先ほどの、挑戦的な弟の眼差しを思い出すと腹立たしかった。
どういった思惑なのか、分からないほど愚かではない。愚かなのは弟だと思った。
いつまでも、どこまでも柔軟で、素直で、あきらめが悪い。自分にはないものばかりで構成されている子だ。
彼の思惑なんて、分かり切っているのだ。あの異邦人。彼をひとりにさせては自分を向かわせる。話をさせようとする。見え見えすぎる。
(・・・いない)
視線をさまよわせいくつもの角を曲がるが目立つはずの髪色は見あたらない。少し不機嫌になる心中を自覚しながら歩いていると、路地から慌ただしく男が飛び出してきた。
脇に抱えられた小さな荷物。血気盛んに見開かれた眼球。背後を気にしながら駆け出す様子に、すぐに事態が知れた。
早合点とは特に思わずに、反射的に呪を紡いでいた。目の前に飛び込んできた状況が不快だったから排除しただけ。それだけなのに。
腕にしがみつく小さなぬくもりは、彼女にとっても不可解なものだった。
小動物めいた体格とやさしげな顔立ちは、身近にいる黄色の少女を彷彿とさせるけど。
深い髪色と濡れたように湿る瞳の深淵は、違う人に近い。
それに、なに。
なに、この子の、深くて深すぎて、底の見えない、呪術の気配がする。だから取り繕うことも出来ずにきつい眼差しで見やったのに。
呆けたように見つめる眼差しはまっすぐに、きれい、と呟く。
とある少年を思い出させる、ちいさな少女。
11 三様
「あ、あの、あの、ありがトウゴザイマシタ、うれシイ、ワタシ」
我に返ったつぐみは真っ赤になった顔をどうすることも出来ず、まず真っ先にお礼を述べる目的を優先させる。
美しい少女はその容色を台無しにしてしまうほど、表情を険しくさせたままつぐみを見下ろしてくる。
いきなりしがみついて引き留めるなんてやはり失礼すぎたと思って、慌てて腕を放す。
「ご、ゴメンナサイ!」
「・・・別に、たいしたことじゃない」
素っ気ないが小さな声が返される。声もやはり清流を思わせる響き。耳に心地よい。
返答が、つぐみの謝罪に対してではなく感謝に対してのものだと理解して嬉しかった。
自然と顔に広がる笑顔のまま、ふるふると首を振る。鞄を抱きしめて。
「ワタシ、だいじ。ありがとウゴザイマシタ、うれシイ!」
改めて、ぺこりと頭を下げる。顔を上げると少女は、少し表情の険を解いていて、じ、とつぐみの顔を見つめてくる。
顔に熱が上るのが分かった。ぱっと見て綺麗、というのなら分かるけど、見れば見るほど綺麗な人は本当にとんでもない。
最初は見とれて見入ってしまったが、こちらを見つめられると照れてしまってうつむきたくなってくる。
「あなた、外国人?」
「・・・あ、ハイ」
慌ただしかった心中がとたんぎくりとした。喋りすぎた、怪しまれてしまったか。
こちらの世界では違う国でもほとんど同じ共通語を話すものらしいのだ。つぐみほどつたない人はいない。
「名前を訊いても?」
どくん、ともうひとつ、鼓動が波たった。どうしようどうしようと頭はぐるぐると回って。つぐみはごめんなさいと罪悪感に苛まれながら、半分だけ嘘をついた。
「ツグミ・・・リビット」
「リビット?」
すぐに、何でサザの姓にしたのと自分を責めて、その選択にひとりで赤面する。サザは王都では有名人だって聞いたばかりだ。せめてキリーのクアンドラを名乗るべきだった。
(キリーの名字は長くてちゃんと覚え切れてなかったのだけど)
そう、そうだ、キリーが彼らを姓で呼ぶから。覚えてしまったのだ、リビット。
「・・・そう、ツグミ。変わった名前ね」
「う、ハイ。言葉へたくソ、ごめんなサイ」
一度はリビットの名を不審に思ったようだが何の追求もされなかった。慌てて話を逸らそうと必死に言葉を綴る。どうせなら言葉の不自由な子なのだと思ってもらえた方がいい。
普通に考えて、まさか異世界から来たとは思われない、だろう。
「構わないけど・・・」
「あ、アリガトウ。エエト、おなまえ?」
見たところ同じ年頃の少女に見える。それでも控えめに尋ねてみると、青い瞳が瞬いて、ぽつりと答えてくれた。
「・・・アニエス」
「アニエスサン」
綺麗な名前だと思って笑顔が浮かぶ。口に出してみると不思議な違和感があって、言い直してみる。
「アニエスちゃん」
「・・・・・・」
微妙な顔をされてしまった。
うん、でもしっくり来る。アニエスちゃん。
「・・・ツグミ、あなた・・・」
ひったくり犯が逃げ込んだこの路地は、さすがに人気がない。先ほどまで感じられていた喧噪が角をひとつ曲がっただけでずいぶん遠いようで。
気がつけばあたりにいるのは二人の少女だけだった。スクリーンはつぐみの上空で伺うように旋回している。何かを見つけたのだろうか、何かの理由があって下りるのをためらっている?
(スクリーン?)
見上げて、青い鳥を伺おうとした。あの子がいるだけでも感じる心細さは全然違う。
目の前の少女、出会ったアニエスから危険は感じられないけど、やはり不安はぬぐえない。少し不審に思われたことは確かだろう。
「!??」
と、全身をこわばらせてしまった。アニエスが手を伸ばしてつぐみの首に触れてきたのだ。
ほっそりとした、作り物めいて整った指は当然だが温度があって、嫌悪感はないのに、でも、背筋から這い上るのは、寒気だ。
「・・・や、やダ」
「・・・いきなり失礼したわ。首の後ろを見てもいい?」
「エ」
身をよじらせて声を震わせると、アニエスはすぐに手を引いてくれた。けれど続けられた言葉にきょとんとする。
首の後ろ?うなじ?そんなところを見てどうしようというのか。
つぐみは自分のうなじなんて、風呂場でさえ確認することもあまりない。普段は癖のある髪に隠されている。
そして、少しの間を置いて息を呑む。自分の身体が今、果たしてどうなっているのか。
(首の、後ろ・・・)
「・・・・・・ごめんなさイ。だめなノ」
つぐみは出来るだけ無力で無知な子供を装って、ぷるぷると首を横に振る。怖がっているように伝われば、きっとこの少女は無理強いはしてこない。
(でも、本当に怖い。怖いよ、なんで)
身体に走る線は、手首から先と首もとから上は描かれていなかった。けれど、うなじ?
人間の急所のひとつ。そこはまだ、つぐみは知らない。どうなっているのか。
確認したくもないけど、確認しなくてはいけない。逃げないと決めた。
でも、この少女を、綺麗なお姫様を、どういう形であれ巻き込む危険性を考慮しなくては。
もしかしたらこの女の子もふしぎに詳しい、アサと同じような呪術師なのだろうか。つぐみの身を案じて気にしてくれたのかも知れないけど、だったら尚更知られないようにしなくては。
「アニエスちゃん、アリガトウ。ワタシ、帰ル」
いささか唐突なような気もしたが、これ以上の交流は良くないと判断する。
本当は、もっと色々お話ししたかったけど。友達に、なれたらと思うけど。
今の自分はそのどれも望むべきではないと思う。
「あ・・・」
引き止める呟きが聞こえたが、気づかないふりをしてくるりと踵を返す。せっかく出会えたのに自分から離れるのは心が軋むけど。
「ぴいいっっ」
頭上で、高い鳥の声が響いた。はっと見上げる、そして反射的に、少女の居た背後を振り返る。
今度こそどくん、と心臓が波打った。
(・・・ああ、やだ、いやだ、どうして、キリー)
どんなときでも、真っ先に名前を浮かべてしまう、それは反射的。昔はただ姉の名前だったのに。これは現金な性根の表れなのだろうか。
今現在助けてくれる人にただ縋るだけの、他力本願な自分。
「こんな所にいやがったか」
ぽつりと零される言葉。忘れはしない、知っている声。わずかにかすれた、通る声。
けれどここは薄暗い洞穴内ではない。陽もまだ高い、王都の路地。
助けて、と心が求める、本当に救い出してくれるのを望んでいるわけではないと思う。
つぐみにとってはおまじないみたいなものだ。唱えるだけでほんの少し、勇気をもらえる、
まるでかみさま、みたいだ。
ゆっくりと振り返るアニエスのさらに奥の路から、細身の男が歩いてきていた。
服の端をぎゅうと握りしめて、高鳴る鼓動に耐えきれず、つぐみは橙の瞳を求める。
今現れる、冷たいそれではない、まっすぐ自分へ向けられる、硬質なあたたかさを持つ、彼の。
(サザ、サザ、怖いよ・・・っ、サザ)
つぐみはぐっと歯を食いしばると、足を震わせながらも何とか動かして駆け戻る。
なぜか立ちつくしてしまったアニエスの腕を引っ張って、割り入るように自分の背にかばい男と対峙すると、本当に目の前に来てしまった。
すぐ、そこに。
明るいところではじめて、その姿を見上げた。思ったよりもその身長は高くなく、キリーよりは確実に低い。つぐみよりはずいぶんと高いのは変わりがないが。
癖が強いようで、柔らかそうに見える短髪は風にところどころ乱され跳ねている。灰色だ。ものを燃やしたあとに積み上がる、白に近い灰色の髪。
やはり女性的な容貌で、橙の瞳を彩るまつげが長いのも視認できる。はっきりとした顔立ちの、綺麗なひとだと思った。男性らしさとは違うけど、きっと性別問わず人目を引くだろう。
アニエスを目にしたときと違い見惚れる暇もなく緊迫しているため、つぐみはただじっと見据えて息を詰める。
彼もまた、険の強そうな眼差しをつぐみへと向けて、唇を引き結んだまま。
きっと、笑顔のひとつも浮かべればどんな人の心も手に入れてしまうような外見をしているのに、表情とか雰囲気だけで障壁を作ってしまう。
アニエスも、このひとも。少し惜しいという思いが浮かぶけど、今はそれどころではない。
「・・・ノースゼネ・カーロ・・・」
つぐみの背後で、押し殺したアニエスの呟きが聞こえた。
それが名前だと分かったのは、見上げている青年がふと形の良い眉を上げて応じたからだ。
「俺の名だな。お前誰だ?」
びくり、とつぐみの肩が震えた。それはウルスの地下でも問いかけられたものと同じ。
「・・・・・・アニエス・ヴァリアン」
問いに答えなければ今度はアニエスが傷つけられる、と恐怖に焦るが、背後の少女はあっさりと名乗りを述べる。
「聞かねえ名だ」
ぽつり、返された声は素っ気ない。とたん激しい何かの奔流が、背後で立ち上るのを感じてつぐみは振り返った。
「アニエスちゃん・・・!」
見たところ何も変わったところのない少女が、激しい動揺に揺さぶられ不可視の力を発しているのを感じ取れた。
以前はよく分からなかったつぐみも、少しはもう分かるようになっている。これが呪力なのだ。やはりアニエスは呪術師なのか。
「知らない、というの。ヴァリアンを。この名を、あなたは忘れたと」
ひどく押し殺した低い声で、アニエスが呟く言葉をつぐみはきちんと聞き取ることが出来た。
その声が痛い。青ざめて見開かれた瞳が、傷つけられて痛みに耐えている子供のそれにも見えて。
「私は忘れない、ノースゼネ・カーロ。貴様の顔と名前は忘れない・・・」
「アニエスちゃん・・・!」
アニエスから立ち上る呪力と、切迫した表情。どういう事情かは分からないが放っておくことが出来なくて、つぐみはとっさに腕を伸ばす。
彼女が彼相手にひどく怒っていることは分かる。何か因縁があるのだろうということも。
けれど、だめ。
(この人は怖い。とても怖いもの・・・!アニエスちゃんまで怖くなっては駄目!)
きっとその先は、つぐみがもっとも恐れる展開しか訪れない。一度かいま見た、恐怖。
血。誰かが傷つけられる、手酷い暴力をきっとこの人は容赦なく行う。
だからつぐみは、今まさに怒りをたたえ力を高めつつあったアニエスに、ことわり無く両手でしがみつく。抱きついたのだ。
「なっ・・・」
当然動揺したアニエスは振り払おうとするが、つぐみのあたたかさに自分でも信じられないほど全身から力が抜けていく。
高めたはずの呪力が、強制的に自らへと還元されていってしまう。
(なに、なんなの、この娘は)
それだけではない。いつものアニエスならつぐみを突き飛ばしてでも目の前に現れた男へ攻撃を仕掛けるところだった。
けれど、この少女がくっついているだけで、暴発寸前まで沸騰していた気持ちがなだめられてしまう。
脱力、させられる。これは、何かの力が関与しているとしか思えない現象で。
呪術師であるアニエスにも、正体がつかめない。未知すぎる感覚に引きずられる。
「・・・・・・っ、・・・!」
だから、少女を引きはがすことも出来ず喘ぐようにただ。目の前の男を睨み付けるしかできない。
いるのに、私の、この私の目の前にあの男が!いるのに!何も出来ないなんて!
アニエスの激しさに対して、男の表情は涼しげなままだった。怪訝に細めた橙の瞳が、少女を興味深げに眺め、やっとアニエスを映して。
「ヴァリアン、そういやそんな名前だったか・・・命拾いしたな、お前」
何かに思い当たったように、それとだけ零す。
「殺した人間の名前を、いちいちひとりずつ覚えていると思うか?お前みたいなのが次から次に蛆( みたいに湧いてきやがるってのに」
「・・・・・・!」
つぐみに抱きしめられたままでも、アニエスの心に火がともるのは簡単だった。
「カーロ、ノースゼネッ、カーロ!貴様、きさま・・・っ」
「お前ら負け犬は、そうやってずっとほざいてろ。見事俺を殺せたら、名前を覚えて地獄だろうが墜ちてやるさ」
「やめテ!アナタひドイッ!」
言葉遣いの酷さよりも、思いやりのなさ過ぎる単語の羅列につぐみもむっとして言い返した。
「言われなくてもやめるさ。伝えたい言葉なんざこの世にひとつきりもねえ。俺に死ねというヤツがいるなら死んでやる。殺されてやるに足るヤツがいたらな」
ああやはり、少し難しい言い回しでつぐみは聞き取りが困難だ。けれど退廃的な発言をしているというのが分かる。死ぬとか、殺すとか、物騒な。
「何、来たノ!」
声が震えに震えていても、つぐみは少し語気を強めて問いかけた。本当に、何しに来たのかの目的がつかめない。
以前は迎えに来ると言っていたからその時が来たかと思っていたのに。
「ああ?顔見に」
「・・・・・・・・・」
ぞんざいに答えられてしまったつぐみは返答に困ってしまった。
顔を、見に?
それは、一般的に安否を確かめる、という意味合いで使われる言葉だ。
「・・・・・・ワタシ、へいき」
「見りゃあわかる。この辺にいろ、あまり王都を離れるんじゃねえぞ」
一方的に言いつけて、男はくるりと背を向けてもと来た方向へ歩いていった。
明らかに、彼は今回のことの首謀者であるのだろう。つぐみがいまだ抱えたままの疑問を、丸ごと答えてくれるかも知れない。
けれど相変わらず足がすくんで、全身が汗に濡れて、そんな行動に出れる状況ではなくて。
抱きついたアニエスが、今やつぐみが支えていなければいけないほどに打ち震えているのが分かって、動けるわけがなかった。
「アニエスちゃん、アニエス、ちゃん・・・いなイヨ、アノ人」
つぐみの肩に顔を押しつけて、少女はがくがくと、震えている。先ほどまでの激しさはどこにもなく、自身の荒波に耐えているような。
かけられる言葉が、なにひとつ浮かばなかった。背中をやさしく撫でながら、すがりついてくる身体を抱き留めるしかない。
「・・・アニエスちゃ・・・」
呼びかけようとして、つぐみは口をつぐむと、ぎゅっとアニエスを抱きしめる手に力を込めた。少女が泣いていたから。
小さく小さく、父さま母さまと呼んでいるのが、聞こえたから。
震える少女を少しでも暖めたかった。
宿を出たキリーの足取りは自然速くなった。
ザグルのいない街中とはいえ、ラシードと合流しておらずこの城下でのつぐみの安全性が約束されるときまで、一時でも離れるべきではないのだ。
キリーには時間がなかった。けれどしなければならないことは存外多い。
「強そうな剣士さん、あんたも出場かい」
様々な武具を取り扱う店先で、物々しい男達の集団がたむろしている。
足を止めしばし観察していると、店のものと思われる顎髭の男が声をかけてきた。
出来るだけ愛想良く答える。興味を引くように。
「まあね。しかし着いたばかりで事情が分からないんだ、どうしたら参加できるんだい?」
「見たところ外国の人だね、兄さん。国内のものなら登録があれば18歳以上は誰でも。外国人はちと難しい。身元を明らかにする証書が必要だよ。あんた、金持ちの知り合いはいるかい。役人とかでもいけるんだろうが」
人が良いのか暇なのか、男は詳細に教えてくれる。キリーはいかにも弱った顔をした。
「そうか、参ったな。俺は腕にはかなりの自信があるんだが・・・どうにもこれといったアテがない・・・今からでも後ろ盾になってくれる人はいないもんかね、稼ぐぜ、俺」
挑戦的に笑うと、男は眉をひそめ、しいっと沈黙を促して声を落とした。
「あんまり大きな声でそんなこと言うんじゃねえぜ、兄さん。お国じゃどうかは知らないが偉人祭の催しじゃあ賭のたぐいは御法度だ。って、表向きじゃあなってるんだ」
付け加えられた一言に内心笑みを深める。そんなことは承知である。
「何せこれだけの祭りだ、普段お上品な晩餐会なんかに飽いた第一層の資産家はけっこうな投資をしているらしい。賭けた選手の一勝ごとに他の資産家が支払うだとか、試合ごとに土地や財産を賭けるだとか、真偽は定かじゃねえがここ数年間違いねえだろうって話だぜ」
「へえ、ここ数年」
「陛下の治世はこれといって悪かねえが規制が甘いのさ。その目をかいくぐってうまい汁を吸おうとするヤツとかズルするヤツが増えてるんだ」
事を大っぴらにすれば露見するため、目に余るほどではないが、少しずつ上層部では汚点が増加傾向にあるのだという。
ま、俺らにしわ寄せが来なけりゃ些細な問題さと男はひとりで締めくくって、そういやあんたの話だったなと勝手に話を戻してくれた。
お喋りな男に捕まったものだ、いきなり当たりを引いたらしい。
「そういやうっかりしてたな、大祭の開会式ってヤツあ実は今日、今まさに行われてるんだが」
キリーは思わず顔をしかめた。どうりで人通りがまばらだと思ったものだ。
「まあ聞きな、参加登録者の出席が義務づけられていない、いわゆる儀式的な開会式なんだ。で、参加者の最終受付が、確か今日中だったはずだ。兄さん、ちいと来るのが遅かったな」
何も言わなくても男はしゃべり続けてくれる。下手な相づちを打たずにキリーは腕組みをして男の話に耳を傾けることにした。
「今から身分を証明してくれる御仁となると限られてくるぜ?まあ会うことも無理だろうがこの王都じゃあ大臣家のカステル伯爵夫人か、夜蝶男爵と名高いアレクセイ家か―――」
どれも名だたる第一層の(クォでは権力を三段階に分別している身分制度がある)、金持ちなのだろう。キリーはそのひとつひとつを脳裏に記憶していく。
「あとは、うーん、呪術師名家のカレイスも、もしかすると興味を示してくれたらいけるんじゃねえか」
キリーは、ひとときだけ、目を伏せた。
「まあ、今日中っつったってあと五木(約十時間)はあるな。大物のガリバスの首でも狩って戻ってくれば、証明書を用意してくれるんじゃねえか」
冗談めかして男はキリーを励ますように背中を叩いてくる。きっと今年は諦めた方がいいと思っているのだろう。
獰猛な牙を持つガリバスだろうが、キリーの敵ではないが。そもそも大祭出場が目的ではないので愛想笑いを浮かべておく。
「ありがとよ、ためになった」
「いやいや、もしあんたが出場できたら、賭けさせてもらうからな。ははっ」
そりゃあ賢明だ、ボロもうけできるぜ。
キリーはひらひらと手を振って店先を離れた。庶民達の間でも、たわいのない賭け事がひそやかに行われているのだろう。きっとその金額は今夜の飲み代分とか、小遣い程度のものだろうが。
しかし、先ほど名の上がった連中は違うだろう。一夜ごと、日ごとに、この数日、ひと月で莫大な金が動くことに違いはあるまい。
クォ・ドラ・アーシェンテ。呪術で栄えた錆び付いた北方の国。
もし自分が国の主であれば、こんな国すぐに攻め滅ぼしてやるのにと、荒む感情がひととき蠢く。
と、キリーの真横を十代の半ばほどと思われる少女達が、はしゃぎ笑顔で走り抜けていった。自分には、と言うか、生まれた国では見られない、この時を無条件に楽しむ明るい空気。先への不安や他人への猜疑心など、何もないような。
ふと、つぐみの笑顔が脳裏に浮かんでいた。たいしたところのない容貌の娘で、浮かべる表情は笑顔よりも憂い顔の方が多いけれど。
思い浮かべるのは笑顔だった。つぐみのことを思い出すと、先ほどまでの、いつも通りの自分が少しだけなりを潜め、心中が穏やかになる気がした。
キリーは苦笑を浮かべる。それはおかしな話だが、すんなりと納得してしまう、自覚だった。
(俺も、バカか。手に入らねえモンは要らねえってのに)
自分も含めて、何もかもがどうだって良いものなのだが。
どうだって良くないものが、どうやらまだあったらしい。
やはり若干の釈然としない思いを抱えたまま、キリーは踵を返した。宿へ帰ろうと思ったのだ。娘の元へ。
自嘲じみた笑みを口元に浮かべていた。その表情が、顔を上げたとたんにしかめられる。
他に見間違えようのない、恥ずかしいほど真っ青な髪が目に入ったからだ。
「セッテ」
「無事で良かった、キリー。他のみんなは・・・宿、か?」
その反応をまるで介さずに、長身の男は台詞通りの笑顔を浮かべて寄ってくる。
キリーは今やすべての元凶かと思うくらいラシードを不審の目で見ている。そのくらいで警戒を解くわけがない。
「旅の疲れが残ってるかも知れないが、時間がない。頼む、話を聞いてくれないか」
「お前の頼みは薄ら寒いから嫌だ」
いつもへらへらとしまりのないラシードの表情が、こわばり緊迫さを増したが、キリーは即座に冷たい声を返す。蒼い髪の青年は引き下がらない。
紫の瞳が強い意志を秘めている。その奥には必死さと言うよりは、決然としたものが伺える。
(へえ、こいつこういう目もしやがるか)
おそらくはこちらが本来のラシード、とキリーは思った。だから少しだけ耳を傾ける気にもなる。
「サザでもいいが、出来れば君に頼みたい。闘威大祭に出場してくれないか」
(君、だとよ)
またかと思いながら、向けられる人称に嗤いがこみ上げる。
「お偉いさんの後ろ盾がなきゃあ、今日中の登録は難しいんじゃあないですかねえ、セッテのだんな」
揶揄する言葉を連ねて返すが、声色はいつも通り、淡々としたキリーのままだ。
少しもひるんだ様子がないラシードは言葉を連ねる。
「エイギルの要請だ。護衛役の実力を明らかにしろ、と」
「見せ物になれって?そんなまどろっこしいことするまでもねえ、なんならエイギルさんとやらの屋敷にいる護衛役、茶の湯の沸く間に皆殺しにしてやろうか?」
キリーはここに来てラシードへ、追及の手をゆるめる気はなかった。だから自国にいるような物騒な台詞もすらすらと口をついてでる。
「ひとの命がかかっている」
対してラシードも、顔色ひとつどころか眼差しも揺るぎもしない。やはりとんだ狸だ、フェイ人らしい。
けれど絞り出した、と言ったような声が、わずかに震えて場に響く。声はけして大きくはない。あたりに聞きとがめられないよう、落としているのだろう。
「・・・人質か?」
嘲笑を引っ込めて、キリーは眉をひそめた。
「・・・・・・・・・」
目だけでラシードは肯いた。どうしようもない憤りを押し込めた、真実の顔をようやくかいま見た、と思った。
「来い」
キリーはラシードを促して、陽の届かない路地へと向かう。誰の関心も向いていないと確かめると、蒼い男を見上げ、睨み付けた。
「ここまで来て隠し通せると思うなよ、全部吐け」
「キリー」
「全部だ、全部。拒むならこの国なんざ知ったことか。ツグミかっさらって俺は国に帰ってやる。どこにいたってあいつの利用価値なんざごまんとある」
つまりどこに逃げたところで、彼女にまとわりつく危険は無くなりはしないだろう。
しかしここにいるよりはましだと思えた。この胸くその悪い国で、無辜( の娘が巻き込まれ傷つくよりは。むこ )
「キリー」
ラシードの表情が、わずかに落ち着きを取り戻したように見えた。諦念、だろうか。
肩の力を抜いたように映ったが、油断はしない。
「言えない。言うと俺以外のひとが危険になる」
「ああそうかよ、じゃあな、短い間だったが達者でな」
即座に決別を告げて、踵を返したが隠している事実だけは明らかにした男に、わずかに溜飲は下りた。
「代わりにはならないが俺の命をくれてやる、キリー」
だから、小さいはずの、背中にかけられた声に、足を止めてしまう。
「ああ?」
険しさを隠しもせず、にらみ返して振り返る。ラシードは笑っていた。今までに一度も見せたことのない、笑み。
「エイギル氏はツグミの身柄と、もうひとりの人質と引き替えに大祭で好成績を残すよう言いつけてきた。実力のある戦士を欲しているんだ。それに今回の大祭。確実に勝てる選手を有していれば莫大な資金も手に入る」
呪術師の端くれだというエイギル・カレイスが、研究資金その他に費やした財産はかなりのものだった。今回の大祭は千載一遇のチャンスと言うことだ。
「言えることもあるんじゃねえか。そう言うことを先に言え」
舌打ちして、キリーはもとの立ち位置に歩いて戻る。で?と紫の瞳を見上げる。
「命をくれてやるってのはどういう了見だ」
「文字通り、俺の命に関わる情報を明かしてもいい。察しの通り俺は絶壁の身だ。俺自身以外を、危険にさらすわけにはいかない。ふところ寂しくて悪いね」
淡々と告げられた言葉に、キリーは鼻すら鳴らして、見据える視線に厳しさはそのまま。
「お前が死んでくれたところで俺には何の得もねえけど」
「それもそうだな、けれど切り札にはなるかも知れない。俺はこう見えて顔が広いんでな」
まあそうだろうな、キリーは自分よりも自国からの待遇が篤いと確信している他国人を見やる。身分は知らないが、クォで言えば第一層に迫る権力を与えているだろうとは容易に想像が付いた。
「俺が途中で負けたらお前は寿命の縮め損だな?」
「そんなことにはならない」
断言するラシードの声が心なしか弾んでいるように聞こえて腹立たしい。わざと負けてやろうか。
「・・・俺はカレイスとやらに飼われる気はねえ」
「キリー?」
「てめえのちんけな個人情報なんざいるか。自分の命を自ら晒すバカが俺は反吐が出るほど嫌いなんだ。だが出場してやるよ」
ラシードの顔色がさっと変わる。それこそ苦虫をかみつぶしたような。それを見届けられてキリーはいたく満足そうに笑った。
「すべて終わったあとで良い。俺のいうことをひとつ聞け。条件はそれだけで良い。もし拒むなら出場も無し、俺は消える。もし破ればてめえの大事なモンを暴いてひとつ残らず潰してやる」
凄惨な物言いを、笑顔のまま向ける。ラシードから返される、間違いようもないような殺気もなかなか。
(こいつやっぱ食えねえ狸だ)
これだからフェイ人ってやつは。
「・・・なぜこうもあっさりと出場を決める」
「てめえ人質が他にもいるっつったろうが。目立つのは心底いやだがしゃあねえ、カレイスさんとやらに強さを見せつけりゃあいいんだろ」
「・・・・・・」
低い、凄みを帯びた問いかけに、キリーはあっさりと返してきて。逆にラシードは眉根を寄せて困ったような心地になってしまった。
それだけ?
「・・・君の要求が、何かによる。その条件は」
「あー、じゃあ質問で良い。全部終わったときに俺の質問に答えろ。正直にだ」
「・・・・・・その内容によって解答のしようも変わるだろうけど、分かった。頼むよ」
「おし、商談成立な」
「・・・本当に、俺以外の無関係の誰かを狙うなんて事をしてみろ、恩があろうとも許さない」
どこかすっきりとした表情のキリーと違い、ラシードが緊迫感を残したまま、低く落とした声で呟いた。キリーは笑う。やはり、笑って。ただしそれは冷たく凍えたもの。
「てめえ何言ってやがる。俺と約定した。ただそれを護ればいいだけの話だろうが」
伸ばした指先が、長身の男の首もとを捕らえる。
顔を寄せて、端から見れば仲睦まじい男女の、いや男性同士の怪しい光景に映るのだろうか。
ラシードは一歩も引かない。身じろぎもせずまっすぐに視線を見返して、キリーの言葉を品定めするように。
「・・・そうだな、君を裏切らない」
「そうだよ。それだけ護ってろ。それこそ俺の台詞なんだよ、てめえみてえな人種が一番嫌がることをよおく知ってんだぜ、俺は」
「・・・君こそ」
ラシードがようやく、本来の表情を浮かべて、気が抜けたように笑う。
けれど、その声色は。
「俺を裏切ってみろ。それなりに思い知らせてやれるから」
低く、冷たく、髪色のように温度がない。
クク、と嗤い声を上げて、キリーは一瞬だけ男の耳朶に歯を立てる。
子供同士のふざけあいのような、無垢な小娘をからかうような、軽い気持ちだ。
「そんなことするんじゃない」
それに対して本当に、小娘のように、すねた物言いでラシードがたしなめてくるので、キリーは声を上げて短く笑った。
宿を離れてサザの足取りは淀みない。特に目的地はないが、足は人気の少ない路地へ、特に閑散としている、北通りへと向かう。
視線は、王都入りを果たして間もなくから絶えず感じていた。それだけなら別段どうと言うこともない。
「サザーロッド・リビットさんよ。久しぶりじゃねえかよお、オカエリい」
声が耳に届いたが、サザは無視して進み続ける。舌打ちとともに幾多の足音が追ってくる。
「大祭参加か?悪いがてめえの出る幕なんざねえ。これ以上有名人になっても困るだろ、なあ?」
くだらない、と思う。だからフェドレドに近寄るのは嫌なのだ。しかもこの時期に。
この護送依頼を受けたときも、まさか開催時期までかかるとは思っていなかったし、送り届ければすぐ立ち去るつもりだった。だから現在、厄介なことになっている。
「どうやら傭兵仕事中じゃねえ?別段ここじゃなくても金は稼げるだろう、分かったらとっとと出て行きな。今なら痛い目見なくてすむぜ」
人気のない方向へ進めば進むほど、物々しい気配が増える。今やサザの行く手が阻まれるほど、四方を囲まれている状態だと知れる。
理解は出来る。口でいくらサザが出場しないと告げたところで、この時期彼の滞在がどれだけ波紋を起こすのか、だからといって従う道理はない。わずらわしい限りだ。
「用があるなら早くしろ、お前らにつきあってやるほど暇じゃない」
ようやくサザは足を止めて口を開いた。本当は相手にするのも面倒だが、一度黙らせておかなければこういったものは際限なく助長する。
「へ、出て行く気はねえってか」
ただでさえフェドレドでのサザの評判はひどいのだ。金持ち連中はこぞってサザの手腕を求め、あわよくば専属で契約を持ちかけてくる。同業者が煙たく思いこそすれ歓迎ムードになるはずもない。
事実十代の頃に、サザはそう言った経緯で望まぬ形で有名人になっている。現在はかなり辟易としていて、地方での活動が増えていたのだが。
「俺たちが束になったところで敵わねえのは知ってるよ。だが、さすがのリビットさんでも、これだけの数があれば、どうかな?」
「・・・・・・」
臭気が立ちこめていたので驚きはしない。さすがに呆れはするが。
街の外で捕らえてきたのだろう、王都ではあり得ないほどのザグルが、四方から姿を見せていた。
小物ばかりだ、暴走を防ぐためか前足には銀の呪術環。この群がりには呪術師の傭兵も混ざっているらしい。ザグルを操る才を持つものもいると聞く。
「こんなものか」
サザは零してあたりを一瞥だけした。ザグルと傭兵が一度に襲いかかってきたところで嬲られるわけもない。たいした驚異にはなりえない。
「落ち着くのはまだ早いぜ、この奥にはまだまだわんさと控えてるさ、底知らずの体力が、どこで尽きるか見物だな」
優位を信じているらしい、取り囲んでいる男は鼻息荒く言い放つ。体力が、尽きる。
面白い言葉を聞いた。サザはにこりともしないが。
サザローッド・リビットは過去に、三日間不眠不休でとある凶暴なザグルの種を根絶やしにしたことがあった。
サザが疲れるとなると、それこそ王都中の生き物を犠牲にさせるほどの規模、障害を用意しなければならない。
むしろある意味で気疲れしそうだ。こんなばかげた絡まれ方を、あと何度、滞在中。
「それともお前が護衛しているという娘、さらってこいつらの餌にしてやるか?名だたる傭兵の仕事に傷を付けるのも魅力的だ」
「それもいいな。おい、西地区にたむろってるヤツに伝えてこい、リビットはここで足止めしておくからよ」
とたん、凪いでいたサザの瞳に、劫火を思わせる火がともる。
ひとり残らず殺しておかなければならない。
指一本たりとも触らせたくはなかった。
(2009.2.28)