7 懐郷
山間の町ウルスはさして大きくもなく人口も少なく、これと言って目立ったところのない田舎町だ。
ただひとつの見所と言えば、温泉町である、と言うところであろうか。
けして大規模でも数があるわけでもなく、観光名所として掲げられるほどでもなかったので、旅行や湯治先としてはぱっとしない。
だがやはり、この街を経由する旅人や旅行者は、一夜の宿と共に湯に浸かり癒しを求めるのが定石であった。
「ここで何泊するかだな。予定の日程までまだ余裕があるが・・・」
「今回は体調に問題はない。無駄に時間を浪費する必要はない」
「お前に訊いてねえんだよリビット」
相変わらず、白熱こそしないが低く冷ややかに険悪なサザとキリーだった。
その間に挟まれたつぐみはもう慣れたのか、少し心配そうに目を遣りながらもはじめて訪れた街並みに視線を彷徨わせている。
「ああ、イーブルじゃあんまり街散策もしなかったからな。そうだな、今日はゆっくりして、明日町見ながらいろいろ調達して、明後日出発ってとこだな」
「・・・・・・」
もはやサザの存在を抹消する方向で行くようだ。
お互い気には食わないようだが、とりあえず貴婦人やお子さんが見たら悲鳴を上げ気絶してしまいそうな形相のサザから特に異論はなかった。
そんなサザにようやく気付いたつぐみはぎょっとしてすくみ上がり、ふるふる震えながらもおろおろする。
サザはやはりつぐみにとって未知であり恐怖であるが、保護者にも代わりないのだった。
「サザ、早イ、いイ?」
言葉にまだ慣れておらず、文法として正しく伝わったか自信がない。
「ちんたらして何の意味がある」
けれどきちんと返事はかえってきた。わずかでも剣呑な気配が緩んでつぐみはほっとする。
「ワタシ、見るでス。んん、せかい。知るヲ、しタい。いイ?なイ?」
何だか言っていることが全然ダメな気がする。つぐみは言い募れば募るほど顔を歪めて、目が潤むのが分かってぎゅっと歯を食いしばった。
「・・・知るを、しタい・・・いい、なイ?」
端で聞いていて、「いい、ない?」と言うのはつぐみなりの「ダメ?」みたいなニュアンスだとは分かるのだが。しかも上目遣いのこのお願いはかなりかわいらしいと思う。
キリーでさえそう思うのだから。
「見たければ勝手に見ればいい」
表情ひとつ変わらないのが面白くないが、サザはあっさり了承して見せた。
(ここここいつ単純ーーーー!!)
こっそりキリーですら吹き出しそうになった。
木目がそのままの、塗料に覆われない茶色の建物が多く並ぶ、その為か町は一層素朴に見えた。
その中でもそれなりに大きく、それなりの温泉を構える宿の、二部屋を悠々と確保できた。
いま現在ウルスを訪れる旅人は極少ないようだった。
「やっぱりお前さん達も首都へ行くのかい?珍しいねえ、首都へ向かう旅人さん達はみんなエニュイ・エル方面へ向かうだろう」
だからこちらはあまり人出がないのだよと、宿の女将に説明を受けてキリーはなるほどと手を打った。
11月は首都で闘威大祭が催されるのだった。年に一度行われる闘技大会は、毎年他の祭に類を見ないほど大規模で豪勢なものになった。
「リビットは参加しねえのか」
答えを期待せずに話題を振ってみた。向かいのサザは呆れたような、割と毒気のない様子で。
「見せ物になる趣味はない」
と返してきた。それはそうか、とその点においてはキリーも同意して頷く。
おそらくこの二人が参加しようものなら、予選を受ける前から決勝戦が見えるというものだろう。
サザもキリーもこんな場で戦う理由もない。どうせ他の奴らは自分より弱いのだから。
ちなみにいまは宿の食堂で早めの夕食を摂っている。
久しぶりの落ち着いた席でのあたたかな食事。サザは小食とも言えないが早かった。もう終わっている。つぐみは小食で遅い。一生懸命喋りもせず口に運んでいるのだが終わりはまだ先のようだ。
パンとスープでおなかいっぱいになるとか抜かしたときは、けしからん、もっと食えとサラダやハムやフリッターやらと、一人大食でもくもく注文を重ねるキリーが皿を寄せていった。
そんなだからつぐみはガリでチビなのだ。キリーは当初つぐみは12、3歳くらいだと思っていた。
ところが正真正銘17歳だという。栄養不足すぎる。発育不良すぎる、と思った。
その年なら身長はもう止まっている可能性もあるが、もっと肥えるべきだ、とキリーは思う。ウォッツ人の体格基準で考えるのもまた、無茶な話かも知れないが。
結局頑張っていたが、果物入りのサラダを小鉢分食べ終わるともうむり、といまにも泣きそうに項垂れている。
無理強いが目的ではないので、残る料理はすべてキリーが胃に収めた。
「ああうまかった。ごっそーさん」
「・・・ゴッソー・・・?」
つぐみが真似するのに気がついて、苦笑する。
「“ごちそうさまでした”」
「知る!ゴ、ゴチソウサマデシタ」
ガラの悪い言葉もろくに言えたモンじゃない。どうしてもつぐみにはそんな言葉遣いを教える気にはなれないのがまた、笑いぐさだ。
少しずつさらりと言えるようになってきたのは、ラシードのおかげかこういう挨拶だった。
おはようございます、こんにちは、こんばんは、おやすみなさい、ありがとう、ごめんなさい、すみません。あと、いただきます、ごちそうさまでした。
これから先は、他の言葉は、キリーが教えていかなくてはいけない。サザはきっと協力する気がないから。
それもいい。たまにはそんなこともいいだろう。
「そろそろ風呂にいくか、行こうぜ、ツグミ」
取った部屋で少し一休みがてら、荷物の整理や武器の手入れやらをしていた。キリーにふと声をかけられて、つぐみは顔を上げる。
「風呂」
「フロ?」
反覆して首を傾げる。少しの間を置いて、ああ、お風呂だと納得できた。
サザも顔を上げた。キリーはそれを一瞥すると、「テメーはくんな」とにべもなく振り払うように言い放つ。
「???」
とりあえず眼光の強さにすくみ上がりながら、キリーに手を引かれて宿の奥から繋がっている浴場にたどり着く。
別料金になるが、宿泊客は自由に入浴が許されているようだった。入り口で男女に分かれ、脱衣所で服を脱ぎ、預ける。つぐみの祖国と同じようなシステムだ。
「お、やったぜ、貸し切りだ」
「キリー??」
疑問と、少し焦燥を含んだ声で長身の背中に問いかける。今からお風呂に行くはずなのに。
「風呂に入るんだろ、早く脱げよ」
「!!!」
だれも居ない今ならば、つぐみが服を脱いでも問題はないのかも知れない。
いや、ある。大ありだ。何故かキリーが、つぐみの服に手をかける。
「すル、ワタシ!ジブン!!」
自分の服の裾を手で押さえて、急いで後退して逃げる。キリーは一瞬、不審そうな目で見てきたが、やがて納得したように笑った。
少し、意地悪な笑い。
「ははあ、まあいいぜ。じゃあ俺は先に入るからな」
言って、真っ赤になって硬直するつぐみの目の前でキリーはさっさと服を脱いでいく。
目をぎゅっと閉じて腕で庇う。けれど何だか、様子が気になって指の隙間からのぞき見てしまった。
引き締まった、ほどよく筋肉質なキリーの身体。一枚脱ぐごとに身体の線があらわになり、つぐみは再びわわっと目を瞑ろうとしたが、あ、あれ?
「き、キリー!」
思わず名前を呼んで呆気にとられて立ちつくす。照れも恥じらいも感じさせないけろりとした顔のまま、キリーは一糸纏わぬ姿になってしまった。
その、贅肉のない均整の取れた体躯と、褐色の健康的な肌の持ち主で。
「オンナのこ!?」
「どうでもいいよ俺のことは。早く脱げよ、脱がされたいか」
本当におざなりに言われたが、実行されてはたまらないので驚愕醒めやらぬ状態のままつぐみは慌てて衣服を解きにかかった。
同性だと判明すれば、直前の抵抗はほとんど吹っ飛んでしまう。
さすがにキリーのように大胆になれず、前を布で隠して浴場に出てみると、見事な露天の岩風呂が広がっていた。
きちんと造られたという感じはなく、ごろごろとした大小の岩を積み重ねて造った風呂だった。大浴場と呼ぶほどでもないが家の浴槽よりは十分に広い。
やはり作法があるのだろう。隣に座ってキリーをまねた。
香り付きの石けんのようなものを、麻布にこすりつけ、身体から汚れを落とす。
髪はお湯を湿らせた布で汚れや埃を拭き取り、穀物が原材料の洗髪料で洗う。あとで香油などをなじませ整えるのがクォ式だという。あまり故郷と変わらず戸惑う事も少ない。
きっちりと洗ってから、湯に浸かる。ここに来てからお風呂と言えば汚れを水や湯で拭き取る事くらいしかできなかったから、こんなにたっぷりのお湯は本当に久しぶりだった。
お姫様になった気分。
そんな風に思って苦笑が漏れる。では一月ほど前までの自分は、どれだけすごいお姫様だったのだろう。
と、隣に浸かっているキリーの視線を感じ、そっと見返してみる。
女性だと思って改めて見ると、きりっと整ってはいるが鼻筋などが柔らかくも見えた。
「・・・・・・」
キリーは、つぐみの全身に刻まれた呪法陣に目を向けて思案しているようだった。それに気がついて、いたたまれず視線がお湯に落ちていく。
沈黙がいやだった。
「キリー、クォ、違ウ?」
「ん?ああ、肌の色が違うからな。そうだよ、良く分かったな、でも言ってんだろ。俺のことはどうでもいいよ」
本当に興味関心の薄い声で言って、キリーはじっと、つぐみから目を逸らさずにいた。
どうしてみんな、サザといい私のことをじっと見るのだろう。
どこも面白いところなんてないのに。確かに今の自分はいろいろとおかしいのだけど。
(でもそれ、私じゃないし・・・)
本当の私じゃないし。こんなの。いつもと違うし。
「お前のこと聞いて良いか?そうだな、故郷のこととか」
「コキョウ」
初めて聞く単語だった。けれど胸が詰まるような、ひびき。
「えーとな、生まれた、生きた、てた、ところ。わかる?」
「・・・ハイ」
こっくりと頷いて、つぐみの心にざっくりと刻まれる、こきょう。
「ワタシ、クニ、 日本( 。よっつ、じめン。んんと、うミ!まワリ」
「島国か」
つぐみには幸いなことに、ラシードもキリーも読解力は高かった。
「たクサン、モノ、ヒト。たたカウ、ナイ、ええと」
「平和ッてか。フェイに似てるな。豊かで平穏か」
「ヘイワ」
ひとつひとつに頷いて、つぐみは少し言葉を切った。
キリーは黙ったまま、何を言うのか待っていた。
「ワタシ、家。おおキイ、オトコのひと。おおキイ、オンナのひと。うエノ、オンナのこ」
「4人家族?」
「カ、ゾク」
「ツグミは姉貴がいたのか」
「アネ、キ?うエノオンナのこ、ヒバリチャン」
ああ、とキリーは再度苦笑を浮かべて言い直してやる。
「お姉ちゃん、ッてか?」
「・・・おねえちゃん。」
・・・ひばりちゃん。
「おねえちゃん、ヒバリチャン。かわイイ、きれイ、やさしイ、イイコ・・・あう、しタイ」
「そうか」
ラシードが無駄に甘やかして誉めていたので、誉め言葉もつぐみはちょっと堪能だった。
キリーは相変わらず、なんの感想も無さそうな風に言うのに、ぎゅっと膝を抱えて丸まるつぐみの背中をそろっと撫でてくる。
このひとは素っ気ないのに、どうでもいいよとか言うのに。優しい仕草をとりあえずしてみてくれるのだ。
ラシードの真っ直ぐなやさしさよりも、時々、そういうものの方が、つぐみにはつらい。
「・・・・・・っふ」
「ああもう、泣くんじゃねえよ。お前可哀相ねって慰められたいのかよ」
やっぱり、淡々と言葉は紡がれた。落胆でも糾弾でもなんでもなかったので、それはきっとキリーの本心だった。
つぐみは何故かそれが分かった。だからぐっと、浮かぶ涙を唇を噛みしめてこらえた。
「涙なんざな、なんの力にもなりやしねえんだよ。泣くくらいなら笑うか怒ってろ。悲しそうに泣く奴見てると殺してやりたくなるんだよ」
「・・・・・・っっ!」
びくびくっと震えて、涙が一瞬のうちに引っ込んだ気がした。
(ひばりちゃんひばりちゃんひばりちゃん)
誰よりも大事だった人はこの世界の何処にもいない。
もしかしたらもう、会えないかも知れない。それを考えるだけで涙なんて、いつどこでもどんなときでも溢れて止まらない。
だからずっと考えないようにしてきた。涙で視界をごまかしてきたように。
「・・・ヒバリチャン、おコル、こワイ・・・うレシイ」
「ああ?」
お湯でごしごしっと顔を擦って、訳が分からない、と言った目で見てくるキリーの顔を見上げた。頑張って、笑顔を作る。実際は引きつったように泣き笑いの顔だったが。
「キリー、おコル、こワイ、うレシイ・・・アリガトウ」
怒るって、結構徒労で面倒だ。わざわざその労力を裂いてくれた、そう思うと怖いくらい怒られたことが、嬉しい。
「・・・おめでたい奴だな。ま、少しでも泣くのやめるならいいぜ」
涙は弱者の象徴だ。弱さをさらけ出す姿。キリーはそれが嫌いだ。負けを認めるようで。
つぐみは弱い。見るからに、そして実際も。だから少しぐらいは大目に見られるが、それでも弱いままでいて良いのかというと、別問題だと思った。
一応は、良くできましたと言うつもりでつぐみのふわりとした感触の髪に指を入れてやった。それが正しく伝わったのか彼女はほわりと笑った。
「っと、そろそろ俺は出るぜ。お前はもう少し入ってるか?」
ざばりと豪快に立ち上がりながら尋ねられ、反射的に頷いた。一緒に上がっても良かったのだが、ひとりでもう少し湯に浸かっているのも良いかとも思う。
だれも居ないのだし。体中の線を見とがめられる前には上がらなければならないが。
キリーを見送ってひとりになって、膝を抱えてその上に顔を載せてみた。頭がぼんやりとしていた。少しのぼせはじめただろうか。故郷のことを、考えてしまったからだろうか。
(・・・かえりたい・・・)
帰りたい。あの日々は平穏だった。しかしあの日々に帰りたいと言うよりは、姉のいる世界に存在していたかったという、その未練が色濃かった。
姉がいないのなら、あんまり意味のない世界だったのだろうか、つぐみの故郷は。
そう思うと悲しかった。そこですぐに、違う、そんなことはないと反論を抱けない自分の実態も悲しかった。
愛着も後悔もあるけれど、つぐみにとって身を引き裂かれるほどいとおしい場所ではなかった。17年間で、そんなには築き上げられなかった。悔しかったし、それは確かに未練だった。
だからといって突然引きずり落とされたこの世界に、急速に馴染んでいると言うことも全くない。言葉も行動も、制限されたままの現状は変わらず、ままならない。
(ここで私は、「空知つぐみ」じゃないもの)
何だか良く分からないまま、強い人に守られ付き添われて、一言発するのも緊張して。
それはまるでつぐみの知らない女の子だ。この世界でたった一人しかいない、特別視しなくてはいけない少女。
「空知つぐみ」は、どこにでもいる普通の女子高生だった。
(わたしじゃない)
口元を湯に沈めて、再び浮かんでくる涙を湯煙の所為にしてごまかす。
泣いたらだめだ。泣いたってなんにもならないんだ。まわりの人を、いやな気分にさせるだけ。
けれど涙は涸れてくれない。以前はこんなに泣き虫ではなかった。しっかりしているというわけでもなかったけど。
感情の幅が大きく揺れる、そんなことはなかった。ひばりちゃんの方が毎日怒って笑って、それを見ているのが好きだった。
(ひばりちゃん)
落とされた日、別離の夜の、わずか三日後。
姉の誕生日だった。半年も前から計画を立てて、きっと本人よりも楽しみにしていたのに。
その日に何も出来なかったというよりも、姉が、つぐみには祝って貰えないんだね、ここにはいないんだね、そう、感じさせることが悲しかった。
認めないで。消してしまわないで。私、ここにいる。
一日一日、経過するごとに心を蝕んでいった。祝うべき誕生日が通り過ぎていく。
その日祝うことが出来なくても、一緒にいたなら、ごめんね、やり直しをさせてね、と、すぐにでも言える。言えるのに。
(私、なんのためにいるの)
なんのためにここにいるの。
誰もまだ、教えてはくれないし、語彙を尽くせばきっと、伝えることは出来るかも知れない。
けれどその勇気が足りなかった。
「・・・ツグミ!」
沈み込む思考を切り裂いて、服を簡単に羽織っただけのキリーが浴場に戻ってきた。
ただならぬ緊迫した声に、どうしたの、と問いかけながら湯に上がろうとする。それをさらにキリーの手に、湯の中に押し戻される。
「わぷっ」
「馬鹿隠せ!とりあえずこれを着ろ」
浴場の備え付けの大きな布を巻かれ、簡単に拭かれ、その上を宿で貸し出せる部屋着を羽織らされた。ひとまずは湯から上がっても恥ずかしくはないが。
すぐに、隠したのは身体ではなく呪法陣なのだと知る。
「おかしいと思った、こんな時期に剣士と娘の連れ立ちとはなあ」
「やかましい、のぞき趣味の変態が」
町人と思われる男女が数人風呂内まで入ってくる。
「困るんだよな、アンタらみたいな訳ありがうちの町に滞在すると」
「王都から目を付けられて、匿ったと誤解されたらたまらない」
「行き届いた君主制、立派なことだな。お上は絶対ってか」
鋭く剣呑な眼差しが二人に浴びせられる。何か良くないことが起こったのだ、と言うことだけは察せられて、抱き寄せてくれるキリーの胸につぐみはしがみつくようにして、息を詰めた。
「あんたの武器はこちらで預からせて貰った」
「言われねえでも分かってんだよ、自分の馬鹿さ加減に反吐が出るところだ、さっさと用件を言えよ」
壮絶な眼差しで威嚇するわけでもないが、強がりとも思えないキリーの態度には優位を得ているはずの町人達がたじろぐ様子を見せた。
お互いを見交わし、ひそひそと慎重に、警戒を強めるように囁きあっている。
「ふん、安心しな。何も命を取ろうってんじゃない。呪術に関わりのあるよくないものは検査しなくちゃならん。このまま奥まで歩いて貰おう」
「・・・カニサの湧水( みたいなもんか」ゆうすい )
キリーは無意識につぐみを庇うように、立ち位置を変えながら呟いた。
自分の故郷であるウォッツにはほとんど無いが、この世界には呪術の質を見極め選別する方法がいくつかある。その成分の含まれた自然の湖沼や泉をそう呼ぶのだ。
「・・・・・・」
キリーは即座に思案した。命まで取らないと言ってはいるがつぐみが検査されてまともな結果が出るはずが無く、拘束されおそらく王都やそれに連なる場へ通報されるだろう。
それは避けたい。今この場を切り抜けることは、丸腰のキリーにも可能であろう。しかし荷物の確保もままならぬまま町を出、追っ手を撒きながら首都入りする、という展開はあまり望ましくはなかった。
(こういうとき、なあんでリビットは即座に飛んでこねえんだよ、役立たずが!)
サザへの悪態を容赦もなく叩きつけ、キリーは仏頂面のまま仕方ねえなと呟いた。
男が五人、思い思いの武器を手に、歩き出した二人を追い立てるように着いてくる。
不安そうに瞳を揺らしているつぐみの手を取って、まるで先導するようにキリーはすたすた歩いていった。
つぐみがくしゅっ、と小さなくしゃみをした。肩越しに見やると、少し肌寒そうで、やはり泣きそうに、けど無理矢理に笑い返してきた。
(えらいえらい)
前向きな姿に、やはりガラではないのだがなんとなく笑みがこぼれる。キリーはつぐみを引いている指に少し力を込めた。湯冷めしそうなのが少し気がかりだ。
岩風呂のあった場所から木で編んだついたてをくぐると、洞穴があって奥へと続いていた。薄暗く、下へ下へと傾斜している。
(洞窟か・・・?)
「ぃっ・・・」
背後で小さな声がした。つぐみが俯いていた。そこでやっと彼女が裸足だったことを思い出して、数秒思案したキリーはつぐみを足から抱き上げてやった。サザがするように。
「石でも踏んだか。てめえは本当に姫様だよなあ」
「キリー、けが、なイッ。あるク、すル」
慌てた声ですぐに、恥ずかしいとかではない、いつものニュアンスと違う抗議があった。
キリーは笑顔になって、さらりと、あっという間に血の気の無くなっている頬を撫でてやった。
さっきまでの少女とは少し違っているようだった。その心意気に敬意を表してと言うか、何だか急速にいとしさが湧き出すような心地になる。
「良く言った。心配すんな、てめえは俺が守ってやるよ」
額を重ねて強い口調で告げてやると、つぐみの頬にぱっと朱が散った。それを見ておかしそうにまたキリーが笑った。
「何をしている。はやく歩け」
「へいへい」
後ろからせっつかれて、つぐみを下ろして再び二人で歩き出す。
湿気を帯びた洞窟は相当な規模のようで、天然の鍾乳石なども至る所から突きだしている。
細く狭くなっていく道の先に、固く閉じられた鉄柵があった。
「入れ」
「一応訊いてやる、奥に何がある」
「行けば分かるだろう、さあ、入れ!」
竹槍で威嚇され、ああもうこの場でこいつらのして逃げ出してやろうかとも思ったが、結局キリーは鉄柵に手をかけ、引いた。つぐみと二人、奥に踏み込んだところで。
ガシャン!と鉄柵を閉じられた。
「!!」
(やっぱりな・・・)
「そのまま奥に行って選定を受けろ。進めば分かるはずだ」
身を竦ませて震えているつぐみに対し、キリーはただ肩をすくめてさっさと町人達が固まっている柵を離れて進んでいった。
澱んだ空気。風の通りも皆無ではないが極少ないのだろう。寒くもなく熱くもなく、充満したものが滞るだけの場所。
そこは、広かった。薄暗いためにはっきりとはしないが、天井はどこにあるのか、視認できない。奥行きも右が見えはしても左手はどこに着くのか、見当も付かない。
(いやなにおいがしやがる)
天然のそれそのものであるならばこんな臭気は存在し得ない。肉のにおい。体液のにおい。生き物の、存在する空間のにおい。
その正体はすぐに明らかになった。
「・・・なんだこりゃ」
「・・・・・・」
さすがのキリーにもそれしか言葉がなかった。
建物ひとつ収まるのではないかと思うほどの台座があった。土壌を盛り、切り出して造られたと思われる、飾り気などない石の出っ張り。
それが三つ。等間隔に並べられている。左右と真ん中。そのすべての上に、いきものが鎮座している。
キリーは歴戦の剣士である。数多の屈強な人間だけではない、野生の動物とも異形のザグルとも戦ってきた。しかしこれはない。
「ディグル・・・か!?」
ほとんど伝説上の生き物とされている、長い尾と頑強な皮膚、鋭い牙と爪を持つ、地上最強生物。
ディグル、その、ザグルではないのか。これほど巨大な生き物は他にはない。
しかも三匹。そのすべてが、氷漬けになってオブジェのように飾られていた。
そうか、これが検査なのか。
呪術を選別するのは、なぜだか知らないがいつだって水なのだという。この氷もそういった仕組みが為されていると推測できた。
おそらく、呪術を纏うものが近づくか何かすると、この氷は溶けるのだ。
「生かして帰る気がねえじゃねえか」
疑いのないものは、氷を削って持ってこいと言うことか。キリーが削ってやっても、つぐみが持てば溶けてしまうに違いなかった。
「つまり、まあ、そういうことだな」
このディグルの氷を溶かして、でっかいトカゲもどきの化け物をしばき倒してしまえばまあ、向こうも文句はないと、そういうことだろう。
「出来るかばかやろう。剣よこせ剣」
「キリー・・・」
剣さえあればそれもたやすいのだと信じ切っている辺りがキリーのすごいところだ。
「・・・!」
悪態を漏らすキリーをなだめようと前に出たつぐみだが、突如、全身に刺すような痛みを覚え、耐えられずにしゃがみ込む。
「どうした?」
気付いたキリーが近寄って助け起こそうと手を伸ばすが、それよりも早く。
「へえ。これがウルスの秘め事、か。なるほどな」
新たな風が吹き、キリーの行く手を遮った。即座に振り向き身構えるが、響いた声の持ち主はいない。
「誰だ」
強く問いかけたところで応えはなく、すぐにキリーはそれどころではない事態に気がついた。目の前の氷が、急速に溶けている。
「呪術師かこのヤロォ」
声はキリー達が入ってきた方向とは逆からした。この洞の奥から。
出口が他にあるのか、この声の主は何者か、それらの疑惑がとりあえずはいっぺんに吹き飛ぶ。
何かの呪術を放出しているのだ。氷は溶ける一方で、知識に乏しいキリーにはそれを止めるすべもない。
視線を外すことはせずに、後退しながらつぐみの側に寄った。しゃがみ込んだまま、苦しそうな荒い息を漏らしている。
「具合悪いのか」
「いた、イ。からだ、いタイ・・・ッ」
確信はないが、どうにも背筋にピリピリと走る気持ちの悪い感覚。
それがいま、この場に呪術が流れている証なら、つぐみの変調はこの所為に違いなかった。
「俺から離れるんじゃねえぞツグミ」
ろくに逃げることも出来ないだろう、少女を背に庇ってキリーはじっと腰を落として油断無く構える。その手に武器となるものは何もない。
けれどツグミは守らなければ。
みるみる溶けゆく氷塊と、暗闇の向こうを見据えていたキリーの両眼が、不意に襲い来る衝撃に見開かれる。さすがに悲鳴は漏らさない。
「キリーっ」
その代わりに、後ろから驚きにたじろぐ声が名前を呼ぶ。
視界もぼやける照明のない暗いなかで、光の柱がキリーを貫く。
直撃を避け何とか身をひねったが、左腕を熱に焼かれた痛みに膝をついてしまう。
「チッ」
呪術相手となると、剣のないキリーに為す術はない。何とか立ち上がるが呪術師の気配が感じられず、逃げも隠れも意味を成さない。
土の地面にこすりつけて鎮火したように思ったが、立ち上がったキリーの左腕はまだあつく熱を持ちくすぶり続けていた。ぼんやりと呪術の炎がまとわりついている。
「火、もえ、もえル、ダメ!」
「生きたまま焼かれるくらい慣れたモンだ。しかし呪術の炎とはな。いやらしい」
血相を変えてわたわた暴れ出すツグミを右手一本で抑え込んでおく。下手に動かせては怪我をさせるかも知れない。
紫がかった呪術の炎は変わらず、蛇のように絡みつき左腕を蝕み続けた。
肉の焼けるいやなにおいがする。額から吹き出す脂汗を感じながら、キリーはにっと口元を歪めた。
「なんだ、俺らみたいな不審人物は王都で取り調べるんじゃねえのか、それともてめえは、王都ともウルスとも無関係な第三者か」
今の自分に出来ることは結局何もないと判断し、少しでも情報を引き出すことを試みてみた。
暗闇から応えはなく、再び新たな衝撃がキリーを貫いた。
「――――!」
「やああっ!」
つぐみの悲鳴が響く。慌ててキリーが見ると彼女に被害は及んでいない。息を吐く。大粒の涙が頬を伝っている。バカ、泣くんじゃねえよという言葉が過ぎったが口には出さない。
足を深々と、三つ叉の矛が貫いている。患部から血が噴き出し嗅ぎ慣れたにおいが鼻をついた。
矛はすぐに消えたが、膝をつくことは免れずその場にしゃがんでしまう。
「ってえよ。のヤロオ・・・何が目的だ」
「キリー!」
先程から何かを問いかける度キリーが手傷を負わされている事実に、つぐみが切迫した声を上げる。
特に深い考えはなく突発的な行動なのだろう、未だ炎を上げているキリーの左腕に、両腕で抱きつく。
「オイ、呪術の炎がまともな方法で消えるか!離せツグミ!」
ぎょっとしたキリーが咎めるが、拍子抜けするほどあっさりと炎が消えた。霧散するようにかき消えてしまったのだ。
「!??」
自分でも何が起こったのか分からない様子で、けれど黒くすすけてしまった腕からそっとつぐみが手を離す。
とたん思い出したように激痛がキリーを襲うが、あのままでは腕がもげていただろうから助かったことには変わりない。普段なら誉めてやってもいいところだが、そんな余裕はなかった。
「やはりその娘か」
闇の向こうから、ようやく二度目の声が響いた。
(2008.5.26)