夢の中、少女の姿は小鳥だった。
夢なのだと認識できるのに、区切りの見えない暗闇のなか、息苦しく羽ばたくことも出来ずに地面に羽を擦らせ、ち、ち、と不安げにさえずることしかできない。
羽は重くて、そもそも羽の使い方など知らないので、空の高さを確かめることも、行く先に光はあるのか探しに行くことも出来なくて。
小鳥は、助けを求めてさえずるしかできない。
今のままでは、ちっぽけな小鳥では、巣に帰ることも家族を捜すことも到底無理だった。
だがやがて、声が届いたのかのそりと現れたのは。
……薄汚れた、けれど立派な体躯を持つ獅子だった。
思わずぴゃっとおびえの声を上げて全身を竦ませた小鳥は、あんぐりと大口を開けた獅子に丸呑みされるのだと思った。
しかし、わしっっと鋭い牙と牙の間に挟まれ、やはりのしのしとした足取りの獅子に運ばれているのだと知る。
獅子は、自分の巣に持ち帰ってから食べるつもりなのかしら。このちいさな身体に味わうほどの面積のお肉があるとも思えない。
黙々と小鳥を運んで歩む、その行き先は、獅子のみぞ知るのだろう。
2 面倒
面倒なことになった。
アイアヌに戻ったサザは、散々不審と胡乱げな視線に晒されてうんざりしていた。
サザ一人なら泉でも川でも見つけて水浴びすれば済むことだった。けれど持ち帰った少女の方はそういくまい。
森に向かったはずの男がなぜか獣の血まみれで、さらに血まみれで意識のない少女を土産に戻ってきたものだから、宿を営む屋敷の女主人は、しばしサザを、彼自身を迷惑そうに眺めやって、しぶしぶ二人分の湯を用意してくれたのだ。
少女の身を清めるのと、娘用の動きやすい衣服もついでに求めて、サザは一人で血を洗い流す。服はもともと持っている替えの分で、上着だけは洗って適当な木に吊して干した。
村中がしんと静まりかえり、日中だというのに家中に閉じこもって誰も出てくる気配がなかった。まあ、都合が良いと言えばいいが。
もう長居する必要もない。
サザは、洗い清めたため水気を含んだ前髪を掻き上げて、珍しく露骨な溜息を吐いた。
面倒なことになった。
改めて、思う。
サザの受けた依頼はアイア山麓に広がる森に安置されている、呪術媒介の回収及び、指定地点までの護送だった。
だがしかし、それがナマモノで、人間の形をしているとはさすがに想像も付かなかった。
どういう事情で理屈で、そうなっているのかは知らない。呪術が娘の形を取ったのか、娘の身体に直接呪術が刻まれているのか(第一そんなことが可能なのかも)知らないし、興味もない。いつものことだ。
人間を護送した経験は皆無ではなかったが、予想以上にきなくさい任務のようだ。
(…まあ、いい)
仕事は仕事だ。滞りなくこなせばいい。
夕暮れを待たず旅立つことにする。あの少女の意識が戻ろうが戻るまいが、サザはそう決めて、森のなかでは一睡もしなかったため、短い仮眠を取ることにした。
「ああ、旦那。今ちょうど着替えが終わったところですよ」
少女を預けたままの部屋に戻ると、なぜか対応が緩和したように思える女主人に迎えられた。
「事情は知りませんが綺麗にすると可愛らしいお嬢さんで驚きましたよ」
どうやら世話をするうちに情が芽生えたらしい。彼女にも年頃の娘がいるとか、どこか具合が悪いのかしらとか、聞きもしないのにぺらぺらと喋り、彼女の身体にそっと毛布を掛けている。
「少し休む。声をかけるまで来なくていい」
告げて、今日分の代金をまとめた革袋を手渡す。彼女はむっとした表情になり、何かを言おうと口を開いたが、結局頷いて出ていった。
やっと静かになった一室で、ようやくサザは少女の存在と対面した。
白いシーツに散る、漆黒の髪。少し癖のあるらしいそれはふわふわと首もとにまとわりついていた。
伏せたまぶたを彩る睫もやはり黒くて、肌の白さが浮き彫りになる。しかし生粋の、クォ人とは少し異なる肌色。黄味がかったというべきか。サザも見たことのない色。
眠る顔色は予想通り幼く見えた。そしてまぶたを開いた先にある双眸も、きっと闇のいろをしている。
サザは根拠のない確信を漠然と抱いて、ひとつしかないベッドの端に腰を下ろす。
刀を胸に抱くと、瞳を伏せる。
サザは必要であれば五つの数を数えれば眠りに落ちることが出来た。同時に、針の落ちるほどの音で目が醒める。
今日は、すぐ側で誰かの静かな呼吸が聞こえた。それが、いつもとは違う。
時間にすればわずかの間だとは思う。サザは衣擦れの音で目が醒めた。
首を左右に折って頭を覚醒させると共に身体も起こす。そしてすぐ、音を立てた元凶に目を向ける。
少女が、目をぱちりと見開いてこちらを見ていた。ああ、やはり、きょとんと瞬く双眸は光の介在を許さない色。
「…?…??」
不思議そうに部屋と、自分の服と、寝かされたベッドと、落ち着かなく見渡して、最後にまた、じっと視線を向けるサザにその目が戻ってくる。
「…、…、…?」
少女が口を開いて、何かを問うた。その声は怯えたように控えめで、囁くようだ。
けれど、その声が小さかったからではない。サザは聴覚も優れているので聞き逃すことはない。
「…!」
サザの怪訝な視線を受けて、少女はびくりと身を竦ませる。この場に第三者がいれば、誰がどう見ても睨まれたとしか思えない苛烈な眼差し。
「…何だと?」
サザは思わず声に出して問い返していた。少女はびくびくと震え、目に涙を浮かべながら状況の説明を求めているようだ。けれどサザがその意を正しく汲むことは叶わなかった。
少女の語る言葉が、分からなかったのだ。
いかなる辺境の異国人といっても、多少の訛りや言い回しの違いはあれ、世界共通語のガーノスピル語を喋れるはずだ。
しかしどうやらこの少女は、ガーノスピル語を話すことも、聞きとることも出来ない様子だった。代わりに奇っ怪で、複雑な音の連なりにしか聞こえない言語を話す。
「…っ、………」
少女もようやくその事実に思い当たったのか、首を落として表情を曇らせる。その顔色ははっきりと青い。
サザははっきりとこの呪術媒介( の異様を悟る。ただの娘ではないと思ったが、存在そのものがこの世界とは異なるらしい。
「!」
「来い」
サザは有無を言わさず少女の腕をつかむとベッドから引きずり落とし、まだ足元のおぼつかないちいさな身体を宿の外まで連れ出した。
そして手っ取り早く説明を省くために、この辺境の様子が一望できる崖先に、捨てるような動作で少女を投げ出した。
「っぁ!」
ちいさな悲鳴を上げて天然の芝生に投げ出された少女は、微かに全身を震わせながらゆっくりと身体を起こし、展開される景観を見渡した。
「……」
ふわふわと、風になぶられて少女の黒髪と、女主人に貰い受けた服の袖が舞った。
彼女は言葉もなく、茫然と景色を端から端まで眺めていたし、サザはその後ろで少女を見ていた。予想外の行動にいつ出ても良いよう見張っていたという方が正しい。
広がるのは、サザには何の変哲もない緑の平原。どこまでも果てしなく、黒い木々と森が広がり、川が流れる自然そのもの。当然このあたりに民家などはあろうはずがない。
「…ふぇっ、うえ…うあああああんっ」
やがて、少女が上げだした泣き声に、サザは露骨に眉間の皺を寄せた。
芝生にしがみついて、身を伏せて少女が声を上げて泣く。
この少女が陥った窮状も、事情も、また突きつけられ受けた衝撃も、サザにとっては全く興味のないもので、泣きやまそうと慰める機転も気遣いも、残念ながら持ち合わせがなかった。
だから、煩そうに目を伏せて泣かせるままにする。
少女は繰り返し同じ言葉を呟いて、良くあれだけ水分が出るものだと感心を抱くほどの時間泣いていた。
言葉は分からないが、分かる。
少女は帰りたいと嘆いていた。家族の名前を呼んで、助けてと求めていたに違いない。
泣き疲れ、それでもひくひくと肩を震わせている彼女に与える時間はもう惜しいとサザは自らの判断で、宿を出る際まとめて持ってきていた荷物を担ぎ、足音を隠さず少女の背後に近づいた。
振り向いた娘は顕著に飛び上がって、後ずさる。残念ながらその後ろは崖で、追いつめられ子供のように頭を庇うその腕をつかんで、ひょいと肩に担ぎ上げた。
「…っ!?」
「暴れるな、落とすぞ」
突然視界が変わったことと、この事態に戸惑った彼女はもがいたが、威嚇とも言える声色で一旦大人しくなる。
そのまま常時と何ら変わらない歩みで村を出て行くことにする。
しかし、それをさえぎる声があった。焦ったような呼びかけにサザは仕方なく足を止め振り返る。
「だ、旦那、行かれるんですか、こんな時間から…!」
宿を貸してくれた屋敷の女主人だった。
「金はもう払ったはずだ」
冷たく言い放つサザの言葉に、女主人はしかし首を振って、まぶたを赤く腫らし担がれて震える少女に視線を向ける。
「その子は…身体は大丈夫なんですか。身体が悪いようだったらもう少し休ませてやって…」
「もう村に用はない。余計なお世話だが」
「…でも…!」
言い募ろうとする女主人の手が、ぎゅっと握り合わされる。
サザはわずかな違和感を覚える。こんな辺境の村が、よそ者を懇意に世話を焼こうとするのは珍しい。ましては滞在を引き延ばそうとするなど。追求には及ばないが。
「わかりました。お気をつけて。…あの、これ」
小振りの背負い鞄を渡される。遠歩き用に必要な最低限の物を詰めた、少女用の鞄だという。
余計な荷物は文字通り重荷だが、サザは数瞬考えて受け取ることにした。
「世話になった」
「…お気をつけて」
少女にも、自分を気遣う眼差しが分かったのか、サザが立ち去る間も見送る女主人と視線を交わし続けていた。ぺこり、と頭を下げたのが、担ぎ手のサザにも見なくても分かった。
村を出てすぐ、ぺしぺしと控えめに背中をたたかれサザは怪訝な眼差しを「荷物」に向ける。
「なんだ」
普通なら無視してやるところだが、身体に触れられるのがそもそも嫌いなため看過できなくなったのだ。
サザが応えて足を止めると、うんしょうんしょと担がれる肩から身を起こそうとしている。どうやら下ろして欲しいらしい。
はっきり言って、面倒くさい。
サザの脚なら、たとえ娘一人抱えていてもあっという間につくのだ。しかしこの、いかにも身体の弱そうな娘の脚となると、2倍どころか5倍は時間がかかりそうだった。
「…っ。〜〜〜〜っっっ」
少女はまた、わけの分からない言葉を喚いてじたばたする。大した妨げにもならないが、少し煩わしくなって言われたとおり下ろしてやった。
サザには、身内でもない異性に抱き上げられて、恥じたり、嫌がる女性心理というのに到底思いも寄らないのだろう。
実際少女はほっとしたように胸をなで下ろして、しかしすぐ次の瞬間顔を顰める。
「ああ」
ベッドから連れ出してそのままだったから、裸足のままだったのだ。荷物から靴を取り出して、サザはその場にしゃがみ込んだ。
「…っ!?」
逃げようとする足首をつかんで、自分の肩につかませると、ざくざくと靴を履かせる。
この地方の靴は足に固定させるため何重にも紐を巻き、さらに留め金に止めるなど複雑だった。どうせこの娘は一人で履けまい。
だが真っ白で柔らかな薄皮の足裏には驚かされた。この娘はもしかしたらまともに歩いたこともないのではないか。
靴を履かせた少女は、とんとんと足の具合を地面を叩いて確かめて、サザを見上げると短く何かを呟いた。
その視線には怯えの色が色濃く残っているが、おそらく礼の言葉だったのだろう。この程度のことで礼を言われるとは思わなかった。
綺麗な手足を持っているくせに、身分の高い者ではないようだ。
「行くぞ」
呟いて、サザはすたすたと歩き出した。
しばらくは緑の間を細く延びる街道を行くだけだが、少し行けば森や山道も通るのだ。
この娘を連れてだらだらと時間をかけるつもりはない。
が、サザがいつもの調子で歩いて、数分もしないうちにはたと思い当たって振り返る。
案の定、あのちいさな黒髪の頭はどこにも見あたらなかった。
一人歩きの旅路が長いと、ペース配分に気が回らず、失念していたと舌打ちする。
「…おい、どこだ」
探そうにも、呼ぶ名前を知らないことに気がついて、仕方がなく声を上げる。
どうせ言葉は通じないのだからあまり意味がないかも知れないが。
とりあえず来た道を早歩きで戻ると、やがて先ほども聞いた娘の泣き声を耳が拾う。
改めて、うんざりとした思いに気が重くなる。サザは女子供が、特にぴーぴー泣く類のそれが大の苦手だった。
「おい」
「…!」
娘はサザとはぐれて少し彷徨ったのか、道から外れた木々の間に隠れるようにして立ちつくしていた。
声をかけると弾かれたように振り返り、ぱたぱたと足をもつれさせながら駆け寄ってくる。
転げそうな足取りだ、と思ったら本当に転けて、それでもすぐにがばっと起きあがって、サザのマントをひしっと掴んだ。
「……」
「…うう、うぇっ、うえ、ひっく」
顔をぐしゃぐしゃにして、娘はうつむき、まだぼろぼろと涙を零していた。
離せとマントを少し引っぱったが、ぎゅうと握った手は離れようとしない。
…娘はどうやら、置いて行かれたものと思ったらしい。人の気配すらない場所に一人残されて、募る孤独感に泣いていたのだろう。
そして置いて行かれなかったのだと知って、今度は安堵と先の見えない不安で泣いているのだ。
もちろんサザは、そんなことは知るよしもないのだが。
ただ、真っ赤に腫れてなお、ぼろぼろと濡れていく娘の顔を、単純に汚いと思って、手を伸ばしてぐいぐいと頬を擦った。少女が痛そうに顔を顰めて、身を引く。手のマントは離さないが。
「泣くな。鬱陶しい」
もちろん言葉が通じるわけはないのだが、それでもひっくと喉を鳴らして、涙をこらえようとしている様子が見れた。
サザはそれを見て、マントから離すことを諦めて再び足を動かした。今度は少し速さを調整する。
ふと、足を止め、肩越しに振り返る。
サザの目はいつも鋭いので、睨まれたのかとやはり少女はびくっと身体を竦ませる。
「俺はサザだ。お前は何だ」
「……??」
もちろんそんな単語で聞き取れるはずもない。サザは心底嫌そうに、仕方がなく自己紹介を繰り返すことにする。
「…サザだ。分かるか?俺のことは、サザと呼べ」
「…?さ…さざ?」
「お前は?」
指を突け付けられて、ようやく分かったのだろう。未だ不安そうで、涙の色濃く残る視線を揺らして、少女はしかしはっきりと言った。
「ツグミ。ツグミソラチ。ソラチツグミ」
「そら…なんだって?」
「ツグミ!」
どうやらフルネームは若干長いようだが、結局少女はその三音を強調した。
サザは呼びにくい、という感想以外抱きもしないその名前を、仕方なく確認のために呼んでやる。
「ツグミ」
「…!」
どうやら返事らしい言葉を言って、彼女は初めて笑顔らしい明るい表情で頷いた。
「サザ」
「そうだ」
少女、ツグミも改めてといった様子で呼ぶので、仕方がなく頷いてやると、何が楽しいのかサザサザと口の中で繰り返し呟いている。
「黙れ」
さすがに歩き始めてからもやめないので威圧を籠めて呟くと、ぴたりと声は止まった。
その代わりにまた、びくびくと怯えて萎縮する気配。
(…面倒なことになった)
今日一日で何度そう思考を巡らせただろう。
けれど今のサザには、マントにかかる軽いわずかな負荷から、少女がてくてくと自分に付いてきていると、見なくても分かるのだった。
(2006.5.15)