カレイスの有する敷地はそんなに広くはない。
主の住まう本邸と、郊外に一回り小さい別宅がある。有する屋敷はそのふたつ。
長期にわたる庭師の不在で荒れに荒れた前庭はまるで、廃墟を思わせる惨状なのだけど、余計な客人を招くこともなく済むとエイギルは放置している。
玄関を一歩越えると、さすがに清潔に整えられている。しかし照明器具が少なく、昼間といえど薄暗い。
どの部屋に通されてもものの少ない屋敷は、広さと清潔感に反比例して生活感がほとんど感じられない。
ラシードはいつも通り、使用人に先導されてエイギルのもとまで通される。
一人で屋敷を歩かせてもらえることなど一度もない。
「今はこちらにいらっしゃいます」
「ありがとう」
ノックをしても返事がないが、いつものことだ。一言断ってからノブを回した。
「・・・エイギル」
「ああ、ああもういやだ。どうして私がこんな。ああもう胃が痛い・・・」
ソファに着古しのローブのまま寝転がり、胸に抱いた大瓶から丸い粒をひとつかみ、口に放り込む。
揚げ菓子だったり丸薬だったり、ときには宝玉の粒を含んでいることもある。
何だかこの人は、訪ねるたびに胃痛や歯痛や頭痛に苛まれてぶつぶつ言っている印象しかない。
ちなみに宝石の粒を口に含むと(食べるわけではない)精神安定の作用があるらしい。呪術師の理屈はラシードにはよく解らないが。
「エイギル。ラシードですけど。大丈夫ではないんですね?」
いつもなら大丈夫ですか、と念のために訊くのだが。さすがに見れば解る。
「あ、ああ。ラシード、ラシード・セッテ。良く来たね。私は大丈夫。大丈夫ではないけれど大丈夫と言うことにしておこう。そこにかけなさい」
真っ青な顔色で、落ちくぼんだ眼窩を瞬きながら、エイギルは何とか上半身を起こした。
まだ30代のはずだけど。細く長い手足に対して肉を少し持てあました肥満気味の身体。
どう見ても運動不足で、不健康だった。ここ最近は精神方面がより深刻らしく、彼の頭部は不憫なくらい寂しいことになってきている。
外見からは何の権威も感じられない、みずぼらしいとさえ思える男。彼がカレイス次期当主、エイギルだった。
「聞いているよ、ラシード・・・順調に勝ち進んでくれているね」
「ええ。明日はとうとう決勝戦。エイギルも観戦に来られますか?」
「いや、いやいいよ私は。勝ってくれたらそれでいい。まだまだ研究が大詰めでね・・・」
指示をくれた当人というのに、結果にしか興味がないらしく、すぐ側の書籍や器具を取り上げてなにやら見比べはじめた。
研究に熱中し没頭するタイプと言うよりも、彼の直属の上司がいつも無茶な要求をしてくるので、それに応えるのに必死と言ったところだ。
カレイス家はそれなりに実績も歴史もある家柄なので、請われ個人の専属として仕える形となることもある。
エイギルは誰の専属になっているのか、絶対に教えてくれない。まあ一雇用人に漏らすわけもないのだが。
彼はひどく権力におもねる人種のようで、あるじには逆らわない。不興を買うことを何より恐れているようだ。
いろいろな伝手を探って調べに調べても、あるじの特定は出来ずにいる。
ここが調査が難航している一番の点とも言えた。
「ああ、あの呪術媒介のことはさ、カーロに任せているから。っていうか私の側に持ってこないでね、怖いから」
「・・・危険なことはないのですが。解りました。保護しておりますよ」
彼にはまだ呪術媒介が少女であったと正確には報告していない。
つぐみの話によると、カーロはすでに把握しており迎え入れる準備をしているという口ぶりのようだ。
ではつぐみの安全に関しては、注意するのはカーロの動向である。
「そういえば彼は、しばらく姿を見ませんが」
「知らんよ。好きに歩かせているからね。下手に口出しすると痛い目を見るのはこちらだよ」
雇い主であるのにエイギルの放任っぷりに苦笑するしかない。
たとえ国王であっても手綱を握りきれない、とは彼の傍若無人さと荒唐無稽さを思わせる表現のひとつだ。
それでも、彼の呪術の腕を求めるものは多いのだ。
ラシードがカレイスを探るようになって、かの呪術師と顔を合わせたのは三度ほどになるが、あのときはまさかこんな事になるとは思いもしなかった。
「あ、そうそうラシード。優勝したらそのままここへ連れといで。私もあるじもね、護衛が欲しいんだ」
不意に告げられた言葉に、ラシードは顔を上げ来たか、と思った。
ひとつの憂慮は優勝できるか否かではない。キリーがここにおとなしくついてきてくれるだろうかと言うことだった。
14 花束
「決勝戦に応援に行かないか?」
ラシードの密やかな提案に、つぐみはまず、じっと紫の目を見返す。もっと、情報をくださいと言わんばかりの眼差しで。
あれ、もっとすぐに何らかのリアクションがあるかと思ったんだけどなとわずかに拍子抜けの思いを抱きつつ。この少女が見た目を裏切って冷静な感性の持ち主であると、ラシードも最近になって解るようになってきたところで。
「キリーには秘密で。花束なんかもって」
「・・・わたし、行く、邪魔ではナイ?」
今度こそ笑みの種類を変えて、真摯な視線を受け止めた。
「大丈夫だよ。ちょっと荒っぽいからな、試合自体は無理には見なくたっていいし。気軽に見学。お城が見られるよ?」
そこでようやく、つぐみは肩の力を抜いたようで。
「お城?」
「そう。決勝戦は城内の庭園で。王様の前で豪勢に」
フェイなら、それだったら城門を開け放って国民も観戦出来るようになるはずだけど。
どこまでもこの国、クォは権威指向でけちくさい。
そのあたりの情報までつぐみに説明する気はなく、ただ気晴らしになればいいと思って勧めてみる。
つぐみも、別に気乗りしなかったわけではなく、今まで荒事から遠ざけられていた手前、自ら言い出しにくかったようなのだ。みるみるうちに頬が紅潮していく。
「お城、いけルノ?」
「そうだよ、許可証もあるから。キリーが優勝したらしたでいろいろ面倒な催しとかあるだろうけど、ツグミは早く帰れるようにするし、気に入ったなら見学を続けても良いし、好きにして良いんだよ」
「ラシードも?」
期待を込めた眼差しで見つめられ、心底申し訳ない気持ちになる。理屈じゃないなあとまざまざ思う。
「俺はもうひとつの用事の方で、一緒にはいられないんだ」
この子をがっかりさせるのは、ここ最近で一番胸が痛い。
けれどつぐみはそんな様子を隠そうとする。ゆるゆる見開いた大きな目を、ふっと笑みに変えるのだ。
「あ、でもスクリーンは側につけるよ」
とたん笑みが、少しだけ本当に近くなる。それで罪悪感が薄れるわけではないけど。
「あと俺の友達が、城内にいて、騎士やってるんだけどボンボンって言うのかな。わりと立場あるらしくて、そいつに城内とか案内させるから、危なくない。気の良い奴だよ」
自分の本来の姿が、シク達と一緒にいるのが正しいからと、つぐみを一人にさせるわけにはいかず、顔の広さを存分に発揮するしか無くなった。
やはり慣れれば早いのだが、初対面の相手と二人きりにされるのは不安だろう。本当に友人は気の良い奴で、身の安全は保証されるとは思うのだけど。
「ごめん。思ったより俺、根回し良くなかったみたいで・・・」
「イイエ。ラシード、わたしの、気遣うの、ごめんなさい」
自分がおはよう、こんにちはから教えた女の子に、気遣わせてごめんなさいと言われてしまった。それだけでも頭はやや前に傾く。
「花束を用意しよう。二束。この秋口にどんな高価な花でも。いくらでも搾り取ってくれて良いから」
あんまりにも情けなくなって、持っている権力、財力含め、駆使して謝罪の形をとろうとするのはかえってみっともなくも思うのだが。
「ツグミ、花は嫌い?」
「スキよ?」
きょとんとした様子で素直に答えてくれる少女を見て、だったらいいかと思う。
花束を贈って、それを見たこの子が笑ってくれるなら、ほんのひとときでも。
「そうと決まれば今から行こう。キリーのいない今がチャンスだ。俺は明日にはいられないし」
「いま?」
さすがにつぐみもぎょっとしたようだ。財布をひっつかんだラシードは、むしろ今しかないと繰り返す。
確かに明日の決勝戦は、キリーに隠れて城に赴くとしてもあまり時間の余裕はない。花束の準備にも時間がかかる。
「今日花を決めて、明日届けてもらうようにするよ」
そっかと頷いて、そうと決まればつぐみも手早く準備をする。これもラシードにもらった(要らないと言っても買い足してくる)赤いワンピースを翻して。
揃いの、暖かい白の上着をラシードが後ろに立って、うやうやしく肩にかけてくれる。恥ずかしくってうつむきながら袖を通す。ふわふわした感触がお気に入りだ。
「ありがとう」
「やっぱりよく似合ってる、行こうか」
ものすごくさわやかに褒められて、手を取られてそのまま歩き出す。照れてしまう。
きっともとの世界で同じ状況だったら(つまりラシードくらいのお兄さんに手を引かれてお買い物だ)、パニックになってしまっただろう。手を離して欲しかったはずだ。
けれど立場がと言うか。つぐみは馴染んでしまっている。こういった扱いに。
若干恥ずかしくはあるが、そういうドキドキは湧かないのだ、不思議なことに。
以前、サザの存在を兄に当てはめたことがあったが、ラシードを当てはめてみた方が自然でしっくりした。
まあ、実際に兄と手をつないで買い物もないだろうけど。受け入れてしまう。まあいいかと。
「ラシード、好きナひと、イヤ?」
こんな風にしていたら、恋人が嫌な気持ちになるんじゃないの?と訊きたかった。ちょっと、子供扱いされすぎているきらいがあるので、警告のような、釘を刺しておく意味もあるような。
世界が違うから堅すぎる考えかも知れないけど、彼らはオープンすぎる気がする。いろいろと。
「ツグミと手をつなぐのに難色を示すような人は、俺の恋人に向いてないんじゃないかな」
「・・・・・・」
割合あっけらかんと返された。それもそうかと思うのだけど、複雑。
嬉しくもあるんだけど、複雑。
ラシードは男女を超越してつぐみを好ましく思っていて、というかつぐみに限らずこういったことは屈託無くしているので。仲良くしたい相手と仲良くしているだけ、と強気に断言してくれる。それはすごくほっとさせられる。
それと同時に恋愛対象としては爪の先ほども意識していないと言われたのも同然だった。
自分に女性としての魅力がない。穿って考え、そう取ってしまう。
ラシードはお兄ちゃんだ。一緒にいるととても落ち着く、年上の友人(で、いいのかな)。
だから、ラシードと恋愛関係になりたいわけではないのだけど。だけど。
(私、やっぱり、子供にしか見えないかな・・・)
意味も分からずうなだれてしまう。心配したように手を引かれて、顔を上げたときには何とか笑顔を作れたけど。
クォ中の季節の花々が集められた、大きな花屋に圧倒された。良く見知っているものと似た花もあって、まるで見たこともないような形や色の花も多い。
それだけでつぐみは落ちつきなく、ラシードにあれこれと尋ねた。
店員のアドバイスも受けて、キリーの優勝祝い(疑いなく決定事項ということで)には大輪の花々を燃えるような色合いでまとめた、鮮やかで豪華な花束になった。
つぐみの花束は本人に選んでもらったのだが、どうしても絞りきれない気に入った花が多いらしく、じゃあそれで作ってくださいとお願いしておく。
「色が多すぎるとかえってまとまりが悪くなりますが・・・この花を外して、こちらを入れると綺麗にまとまりますよ?」
「いいえ、この花全部で。まとまり悪くなっても良いんです。ね」
「ハイ、お願いしマス」
会計を済ませて店を出ても、つぐみは少し興奮した様子で笑っていた。ラシードも満足して笑う。花束贈呈に限らずに、連れてきて良かった。
「キリー、よろこぶといいネ」
「そうだね。ツグミも俺からの、喜んでくれる?」
つぐみはすこし、瞳を揺らして照れるようにはにかんだ。
花束を個人的にもらうなんて人生で初めてだった。一輪の花を贈られたことはある、その記憶にはあえて封をする。けれどその時と同じくらい嬉しい。
「どんな花束になるかちょっと楽しみだよな。まあ、店員さんの言うとおり、まとまりはないだろうけど」
思い出してくくっと笑いをこらえる。
渋く強そうな、花冠がひとつになっている大きな花(葉のように見えたが花らしい)と、さらに大きな、鮮やかなオレンジと薄茶に色を変えていく合弁花と、これでもかと目を惹きつける、色鮮やかな青の、りんどうのような形をした花だ。
何を思って選んだのか筒抜けで、赤くなったつぐみの耳を見つめながらラシードはじゃあこれも、と一種追加した。
ちょこんとした、今にも他の花に埋もれそうな、本来ならちいさな花束の引き立て役にされてしまう、白い花。
「ああ、この子は冬の間も咲き続ける、強い子なんですよ。ただ、こちらの花束にはちょっと」
「だったら尚更、これも入れてください。十本くらい」
「じゅう!?」
苦笑する店員に構わずラシードは嫌な客っぷりを発揮して、結局ごてごてしすぎる、悪趣味な花束に小さくて白い花を十本入れてもらった。
もちろん何を思ってラシードが追加したのか、少しの間を置いてつぐみは理解したので、何も言わずにぎゅっと唇を結んでいた。顔を赤く染めて。
「ウン、ありがとう、ラシード」
「どういたしまして。今日は明日に備えてゆっくりお休みしなよ。明日はアサが迎えに来てくれて、城まで一緒に行ってくれるから」
知り合いの名前が出てきて一気に安心したらしい。
笑顔で頷くのに頷き返す。宿まで送り届けるとキリーがすでに帰っていたので目配せしあってまた笑う。明日が楽しみ。
「じゃあ、俺はこれで。また、明日な」
「おう」
「ラシード、またネ。おやすみ」
ちょっとくすぐったく思いながら、微笑み返す。
「おやすみ」
扉の外まで見送って、つぐみは部屋の奥で道具の手入れをしているキリーのもとまで、ぱたぱたと駆け戻る。
「おつかれ?お茶・・・」
「いらねえ。セッテとなにしてた」
「かいもの」
淀みなく、不自然なところ無く答えられただろうかと少し鼓動を早める。
「ふうん・・・その服もあいつからのか」
ウン、と頷く。何事か、口元に手を当て思案するキリーの瞳に嫌なものを感じる。なんか、やだ。こういう目をしたキリーはいじわるで、ろくなことを言わない。
「俺からも買ってやろうか。脱がすためにだけどよ」
ほらやっぱり!
ぼすんっと、自分のベッドから枕を掴んで怒りをあらわに殴りつけてやった。
キリーはわりにセクハラ発言が多い。同性と解っているからこの程度ですますけど、どうしてもこの人のことだ。性別なんて気に留めていない気がする。
そんな目で見られている、なんて、思うほどつぐみはうぬぼれていないけど。
少し足音荒く側を離れて、結局部屋に備え付けのキッチンに向かってしまう。
で、結局することが無く、お酒とおつまみ、自分にお茶を用意して、キリーの元に戻ってしまうのだ。
「悪ぃ、ありがとな」
手を伸ばしてぶっきらぼうに頭を撫でられた。一応さっきの軽口を謝ってくれたので、つぐみは胸を反らして許してやることにした。
まだ怒ってますアピールは忘れず。
「そうイウ、しゅ、種類、ジョーダン、きらいよ」
「わあってるよ、ジチョーしますよ、お嬢さん」
「むう」
でも差し出されたグラスにてきぱきと準備を整えてお酒を注いでいる自分はまるで、なんか、うん。違和感だ。
「俺らすっかりいい夫婦っぷりだ、なあツグミ」
「言わないノ!」
まさか同感とは言えなくてつぐみの機嫌はまたちょっと悪化した。
それが穏やかに更けていく、最後の夜。
当日は雲は多いが晴天だった。まだ暗いうちからキリーは外出し、間もなくスクリーンが窓からやってきた。
「ぴい、ぴーっ」
「わ、うわ。ふふ。げんき、よかっタスクリーン」
すり寄って甘えてくる大きな羽毛の体を抱きしめて、つぐみはひとしきりあたたかさに顔を埋める。今日もキリーもラシードもいないけど。スクリーンはいてくれる。
少し不安は残るのだが、楽しみの方が勝っている気がした。やがてアサが宿を訪ねてきて、王都内を走る乗合馬車に乗り込んで、王都のすぐ近くまで移動した。
アサも当然のように、城門をくぐる際通行証らしきものを示して通してもらった。
ここでようやく、お城に行けるのって誰でもじゃないんだと思い当たってしまう。考えるまでもないことだったが、あたりを見渡してみるとみな派手で豪奢な装いをしている。
いわゆるみんな、身分のあるひとなのだろう。お金持ち。セレブリティ。
いろんな単語が頭を回って、アサの背後に隠れるように身を縮めてしまった。
「どうした嬢ちゃん?これから城内まで馬車で移動だぜ。まどろっこしいが」
「わたし、はいるの、怒られナイ?」
おそるおそる、見上げるつぐみの萎縮しきった様子にアサはこらえきれず大声で笑った。
「堂々としてろ。びくびくすんのは悪いことした後ろめたい奴と相場が決まってるぜ?」
言われてしまうと毅然としていた方が、一緒にいるアサにも迷惑がかからないだろう。
そう思って気を改める。深呼吸して、うつむかないように。
「お?」
「・・・っ!ごめんなサイ!」
気がつくとアサの上着の端を掴んでいた。慌てて手を離す。取り繕った表情はとたん崩れて真っ赤になる。
「いいさ。信用されてるってワケだ。嫌な気のする奴はなかなかいねえんじゃねえか」
頭を撫でられた。
許してもらえた言葉に、不意に涙が出そうになって顔を伏せた。
少しだけ、少しだけ下を向かせてもらう。
信用する。してた。信頼してた。だれよりも。
無意識に掴んでしまう感触を、思い出さないように両手をぎゅっと握る。
城内の至る所に精緻な彫刻や装飾がなされ、さすがの広さだった。
王都もそうだけど城は一段と白亜の空間だ。足下を彩る絨毯以外の、壁や天井はほとんど白に染まっている。
(おんなのひと)
彫刻や照明の美しさ、豪奢さに見入っていたつぐみはある共通点に気づく。
扉や、主柱の頂点には決まって女性がかたどられているのだ。
「アサさん、だれ?」
「ディオラだな。おう、あれだ、クォの女神様ってやつ」
わかりやすく簡潔な説明をくれた。かたどられている位置が高すぎてよく見えないが、女神様とは。きっと目もくらむような美しさなのだろう。
「愛と、氷炎( 、まあ、どっちかというと火の女神様だな。呪術師がこぞってあがめてる。そうでなくともなんかあるたび感謝するのはクォではディオラになる」
「アサさんも、かんしゃ?」
わりとぞんざいな口調なので、アサはそんな信仰に熱心な風には見えないけど尋ねてみた。案の定。
「いんや、べつに。」
との返事。呪術師の間では、彼女をあがめればあがめるほどよりまじないの恩恵を得られるという話が通説らしいのだけど、俺はこんなでも強いしなと。
冗談めかした語り口に首をかしげる。
そうか、ここにも神様はいたのだと思った。
何か困ったときに、神様がいると心の支えになってくれるものだ。つぐみの持論だ。
べつに、ディオラさんでなくてもいい。そのひとにとって、誰かがいれば。
「おおい、ツグミ嬢ちゃん。ちいとここで待ってな。俺は一緒にいてやれねえが、すぐにぐ、ラシードだっけか?あいつのツレがついててくれるって手はずになってる。万が一アブねえ事はねえと思うけど、頭の湧いた貴族のボンなんかに絡まれたらあれだ、大声で悲鳴上げろ。俺が走って駆けつけてやる」
アサさんが自ら来てくれるの?ちょっとそれは意外な申し出で、目を見開いたけれどにっこりと笑い返した。
どうか、そうなりませんように。
自分がトラブルの種になるのは本当に嫌だ。もうご勘弁願いたい。
「だいじょうぶ。スクリーン、いる」
「ぴいっ」
「・・・そうだな。じゃあ、おとなしく待ってるんだぜ」
がっしがし頭を撫でられて、アサは背中を向けて、決勝戦の会場と思われる、喧噪の多い方角へと向かっていった。
(アサさんはお父さんみたい)
自分の父とはまったくタイプが違うが、あの豪快な撫で方を頭が覚えてしまった。みんなほんとうに面倒見が良い。
等間隔に並ぶ石の壁が、互い違いに奥の景色を隠している。きっとこの先は吹き抜けになっていて、バルコニーとか、庭とかの見渡せる渡り廊下になっていると思われた。
風がわずかに髪を揺らしているし、緑のにおいも近い。
つぐみはちゃんと、言われたとおりおとなしく待っていた。
肩に留まったスクリーンもおとなしかったし、人が通りかかるときは端に寄って注目を集めないように。
けれどさすがに、じっとしていることは苦手ではないけれど不安になってきて左右の通路を伺ってしまう。
ラシードの知り合いという友達。どんな人なのか、きっと大丈夫と思うけど、特徴のひとつも聞いていないので確認のしようもなく。あ、スクリーンがいるから間違う心配もないかな。それでも人が近づくたび、この人かな違うかなと視線を向けてしまう。
「・・・・・・あ」
気づくのは少し遅れた。誰か、回廊の奥から明確な意志を持って、こちらに近づいてくるひとがいるのだ。
はじめは、とうとう来たのだと姿勢を正したのだが、それもすぐに撤回せざるを得ない。
彼は、ある意味目立ちすぎている。遠目からでもはっきりと、誰かなんて瞭然。
(・・・やだ・・・っ)
つぐみは後ずさって、その場から駆けだそうとした。逃げたい、逃げたい、この場から。
肩のスクリーンも前回とは状況が違うからか、硬直したように動かない。どうしよう。
すぐに逃げれば良かったのに。距離が詰まれば詰まるほどすくんだ足は言うことを聞いてくれなかった。
「てめえが誘惑したのか」
最後の一歩を詰めるより先に、相変わらず綺麗な顔立ちを不機嫌そうにゆがめて彼が言った。
意味が分からない。問いかけられた言葉の意味が、本当に理解できなくて、一瞬だけ脱力して見返した。
聞き取りは、出来た。けれどこれ以外に意味を持つ言葉だっただろうか。
誘ったのか、と訊かれた気がした。
わけがわからない。彼は、ノースゼネ・カーロは過去にまみえた二回のどれよりも怒りをあらわにしているように見えた。
ただその感情的な様子は、怖いと言うよりも、発露が解らない分どこか、ふつうで。そう、普通に見えた。
「強力な引力で惑わせたのか、と訊いてんだよ、口を利け」
けれど怖いものは怖く、いっそう凄みを帯びた声音で問いかけられる。
つぐみはただ、首を振るしかできなかった。会いたくなかったのに。なんでいつもひとりになると。
「い、いみ・・・・わか、わからナイ・・・」
何とか唇を開いて、声を絞り出す。あからさまに気分を害したように彼はちっと舌打ちを漏らす。
つぐみはびくっと肩を震わす。けれど次に重ねられた言葉に、今度こそ全身を硬直させてしまった。
「サザはなぜ王都を出た」
なんで。
頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。どこにもぶつけてはいない。そして次に痛みを伴って苦しささえ覚えるのは胸の方だ。
「サザが王都を出たのはてめえが惑わせたからか」
「・・・や・・・わか、わからナイ、わからナイ」
目から、こらえられずにぼろっと涙がこぼれた。抑えることも出来ない。
「解らないじゃねえよ、じゃあなんでサザは出て行った!」
「わか・・・ナイ、しらナイ!いや、イヤ、やあ!いわナイデいわないで!」
耳を塞いで喚くように声を上げる。そのなまえを言わないで。
あのときのことを言わないで。
「・・・いわないで・・・おねがいいわないでぇ・・・っ」
とうとうその場にしゃがみ込んで、全身をふるわせる。
スクリーンが頭上で羽音を立て、威嚇の声を上げるのにはっと顔を上げた。
心はずたずたに引き裂かれてどこにも力が入らないのに、ほとんど反射的に大きな鳥を抱きしめて腕に捕らえる。
だめ、誰かが傷つくのだけはだめ!
「スクリーン、だいじょうぶ、だいじょウブ、おちつく・・・」
抱き留めるつぐみの腕を爪で傷つけても尚、興奮が抑えきれずにスクリーンは暴れている。何度も羽毛を撫でてなだめると、ぴたっと恐慌はおさまったようで、自分が傷つけてしまった痕に申し訳なさそうに舌を当ててくる。
「ぴー・・・」
「ウン、へいき・・・」
ほっとして、改めて青い鳥を抱きしめる。そこでようやく、今まで目の前の男が黙って立っていたことに気がつく。
「・・・・・・」
何度でも、全身は恐怖で震えるのだ。冷え切った、今は軽蔑さえ感じられる眼差しに見られると。
一度は止まった涙が再び溢れた。見ないで。
全然ちがうと解っているけど、今は思い出してしまう何もかもが怖い。
橙色に見られるだけで、苦しくて悲しくて涙が止まらない。
「・・・それがてめえの呪力の一面だ」
声を低く落とされて、つぐみの震えが一瞬収まる。
「サザは、てめえの呪力に惑わされたワケじゃねえのか」
答えを必要としていない、独白だと思ったけれど、つぐみは首を振る。何とか。
「わか、らナイノ・・・」
サザのことを口にするだけで、ぽろぽろと涙はたやすく頬を伝っていった。
氷の箱にふたをしていてひた隠しにしていても、名前を耳にするだけで熱を持って心が泣き喚くのだ。箱はあっという間に溶けてしまう。
だめなのに、いけないのに。困ったことがあると呼んでしまう名前はどうしても封じ込めておけずに溢れてしょうがない。
「・・・サザ、サザ・・・」
自分でも気づかずに声に出していて、涙をこぼす。
息をするのも苦しくて助けて欲しい。なにもしなくていい、側にいてくれるだけでいい。
「サザが好きなのか」
なんでそんなことを訊かれるのか心底解らなかった。すこし不可解そうな声音で。けれど先ほどよりも怒りは感じられない。ただの問いだ。
訊かれて、答えるなら、答えは分かり切っている。考えるまでもない。
会えない。姿が見えない。声が聞けない。寂しくてたまらない。想うだけで涙が止まらない。
(2009.3.9)