雑談や密談、内容の予測もつかないようなメニューの名前、追加注文の飛び交う夜の街、イーブルの牡鹿亭。
奥の一画では、険しい表情の4人の若者が円卓を囲って座っていた。
「…とりあえず、何か頼むか。ずっと歩き通」
「姉ちゃんピアエールひとつ」
「要らん。早く話せ」
緊迫感の解けない男二人の会話を挟んで、キリーが一人マイペースに真顔で飲み物注文をしている。しかし視線は他の二人を見据えたままだ。
「お前は良いよ。でもそっちの…ツグミ?大分無理させてないか。顔色も良くない」
少し強い語調でラシードはサザをたしなめた。自分の名前が出たと分かって、つぐみは心配そうに隣のサザを伺っている。
「好きにしたらいい」
「だとよ、どれにする」
テーブルに備え付けられたメニュー表を差し出されて、少女は目をまん丸に開いて困惑している。字も読めないようだ。
「じゃあ適当に。桃のピクルひとつ」
「かわいい選択で」
「まあね」
何故か得意げなラシードはさておいて、ピクルとは果実を使ったジュースのことだ。つぐみの口にも合うだろう。
しかしその、つぐみにとっては未知のジュースを口にする前に、ラシードがふと手を伸ばして額に触れてきた。
「…?」
「いきなり触ってごめん。大丈夫か?本当、顔色が…」
顔を覗きこまれて、不思議そうにつぐみはぱしぱし瞬きを繰り返し、そして唐突に。
ふっと、意識を失うとその場に倒れた。
「!?」
「ツグミ?」
キリーが肩をゆさゆさと揺らすが、反応がない。ラシードは席を立ち回り込むと、再び額に手を遣り、目蓋を開いて眼球の反応を見たりした。
「お客さん?どうかしやしたか?」
店の従業員が異変に気がついて近づいてくる。ラシードが慌てて愛想笑いを向けた。
「やー、お構いなく。ちょっと眠たいみたいで。あ、先に部屋借りて良いかな?」
「それはもちろん。確かお客さんは」
「3階突き当たりだ。じゃ、そういうことで」
キリーとサザにも目配せをして、つぐみを抱えようとするが、先に伸びた腕が少女を抱きかかえた。
「まだお前を信用したわけではない」
「…そーね」
サザに睨まれて、ラシードはへらっと笑って見せた。
(あらら。なんだか雛鳥を育てる狼みたいな雰囲気?)
もちろんサザにはそんな認識無いのだろうが、そう見える状況に苦笑を禁じ得なかった。
5 三人
向かった一室は4つのベッドとソファ、テーブルまで備えられた二間続きの立派なものだった。
一番奥の窓際のベッドにつぐみを横たわらせ、その傍らにラシードが膝をついて改めて様子を見ている。
「分かるのか?」
「多少は心得があるのでね」
キリーの問いにさらりと答え、服の襟元を軽く緩めた指先が、ぴたりと止まる。
「…なんだ、これ」
明かりの灯る室内に、白い肌にくっきりと浮かび上がる、黒い入れ墨のような線の一端。
訝しむキリーの一言に、ラシードは胸部を確認しようとしていた手を止め、服の襟元をきちんと直した。
「…………なぁるほど。あーハイ、分かった。分かりました」
深い深い溜息を吐き、ベッドの端に頭をもたげ、心底困り切った様子でしきりに項垂れている。
そっと、肩越しに振り返れば石像よろしく立ちつくしたサザがこちらを睨み付けていた。
「あーうん、説明するから。説明するから睨むな。どーっすっかなー…どっから話すかね」
「全部話せ」
真剣な葛藤をずっぱり切り裂かれてラシードはがくりと頭を落とす。
しかし僅かな沈黙の後、観念したかのように顔を上げた。
「…分かった。俺に話せることは全部説明する。とりあえず奥に移動しようぜ。ツグミを休ませてやろう」
「勝手にしろ。俺はここで聴く」
言うなりサザはつぐみの枕元に腰を下ろし、むすりと腕を組んで黙り込む。
「…まさかまだなんか疑われてます?俺、どっちにしたってあんた相手にどうこうしたって無駄って分かってるって」
「第一そこから聞こえるのか」
「いいからさっさと話せ」
たたみ掛けられて、どことなく苛々とした気配が伝わってくる。大方つぐみの側を離れるわけには行かないといった仕事人根性なのだろうが、どう見ても過保護な父親にしか見えない。
肩をすくめつつキリーを促し、手前の一室、ソファとテーブルのある部屋に向かい、それぞれ向かい合って腰掛けた。
「そういや呑み損ねてたな、キリー。あとで改めて下で食事だな」
「まあな、だが今はさっさと話した方が良い。あの男の機嫌を損ねるとあとが怖そうだ」
そうだな、頷いてラシードもようやく観念する。まぁ、先ほどのキリーへの前置きは一応巻き込むことへの断りのつもりだったのだが。
「まず、俺もお前達と同じって事を言っておかなきゃいけないな。俺も雇われた、腕利きの者をスカウトして、万全の態勢で臨んで欲しい護送の任務があると」
「依頼主は」
「さあ。フェドレドで出会った、エイギル・カレイスという男が持ちかけてきたんで。そもそもそのエイギルも上にだれか居る口ぶりだったんで知らねぇな。そいつが言うには、首都に住むお偉いさんの呪術師が、禁忌の呪術を暴発させて、それをもみ消すために極秘裏に動いて欲しいってことだったが」
「禁忌」
穏やかでない単語を、ひそり、とキリーは繰り返し上らせ、ラシードを促す。
呪術が盛んなクォでは当然その規制も厳しい。規模にもよるが、禁忌の呪術を扱うことは罪になり、第一級犯罪にも匹敵する。
「それが何でこんな…遠く離れたアイア山なんかに出てるんだと訝しんだがな。座標の固定に失敗したとかで。専門的な話になるらしく俺にはさっぱりだった。まあこの辺はいいか?」
「いい。どうせ俺もさっぱりだ」
こくこく頷いて、ラシードは再び、はあと深い溜息をつき、組んだ指に額を乗せて項垂れる。
「異界からの、召喚呪術だったらしくて…てっきり、その呪術媒介とやらは、ヤッバイ代物だと思ったんだがなぁ」
「ああ、だから腕利きの者を募ったのか」
「だろうな、だが…その場所にいたのはツグミだった」
ちら、と逸らした視線は、奥のベッドで眠る少女へ向く。
向かいに座るキリーは、信じがたい、と言うように眉間に皺を寄せている。
「…確かか?半日一緒に歩いただけだがツグミはとろい上に少しぼーっとしたところすらある。何の変哲もない、ただの無力な少女にしか見えなかった」
「だよなぁ。残念ながら俺もそうとしか見えないよ」
じっと、紫の双眸を閉じて、長い溜息を吐く。
「…可哀相に。彼女は普通に、自分の世界で生きていたんだろうに。無理矢理引きずり込まれちまって」
「と、いうことは、今後、ツグミはどうなる。術師側は禁忌の呪術をもみ消すと言っていたそうだが」
腰を浮かせるキリーに、ラシードは深くソファに身を沈めながら、さあ、とゆるゆる首を振って見せた。
上の人が考えることはわからん。
「……」
キリーは完全に席を立つと、ふいと寝室へ向かい、つぐみの側に寄った。相変わらずベッドの端にいるサザからは何の感情も読めなかった。
ちゃんと聞こえていたのだろうか。寝ていたんじゃないのか、この男。
シーツの腕に投げ出された細い手首に指で触れると、ぴくりと、男の伏せていた目蓋が震える。ああ、起きていたのか。
だからわざと、嫌みったらしく言ってやる。
「しかしこいつ、細いな。ちっこいし。ちゃんと食わせてたんだろうな?」
「食ったところで吐く」
「はあ!?」
思わず全力で訊き返していた。男は相変わらず無感動に、目を伏せている。
ラシードがこちらに歩いてくるのがわかった。
「ではお前、こんながりがりのちびにろくに食わせもせずあれだけの行程を引きずり回したのか。女子どもに対する気遣いがまるでなっちゃいなかったな。あの調子じゃ」
「…何が言いたい」
ようやく橙の双眸がこちらを睨んでくる。僅かもひるまずに睨み返してやる。
「お前に護送は任せられん」
「……」
「おい、お二人さん、ツグミが起きる」
殺気立つ二人にひょいと割入って、ラシードはあっさりつぐみの髪を撫でている。
露骨に顔を顰めるサザの様子がおかしくて、キリー的には充分満足だったが。
「ここまでツグミを護ってきたのはサザだろ。コイツの腕っ節は折り紙付きだ。もちろんキリーも、信頼しているさ。これからこの子の心身の面は、俺たちが気遣う。それでどうだ?」
「どうだ、だと?」
つぐみを慮って声を潜めるラシードに倣い、キリーもひそり、と問い返す。
以前から思っているが、ラシードというのは他人に対する気遣いがごく自然に出来るらしい。人柄だろうか。
「今の俺の話を聴いて、手を引くのも二人の自由だな。けど報酬目当てでも、何か気にかかるとかでも、この件に関わるならさ、俺たち三人でツグミをフェドレドまで送り届けるのが良いと思うんだがな」
「…」
「三人で?」
嫌そうな反応が返ってきたので、せめて自分だけはと言う心意気でラシードはせいぜいにこやかな笑顔を浮かべる。
「そりゃそうだ。ツグミは見た目は普通の女の子だが、右も左も分からなけりゃ言葉も違う、門外不出、禁忌の呪術媒介でもある。どっか他の、さらにやばいところに奪われたら取り返しのつかないことになりかねん」
ただでさえ利用価値の幾らでもありそうな、「生きた呪術媒介」なのだ。狙われる可能性は無尽蔵である。
「俺はこの子を、何とかもとの世界に戻してやりたいと思うんだが」
ただの「呪術媒介」であればともかく、つぐみは立派に知能も理性も備えた人間だ。以前のように依頼を遂行しようとはさすがに思えない。
「エイギルを問いつめるのか」
「そうだな、とりあえずその線で行ってみようと思うがな。どうなるかはわかんねえなあ」
軽い口調で笑うラシードに、キリーは納得のいかない様子だ。
「理解できん。お前何故、そこまで見ず知らずの子どもに献身的になれる。確かに不憫だとは思うが」
ラシードは指摘された内容に、やや考え込むように一拍を置き、やはり困ったように笑った。
「いや、俺実家では6人兄弟の一番上でね。その所為か小さい子の不幸は看過できないというか。さすがにこの異常事態を途中で抜けたら後味悪いというか」
「嘘では無かろうが、後者の意見には同感だ」
キリーは低い声で、いいだろう、と頷いた。
「俺も引き続きツグミの護送に付き合ってやる。禁忌の呪術とやらもきなくさい。ツグミは確かに、放っておけないところがあるしな」
そして二対の視線が、今まで沈黙を守っていた男に向く。
「異論は無い」
サザはただ、短くそう告げる。
「わかった。っつーことでよろしく、二人とも。とりあえずツグミを優先だ。心してくれよ?」
「ふん」
もうすでにサザの中で話は終わってしまったらしく、眠るつぐみに視線は向いている。
それは見守ると言うよりよほど見張りの雰囲気だが、なんだかどうにも微笑ましい。
「さてさて。サザはある意味頼りにならないんで。キリー、下に行くぞ」
「なんだ」
「飯もろくに食えずぶっ倒れるほど無理させてるんだ。彼女の衰弱ぶりは並じゃないだろうよ。消化と滋養によい食い物を用意して、ツグミの回復を図るのが先だ」
部屋の戸に手をかけていたラシードは、続くキリーの言葉に硬直する。
「ああ、ならそれはお前に任せた。俺は呑む」
「でぇ!??ヒド!!お前ら二人して酷!!信頼してるとか言った数分前の俺どうすれば!」
大袈裟に嘆きながらも、すたすたと階下に向かう。宿の女将さんに頼めば今からでも作ってくれるだろう。あと、三人分の軽食と、飲み物か。
うわ、俺、使いっぱ!?
この先の道程にかなりの暗雲を垣間見ながらも、ラシードは続く、薄暗い廊下を進みながら小さく息を吐く。
(俺もまあ、口がうまくなったことで)
町の医者に診て貰えば、慣れない山道を歩き通し肉体を酷使したことによる過労と気疲れ、軽い栄養失調から来る衰弱らしい。それが人の多い場所にたどり着いたことで気がゆるみ、身体に一気に来たのだと。
翌日、目を醒ましたつぐみはようやく、ゆっくりと時間をかけておかゆを食べた。
その隣では同じくラシードとサザが早めの昼食を摂っている。キリーは一人、旅の道程を定めるため情報収集に出ていた。
「思ったんだが、ツグミ。言葉が分からないのじゃ不便だろう。俺が少しずつ教えようか」
「?」
きょとん、と目を瞬いたつぐみは未だ、ラシードを人見知りしているのか逃げ腰だ。
すぐ側で食事を終えた(と言うか始終見張られていてなかなかつぐみの食事が進まない)サザを見上げる。睨み返されるだけで反応は無いが。
ラシードはそれに構わず、と言うか微笑ましさを感じつつ、手元のコップを取り上げる。
「例えばなー、これは、水。み、ず。欲しいときとか言えた方が良いし」
「…み、み?」
「みず。みーず」
ゆっくり発音してくれるラシードの口元に注目して、つぐみは気をつけて繰り返す。
「み、ず」
「よく出来ましたー。じゃ、このリンゴの蜂蜜がけもお食べなさい」
ぐりぐり髪を撫でられて、ひたすら困惑する。
いい加減にしろ、とばかりにサザの睨みが入って、おおこわ、と口ばかりは萎縮してみせる。
つぐみは以前からそうだったのだが、とても勤勉だ。まだ戸惑いがあるようだが言葉を覚えようと必死なのはよく分かった。
その日は一日中、ラシードの単語講座が続けられた。部屋にある物や宿にある物を持ってきて、当たり前の物から順番に、つぐみを混乱させないよう上手に教えていった。
あまり一度に教えてもあれなので、まあほどほどの量なのだが、彼女は忘れないよう色々な物を指さしては口に出して、心なしか表情も明るい。
この分ならば二日後には出発できる。
ふと見やればまた、つぐみがサザの側に寄って新しい単語を披露しては、おずおずと反応を伺っている。
合流するまでの、二人きりの道程は十日間ほどだったと聞く。
その間どれだけのことがあったのかは知らないが、あの二人に漂うふしぎな信頼というのか。雰囲気を、何か違和感のように感じた。
付き合いが長いためだろうか。刷り込まれた小鳥のように、つぐみは誰よりサザを頼りにしているらしい。
そしてサザもまた、ラシード達が加わった今も、自分が最優先に護るべき者のように、つぐみから目を離そうとしない。
意外にも見えるそれらからは、微笑ましさはもちろん、どこかぎこちない印象を受けた。
種族の違う生き物同士が寄り添うような。
言い換えればそれはそうだと、納得せざるを得ない事実ではあった。
(2006.7.9)