夢の中の小鳥は、何かを探し求めてずっとぴいぴいないている。














13 願望








 ただでさえ不健康な少女が身体を壊すのはあっという間だった。
 大変な病気にかかっていると言うことでもないけれど、三日間寝込んでものも食べず口を開かず、うつろな瞳でほとんど寝たきりで過ごしていた。
 約束通りキリーは大会に出場して、難なく勝ち進んでいるが、それ以外はほとんどつぐみの側にいるようにしていた。
 ラシードはキリー不在時は欠かさず駆けつけて側にいてくれた。手を握って子守歌を歌ってくれる。それで浮上してはいないけれど、比較的寝息が安らかに落ち着くのだった。
 母親からむりやり引き離されたちいさな子供だと、つぐみの状態をラシードは思った。
 全くないとは言わないが、色恋の話にいたるには、二人にはまだまだ早い。情緒不足と思うほど、幼くすら感じた。
 だからこそかわいそうで、やりきれなくて、すこしで良いから何かものを口にして欲しい。
 こうなると、サザの方もすこし心配になる。殺しても死なない丈夫なひとだと知っているけど、身体の中まで丈夫とは断言できない。
 やはり同じようにものも食わず眠らずの状態であるような気がした。
 そんなになるなら離れなければいいのにとは他人だから抱く感想なのか。そこまでしてでも、サザはつぐみの側に居続けることが出来なかったのだろう。
 嫌いだから、ではない。嫌いではないから。
 そう思うとほんの少しだけ、サザの気持ちを理解することが出来る。
 つぐみにとっては勝手な言い分だろうけど。



 四日目の朝、つぐみがベッドの上に身体を起こしていた。
 いつもは手つかずで戻されてしまう薬草入りのおかゆを持って、ラシードが顔を見せ、笑いかける。おはよう、と告げると、小さく反復された。かすれた声。
「食べる?すこしだけでも」
 うん、と頷くので、ほっとしてとびきりの笑顔を向ける。
 ごめんね、ごめんねラシード。繰り返しながらぎこちなくさじを口に運ぶ様子が痛々しかった。きっとむりやり食べようとしているのだろう。
「無理しなくていいよ、全部食べなくて良い。少しずつで」
 ゆっくりとつたえると、もう一度頷いて、結局三口食べて、もう気持ち悪くなるらしかった。ラシードは器にふたをした。
「ちゃんとすル。ごめんね」
 ずっと寝ていたのでけだるさは残るが、瞳だけは毅然としていた。
「だいじょうぶ。キリー、ラシード、いるモノ」
 はにかむように笑いかけられてどうしたらいいか解らなかった。
 ちいさな手のひらを握りしめた。にぎりかえしてくる指先は、やはりたよりない。
「ツグミ、そう言えばお医者さんに来てもらってるんだ。念のため診てもらおう」
「え」
 ラシードが少し笑みを深めてそう言う。つぐみはそんな大袈裟な、と目を瞠るが、ちょうど扉がノックされ、勿体ぶるようにして現れたのは。
 どこからどう見てもアサだったので、つぐみも思わず脱力して笑ってしまった。
「よう」
「おひさしぶリデス、アサさん」
 大きな手のひらで頭を撫でられた。少し気持ちが悪くなったけど抵抗せずに目を細める。
「じゃ、俺は隣にいるから」
 ラシードが席を立ってしまって思わず視線で追ってしまう。続きの間なら、確かにすぐそこなのだが。
「俺は医者だと思いなツグミ。すぐ済む」
 別れたときと変わらずそのままでも、外出用らしい上着を羽織ったアサはやはり畏まっても見える。
 大きな手が伸ばされて、つぐみの頭のてっぺんから指で押しながら、探っていくようにさすられる。
「・・・っ」
「特に痛いところがあったら言え、な」
 ひたすら頷く。アサに触られても特に嫌悪感は湧いては来ないのだが、やはり不安になる。
「ワタシの、変、調べル?」
「そうだな」
 偽り無く答えてくれて嬉しかった。やはり普通の触診ではないのだろう。
 手は少しずつ下りていって、頬を撫で、首を押される。澄んだ少女の声がふとよみがえった。首の後ろ。
「・・・っや!」
「痛むか?」
 そうっと触れているだけなのに、心臓を鷲掴まれたような緊迫感と苦痛がつぐみに襲いかかっていた。
 アサは注意して、肌に触れないよう後ろ髪を上げ、つぐみのうなじを晒してのぞき込む。
「・・・核だな」
 意味が分からなくても、その単語にぞっと身震いがした。
「どぅ、なっ・・・?」
「ああ、大丈夫、心配すんな。何かなってるわけじゃねえ。しかしそうか。解ってきたぜ」
 つぐみの震えが収まらないのを見て、アサはもう一度頭を撫でてなだめてくれた。
「今日はこれぐらいにしておくわ。にしても嬢ちゃん、メシはちゃんと食えよ」
「ごめんなサイ・・・」
 ひたすら萎縮してうなだれる。こうして心配をかける事が解っているのに、今まで寝込んでしまった自分の駄目さに顔が赤くなった。
「謝んな。大丈夫だよ、お前まだ生きてるんだから」
 あっけらかんとした調子でいきなり言われてきょとんとした。
「サザのことは聞いた」
 その名前が出てくるだけで顔が歪んだのが解る。だめ、考えない。
「だーかーら、いろいろ我慢する必要はねえって話!そんなに会いてえなら早くメシでも食って元気になって追いかけて捜せばいい。会いたいって気持ちがある限りあいつが逃げようが拒もうが好きにやったらいい。ツグミは少し他人に遠慮しすぎなんだよ」
「・・・・・・だって」
 えんりょしない、ってどうやればいいのだろう。
 もう会わないと言われた相手に会いに行くとか、まるで考えられない発想だ。
 迷惑をかけることは出来ない。捨てられるのが怖かった。これ以上、嫌がられることはしたくない。
(捨てられた・・・そうか、失恋した時ってこういう気持ちかな)
 どちらかといえば飼い主に捨てられた犬とかの心境に近いと思うけど。
 それは確かにこの世の終わりに近いかも知れなかった。なおさら犬の方が近そうだ。
「ぜつぼう、って、こわい」
 絶望なんて言葉、誰が教えたのだろうとアサは場違いにも思った。
「もう一度、いヤ」
「そうか?」
 本当に怯える目で訴えたのに、アサは笑っている。
「お前は強い娘だと思うんだがなあ、ちゃんと自分で起きたじゃねえか」
 今朝の事かしらと思って、それでも顔を曇らせる。けほんと咳が漏れた。ああ無理させちまったかと、アサはつぐみの身体を布団に直し、かけ布団をきちんと整えてくれた。
「今度は俺に、嬢ちゃんの一番の願いを聞かせてくれ」
 まどろみに意識が閉じる間際、アサがそう言ってベッドから離れていった。
 問いかけの意味が分かるのは、それからさらに三日後。キリーが準々決勝まで勝ち残ったと教えられた次の日だ。 
 


 キリーが出場のために赴くたび、つぐみは心配そうにするのだけど、それを笑い飛ばして無傷で帰ってくる。
 いやあ張り合いがない、つまんねえ役引き受けちまったと不満を零している。
 一度二度、試合を観戦に行ったラシードいわく、確かに面白みがなかった。キリーは本気を出すまでもないくらいリラックスして試合してる、と教えてくれる。
 本当に心配は要らないらしい。
 逆にずっと心配されていたつぐみの容態も、食事をするようになり宿の中を歩くほどになり、良くなっていた。こんな病弱じゃなかったのに。ラシードが買ってきてくれた手触りのいいワンピースから覗く足をぶらぶらさせる。細くなったなあ。
 いろいろな人に言われるけれど。今のつぐみは故郷にいた頃、「一度で良いからこれくらいやせてみたい」とあこがれた体重を下回る勢いで細かった。
 不健康で疲れやすい軟弱さは自分でも嫌になる。体力をつけた方が、周りのみんなに迷惑はかからないとは思うので、最近頑張って食べるようになった。積極的に体力作りのためにも動き回ったりもする(あまり無理するとまた怒られるのだが)
 もう少し元気になったらまた王都をいろいろと見て回りたい。空元気を承知で、ラシードとそう約束してもらえた。出場しない日がまたあるのなら、キリーも一緒だともっといい。
 相変わらず、キリーとラシードの間には微妙な緊迫感が漂っていたけれど。
「よう」
「アサさん」
 宿のひとにもらった花を、花瓶に飾って水替えをしていると、普通に部屋までアサが顔を見せてくれた。
「こんにちは。ええと、今ラシード、キリー、いないノ。買いもノ」
「おうこんにちは。そうか。ずいぶんしゃべりが達者になったな、偉いな」
 そう言われると素直に嬉しい。前に会ったときよりも明るく笑顔を返す。
「お茶、煎れル?」
 あわてて室内にある湯沸かし設備に向かおうとするが、構うなと笑われて頭を撫でられた。
「前に言ったことは覚えているか?」
 なにぶん眠りかけだったのでおぼろげなのだが、頷く。
 二人でなかなか立派なソファに座る。テーブルを挟むと遠すぎるので、腕を引かれて隣に腰掛けた。
「ツグミ嬢ちゃん。あんたは異世界の娘さんだ、違いないな?」
 アサが知っていることに、今更驚きはなかったので、そのまま頷く。
「ああ、気にするな。俺はちいとは出来る呪術師だ。嬢ちゃんの置かれた状況が複雑すぎるってんで、俺がちゃんと調べるよう任命された訳よ」
 小さく、喉を鳴らして、淡い赤色のアサの目を見返した。きれいないろだ。
 壮年の男性とこんなに近くで話す機会なんて無かったけれど、アサ相手ではそう言ったことが気にならない。
「いろいろ時間がかかっちまいそうで、ホント申し訳ねえ。帰るか、嬢ちゃん」
 反応が、遅れていた。アサはちゃんと、繰り返してくれる。
「もとの世界に、帰りてえか。嬢ちゃん」
 もとの世界。頭にその単語が浸透すると、目が潤むのが解った。急いで目元を拭って、しっかりと頷く。
(ひばりちゃん)
 帰りたい。その想いはかつて抱いたものとは少し変化しているようではあったけど、今度のこれは前よりも、きちんと郷愁の形であるような気がした。
「そうか。わかった、ちいと待たせると思うが、必ず帰してやるから待ってな」
「ハイ。うん・・・かえりたイ・・・」
 だってここにいる私は私じゃない。
 誰かを煩わせて傷つけてしまうかも知れない。護られるってそう言うことだと解っている。
 ここで好きな人や、失いたくないものもたくさん出来てしまったけど、私が居続けることで誰かが傷つくくらいなら大丈夫。離れてもへいき。我慢できる。
「わたしの世界、アッチ。戻るのガ、ただしいね」
「・・・俺は願いを聞いたんだがなあ」
 身をかがめて、瞳をのぞき込まれて首をかしげる。アサは不満そうな顔をした。
「願い、いったよ」
「まあそれもそうなんだろうがよ。誰かのためとか抜きにして、ツグミが今一番やりてえこと、欲しいことを聞いたのよ、俺は。じゃあ質問を変えるか。帰る前にやりてえことは?」
「やりたいコト・・・」
 まっさきに思い浮かんだ面影にふたをする。だめ、もう呼んではいけない。
 心の中でだって、助けを求めてはいけない。
「・・・ナイ。みんなが無事なラ、いつ帰っテモ」
「てめえら揃って控えめなんだよなあ・・・」
 思い切り疲れたため息を吐かれてしまった。誰とひとまとめにされたのだろう。
「まあ、な。嬢ちゃん。ツグミ嬢ちゃん。あんたを帰してやれるまで少し時間がかかるんだ。待ってる間、なんか心残りが出来たら言いな。悔いなんてのこさねえこった」
 ぽんぽんと頭を叩いて笑う。
 アサは、思うところもあるのだが術者のひとりとしては、つぐみが帰還を選択してくれてほっとしていた。
 この娘が、身体にこんなものを刻まれて生きていくのは酷すぎる。
 とはいえ構築呪術を媒介から解くには生半なことではなく、ただでさえ兵器級の規模なのだ。下手なことをすればつぐみの心身を損なう危険性が高い。 
「嬢ちゃんは巻き込まれた、何の罪もない被害者なんだからよ。もっと怒ったり不満愚痴ったり、わがままでいて良いんだぜ」
「でも、わたしがいル。巻き込まレタ、みんな」
 だーかーらー、そこでお前が気に病む要素はちっともねえだろうがー。
 アサが頭を掴んでぐらぐら揺さぶると、つぐみは目を回してソファに突っ伏した。気がつけば膝枕になっていて慌てたのだが、頭を押さえられたまま起きあがれない。
「何でもいい。何か言ってくれよ、ツグミ嬢ちゃん。恨み言、愚痴をさ」
「・・・・・・」
 上から顔をのぞき込まれて。つぐみは戸惑ってしまった。つい、思ったままのことが口から零れる。
「・・・怒られたイ、アサさん?」
「まあな」
 そうなんだ。では怒ったように何か言った方が良いのかも知れない。
 考えたけれどあんまり浮かばなくて、結局頼りなく、心のままの声を。
「恨み、ナイ。みんな、やさしい、スキ」
「・・・そうかい」
「だかラ、すこし、ひどイ」
「・・・そうだな」
 呟く声に、もしかしたらアサさんを泣かしてしまったかも知れないとはらはらしたが、見上げた頬は乾いたままだった。
 この人はどんな過ちを犯したのだろう。何を責めて欲しいのか解らなかった。
 きっと本当に怒られたい相手は、わたしではないのだ。





 少しずつ、それでも宿屋の近くだけれど散歩やウインドウショッピングといった、宿の外での行動が許されるようになっていた。
 キリーが準決勝に勝ち進んだ。何事もなく過ぎていった。
 ラシードは良く顔を出してくれる。もうひとつの用事の方もけして軽視できない大事なお仕事みたいなのに。
 アサも時々おやつを持って顔を見せてくれた。少しだけお医者さんみたいな質問をして、元気だと答えると朗らかな会話に移ってくれる。
 何も出来ない分、会いに来てくれたときくらい気を遣わせず、くつろいでくれると良いんだけど。
 お茶を煎れるのはだいぶ上達していたが、つぐみはお菓子作りに関してだけは超がつくほどの不得手だった。
「なんでメシとか普通に作れんのに菓子はこんな未確認生命体みたいになんだよ!」
「せ、生命体は言い過ぎ・・・確かに何か動いてるけど」
「まあちいとは困ったところがあった方がかわいらしいもんだ」
 クッキーを作ろうとしてゼリー状の半生の固まりが積み上がって、その時ばかりは全員に突っ込まれた。フォローを入れてくれたアサの口元も引きつっている。
 もう本当に真っ赤になって、謝りながら後始末をした。
 せめてお茶を煎れ直して振る舞うと、全員があからさまにほっとした顔をするのだ。
「茶はうまいよなあ。上達してるぜ」
「料理も上手だよね。こちらの料理も覚えが早いのかいろいろ作れるようになった」
「粉ものがだめなのか?パンは上手に作ってたんだがなあ」
 そんな、真剣に話し合わなくても良いのに・・・。
 全員に、「いいから菓子は作るな。食いたきゃケーキでも何でも買ってきてやるから」と釘を刺される始末。
 そうなるとどうにか上達したくなるのが、妙に負けず嫌いなつぐみなのだ。こっそり特訓して上手に作って、みんなをビックリさせてやろう。
(・・・・・・)
 帰るまでに出来たらの話だ。
 あんまり、こういった思考は良くないよなあと思う。
 と、まあそれなりに穏やかに王都滞在の日々は過ぎていった。
 そしてある日、ラシードと一緒に女性が訪ねてきた。
 まず、輝く湖面のような銀髪に目を奪われた。
「初めまして、シクといいます」
「はじめ、まして・・・なまえ、ツグミ、デス」
 おそらくはずっと年上、30歳前後くらいかも知れないがとても若々しくも見える。
 落ち着いた物腰からすると、女性に対して失礼かも知れないけど30代後半くらいにはなるのかも知れない。
 彼女は柔らかく笑いかけてくれて、ラシードと知り合いで仕事の同僚でもあり付き合いも長いことを教えてくれた。
「いつもは学校の教師のようなことをしています。わからないことがあったら訊いてください」
「・・・ハイ」
 ほわほわと春の陽だまりのようにあたたかな優しさを感じるのに、彼女自身は硬質な硝子のようで、不思議な気持ちになった。
 自然と背筋が伸びてしまう。この人も、強いのかなと漠然と思った。
「ツグミ、あなたが異世界から来たいきさつやその背景について、解っていることを確認させてもらっても良いですか?」
 ああ、ラシードと仕事を同じくするということはそう言うことかと。つぐみは理解して素直に頷いた。
 順番に、出来るだけ伝わりやすいよう話していく。
 といっても彼女の理解の及ぶところはラシードから教えられたそれらがほとんどで。
「えエト、アサさん、が帰してくれルって」
「よく解りましたよ、ありがとう」
 そう締めくくると、本当に先生のように言われた。これは感謝と言うより褒めるありがとう、なのではないかと。
「私たちは、カレイス家の現状を調査しています。なにぶん謎が多く、ジョーに頼ってはいますがはっきりとしたところまでは」
 話の途中だがどうしても首をかしげてしまう。
「俺のことだよ、ツグミ」
 ああそうかと側で話を聞いていたラシードに頷く。以前、二人で話したときに囁いて教えてくれた。
 彼の本当の名前は、ラシードではないのだ。
「カレイス家に、あなたを喚んだというしっかりとした証拠が必要なのです。その以前に騒ぎ立てては、あなたの身柄が国の機関に拘束される。おぞましい話ではありますが生きた献体であると、ひどい扱いを受ける可能性が高いです。この国は呪術で他国から先んじてきた。けれどあなたは他国、ましては異界の子。私たちはそれを望みません」
 柔らかな物言いは、ところどころ聞き取りにくい単語もあるが言っていることは間違いなく理解できた。
「そして今、行方を捜しているのがカレイス家に雇われている呪術師です。ツグミ、カーロの名に聞き覚えはありますか?」
 はっきりと、顔に動揺を示していた。何も言わずともシクは頷いて、つぐみの肩を軽く叩く。
「ハイ。二回、あいましタ・・・」
「・・・ツグミ」
 ラシードに悲しそうに呼ばれて、ぎゅっと目をつぶる。
「だいじょうぶ。責めているわけではありません。橙の瞳の、若い男ですね?」
 ただもう、促されるままに頷く。
「彼があなたをこちらに喚んだのではないかと私たちは考えているのです」
 ああ、やっぱりあのひと、深い関わりがある人だったんだ。
「彼はあなたに何かを言いましたか?」
 反射的に首を振って、すぐにはっと顔を上げる。シクは黙ってつぐみの顔を見つめてくれている。
「一回目、いつかむかえくル、って。二回目、カオを見にきた、おうと出るナって・・・」
「そうですか・・・」
 シクはそう言うと少し、考え込むように黙り込んでしまった。
 あのひと。ノースゼネ・カーロ。アニエスの声が強烈に耳に残って、名前も頭から離れない。
 出来ればもう、あの人とは会いたくはなかった。
 つぐみの感情だけの話では、どうにもならないのだろう。神出鬼没な彼とカレイス家の関わり、目論見、そういったものを暴かないことには下手に動けない状況なのだと教えてもらえた。
 そして、もとの世界に帰ることも、今のままでは難しいと。
「不安にさせるばかりのことを言いました。すみません。けれど大丈夫、あなたは帰れます」
「・・・イエ、わたし、大丈夫デス」
 むしろ言ってくれて、確かに気は重いのだけどありがたかった。それによってやはりいろいろなひとに迷惑がかかるのが嫌なのだ。
 そう、私は大丈夫だ。私になにがあったって。
「・・・大祭が終わったら、ゆっくりしにうちにおいでなさい?賑やかできっと、楽しいですから。歓迎します」
「・・・ハイ・・・」
 シクは最後まで穏やかにほほえみかけてくれて、上品な仕草で退室していった。やはり隙のない身ごなしに見える。いつもすごすぎる人たちと過ごしていたのでほんの少しの違いは分かる。
「きんちょう・・・」
「だろ?シクさんはすごく強いんだぜ。けれど優しい人だ。頼って良いよ」
 ラシードがようやく口を開く。いつも通りの笑顔だったのでほっとした。
 呪術師の彼に会っていたことを、なぜ言わなかったのかと、咎められる覚悟だったから。
「・・・ジョーさん?」
 試しに、誰もいないことが解っているので呼びかけてみた。ラシードは笑ってくれた。
 それも本当の名前じゃないんだと言う。
 誰にも名前を呼ばれないのはきっと、寂しいのではないかなと思った。
「・・・だれか、ほんとウのなまえ、よんでくレル?」
「うん」
 その答えにほっと顔をゆるめた。
 帰る直前とかだったら、ラシードの本当の名前も教えてもらえるだろうかと思った。

 

 

 

 

 






(2009.3.5)

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