9 静養






 夢のなかで自分は、やはり小鳥の姿をしている。
 きっと自分が目にしたなら、愛らしさに和むこともあるだろう、けれどそれだけだ。
 非力な小鳥に、何を為す力があるだろう。


 相変わらず見てくれだけで、羽根の使い方も分からない。全身がどろどろに汚れ、もう立ち上がれないくらい疲弊しきっていた。
 そこでようやく、すぐ側で汚れて倒れているのは自分だけでないと気付いた。
 敏捷そうな体躯の、若々しい狼、に見えた。狼なのか良く分からないけど、犬のような気安さはないから。
 本来ならきれいで立派な毛皮のはずなのに、ところどころ血で汚れて痛々しい。それを見ていると、とても悲しくなってくる。
(・・・おきて、ねえ、こっちをみて)
 こんなふうにうちひしがれているようなひとではないのに。
 身体にすがってぴいぴいと、小さな声でなく。それだけしかできない、役立たず。
 そこへのっそりと、やはり、以前にも見た獅子が現れた。
 記憶にあるよりもずっと、この獅子も汚れていた。怪我を負っているようだった。
 相変わらずの威風だけど、その姿に小鳥は今度は萎縮しなかった。取りすがってぴいぴいないた。
(いたい?いたい?)
 獅子はなにも答えずに、さえずる小鳥をべろりとなめた。体格が違いすぎて、一瞬で唾液まみれになってしまった。
 小鳥の足も、細かな傷で血に汚れていたのだ。二匹に比べれば些細なものだが。
 ぷるぷる震えて水分を飛ばして、あんまりにびっくりしたので羽根をばたばたさせた。
 すると気付くと、自分は空に浮かんでいるではないか。獅子の顔面、目の前まで。
 鼻の上に乗っかって、おそれなどどこへやら、必死に懇願していた。とにかく必死だったのだ。
(あんまりいたいことしないで)
 しがみついて、お願いした。少しでも伝わってくれたらと願って。
 獅子はやはりなにも答えず、乗っかったままの小鳥をより目になって注視したのち、やれやれといった風情で歩み出した。倒れ伏せたままの狼を放置しているので、小鳥はまたぴいぴいとないた。獅子は仕方なさそうにきびすを返し、その身体を引きずっていく。
 全身を襲うだるさが再びやってきて、小鳥は微睡みに落ちていった。獅子がどこへ向かうのかまったく見当も付かないけれど、欠片の心配もなく意識を手放せた。
「サザ・・・」
 もうこの二匹の名前を、小鳥は知っているのだから。





 痛みを感じる機能がごく遠いだけで、痛覚がないわけではない。
 サザはつぐみの小さな身体を抱え直した。重みなど皆無に等しくとも、右手が使い物にならないこの状況で、二人を担いで歩くのに問題がない、というわけにはさすがに行かなかった。
 少し前から雨が降り出した。木の根元を歩いてはいるが枝葉は乏しく、寂しい裸道が続く。
 サザは一度足を止め、つぐみを頭から自分のマントで覆い、体温の低下を防ごうとする。
 その目の端で、さらに血の気の失せたキリーの顔を見やる。しばらく前に「・・・いいから捨てていけ」と零して以来意識がない。
 止血はとっくに済ませたが、ちゃんとした処置を施して安静にしておかないと良くないのは一目瞭然だった。
 ディグルを退けた後、サザはウルスを脱出した。地下の奥には隠された地上へと繋がる通路があり、町人に気付かれる時間を稼げたと思うが。
 サザは確かに、傭兵として役立たず、と罵られても仕方がないのだろう。
 二人が風呂に連れ立ち、やることもなく待っていたが、すぐに異変に気がついた。
 気がついて、即座に駆けつけようとした。ろくに実力のない町人達に囲まれようと、ためらいなく斬って捨ててでも駆けつけようとする意志があった。
 けれど。
「・・・サザ」
 雨の音のなかで呼ぶ声がした。
 目を向けると、うっすらと光を纏った黒色がこちらを見上げている。
 先程からつぐみはぽつぽつと起きたり眠ったりを繰り返している。疲れているのだろうと思うが。
「あるク、ワタシ・・・」
 肘と両腕で起きあがろうとしているのを、ほんのわずかな力で押さえるだけでこてんと再び伏せてしまう。
 こんな状態でなにを言うのか。
「寝ていろ」
「・・・イヤ」
 抗うような、はっきりとした主張の声音で、サザはわずかに目を瞠って少女を見返した。
「おきル、あるク、ワタシ・・・まえ、イヤ」
 胸のまえにかざされたままのサザの手を取って、自らえいっと起きあがる。何度か荒く息を吐いて、それでも真っ直ぐに見上げてくる。今までは見られなかった様子。
「あるク、いっしょ」
 サザはまた、何だか訳が分からなくなってしまった。頭や胸がぐちゃぐちゃしたものや雑音で満たされて、不快になる。
 それはつぐみがもたらしたものだと解るのに、昨晩もそうしたように、気がつけば少女の頬に指先だけで触れた。雨に混じった泥が滑り落ちて、手袋に染みていった。
 雑音があらかた消えた。手袋を抜いて肌に直接触れたらもっと痛みが消えると知っていたが、サザはそれだけで手を離した。
「立て」
 つぐみがぱっと表情を輝かせて、自分の力だけで辛そうにしながらも立ち上がった。
 サザはキリーの身体をさっきよりはちゃんと抱え上げてやって、ふたりは視界もままならない山道を歩き出した。
 サザのマントを被っているつぐみはだいぶ雨風をしのげたが、その丈夫な作りの布が重いのか、やはり疲れがたたってか足元はふらふらしていた。
 しかたがなく宿主のいなくなった剣の鞘を差しだして、先を持たせて引いてやった。それだけでもずいぶん歩行が楽になるらしかった。
 昔はマントを握っていたのを思い出しながら、今はそれがないので。
 手を引いてやる選択肢はない。キリーを担いでいるからではなく、長い間少女に触れていたら逆におかしくなっていくこともサザは本能的に悟っていた。
 どこに向かっているんだろう、これからどうすればいいんだろう、せっかく町で温泉に浸かってゆっくりしてたのに、町の人はあの様子だともう迎え入れてはくれないだろう。
 これからずっと、何処に行ってもこんな感じなのかな。それだとどうしよう、キリー、早くお医者さんに看て貰わなくちゃ。サザも、手、痛いよね、添え木してたけど、もっとちゃんとしないと骨が変になっちゃいそう。
 つぐみは朦朧としそうになる意識を励ますためにあれこれと思考を巡らすが、どれも不安要素を満載に含むもので、ちょっぴり落ち込んでしまう。いや、かなり。
 けれどガサガサした革製の、右手に掴んだ感触は離さない。
 水溜まりを弾いて歩く足音が重なる。ふたりで歩く。
 これだけで不安が、雨から守ってくれるマントのように、和らいでいく心地がした。 



「・・・オイオイ」
「・・・・・・」
 足音から、気配から、ひとが近づきつつあるのは気づいていた。だからサザは何の驚きも見せず、ただ現れた人影を覇気の衰えない眼差しで射抜いた。
 再び半分意識を失いつつある、つぐみを隠すように背に寄りかからせる。
「手負いの獣だな、まるで」
 ほんの少し目を瞠ったような出現者は、年のいった男だった。さして動揺したそぶりも続かず、今にもうなり声を上げ威嚇しそうなサザの眼光と、連れともどもの有様に苦笑を浮かべている。
「ひどい怪我をしてやがるだろ?そっちの、小さい子も、もう限界だそりゃ」
「・・・・・・」
 男がふいっと、何かの仕草のように手をふるう。場がぐにゃりと歪むような錯覚を覚えたが、サザは数度瞬きをしただけで目の前の男をにらみ据えたままだった。
「ほお?眠りの呪が効かねえか。なら、しょうがないっ」
 意識が保てたのはそれまでだった。





 身体を休めるという以外に意味を見いだせない、眠りにおいてもサザの意のままにならないことはなかった。
 だのに無理矢理と言った強引さで押し込まれたその休息が、真の意味で休息になるはずもなく、やはり覚醒は一瞬だった。呪術で、眠らされたのだおそらく。
「!」
「っと、早えな。まだ寝てろ・・・」
 何かすぐに言葉をかけてくる、その男の存在をろくに思考することもなく側にあるはずの獲物を手に取ろうとして、今度こそようやく、我に返る。
 サザの刀は折れたのだ。奇妙な心地悪さで、自身の置かれた状況の把握を急ぐ。
 狭い一室だった。本や保存食料、生活用品やよくわからない器具までが雑多に積み上げられた、小屋のようにもろい規模の室内。
 かたい、ソファとも言えないような布を敷いただけの長いすにサザは寝かされていた。
 全身の傷や、右腕はきっちりと処置済みで固定されていた。元々そこまででもないが痛みもない。
 その狭い部屋に何とかようやく収まっている様相で、すぐ目の前に雨の中遭遇した覚えのある男がいた。ただ睨み付けるだけで相手の出方を待つ気になったのは、最優先事項が側で寝息を立てていたからだった。
「ああ、悪ぃな。俺のベッドはあの姉ちゃんにやってるから他に寝かす場所がなかった」
「・・・・・・」
 つぐみはサザの隣にいた。すやすやとその寝息は健やかそうに聞こえる。
 けれど顔色は相変わらずお世辞にもよいと言えない白さで、サザはしばしそれを見つめる。その眼差しがひどく穏やかな色を纏っているのなんて、彼は一生知ることがないのだろう。見ることが出来ないのだけど。
「姉ちゃんも手当はしておいたがもう少し回復には時間がかかるな。それと嬢ちゃんはちいと栄養が足りてないようだが大事ない。可愛いのなら大切にするんだな」
 親切な対応をしてくれたという男に対し、余計な一言が勘に障ったのか強く睨む。
 彼はほんの少し目を瞠るだけで大してひるんだ様子もなく口の端を上げた。
 あわい赤目をもつ、妙に覇気のある男だった。偉丈夫と言うほどでもないのだろうが、何事にも動じない柳のようなしたたかさをも伺える。
「貴様は誰だ」
「通りすがりのうさんくさい男だ。アサとでも呼べばいい」
「何が目的だ」
 さらりとした返事に、サザは怪訝に顔をしかめながらも問いを重ねる。
 アサと名乗った、自らを不審と自称する中年男は若者の放つ拒絶の空気に苦笑した。それは少し、親愛の込められたものだっただろう。サザには不可解なものにしか写らないが。
「困ってるヤツがいて、何とか出来そうだったら、ってか出来そうじゃなくても、助けてやりてえとは・・・思いあたらねえ、か、お前さんは」
 男の独白めいたつぶやきに、サザは妙に神経を逆撫でられた心地がした。
「俺は助けてやりてえと、思ったのよ。ま、気にせず休みな。嬢ちゃんを抱いて暖めてやれ。雨で身体が冷えてるだろ」
「・・・・・・」
 深い意図はなかろうが、真顔でものすごく不愉快な指示をされた気がしてサザは顔をしかめた。それ以降新たな問いがないのでアサは視線を手元に戻す。
 サザの身体に触れそうなほど近くで眠るつぐみは、たしかに顔色は悪く子猫のように身を丸めている。時節は秋口。外はいまだ雨音がしていて気温は低いまま。
 護送の任務は、いまだ完遂できておらず、サザにはつぐみの身体を損なわぬよう護る義務があった。だからアサの指摘通り体温を分け与えてやる方が、正しいのだろう、けど。
「・・・・・・」
 眠る少女の、顔の横に手をついて、覆い被さりのぞき込むように身をかがめても、
 近づけるのはそれまでだった。
 サザのいつの間にかほどけた髪の毛先が少女の頬に落ちそうなほど近いのに、指一本すら触れようとは思わない。
(・・・ツグミ)
 心中でぽつりと名を落としたところで、応えがあるはずもない。
(ツグミ)
 だけど彼は繰り返す。水滴が波紋を起こすように、ぽつぽつと、こぼれるものをただ静かに落としていく。
 眠る少女に向かって、聞こえもしない声を落とす。


 まず一番にサザの傷がふさがった。
 処置をしたアサ自身が呆れたように嘆息していた。ま、お前はそういう生きモンなんだって思うことにするわ、と結論は結構に剛胆なものだったが。
 折れた骨が十日と経たずにつながったとあっては、呪術で癒したとはいえ尋常のことではないだろう。
 ふたりに比べて全然軽傷だったつぐみの傷がまだ完全にふさがっていないのだ。こちらは呪術が全く効かない体質もあるが。
 つぐみの特異体質や異様さ、そもそも傷を負った経緯など、不審だらけはお互い様だがアサはなにも問うては来なかった。いっそ不自然なほどだ。
 だがサザはそのどれも追求せず放置していた。どんな思惑があるにせよ、他のふたりには休養が必要だったからだ。
 アサは一見ではあるが善人であるらしかった。ただの物好きの暇人でも変わりはないのだが。
 献身に治療や食事、諸々を施してくれる。おかげでキリーの容態もずいぶんと落ち着いていた。再び旅に出るほどにはさすがに行かないが。
 もう眠る必要のない程度に回復したつぐみが、新しく与えられた服の裾を翻して看病に駆ける姿をよく見かける。出来ることがあってうれしいのか、珍しく平穏な日々が心安らぐのか、両方か、頬は上気していつになく血色がよく見えた。
 サザは今まで通りそれをよく目で追っていたが、どこに行くにも彼女の側を離れないと言うことはなくなっていた。さすがに森まで薬草を採りに行くなどと言うときは付き添うが。
 このあたりは野生のザグルが多い。そして道らしき道もなく、たいした危険がなくともつぐみはすぐに怪我をした。相変わらずか弱かった。そして怪我の治りは異常に遅い。
 サザと比べることが問題外だが、確かにつぐみの生傷は、かすり傷程度がたいていとはいえ減らなかった。
 傷に対して、彼女が最近おそれなくなったのがひとつの原因とも言える。
「なイ。大丈夫、ホント、ホント」
 自分でも不思議そうに、痛くないのよと繰り返す。本人は身体が強くなったのだとうれしそうだが、サザもキリーもたまったものではない。
「小さな傷だからってあなどるな。菌が感染して取り返しのつかねえ事になるぞ。わかったら無茶はやめな。嬢ちゃんだってこいつらが怪我したら、かすり傷だって悲しいだろうが。どうしてわかんねえかね」
 アサがそういって窘めると、はっとしたように目を瞠って、うつむいてようやく頷く。
 サザはもちろんキリーとも、ラシードとも違う言い含め方は、つぐみをひどく打ちのめした。
 恥ずかしい、なんだか調子に乗って。不謹慎だった。
 言われたことが全部理解できる。まったく持ってその通りだった。つぐみは三人にそれぞれ萎縮しきって謝罪した。今度から気をつけますと宣誓もした。
 それでもか弱さが改善されるわけもない。キリーのために採り集めた薬草の、2割は自分に施す羽目になる。
 アサは辛抱強く言い含めるが、外出を咎めたり禁止にするとは言わない。
「嬢ちゃん、嬢ちゃんよ、あんたよく閉じこめて首輪でつないでおきたいって言われねえか」
 深読みすると怪しい嘆きも飛び出す。心配で気が気ではない。
「本当になんなんだ、ただの箱入り嬢ちゃんじゃねえのは解るがそういう才でもあんのか?生傷をこさえる才能か?」
「ち、ちがウ。ナイ!」
 あんまりな物言いだとさすがにつぐみも頬をふくらませて抗議するが、今も指に突き刺さった植物の棘をピンで抜いて貰っている最中だ。
 アサが目撃したところ、少女の不注意というよりも、どうも別の要因があるような気がする。彼女の怪我はどこか、作為のようなものを感じた。
(たとえばそう、根や枝自ら嬢ちゃんに絡みに行く)
 そういったふしぎ、、、は、自分の領域だ。けれど正確に関知することは出来なかった。少女の存在それ自体に、もやがかかっているような印象を受ける。
「ほれ、取れたぞ。今日はもうじっとしてな、じき雨が来る」
「・・・ハイ。ありがとう、ございマス」
 申し訳なさそうに恥じ入って、うつむきながらしっかりと礼を述べてくる。
 礼儀のなった、どこも悪いところのなさそうな小柄な女の子だ。彼女自身からは何も、読み取ることが出来なかった。
「アサ、さん、ええと、じゅ、じゅしゅし?」
「ん?言ってなかったか?嬢ちゃんはしらねえのか。そうだ、俺は呪術師って奴よ」
「じゅ、じゅじゅつし・・・」
 キリーの重い傷を、薬草などの外部治療と合わせ、負担にならないよう少しずつ呪術を施して治療している。
 それはいろいろなところで耳にはしていても、つぐみには初めて目の当たりにする不思議だった。
「嬢ちゃんも俺と同類のような気がすんだけどなあ、気をつけろよ、力ある奴は世界に愛されるが故に人からは疎まれる」
「・・・ワタシ、しらなイ」
 十日を超える滞在を経て、アサもつぐみが言葉が不自由なことや、複雑な事情で三人が逃げてきたことを聞かずとも察しているのだろう。
 自分の気が済む済まないの問題だけで拾ったという言葉通り、本当に何も訊いては来なかったが。
 笑みを浮かべたままの重い忠告に、つぐみは心が急速に冷えたような感触を覚える。小さな身体をきゅうと縮め、正直な心境を零す。
(なにも、しらないの、自分の身に起こっていることを)
「知ろうとすればいいさ。知らない方がいいってんなら無理にとはいわねえが、知っていれば知らなかった、って言う後悔だけはしないで済むからな」
 まだ聞き取りの困難なつぐみの耳にも、アサの言っていることはよく分かった。真剣に耳を傾けて、表情を引き締めたいのに目元が熱をためていくのを感じる。
(泣かない)
 ぎゅっと手を握りしめる。
 知ってしまうのが怖かった。怖いことから目をそらせば、泣くことが減るかなと思っていたけれど。
 怖いことが山積みでやってきたって、もう、怖がることから逃げないと決めた。
 一番怖いことを知ったから。だからそれより怖いことなんて無いはずだ。
(それに、もう泣かない)
 ひっそりと、一人きり胸に誓いを立てた。怖いことは止めようがないけど、涙で視界を曇らせている間に、誰かを失うくらいなら、涙なんて涸れてしまえばいい。
 知らなかった、という後悔だけは、しないで済む。
 それならば、知りたい。知っておきたい。自分にも、出来ることがひとつでも増えるかも知れない。
 たとえば心構え。たとえばもっともっと、慎重に行動すること。
 どれだけ気をつけても(本当にあまり痛くないと言っても、怪我をしたくはない)気がつけばいろいろなところに引っかけたりぶつけたりは減らなかった。
 これにもなにか理由があるのか、自分のことなのに解らないのはやはり気持ちが悪い。
 知ればもっと気持ちが悪くなるかも知れない。自分の身体を、投げ出したくなるかも。
 一番信じられないのは自分だ。今の、自分だとはとうてい思えないこの身体。
(でも、気持ちは信じられる)
 これはきっと、ずっとつぐみだ。だから自分の気持ちに、まっすぐに向き合う。
 サザやキリーを傷つけないように、もう少しでもいい、一緒にいてくれるよう、考える。最善を尽くしたい。
 そしていつか、ひばりちゃんのもとへ帰る。帰れたら、ちゃんと空知つぐみを一からやり直したい。
 それが今のつぐみの望みだった。
(・・・帰れるのかな、私)
 その思考のたびに、心が古びた木造家屋のようにきしむ。だからすぐに逡巡をやめて、気を取り直す。
 アサの言ったように、軽い夕食を摂ったあとしとしとと雨が降り始めた。このところ季節の変わり目で雨が続いており、屋内でじっとせざるを得ない時間が多くなる。
 ひとり文字の読み書きの自習をしたり、食器の片付けをしたり、狭い小屋内で出来ることは多くない。結局早く就寝という運びになる。
 アサはいつもどこで寝ているか解らない。奥の本来の寝室はずっとキリーが伏せっている。(寝飽きたらしく、最近起きていることも増えた)
 つぐみとサザは上掛けを数枚と長いすを共同で与えられたが、最初の一夜以来つぐみひとりが使用している。
 サザはいつも屋外に出るか、隅の戸口で立って休んでいる。今夜は姿が見えない。
(この雨の中・・・)
 絶対に大丈夫という確信があっても、心配になる。もとの世界だったら傘を持って探しに行くのだが、街灯もない夜の森の中、自分が出て行けば二次災害、いいところ遭難して足を滑らすのがオチだろう。悲しいほどの自己判断が出来るようになっていた。
(サザは、大丈夫・・・)
 怪我一つしていないし、万が一足を滑らせてどこかに転落しても顔色ひとつ変えない。常識はずれに丈夫な人だと、もうわかっている。
 けれど心配して、なかなか寝付けない。
 小さな子じゃあるまいし、彼が見守って(見張っての間違いかしら)くれないと落ち着けないなんて。
 自分のいたった思考にひとり赤面する。つぐみには姉が一人きり。頼りになるというよりもこちらが心配してしまうような直情的な姉。
 それでも妹である自分は、サザのことを頼りに思っていて、お兄ちゃんがいたらこんな心境かしらと思う。
(・・・・・・)
 それはかなり違う気がしてきた。そもそも生まれ育った国、世界が違うから当然だが。
 感覚も、価値観も違う。歴然とした境界線を感じる。今もよく分からない人、けど。
(ちゃんと、やさしい)
 つぐみのことを考えてくれた。言ったことを、覚えていてくれた。あとから聞いたのだが、駆けつけるのが遅れたサザはウルスの町でひとりも町人を殺してないと言ってくれた。
 彼のことだ、きっと真実だ。
 けれどその、おかしな話だがサザらしくない判断、結果が、つぐみは涙が出るほど嬉しかった。
 歩みを阻む人には容赦がない人だと思っていた。武装もしていた町人達を、殺めず動きを無効化する程度で、だから到着が遅れたのだ。
 キリーにさんざん詰られて淡々と説明するサザに、二人の反応は対照的だった。
 つぐみは最初は目を瞠っていたが、すぐに嬉しそうに笑顔になって、キリーは何とも言いにくそうな、怪訝とすら言える目を向けていた。
 彼の変化を受け止めかねているのだろうか。そもそもそれは変化だろうか。
 サザ本人が一番分かっていない様子だった。彼はそもそも思考の追求をよしとしない傾向にある。考えても仕方がないからだ。
 短絡的とも言えるサザの言動は、つまり率直に彼の素直な心境なのだ。婉曲なそれや、裏というものの存在を知って考慮は出来ても、本人はそれを行うことはない。
 よく分からない人。けれど、そのひとつひとつはきっと彼の本心だ。つぐみへ向けられたものは、まっすぐにつぐみにあてたものなのだ。
 だから、信じられる。サザにいきなり斬りつけられてもきっと、そんなに驚かずに死ねる気がした。
 変なかんじ。
 あれこれと自分のこれからや保護者について、キリーの怪我の具合について考えているだけでもやがて眠気はやってきた。
 ああ駄目だ、もう眠りの淵に落ちる、と意識を投げ出そうとする刹那、誰かが側にやってくるのを感じた。けれどそのままだった。
 アサはもっと足音を忍ばせる。そんな主張をしてくれる。こんな近くに来るまで足音も気配も感じさせないのは、つまりつぐみが今もっとも警戒しなくていい相手だ。
「・・・サザ」
 ほとんど眠りながら唇だけで囁いた。呼んだわけではない、ただ、名前をつぶやいただけだ、反射的に。
 髪がさらりと顔に落ちてくる。頭に触れずに髪先だけ掬われている感触がした。
 撫でてほしい、と思ってしまった。ほとんど眠りに落ちながら。ラシードがしてくれるみたいに。頭を。
 キリーがしてくれるみたいに、頬を撫でるでもいい。さわってほしい。
 そうしたらきっと、何の不安もなく眠りにつける。
 けれどいつまでも髪が揺らされるだけで、それでも穏やかに心は落ち着いていって。
(髪を、伸ばそう・・・)
 ふと、そう思う。




「お前ら、王都に行くんだったよな?」
 傷が完全にふさがったわけではないがキリーが起きあがり、身動きできるようになると、アサが期待を込めた目をして現れた。
 その時つぐみはアサが作ってくれてキリー監修の語学教本に取りかかっており、キリーはリハビリを兼ねたストレッチ中だった。やはりこの剣士も尋常ならざる回復力を見せた。まだまだ大事が必要な段階だが。
「だったらどうしたよ?」
 命の恩人にも対応は不遜だ。アサは少しも気にした風もなく、逆に言いよどむように。
「ああー、いやな、何の報酬も望んじゃいねえが、どうせなら頼まれてほしいんだ。とりあえず聞いちゃくれねえか」
「大祭なら出ねえぞ」
「うおっっ!?」
 恐ろしい察しの良さでキリーがずっぱり切り返す。どうやらその通りの要請だったらしく、アサはがっくりと肩を落とした。
「やっぱりな、そうかよ・・・まあ俺だって頼まれたところで出たくねえしな・・・」
「悪ぃな。恩があるとはいえ俺たちも仕事中だ。ツグミから目を離すわけにいかねえんだ」
「・・・そうだな、ああ、諦める。でもま、余裕が出来たら考えてやってくれ。ついでに大暴れして派手に目立ってくれたらありがたい」
「ぜってー嫌だ。つーか出ねえって言ってんのに言うだけ言いやがって結構図太いおっさんだな・・・」
 窮状を救われ現在進行形で世話になっている人間の台詞とも思えないが、キリーは半眼になってわずかに目を伏せる。
 やがて後頭部を掻いて、いつしかじっとこちらを見ていたつぐみと目を合わせる。そして。
「わーったよ。ツグミの身の安全が確保された状態になって、気が向いたら考えてやるよ」
「おお、ありがとな!助かるぜ」
 屈託無くアサは、その返答に満足したようで笑顔を見せた。
「キリー、出る、ノ?エエト、おまつり?」
「まだ考え中だよ」
 きょとんとした顔のつぐみは、きっと向かうフェドレドでちょうど行われる月一の大祭が、強さの頂点を競う闘威大祭であることは知らないのだろう。
 キリーはあえて教えることでもないと思う(第一出場を決めたわけでもない)
 けれどつぐみもそこまで頭が悪いわけではなかった。キリーという剣士が、請われて何かの大会に出場するのなら、どういうたぐいのものになるのか、想像に難くない。予測は付くのだ。
「危険、なイ?」
「・・・ねえよ」
 単純な帰結とはいえ、つぐみの心配をキリーは正確に受け止めた。
 この少女は普段言葉が伝わらず、物静かでおとなしい気性だから、失念しやすい。弱くも愚かでもないのだ。
 性根はまっすぐで人の痛みに敏感である。物覚えがよく勤勉で、判断力も悪くない。
「ねえよ。てめえが心配する事なんて、万に一つも」
 心配なのは、つぐみ本人の身柄のみだ。
 他人を気にしてばかりで自分を省みない。そう言うところはバカだと思う。だから目が離せない。
 どう考えたって自分の方が少女より強いのだから、そもそも心配されるいわれがない。
 少し前までボロボロだった手前大きな顔も出来ないが。事実は事実だった。
 だから生意気を言う仕置きとして、乱暴に髪をかき回す。つぐみは両目をぎゅっと閉じながらも、笑う。
 こんなじゃれあいもここしばらく出来なかった。キリーは自分でも不思議なくらい心中が満たされるのを感じて自制できず顔をゆるめてしまった。
「ん、そういやサザは?」
 アサが思い出したように名前を出すと、つぐみがはたっと顔を上げてあたりを見渡す。もちろん見えるところにいるわけでもないが、その反応がキリーは何だか面白くない。
(・・・・・・ん?)
 珍しく自分の心の動きが理解できない。正しく分析できない。もやもやと胸に滞るものがあって、顔をしかめる。
 その間もつぐみはかけていた椅子から降りて、今にもサザを探しに行こうとする。
「いや、いいよ、勉強続けてな。ちょっと俺が見てくるぜ」
 アサが少女を遮って緩慢な動作で家を出て行った。残された二人は顔を見合わせるが。
 キリーは何だかしかめ面をしていて、首をひたすらかしげていて。
 つぐみも首をかしげるが、声をかけるのもはばかられて結局作ってもらった書き取り勉強に戻った。






 サザは一人、家の裏手にある山を少し分け入ったところにいた。
 余暇はいつも、剣の手入れに当てるサザだが、今はそれすらも出来ないためただ立ちつくしていた。思考していたわけでもないので、他人には異様に映ったかも知れない。
「ひとりが好きだなあ、お前さん」
 慣れてねえだけか。呼びかけて、独白を付け加えてアサが近づいていっても、サザは視線すらよこさなかった。
 ひとりが好きなわけでも、誰かと居たいわけでもない。
 サザはそれを自分自身でよく理解している。
 ただ、ひとりで居なくてはいけないのだ、それだけのことだ。
「何の用だ」
「俺っていうか、お前に要るんじゃねえかと、な」
 言いながら、背中の衣服に付き差していた長物を引き抜く。サザの目がようやくこちらを向く。
 黒の拵えの、直刀だった。
「お前さん、リビットだろう。鬼傭兵のリビット」
「・・・・・・」
 勇名も市街地に伝わればそんなところだった。鬼のように恐ろしく強いサザーロッド・リビット。いい子にしてなきゃサザーロッドが来るよ、そんなノリだ。
「そんなお前さんが丸腰じゃあ商売あがったりって言うか、格好も付かないんじゃねえか―――っていうかな」
 軽い口調で言いつのる風は少しだけラシードを彷彿とさせる。かの青年と違うのはこの中年男は物言いが婉曲に感じられる。
 ラシードはまっすぐだった。言葉が偽りだったとしても、そうとはけして思えない、思わせないような強さ、紫の瞳で相手を見る。
「っていうか、そんなんじゃなくてよ、持って行け。くれてやるよ」
 ずい、と突き出された刀が、サザの肩に触れる。完治したはずの右腕から、わずかな鈍痛が起こる。
「商売上がったりになるほど、剣も腕も折っちまって、そうまでして護るモンがあるんだろ、今のお前さんは。くれてやるよ、貫き通せ」
 ずい、と突き出され続ける刀と握られた拳を執拗に感じて、サザはひどく苛烈な目でアサをにらみ返したのだが、彼は決して動じることなく見返してくる。
 やがて折れたのはサザだった。短気に焦れたと言ってもいいが、刀を受け取ると大股でアサから離れる。
「余計な世話だ、アスラン・ヨーグ」
「・・・俺のことも知ってたか。まあ、そりゃあいいけどよ」
 刀を手に掴んだまま、サザはざくざくとさらに山へと足を進めていく。アサがそれを見送っていると、やがてその足は止まり、背を向けたまま静かに声が呟いた。
「・・・ネネが何か動いている。お前も何か関与しているのか」
 押し黙るように、長い、長い間アサは口を開かずいた。返答を待たずしてサザはその場から立ち去る。どこへ行くのか、また独りになりにか。
 ここに来た当初は少女から目を離さずに存在していたのに。
「サザ、あんたもか。あんたもあいつの正体を知ってやがんのか」
 絞り出すように、紡がれた声は。
 ひどくかすれ、ひどく冷えて。















(2009.1.15)

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