8  呪獣






 若い、男のようだった。少しかすれ気味だが、良く通る声が響く。
「目的はツグミか」
 ツグミの正体と利用価値を見出せるものは、そうそういはしないはずだった。サザとキリーとラシード。ウルスの町人は未だ掴みかねている状態であるはず。
 ラシードの裏切りか、そもそもの発端であるエイギルなる男の差し金か、そのどちらかしかこの呪術師の存在はありえないはずだ。キリーはそこまでを一瞬で推測した。
(こいつがツグミを召還した呪術師か)
 飛躍したと言っても良い憶測だが、遠からずであろうと思った。これだけの力を持つ術師ならあるいは可能であろう。
 今度は口に出すことはせず、ただ相手の出方を待った。
「お前誰だ?護送は男の剣士ひとりと思っていたが」
「知るかあんな肝心なときに役立たず」
 にべもなく切り返し緊張は解かずにいたのに、右手の二の腕が、ぶしっと音を立てたのではないかという勢いで血をしぶいた。
「お前誰だ?」
「・・・ッてかてめぇが誰だよ」
「キリー!」
 拷問まがいの問いかけだというのに、まったく妥協しないキリーに、つぐみがさらに顔色を変えてどんどん血だらけになっていく身体にしがみつく。
 暴挙から身を挺して庇おうかとするように。
「ツグミ」
 キリーがわずかに顔を顰めて呼ぶ。ゆらり、となおも呪術の干渉に空気が揺らぐのを微かに感じた。つぐみには、激しい頭痛となって襲いかかるほど禍々しい。
「・・・!」
 けれど、確かに呪術が行使されたようなのに、キリーもつぐみも新たに傷を負うことはなかった。
 一瞬だけ、不穏な空気漂う地下の洞窟内が静寂で満たされる。
 キリーは、戸惑いと未だ解けない恐怖に、涙をにじませながらも気を張りつめているつぐみの顔を凝視した。
「・・・・・・」
 つぐみも、何が起こったのか分からず、ましてや自分の身に起こった事態も理解できずにキリーを見つめ返す。
 その静寂を切り裂くかのように、
「っくあ!」
 突然、つぐみは突き飛ばされ、キリーから引き剥がされてしりもちをついて転げる。
 その、不安定な体勢からも、髪を掴まれ引きずられ、地面に叩き伏せられるキリーの姿が見えた。
「キリーッ」
 気丈に振る舞っているだけで、もうろくに動けないほどの傷を負っているのだ。
 剣もなく、身を守る丈夫な衣服もまともなものはない。
 キリーは強い。いつも強気で、真っ直ぐにつぐみやサザを叱咤する。
 そのキリーが床に転がされ、足蹴にされお腹の柔らかい部分を踏みしめられている。執拗につま先を入れ、痛苦を与えているのがいやでも分かった。
「イヤ、イヤッ!すル、なイッ」
 目の端から呆れるくらいの涙が溢れていた。身体が頭からつま先まで震えている、けれど立ち上がって、即座に駆けた。
 キリーがこんなひどい目に遭わされる理由が分からなかった。今すぐやめて欲しかった。
 暗いからよく見えないが、体格からして男性だ。さっきから喋っていた人だ。こんなひどいことをする人なのだ、と頭では分かっていて、声を出せないくらい怖いはずなのに、つぐみはその人影の腕にしがみついて、思い切り引っぱった。
「イタイ、やメルっ」
「バカかテメー、逃げろ・・・」
 叱責にも力のないキリーの声が耳に届いて、なおさら涙を溢れさせた。
「・・・おまえが―――てか」
 俯いていた頭上でそのひとがなにか呟いた。聞き取れなかったこともあるが意味もわからなかった。つぐみは弾かれたように顔を上げ、正面からまともにふたりの視線がぶつかった。
(サザ)
 もはや親しみさえ覚える色彩がそこにあった。夕陽の色の双眸が興味深そうにこちらを覗きこんでくる。
 顔立ちはどちらかというと柔らかく女性的で、一瞬だけ目を瞠っていた為に幼くさえ感じられた表情や雰囲気は、次の瞬間鋭利なものに差し変わってしまった。
(こわい!)
 他者を遮断し拒絶するのに、存在を主張してはばからない強烈な威圧感。普段サザからも感じられる、そんなところも通じる。
 けれど彼におぼえる恐怖はその比ではなかった。
 サザはいつだって緊迫していて臨戦態勢とも言えるが、自分に刃を向ける相手以外には危害を加えたりしない。このひとは違った。
 いきなりキリーを傷付け、その理由も明かしてはくれない。
「やメル、シテ」
 視線を逸らすことも出来ずに、震える声でつぐみはようやくそれだけを口にした。
 橙眼の男は言葉もなくあくなく凝視していたが、やがてキリーの上から足をどけ、代わりにつぐみの顔を指先で捉えて上向かせた。
「大した呪の威力だ。なるほどおかしな気分になる」
 突き刺さる、痛い声だった。力の強い声。どうしてそんな風に感じるかも分からない。
 そして、少し難しい言葉遣いなのか、やはり言葉の意味が良く分からなかった。
「ッテメー・・・離れろ」
 地面を這いながら、キリーが男の足を掴んで気を引こうとしている。つぐみはそれを見て青ざめ、キリーを止めようとしたが動けない。
 対して男はそのどちらにも関心がないように目を逸らし、背後を一瞥するとああ、とごちた。
 つられて視線を動かして、つぐみは今度こそ喉を引きつらせて硬直してしまった。声にならなかった。
 氷がほとんど溶けかけ、異形の化け物が胎動をはじめるように震えている。亀裂が次々に走っていく。
「俺とお前の呪の前に、この程度の封呪が耐えられるはずもねえな」
 男はむしろ淡々と言い放ち、再び視線をつぐみに寄越した。緊張で飛び上がったが、意外にも向けられた目と声は、少し痛いものではなくなっていた。
「いつか迎えに来る。うるさい娘を待たせているからな、今日は退く」
 その言葉を不思議な心境で聞いた。またせている、と紡ぐときだけ男は、怖い人ではなかった。
 “ムカエニクル”
 初めて聞いた異国語だった。だから意味を知りようがないのに、つぐみにははっきりと理解できた。今なにを言われたのか、何故か。
「来る、ナイ。ワタシ、あるク」
 自分で歩いていく。迎えに来なくてもいい。
 もしかしたらまるで見当違いかも知れない返事をした。男は顔を顰めて、すぐに怖い人に戻ってしまった。
 そして、なにも言わずに背を向けて歩き出す。二、三歩も進めば男の姿はかき消えるようにして無くなってしまった。
「・・・・・・」
 緊迫した状況は何も変わらない。むしろ差し迫った危険があるのに、つぐみは耐えきれずにその場にへたり込んだ。
 身動きできずに舌打ちしたキリーが、つぐみを少しでも動かそうと腕を伸ばしてくる。
「走れ、逃げろ」
 言われた言葉は分かる、意味も理解した。
 つぐみはただゆるゆると首を横に振る。たとえ腰が抜けていなくても、ぼろぼろのキリーをおいて逃げる場所なんて無かった。
「きりい・・・」
「泣くな、ぶっ叩くぞ・・・せっかく、少しは見直してやったのに、サザを・・・」
 上から降り注ぐ涙が頬に染みてきて、キリーはいやそうに目を伏せて声を絞り出す。
「リビットを呼んで来いよ、早く、あの役立たず・・・」
 叱咤する声に、サザ、という名につぐみの瞳がはっと澄んだ。涙を払って、辺りを見渡す。相変わらず暗い洞穴内。来た方向は分かる、けれど村人がきっと今も立っている。
 「サザ!」
 声が出た。自分でもびっくりしてしまうくらいの音が。名前を呼んだ。
 その声に弾かれるように膝が伸びた。すっくと立ち上がり、走り出そうとして足がもつれる。
「さ、サザっ。サザ!」
 やはり焦ってしまい、もたもたしながら走り出す。
 キリーが、キリーが大変だ、はやくどうにかしなければならない。
 じぶんではむりだ、自分はなにも出来ない役立たず。
 どうしようもない現状と、圧倒的な弱者である自分をまざまざと自覚して、ざっくりと胸に刃物が突き刺さるように痛んで苦しかった。
 大きな怪我はなにもないのに。ずっと痛いはずのキリーに、なにもしてあげられない。
 サザを呼ばなければ!呼びに行かなければ!恐慌状態でがむしゃらに走る。しかし、
「ッぐぎゃああ・・・・っ」
 びくりと全身が震え、足も止まった。背後で喉を鳴らす、異形の声が響いた。
 つぐみの脳内は完全に混乱し、それでも選択肢が点滅しながら迫ってくる。
 サザを呼ぶ、早く、助けを呼ぶ、誰かに、助けを、それよりも、
「キリーッ」
 即座に振り返って駆け戻る。石の欠片で足の裏が切れて血が溢れている。もう痛みも遠い。自分の荒い呼吸の音だけが、心臓の鼓動と重なってうるさい。
「戻ってんじゃねえ、だあほっ」
 迫力に欠ける怒号に打たれてもつぐみはとまらなかった。駆けて駆けて、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、倒れ伏せているキリーに覆い被さるように手を伸ばす。
「イヤ、イヤ!!」


 自分はなにも出来ない役立たず。それなのにみんなは守ってくれる、側にいてくれる。
 その違和感がずっと消えなかった。これからも慣れる気はしない。慣れたくはない。
 たとえ「自分ではない空知つぐみ」に価値がある、それだけの理由だとしても、守られて当然だって、なにも出来ない自分を定着させたくなかった。
 それに、つぐみは知ってしまった。こちらに来てから、理解してしまった。
 ひばりちゃんはいたけれど、ひばりちゃんは友達も多くて好きな人もいた。つぐみだけの姉ではなかった。当たり前のこと。
 それに比べつぐみの世界、今までなんて狭かったのだろう。不安だった、怖かった。
 私がいなくなってあの世界、一秒も一ミリもずれることなく回ってる。そんなわけない、誰かの世界はひずんだはずだ、そういう確信が、全然湧かない。
 つぐみはひとりぼっちだった。あの世界、つぐみだけの誰かなんていなかった。誰かだけのつぐみだっていなかった。
 ひとりぼっち。この世界に来て、言葉も通じなくて、人が殺されるのも見て、

 ああ、たったひとりぼっち―――――そう、思い知ってしまった。


 だから、キリーを置いていけなかった。キリーのことを思ったのもあったけど、きっとつぐみ自身の心のためだ。
(おいていかないでおいていかないでひとりになりたくない)
 小さな子供のような、切実な、ただの願いだ。
 キリーを損なうかも知れないのが、とても怖い。
 どちらにしろ意味のない行為だ、と分かってはいても、キリーに覆い被さって身を盾にするしかやり方が分からなかった。
 だって今までサザがいたもの。最初からいて、彼自身がどういうひとだかわからないうちからずっと護ってくれた。
 だから、頼りすぎて厭きられたら、と畏れながらも、声は呼ぶ、求めてしまう。
「っサザあ!」
 もはや氷の眠りから覚めたディグルが、ゆったりとした動作で頭をもたげ、荒い呼吸を繰り返しながらしゃがみ込む二人に近づいてくる。
 その熱い息がもう、肌に感じられるほど近づきつぐみはぎゅっと目を瞑った。
「・・・遅ぇ」
 腕の下で、キリーの押し殺した呟きが聞こえた。
 そのすぐ後に、耳をつんざくような咆哮。
(ばたばたばたばたばたばたばた)
 降り注ぐ温度を持った液体。つぐみはもうそれがなにか知っている。すぐに感じるのはおぞましさや嫌悪よりも、ただ純粋な驚きだった。
 目の前でザグルが、顔の横に張られているエラのような部位を失い血を大量に流していた。
「グオオオアアアアアア!!!」
 つぐみがぽかん、としている間にディグルは痛みから逃れようとしてか声を上げ全身を激しくゆらして暴れはじめた。
 長く肉厚な尾が振り下ろされ石柱を砕いていく。慌てて我に返ってキリーを庇いながら移動しようとする。そこで気付いたが、キリーは気を失っていた。
 縦横無尽に暴れ回る尾が、とたんぶつっ、と暗闇の彼方に見えなくなった。再び新たに血飛沫が舞う。
「ギャアアアア!!」
 さらに見境を失った様相で、泡を吹きながらディグルが迫ってくる。
 きらめく白刃は度々に月のように光を放ちその存在を主張したが、持ち主は夜に乗じるように見えない。
 ディグルはそれを見逃すことなく、巨体に似合わぬ俊敏さで全身を使い突進して押しつぶしにかかる。
 石柱に挟まれ逃げ場を失った標的は、刃を突き立てディグルの心臓を狙いはしたが、固い鱗に守られた身体に弾かれ、刃がいやな音を立てた。
 ィン、
「!」
 ――――――みしっ・・・
「サザ!」
 いやな音を立てたのは刃だけではなかった。石柱に巨体ごと押しつぶされ、それだけでは済まされず柱を打ち砕くほどの激しさで前肢に叩き飛ばされる。
 つぐみの悲鳴が上がる。視界から消えるほど吹き飛んだ身体は、意外な頑丈さで空中を反転し、受け身を取りながら地面に着地した。
 すぐに顔を上げ、敵を見据える。もはや両眼に理性的な光は乏しい。口の中に広がる鉄錆を吐き捨て、左手に握る刃を目前にかざしてみる。
 ・・・根元から折れている。
 長年愛用した相棒である。どんな鋼鉄も易々と切り裂く、サザの腕あってこその名刀だが、ディグルの肌には通用しないらしい。
 顔付近や尾の根元には刃が通ったが、その二太刀だけでもずいぶんなダメージを被っていたようだ。 
 ほぼ刃渡りのすべてを失い、間合いもなにも意味を成さなくなったそれに、サザは一瞬だけ目を向け、その場に投げ捨てる。からりと乾いた音が立った。
 剣士が剣を捨てた、しかしその行為は降参を意味するものではなく。
 サザが地を蹴る。真っ直ぐに、なにも考えていないまでの素直さで暴れ狂うディグルに向かっていく。
「グルウウグアアアア!!」
 飛んで火にいる憎き敵を視認して、ディグルは唾を飛ばしながら大きくあぎとを開いて迎え撃つ。サザなんてあっさりと噛み砕き、呑み込んでしまうであろう鋭くおぞましい牙がのぞく。
 前屈みの体勢になり、ディグルが繰り出す牙を、軽い跳躍で交わす。そのまま最強生物の顔面に着地する。なおも前進は止まらない。
 ディグルはすぐに標的の位置を把握したが、どうするべきか逡巡して両眼が寄る。猶予はそれだけで十分だった。
 サザは失った刃の代わりに左腕を振りかぶり、真っ直ぐに突きだした。
 ぐずっ・・・!
「ギャアアアアアアアア!!!」
「・・・・!!」
 つぐみはなにが起こったのか、理解した瞬間に血の気を失って目を強く瞑って震えた。
 いたいいたいいたいいたい!
 我が事でないけど、サザが死んでは困るけど、目を潰されたら物凄く痛いだろう。
 鋭い猛攻に反して、サザはあっさり振り下ろされて宙を舞った。さすがに空中では動きがままならずに無茶苦茶に暴れるディグルの前肢に再びたたき落とされる。羽虫のようにあっさりと。地面に音と土煙が上がった。今度は着地も出来なかった。
「サザ!」
 つぐみはキリーのことを気にしながらも、それでもサザの側まで駆け寄ってしまった。
 あんな高いところから、あんなに強く落ちて、普通の人が無事で済まされるはずがなかった。骨の数本で済めば強運といっていいだろう。
 もちろんそんな楽観視の出来る心境ではなくて、恐怖も躊躇も今はなく瓦礫を掻き分けてサザを捜し求めた。
「サザ、サザッ」
 その目の前で、がらりと岩を掻き分けサザが自ら脱出してきた。ずいぶんと久しぶりに顔を見た、また、無事を確認できてつぐみはほっと気を緩めた。
 その表情も、サザの全身を見て引っ込んだ。
 服という服、というか布が裂けてずたぼろだ。あれだけの衝撃を受ければ当然といえたが、その着ている本人は平然と立ち上がって駆け寄ったつぐみを見下ろしてくる。
 あ、あれ?怪我は?
 無くてなにより、といえたら良かったのだが、あんまりにもあんまりにサザが頑丈すぎて笑うに笑えない。
 サザが普通じゃないのは知っていたが、何だか本当に普通の人じゃないみたい。
「わア、サザ!」
 つぐみははっと気がついて、思わず声を上げてしまった。血はほとんど流れてないし、大きな傷はどこにもないと思ったのだが、サザの右腕がばっきりと。
 そう、ばっきりと、変な方向に曲がっている。
 ぐらぐらと目眩がした。こんな変な向きに腕が、というか骨が曲がったら、つぐみだったら一瞬で気を失う。一秒でも痛みに耐えられる自信がない。
 咄嗟に利き腕をかばう事ができただけでもサザの脅威を示したが(というか腕一本しか大きな被害がないこと自体おかしいが)、刀に続いて腕まで折れてしまった。
 サザは、慌てて青ざめるつぐみをしばらく眺めていたが、ようやく自分の右肩に視線を移し。
「折れたな」
 ただ事実だけを述べた。なんの建設的な発言でもない。
 だが、まだ戦いの終わっていないさなかに意味のない発言をした、その行為とすっかり戦意の削がれた眼差しをつぐみに向けていることといい、以前のサザからは考えられない姿だった。
「勝手に離れるな」
「ご、ゴメンナサイ!」
 しかも何故か物凄く理不尽な方向で責められた。つぐみはつい反射的に謝罪の言葉を口にしていた。
 言葉はすぐに、ずしんと自分自身に返ってくる。
 離れて、ごめんなさい。勝手に、離れて。
(離れてへいきじゃないのは私の方)
 ついさっきひしひしと痛感したばかりだった。サザの言葉が胸に浸透していく。
 つぐみと同じ理由じゃなくても、サザも離れて困る、と思ってくれたらいい。ほんの少しだけでいい。 
「グ、ガアアア・・・!!」
 ようやく意識が本来の場所に戻ってきた。サザの状態に一喜一憂している場合ではなかった。
 ディグルが負傷した傷の痛みに耐えかね、唸り声を上げ迫ってくる。
 貫かれた右目からも新たに鮮血が流れ落ち、辺りは噎せ返るような血臭で満たされている。
 ディグルの歩幅なら、後二歩もすればつぐみとサザまで辿り着く。サザはすぐにつぐみを担ぎ上げてその場を離れようと腕を伸ばしたが、目の前の事態に一瞬息を呑んだ。
 つぐみが、サザを背にして両手を広げ、すっくと上を見上げて立ちはだかった。
 かばう、かのように。
「・・・・・・」
 意味がわからない、理解が到底追いつかなくて、サザの身体は珍しくも停止した。
「・・・う、・・・う、うう、」
 胸を張って立ちはだかってはいるが、つぐみの全身はがたがたと震えている。やっぱり両眼からは涙が止まらなかった。怖くてたまらない。頭が破裂しそうで呼吸もままならない。
(意味無い、私がこんなことしたってなんの解決にもならない)
 分かっているのに、サザを背に庇っている。つぐみの身体なんて紙の盾にも劣るだろう。
(でも、でも)
「ケガ、イヤ!もう、うごク、ダメ!!」
 ぶんぶんと首を振って、言葉が零れるままに口にした。誰が傷つくのももう見たくなかった。
 何処にも行って欲しくない、サザにもキリーにもいなくなって欲しくない。
 目の前の異形の化け物だって、あんなに傷ついて苦しそうに暴れている。これ以上痛めつける必要なんて感じられない。
 ディグルとサザを、もう近づけたくない。
 だから自分が、間にはいるしか思いつかなかった。
「サザ、ケガ、イヤ!血、イヤ、いたいコト、もウやめル!」
 ところどころ母国語が混じりながら、ただ必死に言い募る。サザの顔は見えない。彼ならばつぐみを押し退けてディグルに再度向かっていくことも容易だろう。けれどそうはさせまいと背中をぴったりとサザの胸にひっつけるようにして立ちはだかる。
「・・・・・・」
 背中に立ったままらしいサザからはなにも聞こえない。その代わり目の前に立っていたディグルがふいに前進をやめ、頭をもたげた。ゆっくりと。
「・・・グル・・・」
 ばきん。
「・・・エ?」
 短く、どこか痛切に喉を鳴らして、ディグルの身体が瓦解した。氷河や土砂を思わせる、折れて砕けていく肉体はとたん砂色の土塊となって零れていった。
「・・・エ、エ?」
 訳が分からず目を瞬かせる。長年呪術の水に固められていた身体は急激に刻を受け入れ傷を受け、限界を迎えたのだろうか。憶測しかできないが、伝説と謳われた地上最強生物の果て行く様は壮絶の一言に過ぎた。
 ディグルのなれの果てとなった砂粒は、もとの容積を感じさせないはかなさであっという間に風化していった。
 後に残る、飛び散った血痕と瓦礫の山だけが、夢幻の出来事ではなかったという証明となる。
 左右の台座に残されたディグルはそのままだ。変わらず沈黙を守っているが、つぐみにはどこか物悲しく感じられた。
 胸にぽっかりと穴が空いたように寂しくて、気が抜けたと同時に涙がぽろりと頬を伝った。思う以上に熱い涙が。
 ああ、キリーもいる。身動きしている、早く手当てしなくちゃ。
 目の端で確認して、つぐみはそっと振り向いた。色々あって肝を冷やしたけど、とりあえずみんな無事。
「サザ・・・」
 呼ぶ声は振り向き終えて、顔を見上げる前に途切れた。
 急にサザに抱きしめられた。無事な左腕一本でだが、小柄なつぐみは易々と捕らわれてしまう。
「・・・・・・っっ」
 身体が軋む音を立てるんじゃないかという強い力だった。はっとふかく息を吐き出して、顔を顰めながらもつぐみは抵抗も出来なくてただ必死にサザにしがみつく。
 押しつけられた胸から、とくん、とくん、とサザの音がした。ほんの少し早いような気のする音。
 それを耳にするとほっとした。これだけ密着していれば当然だろうけど、サザの身体は熱かった。
 サザも、そうなのかも知れなかった。つぐみが生きているのを、無事を確かめようとしてくれているのではないか。 
「ツグミ」
「ハイ」
 かすれたように名前を呼ばれてつぐみは率直に返事をした。
「何故前に出た」
「・・・ゴメンナサイ」
 うまく説明できないと思って謝った。サザはそれ以上追求する気はないのか、代わりにもう一言落としてくる。
「二度とするな」
「・・・・・・」
 今度はすぐに返事が出来なかった。サザが強いのは承知だが、身体が勝手に動いてしまったのだ。それにサザやキリーが死にそうになっていて後ろに突っ立っているだけなのは、やはりイヤだ。なにが出来るというわけではないが、また飛び出していかない保証も自信もなかった。
 だって、心臓が止まるかと思ったのだ。
「二度とするな」
 今度は少し、低い声で繰り返された。怒っているのか、と思ったが、違うような気もした。
 ・・・サザも、心臓の止まるような思いをしたのだろうか。可能性は低いような気もするが。
 つぐみが返事できずにいると、さらに抱きしめる腕に力がこもって小さな声が漏れた。
 まだろくに会話も出来ない、サザのことはほとんど分からないままなのに、異性に抱きしめられているのになんの嫌悪感も湧いてこない。
 それどころか、むしろ。
「・・・サザ、ゴメンナサイ」
 息を吐き出して、そっと目を閉じる。サザの身体にも、つぐみの両腕がぎゅうとしがみついてくるのが伝わった。
「・・・アリガトウ」
 こちらに来たとき、つぐみはひとりだった。
 いまもひとりだ、けど本当は違う。サザがいた、ずっといた。いまもいる。


 
 はじめてふたりで歩き出したとき、感じたことを思い出していた。
 サザと離れると、今感じているなにもかも失う。
 このひとが、ひとりにしないでいてくれる人なんだと、分かっていたんだ。   


















(2008.6.10)

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