空知つぐみ、17歳を迎える前の高校二年生。
しかし彼女の本分がどう言ったもので、どこで生まれ育ち、何をしてきたか何てことは、本人以外知らない。
つぐみは今、口も耳も封じられ、自由に動くための手足も封じられたようなもの。
自由が利くのは瞳だけだ。それだけは以前と変わらず、現状を把握するために大事な役割を果たしてくれた。
「…?…!」
サザからぐい、と無言で差し出されたちいさなリュックを受け取って、つぐみは何かと首を傾げたが、すぐに納得した様子で頷いた。
これは村を出る際持たされた、つぐみ用の荷物なのである。それを背負う前に、ぎゅっと両手で抱きしめた。
つぐみの心も、自由を許されている。感じる心も、変わらずあるのだ。
ろくに会話も出来なかったけど、彼女はこの鞄を託してくれたひとの気遣いが、分かって嬉しかったのだ。
サザはそれを差し出す前に、中身を改めていた。ちいさなその中には簡単な着替えと手当の道具、携帯食料が少々、あとは小物が少々と、何てこと無い内容だった。
「行くぞ」
すたすた行ってしまうサザの背中に、つぐみは慌ててリュックに手を通し、駆け出す。
「サザっ」
少女が名を呼ぶ。それしか理解できない、細い声。
顔を、上げて、つぐみは前方に広がる景色に目を瞠った。
自分のかつていた場所でも見たことの無いような、大自然に覆われた世界。
あまりに同じ景色が続き、動物の姿もないここは、現実味がないのに、全身に降ってくる緑の気配。
そう、つぐみは何も封じられてはいないのだ。
五感全部がそのまま、彼女のものだ。
「……」
風の音しかない、ここは、寂しい空洞。
世界にたった二人きりしかいないみたい。
だからつぐみは必死で、先を行く、名前しか知らない男を追いかけるのだ。
ここに一人置き去りにされたら、今感じている五感全部が枯れ果てて空っぽになる。そんな恐ろしい予感があった。
このひとと離れてはいけない。
3 沈黙
日暮れまで歩き続けて、しかし殆ど変わらない景色に、つぐみが不安そうな顔をしている。
さらにその呼吸もどこかおかしいと気付いて、サザは足を止めると四方を見渡した。その側に同じく足を止めて、つぐみはサザのマントを握る。
足が追いつくと、もはや彼女の癖みたいにそれは行われていた。サザが振り払えば簡単に手は外れるが。
(…水源があるな)
微かながら確かに耳が聞きとって、サザは青白い顔で俯いている傍らの娘を足元から抱える。
「……っっ!??」
「今日はこれで終わりだ。大人しくしていろ」
言いながら歩き出し、抱えたまま靴を脱がすと案の定。
真っ赤に腫れ、つぶれかけたまめが出来ている。患部が空気に触れたことで、ちいさなうめき声を漏らしながらつぐみが震える。
「弱いな」
(こんなに弱くて今までどうやって生きてきたんだ)
サザは思わず呆れたため息を漏らしながら、声を殺してこぼれた涙が、自分の肩を濡らしていくのを感じていた。この水分も、どこから出てくるんだか。
しばらくそのまま歩いていくと、川の流れと、少し行った先にほどほどの規模の泉を見つけた。つぐみを幹の根元に下ろす。
「動くな」
どうせ言葉が通じないのだから用件は告げず、サザはつぐみを置き去りにして背を向ける。
「…?サザ?サザ…っ、…!…っっ!」
しかしすぐに動揺した少女がわあわあ騒いで、怪我した足を引きずりながら追ってこようとする。
「……」
「…っ、…っ。っ、サザぁ…」
もう一度、ひくひく泣いているつぐみを、小さい子のように脇の下に手を入れて抱え、幹まで運んで座らせる。
じっ、と見上げてくる大きな瞳は夕暮れ時はさらに、光を介さず深い色だ。
それを見据え(ひとはそれを睨むと言うが)、目の前にしゃがみ込んで言い含めるように告げる。
「薪、今日の飯、薬草を採ってくる。すぐ戻る。いいな?」
「……」
理解したのかしていないのか、つぐみの濡れた瞳は何も変化を見せない。
焦れたサザは、自分の荷物をつぐみの足元に放り投げる。道中の食料から全財産まで全て入っている鞄だ。
「見張れ。もう分かるだろう」
短く告げて、今度こそ振り返ることなく背を向けた。
つぐみはもう泣き喚かない代わりに、なぜか小さな声で何か告げた。
これが「いってらっしゃい」だったと、サザが知るのは大分後の話になるが。
山間部の日暮れは早い。サザを見送ってからどんどんと暗くなっていくあたりに震えて、つぐみは荷物を抱きしめるように庇い、じっとしゃがみ込んで青年の帰りを待った。
サザは、怖い。
目付きというか、雰囲気というか、態度そのものが硬くて他者を受け入れようというそれがない。
けれどつぐみには彼しか頼るひとはいないのだ。きっと自分も、煩わしく思われているだろうが、それでも伴ってくれる。
付いていこう、頑張って付いていこうと、必死に必死に歩いてきた。
でも、今まで歩いたことのない様な距離を一日で歩いて、気力はともかく体力が保ちそうにない。
つぐみは再び、溢れてくる涙を乱暴に手の甲で擦った。
「……」
ひとりになると、心が騒ぎ出してたまらない。
さみしいさみしい、かえりたいかえりたい。
大きな声を上げて泣いたりすることのない様に唇を掌で封じている。
けれど涙は止まらなかった。いつまでも泣いているわけにはいかないけれど、今は泣きたかった。
「……」
おそるおそる、じくじくと痛みの止まない足の裏を覗きこんでみる。
全身くたくたでもう、一旦腰を下ろしてしまえばもう歩けない、すぐにでも眠りそうな状態だったが、この痛みはたまらなかったのだ。
「……ぅ…っ」
すぐに見てしまって後悔した。じゅくじゅくと膿むような傷口に、頭から血の気が引いていく。ひっく、とまた嗚咽が漏れた。
そういえば、道中小枝をぶつけたりして腕や足にもたくさん擦り傷を作っていた。いやだなあとは思ったが、確認だけはしておこうと、そうっと腕の袖をまくってみた。
我ながら白く、頼りない腕があらわになり。
「…!」
な、なに、これ。
現れた腕は、赤いみみず腫れやひっかき傷をこさえた以外、自分のものに違いないのに、そこに、傷とは明らかに異なる、入れ墨のような線が走っていたのだ。
「…?、…?」
どこまで、どこから!?
つぐみは慌てて袖を二の腕までまくり上げるが、線はまだ、肩から身体の方に伸びているようだった。袖を上げるにも限界はある。とはいえ、ここで服を脱ぐわけにもいかないし。
「……」
つぐみはたまらず、サザの荷物ごと自分の身体を抱きしめて縮こまる。
サザ。彼は知っているのだろうか。置かれた状況のこと、この、身体の線のこと。
「ここ」に来て、気を失っている間、この身に何が起きたのか。
少なくともつぐみ自身よりは詳しいはずだ。確固たる意志を持って彼は歩みを進めている。
どうしようどうしよう。
自らの与り知らぬところで、からだに何かをされたという事実は、普通の少女であるつぐみの精神を打ちのめした。
只でさえ深い森。自然の宝庫である。サザの捜索はたやすかった。求めるものが無くても、代用の利くものをあっという間に見つけ出してしまう。
さて、あの小娘がまた騒ぎ出しては面倒だから、とっとと戻るか。
サザにしては殊勝な思考でもと来た道を戻っていく。道を見失うなんてことは彼には不可能で、あっさりと泉の縁まで辿り着いた。
「…サザ」
こちらに気付いたつぐみが、なぜか名前を呟いたきり、じっと動かなくなった。
相変わらず目には涙をいっぱい溜めて、鬱陶しいことこの上ないが。
顔色が、酷く悪い。
まさか熱でも出たのだろうか。どこまでも弱々しいことをそろそろ解ってきたので、サザは掌から手袋を抜く。
額に指で触れるが、しかし熱いどころか冷たいようだった。
「何かあったか」
「?……」
尋ねても、言葉は通じないのだが。つぐみがこちらに何かを訴えかける様子がないので、サザは捨て置くと決める。
しゃがみ込むつぐみは放置しててきぱきと野営の準備を進めた。
火を熾し、水を汲んできて湯を作る。薬草の作成は至ってシンプルな方法を取る。サザ自身は怪我を負うことなど皆無なので、作ることには慣れていないのだ。凝ったものなど無理だ(基本と見分けが付く程度だった)
出来たものを再び、幹に背を預けるつぐみの前に跪き、裸足の裏に塗ろうとする。
ああ、その前に。
比較的清潔な布を湿らせて、傷口を拭う。そして塗る。
その間つぐみは声を殺して、殺しきれずに声にならないうめき声を上げているが、全く持って無視だ。こういうのに患者の意向は問わない。
そしてさっと包帯を巻いて終了だ。調合薬などではないので明日になれば完治、というわけにも行くまいが。
もといた場所に戻り座り込み、次は夕食の準備だった。
サザは基本的に一日二食だが、つぐみは朝食べなかったはずだ。
それで良く、あの貧弱な足で歩いてきたものだ、と。感心したり労う気持ちはサザには当然ないのだが。
けれども柔らかく煮立った「即席食べられる草ぶち込みスープ(サバイバル)」を、多めに椀によそって寄越してやった。明日も歩く。バテられては困るのだ。
飲料はその辺の水だ。スープの入った椀を受け取って、つぐみは両手で受け取ったそのぬくもりにまず、安堵したように肩の力を抜いた。
サザがもくもくとスープを口にしているのを見て、おっかなびっくり、椀に口を付けている。
「……」
食事の間、しばらくつぐみは涙を流し続けていた。故郷の味付けとはずいぶん違って、味気ない、具もないに同然の食事。けれど温かさが喉を通る度、色々なものが突き刺さって過ぎ去っていった。
サザはそれすらも看過する。あの娘のスープは塩辛い味付けに違いない、なんてことはちらと頭を過ぎったが。
食事が終われば間もなく、「眠れ」とサザはつぐみに毛布を投げて寄越した。
意図は理解したのだが、つぐみの戸惑うような眼差しに「いいから眠れ」繰り返しちいさな後頭部を地面に押しつける。
リュックを枕に渋々横になったつぐみは、じっと、焚き火越しに刀を抱えて座るサザを見ていた。
「…」
「目を閉じろ」
「……、…?」
何か、小声で話しかけてくる。解らないというのに。
「口もだ、黙れ」
つぐみは大人しくその言葉に従い、そっと両のまぶたを落とした。
目を閉ざすと見つけたときの印象が蘇る。
呪術媒介。この娘の称号。
少しの間、眠りに落ちていたらしい。目の端にくすぶる焚き火の残り火を見つけ、身を起こそうとしたサザは動きを止めた。
つぐみ?
目の前に少女の姿はなかった。
焦ることはない。耳を澄ませばすぐにその所在が知れた。微かな水音。
衣擦れ。水浴びでもしようというのか?こんな時間に?
そもそもサザは、自分の前で水浴びなど出来るわけがないという当然の結論にたどり着けない。年頃の娘だという認識があまりにも欠落しているからだ。
だので、何の遠慮もなく娘の後を追った。
茂みを抜ければすぐにたどり着けた。
つぐみは。
水に浸ることもなく、身体から全ての衣服を落とした状態で泣いていた。
また泣くのか。ではなく。なぜ、という疑問が、初めてサザに起こっていた。
それだけつぐみの背中は小さく、頼りなくはかなく見えた。
なぜこのちいさな生き物は泣くのか。
ごしごしと、冷たい水に構わずに両腕や胸を擦って、しくしくと泣いていた。
「…おい」
思わず声をかけてしまった。つぐみはぽかん、とした、泣きはらした目でサザを認めると、耳まで赤くして、叫ぶ、騒ぐ。
「…何を騒ぐ」
必死に服をかき集めてしゃがみ込んでいるが。どうやら裸を見られたことに騒いでいるらしい。
羞恥心もろくに理解できないサザは、だので悪気も沸き起こらない。なぜこんなに騒げるのか、ただ不可解なのである。
「いつまでそんなところにいる」
未だに服を着られずもたもたしている半裸状態のつぐみを、お構いなしに引っ張り上げていつものように抱えると、予測以上に抵抗があって少し気圧された。
「〜〜〜〜!!サザ、…っ!」
「なんだ」
ややむっとする。今のはニュアンスで、悪口だと理解できたからだ。
暴れるつぐみを落とさないように抱え直して野営地に戻ると、少女は何かもう色々とぐったりしていた。
「寝ろ」
簡単に服を直してやって、再び頭を地面に倒す。
それが頭を撫でられたようで、つぐみを微かに安心させたなんて彼は知るよしもない。
サザも初めて全体を見た、つぐみの身体に走るのは禍々しいとまで思えるような黒い、呪法陣の線だった。
あれは明らかに正の呪である呪術ではあるまい。圧倒感が違う。
しかし、その媒介である少女は、泣いていたのだ。
サザが少女を拾い、アイアヌの村を出てから二日が経った。
旅路にいささかの不安がなかったわけではない。が、二晩も越えるとサザもようやく諦めの境地に達していた。
サザの護衛対象、呪術媒介、言葉の通じない、得体の知れない小柄な少女、つぐみと名乗ったそれは、予想以上に貧弱だった。
サザが何もしなくても何かを言えばすぐ泣く、(本人普通のつもりだが睨み付けている)足は遅い、身体も弱い、鬱陶( しくマントを握る癖が付いてしまって離さない。
だがしかし、根性、気力と言うべきか。は無いわけではないらしい。
サザの知る旅慣れない女子供は疲れた、休みたい、もう歩けない、と喚く。簡単に音を上げ自分勝手な欲求を押しつけ足を引っぱるのが大概だった。
だがつぐみは少なくとも泣き言は言わないのだ。
すぐしくしく泣くし、何もないところで転けるし、無駄にサザサザと人の名前ばかり口に上らせるし。
それ以前に、彼らはお互いの名前しか、言葉を理解できない状態なのだが。
サザが、「来い」と言って、つぐみが首を振ることは一度もない。顔が真っ青で、足にたくさんのマメを作り、涙目で、けれど追いかけてくる。
よほど、置いて行かれるのが怖いと見える。
険しい山道。足場の悪い道のりになると見て、サザはいきなりつぐみの身体を再び、肩に担ぎ上げた。
「…サザ!?…っっ!!」
「黙れ、騒ぐな。今の内に少しでも体力を回復させておけ」
どう見ても鈍くさいつぐみにこんな道を歩かせたら絶対、踏み外して谷底へ真っ逆さまだ。これ以上の面倒は避けたいという、サザ自身の計算が殆どであるが。
第一、つぐみは荷物以下だった。軽すぎるのだ。鍛錬にもなりはしない重みは、ひとの体温と鼓動をサザの身体に直接伝えてくる。それが少し、煩わしい。
これもやはり、「呪術媒介」というよりは「いきもの」らしい。
ようやくその確信ははっきりと抱くことが出来ていた。
抱きかかえたまま危なげなく固い岩盤の細く険しい道のりを歩いていく。つぐみはろくに囲いもされていない道の脇、谷底の奥に目をやってから、サザにしがみついて大人しくなっていた。
しばらく歩くとなだらかな丘陵に差し掛かり、サザの足が止まる。つぐみは首を傾げ、
「サザ?」
「黙れ」
問いかけがあったが即座に封じる。
つぐみの不安は、すぐに解明された。
木や岩陰から、または頭上の足場から、ぞろぞろと怪しげな風体の男達が現れ二人を囲い込んだ。
「…!」
見ての通り、山賊や追いはぎの類だろう。
余計な口上は告げずに、男達は野卑な笑いを浮かべながら各々、獲物を取りだして構える。
いきなりの襲撃に、つぐみは震えたがサザの腕から下ろされて、とんと肩を押される。
「サザっ…」
「動くな」
荷物も渡されて、つぐみはそれを抱きかかえ、どちらにしても硬直するしかできない。
次いで、目の前で繰り広げられる光景に、つぐみは咄嗟に目を瞑った。
ずばん
冗談みたいに重苦しい音がして、噎せ返るような血臭があたりに散らばる。
「うおっ!?」
サザの一太刀で胴を断たれた死体が転がる。
そのあまりにも鮮やかな太刀筋に気圧されたようだった。男達はその場で二の足を踏む。
退くならば良し。面倒がなくて良い。サザは威圧を籠めてひるむ男達を睨んだ。
あと二太刀も振るおうものならサザの意識に容赦や理性はなくなる。敵を殲滅するまで殺戮の限りを尽くすのである。そういう戦い方をしてきた。
「……っっ!!…!!!」
「!?」
背後で、高い悲鳴が上がった。
死体と血を目の当たりにしたつぐみが上げた悲鳴だと最初は思ったが、違う。
追いはぎの男が回り込み、娘の腕を掴んで乱暴にひねり上げている。
「へへ。この娘が大事なら、有り金全部」
未だひるんでいるのか、少し引きつった脅しの口上は中途で終わった。
「よ、うおおおおおおぉぉぉ!??」
男の肩は袈裟懸けに裂け、目の前で大量の血がしぶいていたからだ。
サザは難なくつぐみを自分の背後に取り戻す。あの程度の距離なら、何の障害もなく一瞬で踏み込むことも造作はなかった。ああしかし一撃で仕留めることは出来なかった。己の未熟さを痛感する。
「…っ、…っっ、サザぁっ」
「何だ、その娘の言葉…」
「異国の言葉か?」
首を振って、なにやら泣きながら喚いているつぐみの言葉に、山賊達の数名が騒ぎ始めた。
「よくよく見れば毛色も違う。売れば高値がつきそうだ」
そういった類の囁き声もまばらに耳に入ってきて、サザの眉間に深い縦皺が刻まれる。
「…おい、てめえらずらかるぞ」
しかし騒ぎ始めた男達を、後方から響いた低いひとことが静まらせる。
「アニキ…?」
「相手をよく見ろやあ。分が悪すぎるぜ。オレたち全員の首がトンじまっちゃ割に合わねえ」
それでも数人は物言いたげな顔を隠しもしないが、じり、じりと後退し、出てきた方向にそれぞれ散っていった。あっという間。見事とも言える引き際だ。
サザは刀に血脂が乗っていないことを一瞥すると、刀身を鞘に収める。
「…、…?サむぐっ」
「黙れ」
未だ、サザの袖を引っぱってなにやら訴えかけているつぐみの口を掌で覆ってやった。
簡単に顔の殆どを覆ってしまうサザの掌は、ああこのまま窒息させれば楽かも知れないとも思わせる。
とにかく十二分に、この娘に言い含めておかねばならなかった。それを怠ったのは他ならぬサザだが。
「そのおかしな言葉を口にするな。騒ぐな。ついでに泣くな。鬱陶しい」
只でさえ存在そのものからして面倒くさくて煩わしい娘なのだ。これ以上のオプションはごめん被りたい。
「サザ」
「黙れ」
久しぶりにいらついていたので、本来なら無視する言葉までも拒否する。
つぐみは涙に濡れた瞳で(この娘の乾いた瞳は見たことがない)、サザをじっと見上げてくる。口だけじゃなくて目も塞ぎたい。
「だ、まれ」
「…?」
不安げに瞳を揺らしながら、用心深くつぐみが口にした言葉は、何の偶然かサザの理解できる言葉だった。
「だま…れ…。」
繰り返して、自分の口を掌で塞ぎ、こくんと頷く。
ようやくサザにも、つぐみが自分の言葉を介し、それを受け入れた、と理解できた。
「黙ります」と言っているのだ。
そう、サザが考えなかっただけで、この娘も知能のある人間なのだから、言葉を教えれば覚えるのだ。
コミュニケーションを円滑にする。その努力を怠ったのもサザ自身だ。
面倒くさかったと言えばそれまでなのだが。
「…」
厭だったのだ。
意思の疎通が叶うのが。この娘と言葉を交わすのが、厭だったのだ。
(2006.6.15)