17 破砕
生国ウォッツでは、勇猛果敢で人望豊かな年若い国王ラムダス・ディオス(ディアスともいう。発音の関係でどちらでもいい。ついでにありふれたよくある名字だ)が彼の一配下でもあったイージス・カイエに斃れた政権交代の折で、どこもかしこも慌ただしく、この機に乗じろとキリーは国を出された。
イージスが続くにしろ、次の覇権を我こそがと息巻く動きが早くも見え隠れする。どれだけ先んじようが遅いことはない。早い者勝ち、なのだ。
(この国には力押しの馬鹿が多い。嫌いじゃねえがな、切り札は独占するに越したことねえ。おめえはクォに行きな。ふたつとねえ呪術の情報を仕入れてくるんだ。持って帰ってくれりゃあ大手柄だ。期待してるぜ)
年少の頃からキリーの素質を見抜いて買ってくれた男の要望だ。そろそろ手元を離れていこうと思っていた矢先だったが、いままでの恩もある。あるいはこれで最後にしようと思っていた。
ウォッツの北から偽造の身分証書を用いて入国を果たし、うまいことラシードに目をつけられた(面白くもないがあちらも了承済みだっただろうか)
そして、森の中でつぐみと出会ったのだ。
「キリーは」
名前を呼ばれたことで、意識を置かれた現状に引き戻す。目の前には立派なベッドに横たわった細身の体があった。
これが、エイギルの主である。キリーは実力を認められ彼の護衛を任じられ側に寄ることを許されたが、ラシードは相変わらずエイギル・カレイスの雑用に立場をとどめられたようだ。
以前よりも信用されたのか、すこしは込み入った事情も耳にするらしく、忙しく立ち振る舞っている。逆にキリーは護衛をはじめて早二日でややうんざりとした心地がしていた。
見ての通り病を患った主は年若い少年で、ろくに歩くこともままならない病状。
刺客が頻繁に送られるわけでもない(そうであっても問題だが)一番の危険はむしろ彼自身が抱えている病であるというほど。
それをどう護衛しろというのか、会話を好んでそこから情報を引き出すというふうでもなく、主はただ静かに一日を寝床の上で過ごす。元来気の短いキリーは待つことに不向きで、すぐに飽きた。立ちつくすだけという拷問に、イライラとした鬱屈がたまる。
これならばラシードの立場の方が何倍かはましだ。あちらはエイギルの情報を受け、空いた時間には照会や調査に街の方へも足を伸ばしているはず。
第一子守こそ、あいつの得意そうな立場じゃねえか。脳内で、キリーは彼の鮮やかな髪の束をむしってやりたくなった。
「キリー、病人の、しかもお守りはつらいだろうねえ」
声を再度かけられて目を上げた。ベッドの上のひとは相変わらず顔色が悪く、ばつが悪そうにいいえと答えたキリーにくすりと笑いかけた。
「ラシード、だったかな。さいきんギルは面白いのをたくさんつれてきてくれる。彼もそう、きみも。そしてスゼネも面白い」
「スゼネ・・・?」
ギルというのはエイギルのことらしい。つきあいが長いのか親しい呼び名だ。
「ノースゼネ・カーロというらしいよ。けれど長いでしょう、スゼネって呼んでるんだ」
主は病床生活が長い分頼りない体をしていて、それを差し引いても年若い、少年の細さと幼い顔立ちだった。おそらくは15、6といったところか。
名前は教えられない、出自もそのほかも。そう告げて、ただ守ればいいのだとエイギルは淡々と命じてきた。
この子供が、エイギルに命じカーロを雇い、つぐみをこちらに喚ばせるよう手配した、ということになるのだ。
身分のある家柄の御曹子には違いあるまい。けれどなにがしかの事情があって、このような王都からはすこし離れた別荘地に、一人きりで過ごしている。
この屋敷にも使用人がいるにはいるが、保護者と思われる大人が通っている気配はなかった。
いわゆる体のいい隔離か。病持ちの、跡継ぎにはなり得ない男子。
「キリー、僕の問いに答えてくれるかい?」
「・・・ええ、どうぞ」
唐突な気がしたが、散漫な思考に沈む彼の癖らしく、キリーは早くも適応しようとしている。少し苛立たしいこともあるが、もちろん顔にも出さない。
「キリーは、生き物を殺したことはある?」
「・・・ええ」
思いも寄らない切り口に、わずかに眉をしかめながら淡々と返す。
「人を殺したことは?」
「あります」
「ふうん・・・人を憎んだことはある?」
「あります」
一応はきちんと採用されたと思ったが、これは何の面接だ。子供の暇つぶしに付き合うつもりで、事務的に答えていった。
「・・・大切な女性はいる?」
なぜか含んだように笑って言う、子供らしからぬ表情に即答が遅れた。けして質問の内容にひるんだのではない、と思いたい。
「ええ」
「そう、うん。ありがとう」
主はそれで満足できたのか、いつもどおり控えめな笑顔で頷く。
疲れたから、すこし眠るよと言って、主は体をシーツに沈めた。本当に体が弱く、顔色は確かに悪くなっていた。
「・・・・・・」
キリーは退出して、隣室に控えている侍女と交代しようと踵を返しかけ、眠る少年を見やる。
何の力もないこの子供を、いま自分が剣を振り下ろして刺し貫けば、つぐみをすこしでも守れるだろうか。
ことはそう単純ではないと知っていて、腕が疼く。もう遅い、すべて動いている。
仕留めなければいけないのはあの、洞穴で対峙した胸くその悪い呪術師だ。
ラシードはエイギルの指示を受け、引き続き情報収集と他の動きの警戒を続けていた。
彼の容姿も目立つには目立つが、今年の闘威大祭優勝者には叶うまい。そもそもキリーに情報収集など、ありとあらゆる意味でリスクが高すぎる。
「・・・エイギル」
いつも通り報告に現れた青年の顔を、やはりだらりと寝そべったまま見上げたエイギルはふと眉を上げた。
もそもそと、ソファに手をついて体を起こす。
「報告」
「はい。どうやら・・・呪術師協会が動いています」
「予想より早いなあ」
顔の中心にぎゅっと皺を寄せ、肉の余った腹部をさする。胃痛がひどいのだろう。
「民間からの調査依頼が寄せられたそうです。詳細は把握できませんでしたが目撃情報なども多数」
「ああー、それってウルスじゃないかい?カーロが何か言っていたな」
瓶詰めの薬を口に放り込むエイギルに、ラシードは黙って水差しからコップに注いで手渡してやった。
胃薬かと思いきやビタミン剤らしい。口内炎がひどいんだ、とエイギルは涙目で訴える。なんか本気で不憫になってきた。
「これで板挟みか・・・短い人生だったなあ」
頭を抱えてがくがく全身を揺らしている彼には追い打ちのようで心苦しいが、報告を続けなければなるまい。
「協会は急遽調査団を派遣し、秘密裏に南方へ向かわせたそうですが、今のところ謎の妨害にあって調査は難航していると」
「謎の妨害?私たちにはありがたい話だがうすきみ悪いね。何だろう」
「さあ?調査員はひとり残らず足や腕に重傷を負い、それが刀傷だとは解るのですが犯人の姿を誰も見ていない」
「・・・死者はいないのか」
「死者はいないんです」
「・・・・・・」
エイギルは背筋に寒いものを覚え、膝を抱え頭を押しつけぶつぶつと呟き続ける。
ラシードはそれを横目に、かすかに目元をゆるめた。自分たちが動けないこの状況で、つぐみを守ってくれる誰かさんの心当たりはそんなに多くない。
「・・・いいや、どうせ、媒介の回収はカーロに一任しているんだ。私たちは引き続き指示を待つ。ラシードはその件の調査を続けてくれ。くれぐれも慎重に」
「わかりました」
えのぐり茸の家は今日も休校。静かに森の中にたたずんでいる。
こちらはなにも悪くないのだし、民間人を前に手荒なまねが出来るはずもない。学校を続けることを推したイスパルに、シクはけして首を縦には振らなかった。
言いたいことはよく解ります。私も学校を開きたいけれど、万が一にも危険に巻き込むことは出来ない。それに、皆さんを人質に安全を得ようとは思わない。
イスパルもカノアも解ってくれた。
じゃあ、じゃあさ、キニスンとミーシャは?
トキとアニエスはいま安全なところにいるんだろう?なんか偉い呪術師に預かってもらってるんだろ?ふたりも預かっていてもらおう。
シクは本当に悲しくなってしまって目を伏せた。
ふたりが、この家に帰りたいと言ったんです。
トキと、本当ならぎりぎりまで一緒にいたいだろうに、彼がそう決めたのなら追いかけるような真似はしないと。やはり改めて悲しくなるという気持ちもあるでしょうけれど。
ここが自分たちの家だというあの子達に、どこへ行けと言うのか、解らなくなってしまった。
「シクさん」
はっと顔を上げる。本を片手に書き物をしていた最中に、考え事に没頭してしまっていた。目線を向けると、もの言いたげにうつむくミーシャがいた。
「どうしましたか、ミーシャ」
「あの、ツグミさん、もおうちに帰ってしまうんでしょう・・・?」
「ええ、そうですね」
ミーシャはいつもよりもさらに、言いにくそうに両の指を組ませて、口ごもる。
「トキさんと、お別れして、わたし、悲しくて」
シクはじっとその、一語一語を絞り出す様子を見守った。
「びっくりするぐらい、かなしくて。だから・・・」
ミーシャは何度も黄色の澄んだ瞳を瞬いている。ゆっくりと、顔を上げる。
「仲良く、できないの。でもキイ、がんばってる・・・」
いつになるか不明瞭だった朝( と違い、つぐみは準備ができ次第もとの世界に送ることになっている。その時期も未定に違いはないが、仲良くなった少年と別れてすぐのタイミングに関わらずキニスンはつぐみとうち解けたようだった。
食事時とか、ふたりはたわいない話をよくしている。家に帰ってきて四日目になるけれど、ミーシャはいまだその輪に入っていけない。
引っ込み思案の性格はやはりそう簡単には変わらない。思えば朝の近くに寄れるようになるまでも、もう少しかかっていた。
なかよくは、なりたいのだ。けれどいまから、訪れる寂しさに足踏みしてしまう。
「無理をしなくてもいいですよ。でも、それを伝えればツグミは喜ぶと思います」
シクが言うと、不安そうにミーシャが見上げてくる。勇気づけるように続ける。
「キニスンは思い出作りが人生目標なんだそうです。聞いたことはありませんか?いつお別れが来ても、その人を思い出すとき楽しいことをいっぱい話せるように。お友達になっておくんですって」
「・・・・・・」
シクの薄緑を、のぞき込んでいたミーシャの揺れるような眼差しが、強さを宿す。決意のような。
「わたし、も、頑張る・・・」
「そうですか」
ゆったりと髪の筋に沿って頭を撫でてやると、照れ笑いのようにはにかんで、ミーシャは部屋を駆けていった。
キニスンは体がなまらないよう自主トレをしている。イスパルはいつも通り夕食の下ごしらえの時間であるし、ツグミはこのところ、カノアと過ごすことが多かった。
興味を引かれたのは薬学自体に対してらしいが、カノアはもちろんまんざらでもなく、毎日講習を行い、ふたりは長い時間部屋にこもることもあった。
イスパルの手伝いも進んで行う。頼りない外見を裏切ってつぐみの動きは無駄がなく丁寧だ。
彼女は自分自身が無力で何の役にも立っていないと痛感しているらしい。朝ほど卑屈でもないが、出来ることをやっているのだからもっと堂々としていて欲しいものだ。
つぐみはその考えがあってか、家のことや怪我や病の知識を得られる機会に嬉しそうにしていて熱心に学んでいる。
もとの世界に帰ってしまえば不要だと思うけど、無駄なことだとは誰も咎めない。こちらのことを知ろうとしてくれるのは嬉しい。
たった数日でもいい子だと言うことがよく解る。この家に来る子はみんないい子だ。
シクは書き付けを切り上げて整頓して直し、立ち上がる。シクの私室だけが地下にあった。一階に上がるといいにおいが漂ってきた。
「トマトベースの煮込みですか、イスパル」
キッチンに顔を覗かせると、一度に何品も並行して作り上げてしまうイスパルの隙のない様子が見えた。
「つまみ食い、シクが?」
にやにやと笑みを向けられて、こと食事に関してはシクも苦笑するしかない。美味しそうなにおいにつられて、と返す。
そういえば初日二日目と食事時、小食なつぐみは食べきれず残してしまうことになっていた。
決まりは決まりとイスパルは制裁のげんこつを食らわせていたのだが、さすがに無理をさせてまで食べさせるのが目的ではない。偏食で残しているわけでもない。
なのでここのところ食事は鍋や大皿から取り分ける方式になっていた。これなら食べ残す心配もない。みんなでつつき合うのはさらに楽しくもある。
つぐみも本人的にはよく食べるようになったと言っている。
それでもイスパル的には、作る量が減ってしまっているのが寂しくはある。大祭中に比べれば増えたのだから、それでよしとしなければと思うが。
「今日も美味しそう。楽しみですね。すこし、出かけてきますから、留守をお願いしますね」
「ええ、今からかい?夕飯までには戻ってきなよ。いくらシクでもメシ抜きだからね」
「はい、ええ」
くすりと笑みを返してキッチンを離れる。メシ抜きとは言うけれど、作ったご飯を食べてもらえないのは悲しいから、お説教の後イスパルはちゃんと残していてくれる。
「ひとっておなかすくとイライラするの。でもあたしのご飯を食べたら大丈夫よ!」
家族を亡くしてもちいさな子供達の面倒を見て、あり合わせのものでもあっという間に食事を作って満足させてしまう、少女の頃から団らんを大事にしてきた。
はじめて出会ったときのことを思い出した。イスパルもカノアもちっとも変わっていない。いや、より明るく、見目ももちろんだが気だてよく育ってくれたと思う。
ふたりとも罪のない娘だ。いつ嫁に行ってもいいと、結構前から思っているのに、そんな話はシクの耳に入ってこなくてすこし寂しくもあり、
うれしくもあるのだ。
(ずっといてくれてもいい)
いてくれるといい。行きたいところがないのなら。
シクは外出用のマントを翻しながら、街の方の森へと歩いていく。
このあたりはクォでは南方に当たるが、秋の寒さは日に日に厳しさを増しており、日照時間も減ってきている。今日のようなくもりの日は尚更、頬に当たる風に顔をしかめなければならない。
(春になれば)
シクは樹木の群生地を抜ける。そこはひらけた場所だ。見晴らしもよい。なにもない。
こちらには家の住民達も滅多に来ない。ひとどおりもない。
(春になれば、木を植えましょう。花の咲く木がいい)
シクは前方を見据えた。シクが現れるのを予測していたかのように、人影が立っている。
呪術師が好んで身に纏うような、体を覆う丈長のローブのため体格は解らないがどちらかといえば細身の印象を受ける、きれいな顔立ちの男だった。
カノアくらいの年頃だろうか。女性じみた柔らかさの残る輪郭が、幼く見せているかも知れない。
「・・・ネネですね?」
「シャーロット・クラリティ・ターナー」
昔の名前を呼ばれても、今更驚くこともない。いつも通りにシクは穏やかに微笑み返すだけだった。
「失礼しました。ノースゼネ・カーロとお呼びした方が?」
呼び名を訂正すると鼻を鳴らされてそっぽを向かれる。苛立ちが体外にまで溢れているかのようだ。
「見合いをしに来たわけじゃねえ。てめえの存在がいろいろ邪魔だ」
「・・・ありがとう、私だけに会いに来てくださって」
シクは会話を諦めた。もう少しいろいろと聞きたかったことがあったのが本音ではあるが、相手にその気がないのならば不毛なことはしない。
ふたりの距離は大人の大股で20歩ほど。呪術師と対峙するのに十分な間合いとも言い難いが、シクは構わなかった。
ノースゼネ・カーロは展開呪術を結ぶ際触媒(杖など)も必要とせず、「音」といった(呪文など)手順も省略する。
つまり呪術師がどれだけ鍛練を重ねようと最低限生じてしまう、詠唱の「隙」を作らない。だからといって威力が及ばないわけでもない。
(しかし、短い時間で強力な呪術を紡ごうとすればするほどその制御は困難になる)
その則だけは、どのような呪術師であろうと同様だ。
音もなく放たれた呪術の弾丸を飛んで交わし、シクはじり、と間合いを詰めていく。
飛び道具の攻撃呪術は追尾性能がなければシクには傷ひとつつけられないと判断して、カーロは開いていた手のひらを閉ざし、拳を前に突き出す。
「!」
力が溢れて空気がたわむ。
放たれたのは放射線状の光線。そのすべてを目で追うのが困難なほどの。
すべてを交わすのは無理だと承知で、高く飛び、地に手を着きながら転がって交わす。肩口や足の肉が浅く裂ける。この程度で済んだことに安堵の息をつく。
動きを止めることなく、少しずつ距離を詰めていく。
「・・・・・・」
間合いが狭まっていることに気づいてはいるがカーロは立ち位置をわずかも動かず、突きだした拳に新たに力を収束させる。
氷の杭が空中に現れる。四つ。カーロが腕を振るとそれを合図にシクへ向かって飛んでいく。
ばらばらに迫り来るそれらをすべて軽やかに交わす。また一歩距離が詰まる。
カーロは顔色ひとつ変えずに同じものを現出させる。五つ。
「・・・!」
そんな気はしていたが、先ほど交わしきった四つも空中でくるりと方向転換してシクの背に迫り来る。前後九つを交わし切ることは出来ない。ふたつかみっつはシクの細身を刺し貫くだろう。
(まだ・・・早い!)
ばきん!と硬質なものが砕かれる音。欠片が舞って光を放つ。
「・・・破砕呪」
ロングスカートの中に隠していたそれで、シクはひとつ残らず氷の杭を打ち砕き滅していた。一歩、また一歩足を進める。
他の二流術者ならいざ知らず、カーロの形成した呪を普通の刀剣で砕くとなると至難の業だ。
シクがいま手に携え構えている、黒曜石によく似た光を放つ棒、長槍ほどの長さ。
非常に珍しいものであるが、呪術を受け止められる効果を発するもののようだ。
これほどの逸物は神話時代の遺産でしかありえない。数少ないそれらもおのおのの特性に優れ、ふたつと無い名品になる。
呪術でもないのに呪術に影響を与える兵器、物質、すべてをひとまとめに、破砕呪、もしくは結解呪という。
「なるほど、な」
カーロの表情がわずかに揺らぐ。口元の端が寄り、笑みのようになるが楽しそうには見えない。
「よくわかった。てめえひとりが障害だ」
瞬きの間に先ほどの氷の杭が、あたりを埋め尽くすほどに溢れる。
シクの浮かべる表情は至って冷静なものだ。戦いの緊張感に張りつめた瞳は、穏やかさとはほど遠く熱を秘めているが。
数を数えるのも骨の折れる、氷の杭の大群が、一度にシクに襲いかかる。
「・・・・・・!」
一度二度と氷を砕いたところで、動きの隙間を縫って杭は襲い来る。
シクの前進と破砕呪という国宝レベルの名器をあざ笑うかのように、杭は逃げ間を奪うかのように、お互いをかみ合わせながら激しく衝突した。
それだけでさえシクの串刺し死体を作るには十分であるのに、カーロは杭を打ち出し続ける。おそれをなしてのことではない。慢心する気がないだけだ。
げんに、杭に埋め尽くされその姿は見えないが音が響く。ばきんばきんばきん、食器棚をひっくり返したような、並ぶ窓を順に叩き割っていくかのような耳障りな音を立て、銀髪の女は生きている。
「・・・ぁああっ!」
声を上げ、シクが両手で破砕呪を打ち払う。衝撃波が彼女を中心に放たれ、杭は萎縮するかのようにばらばらと散っていく。
すぐに次の杭が襲い来る。血をまき散らしながら、それを黙って待つほどシクは愚かではない。
地を蹴り一足飛びにカーロへ向けて肉薄する。カーロ自身は生身の人間である。一太刀浴びせるだけで勝負はつくだろう。
「・・・ネネ!」
「・・・ふん」
勢いよく振り上げた破砕呪が、カーロの体を切り裂く、まさにその刹那、
「・・・っ・・・!」
シクが悲鳴にならない声を上げて膝をつきかけ、破砕呪を杖に何とかとどまる。自分に何が起こったのか一瞬、解らなかった。
視認する。しかし理解が出来ない。
右足が裂けていた。何の比喩もなく、肉の断面と白い骨すらのぞかせて。
「・・・・・・!!」
脳天から電撃を浴び、火の槍で刺し貫かれたような衝撃が駆け抜ける。
気が遠くなるほどの痛みが、だんだんと迫ってきて呼吸が荒くなる。
視線だけは目の前の、すぐ側まで迫るカーロにやる。信じられない思いで。
これは、なんだろう、と。
対峙している男は、理解の及ばない生き物だ。それをここではじめて実感せざるを得なかった。
(ネネ)
この男は、確か人間だったはずだ。けれど人間であるという事実を受け入れることが出来ない。
「惜しかったな。あと一息で、俺を殺せた」
橙の瞳がかすかにすがめられる。シクの足を止めた呪術は彼の負担になったのだろうか。顔をしかめている。姿勢を崩すシクをのぞき込むようにしている。
「お前は、終わりだ」
死に神の宣告にしては、声音は静かでなめらかだった。
シクは浅く呼吸を繰り返し、目を伏せる。どうか、どうか。
「・・・いいえ」
だれか。いいえ、誰かなんて頼りません。だから呼びかけるだけ。
あなた。マティアス・クラリティ・シィ。私に力をください。
「いいえ、あなたをここから、進ませない!」
「・・・!」
踏ん張りが利かないために繰り出す勢いも足りない。けれど避けようもないほど近距離で放たれた一撃は、シクの手のひらに確かな手応えと。
あたたかな血のぬめりを伝えてくる。自分のものかも解らなかったが、倒れ込んでくるカーロの荒い息が、彼のものなのだと伝えてくる。
何だ、やっぱり人間なのだ。場違いに、血のあたたかさにシクは息をひとつつく。
「これいじょう、私の子供を傷つけさせない・・・一歩だって、近づけ、させない!」
乱れた髪と、吹き出す脂汗と血糊で、視界すらはっきりとしない。意識を保つことすらもう難しいのかも知れなかった。
どちらのものか判別できない、ふたりの足下をおおびただしい血液が濡らしていく。
おそらくカーロの体を貫いたまま、お互い寄りかかるように微動だにできない。
手が自由になれば抱き合えるくらい至近距離で、カーロの年齢が自分の息子と同じほどだと気がついて、不意に泣きたくなった。
「・・・あなたをひとりでは、いかせない・・・」
「・・・・・・はっ」
小さく漏らした声は切迫したような、けれど嘲笑だった。
シクは、かすかに微笑みそうになる唇を噛み締めて、心を凍らせる。
子供達を守るためならば、この男の息の根を止める。それまで、自分は心臓を止めはしない。
(2009.3.20)