの確信を得た。
 少女の身体には呪法陣に違いない刻印が浮かんでいたので。
 ――――あのザグル達はこの呪術媒介しょうじょを狙っていたのだ。
 否、護っていた、か?どちらにしてもこの地に長く留まる必要は無さそうだった。



 意識を手放して眠る、少女の顔、身体、服には、無数の血に汚れた羽がまとわりついていた。
 それは彼女を覆い被していたザグルらのものであるが、まるで点々と傷を負った少女の流す血のように見えた。

 

 

 

 

(2006.4.29)

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