38  瓦解





「あれ、シクは?」
 食卓の準備が整い、全員が席についても銀髪の、穏やかな笑顔はいつもの席になかった。
「出かけるって言ってたけど・・・遅れるなんてシクらしくないな」
「・・・・・・」
「ツグミ?どうしたの」
 隣の席に着いたカノアに顔をのぞき込まれ、つぐみは何とか笑顔を作って首を振った。
(これ、この感じ・・・体が痛い感じ・・・前ほどじゃないけど・・・)
 ウルスの地下で覚えのあるそれ。つぐみは震えが止まらない自分の体をぎゅっと抱きしめた。
(シクさん、違うよね・・・?あの人と一緒なんかじゃないよね・・・?)
 本当になってしまうようなおそれも手伝って、つぐみはその問いを口に出せない。
 イスパルとカノアは目配せをして、先に食べてなと、子供達に言葉を残す。
 イスパルが玄関先へと向かう。
「・・・・・・!」
「だいじょうぶよ、森に仕掛けたトラップが作動していないか確認に行っただけ。彼女のトラップは精巧なのよ・・・?さ、冷める前に食べましょ」
 カノアはいつもより声を張って子供達を促す。キニスンやミーシャももの言いたげな視線を向けたが、何も言わずにいただきますをする。
 暖かくて、いつも通り美味しいはずのトマト鍋は、ほとんど味が分からなかった。



 食事が終わって片付けを終えても、全員がリビングに集まり動かなかった。
 戻らないシクから新たな連絡もないまま夜が更けていく。イスパルとカノアは交互に玄関先へ行ったり来たりを繰り返し、真剣な表情で話し合っている。
「今日はここで、みんな一緒にソファで寝よう。キニスン、布団もっといで」
「うん」
 緊張からすこしでも解放されて息をつくように、キニスンの行動は早かった。
 カノアは自室から木箱を持ち出してきて見聞している。こんな時のために用意していたの、どこか瞳が怪しく光る。
 ミーシャとつぐみは当座することが無く、備えを万全に固めるみんなの走り回る姿を見つめていた。
(なにか、私に出来ることって無いのかな・・・)
 どうしても不安が押し寄せてしまう。隣を見やると、青ざめた顔色で泣きそうに震える少女がいる。
 ソファの端を握りしめる手の上に、そっと手を重ねてみた。
「・・・・・・」
 びくり、と怯えるように全身をふるわせて、伺うような眼差しをつぐみを見返してくれる。やっとこちらを見てくれた、という気持ちになって微笑んだ。
「こわい・・・ネ。てをつなイデ寝る、いっしょ、いい?」
「・・・・・・はい」
 すこしでもミーシャの気が収まればいいと思って言ってみたけど、怖いのは本当だし、ミーシャが頷いてくれてほっとした。
 その夜、リビングのソファにミーシャを真ん中にして三人で横になった。
 イスパルとカノアは交代で起きているらしく、つぐみも名乗りを上げたが即座に却下された。
 子供扱いなのか、客人扱いなのか、戦力外通告なのか、そう思うとうなだれてしまうが、素直に従って毛布を被った。
 隣の二人も、十分に眠れたわけはないけれど。
「朝になったら、ツグミを逃がそう」
 イスパルのささやき声が聞こえて、ぎゅっと身を固くして目をつぶる。




「起きて」
 浅いまどろみの淵には違いないが、眠っていたらしい。カノアに肩を揺すられ、かすかな呟き声で目を開く。
 つぐみは飛び起きて、目の前に膝を着くカノアに肩を叩かれなだめられた。まだあたりは薄暗い。落ち着いてね、静かな声で告げられる。
「一番外側に張ってあるトラップが作動したの。10人以上いる。もちろんこんな時間に来客の予定もないわね」
 カノアは笑顔を浮かべる余裕すらあるらしい。横を見るとすでに子供達も体を起こしていた。
「ツグミを連れて逃げて。出来るわね・・・?」
「おれも残る」
 キニスンは即座に身を乗り出して声を発した。大きくはないが揺るぎない意志がこもっている。
「シクが帰らないいま、あなたが一番の戦力よ。何かあったときツグミを守って。絶対に離れないで。私たちにどんなことがあっても、それを忘れてはだめ」
 キニスンを言い聞かせようとするカノアの声に熱心さはなく、至って静かな響きだった。
「いやだね。それなら尚更、おれが時間稼ぎがうまい。逃げるなんて冗談じゃないね。ここがおれの家だ」
「逃げるなら、みんなで・・・」
 ミーシャも瞳を揺らしながら、キニスンの腕にしがみつき意見を述べている。
「・・・どうしテモ」
 つぐみはためらった。言葉にすることを。けれどずっと頭にあった考えを、この場で告げずにいることが出来なくなった。
「逃げなきゃいけないナラ、みんなデ。わたしが、にげるノ、ほかのヒト、どうなるか、わかるヨ・・・ダメ」
「ツグミ、言いたいことはよくわかる」
 カノアは一応は頷く。それにつぐみは首を振って続ける。
「逃げるノ、逃げて、ダメなら、ひとりでモ、あぶナイ、わたし、イヤ。つかまる方がイイ」
「それはダメ、ツグミ。言ったでしょ」
 頬を両手で包まれる。薄紫と漆黒の視線がお互いの心をくみ取ろうと交わされる。
「あなたひとりの問題じゃない。あなたが媒介として利用されるのは国の安全を揺るがす。協力する、と、シクに誓ったでしょ」
「・・・・・・」
「心を殺して、ツグミ。私たち4人よりも、クォ国民数千万人の安全を考えて」
 あなたには本来何の責任もないけれど、お願い。いつしか抱きしめられるように耳元に、声を吹き込まれる。カノアの体は温かかった。
 感情的に、つぐみ自身の安否を気遣っていると説得されるよりもありがたいけれど、すんなり納得できるはずもない。割り切れない。そこまで心は単純に出来ていない。
「そのかわりツグミに誓う。あなたが自分の身を誰よりも重んじて逃げてくれたら、私たちは誰も死なない。あなたのために死なないと誓うよ」
「・・・しなナイ」
「ええ。もし死んでいたら、ツグミの好きにしていい。泣こうが喚こうが、世界破滅に荷担しようが。だって私たちもう死んでるんだもの」
 あんまりにも確信に満ちた声で宣言するカノアに、キニスンとミーシャの方がぎょっとして目を見開いている。
「そう。死なないと言うことは、お別れではない。そんなにつらくないよね・・・?」
 同意を求めるようにカノアが顔を寄せる。勢いに押されてたじろぐつぐみ。結局は渋々と頷く。
「つかまらナイ。・・・ハイ、わたし、にげるね」
「うん」
「デモ、ひとりでもきずツク、わたし、泣くの、止めることできナイよ」
 負担になりたくはなかったけど、言わずにはいられなかった。釘を刺すにもほど遠い、それはつぐみの懇願のような言葉。
「うん。さあ、支度をして。これをあげるから、死体を確認するまで泣いてはだめよ。信じていてね」
 縁起でもない言葉をさらりと言うカノアに、さすがにつぐみもむっとして恨みがましい目で見上げる。カノアはふふっと笑みを返して、つぐみの首に鎖をかけた。
 鎖の先には、楕円形の珠が下がっていた。金属製で鈍い光を放つ。継ぎ目があって、中になにかが入っているらしいが。
「念のために、ね」
 カノアはつぐみの瞳をのぞき込むようにして、両手を握りしめた。
「これが終わったら、ツグミ。もとの世界に帰る前にわたしの友達になってくれる?」







 裏口から三人を山へ逃げるよう指示して、それをちゃんと見届けるとカノアは室内に戻る。室内の細工は最低限にしておく。だってこれからも暮らす家だもの。あまり荒らしたら後片付けが大変だ。
 カノアもそれなりに提言はするが、イスパルのトラップ技術はプロ顔負けである。
 この家に至るまでの各所に張り巡らせた「警告」系や、地味に戦力をそぐある程度殺傷力のあるものまで。
 実戦向きのものも多い。騒ぎになってはいけないので戦場に仕掛けるようなものは作れないが。
「カノア、火薬は」
「準備できた。あとは裏庭に隠れておく」
「わかった。無理するんじゃないよ」
 止めどなく動き回っていた。足をお互い止めて、視線を交わして、どちらともなく笑顔を向ける。
「イスパルもね」
 頷いて、イスパルは反対方向、玄関の陰に身を潜める。ここが一番あたりの動向、罠の作動確認の把握がしやすい。
 なにかを迎え撃つとき、太刀打ちできる場合は全員で当たろうという決まりになっていた。そうでない場合は、ひとりひとり時間稼ぎをして、年若い順に逃がしていこうと、いつしかイスパルとカノアは話していた。
 イスパルには解っている。どれだけの数が、この家に向かってきているのか、罠の作動状況で、察しがつくのだ。
 ふたりとも、戦闘能力は高くない。街のごろつきをはり倒すくらいは訳ないが、戦闘のプロ相手だとお話にならないだろう。
 正直な話、キニスンとミーシャの方が強いのだ。
「・・・まあ、嘆いたって仕方がない」
 おそらくは10人前後だ。シクの話では脅威は呪術師ひとり程度だったはずだが、事情というのは常に変動するものだ。つぐみを求める輩はこれからも無尽蔵に湧いて絶え間がないだろう。
 さあ、来い。
 あたしひとりで、一分でも一秒でも足止めするんだ。ひとりでも多く、再起不能にしてみせる。






「!」
 ドォン、と大きな音が、山麓のえのぐり茸の家があった方角から響く。
 つぐみは足を止めて振り返る。煙が上がっていた。足下から震えが上ってくる。
「大丈夫。イスパルのトラップの音。あれではひとは死なないね」
 感情を廃したキニスンの声が告げる。緑豊かな山に分け入って、ずいぶん経っていた。
 ここまで来れば、いま家にたどり着いた様子の奴らに追いつけるまでしばらくかかるだろう。
「・・・・・・っ」
 自分がどう悪用されるかと言うことよりも、いま他の誰かが危機に瀕しているという事態に恐怖が募る。これこそ傲慢だろうか。
 自分の持つ重要性を、いまだちっとも理解できないからこその、短絡的な考えだろうか。
(怖い・・・怖い・・・!)
 いくら考えてもまとまりそうにない。言い含められたことも解っている。
 でも、体に不穏な呪術を置かれている所為で、つぐみは誰がどう傷ついても我慢しなければいけないなんて。
 ドォン、
(無理だ)
 もう一度大きな爆発音が立って、つぐみはたまらずに立ち上がった。
 足をもつらせながら、いま登ってきた山を下りようと駆け出す。
「ツグミ!」
「ツグミさんっ」
 即座に両側から、キニスンとミーシャに捕まえられる。必死になってつぐみは暴れた。
「だっテ、だっテ!わたし、行けば、こんナノッ!」
「・・・・っっ」
 キニスンがつぐみの首裏に手刀をたたき込み、ミーシャが声にならない悲鳴を上げる。
 とたん力を失って崩れるつぐみの体を素早く抱き留めて、ミーシャに差し出す。
「キイっ・・・」
「早くこうしておけばよかった」
 非難の込められた目で見上げられても、キニスンは平然とそう零す。つぐみを見下ろす眼差しはけれど穏やかだ。手のかかる子供を見やるような。
「おれがいく」
「キイ!」
 今度こそ泣き出しそうに顔をゆがめてミーシャは呼ぶ。彼が言い出すことは容易に想像がついていたけど。
 いつだってそうだ。風のように駆けていってミーシャを置いて行ってしまう。
「ずっと、いっしょ、だって・・・」
 どうしても取り残される不安が拭えず、声が震えてしまった。ずっと一緒にいると。声に出したことはないが通じ合っていると思っていた。
 こんな時に、ひとり取り残されるのはたまらない。涙をこらえるのが精一杯だった。
「ミーシャ」
 頬に手が添えられて、額にくちづけを受けた。唇はたどるように頬にも触れる。
「帰ってくるよ。ミーのところにちゃんと戻る」
「・・・・・・っ」
 息を何とか吸い込んで、きちんと目を見て頷いた。キニスンは微笑みを向けて、踵を返すと木々の隙間を縫って駆け、あっという間に見えなくなった。
 あとを追っていきたい。どんな危険も一緒に立ち向かっていきたかった。
 けれど、意識のないつぐみの身体をぎゅっと支え、立ち上がる。
 力持ちのミーシャには軽々と抱えられる。キニスンより軽い、痩身の女の子。
(・・・ともだちに、なれなくても)
 このひとをまもらなければ。
 震える手に、手のひらを重ねてくれた、あのときの優しい眼差しが脳裏に過ぎって、ミーシャはぐっと足を踏みしめた。   








 落石と火薬のトラップで3人を仕留めたのは確認した。残りの人員が介抱しながら、一度引き返すべきではと提案していた。
 まだ早いと苛立たしげに返す隊長格の男が、庭周辺を探るよう指示を出す。回り込んだ数人が、カノアが発動させた地雷のトラップで足などを負傷する。
 半分以上戦力外となった事態を重く見て、悪態を撒き散らしながら男達は逃げるように去っていった。
 いささか拍子抜けするほど、これでは街のチンピラ止まりだ。プロではなかったのか。
 それとも呪術師協会は事情に詳しくなく、本当に調査だけの目的で傭兵レベルのものを雇っただけなのだろうか。
「・・・追い払った・・・?」
 イスパルはそれでも緊張を解かずに耳を澄ます。奴らが遠ざかってしばらくは新たな侵入者の気配もない。野良犬一匹たりとも見逃さない包囲網でトラップを仕掛けているのだから。
(ああ、でも、)
 そうっと、辺りをうかがいながら外に顔を出してみる。
(相手が呪術師なら、あたしのトラップは簡単にかいくぐれる―――)
「!!」
 すぐ側に誰かの気配を感じて、イスパルの意識は熱くただれて閉ざされた。





 キニスンの俊足を持ってしても、山を駆け下り建物が見えたとき、いやなにおいに顔をしかめた。
「イスパル!カノア!」
 声は届いたはずだが、誰の返事も、それどころか物音も足音も、争う音も。
 何も響いては来ない。
 足を止めずに駆け、庭へと向かう。トラップの名残か、火薬の据えたにおいが漂っている。
 知らない男が無防備に立ちつくしていた。いきなり現れたような脈絡のなさにぎくりと立ち止まる。
 光沢のない薄茶の髪。青白い顔。深い目元の隈。小太りで、どうにも不健康な印象の男。
「なんだ、まだいたのか・・・」
 脳が、反射的に揺すられたようだった。
 まだ、いたのか。
「い、イスパルと、カノアは!」
「名前は知らないよ。玄関と反対側の庭の方で倒れているけど・・・死んではないんじゃないかなあ」
 罪悪も凶暴性も感じさせない、ただ億劫そうに、ため息すらついて告げられる。
「・・・・・・っっ!」
 キニスンは地を蹴って一足に間合いを詰めた。武器を持たないこの男は呪術師に違いない。
「う、うわあ、あー、どうして私がこんな!」
 情けない声を上げて狼狽えながら、ばたばたと男が両手を動かす。まるでもがいている動作にしか見えないが、それが呪術を紡ぐためのものだとキニスンには解る。
「ひい!」
 あと一寸で恐怖に引きつった男の顔面をキニスンの蹴り上げた足が捕らえる、というところで、背後から強力な力に引き倒された。
「!!」
 地面に打ち付けられて肺が詰まる。目をしっかりと開ききる前に、四方八方から焼けるような痛みが襲いかかる。
「うぐぁ、うあああっ」
 噛まれている。湧いて出たように現れたザグルの数匹。犬型の牙に体のあちこちに牙を立てられた。
「はーっ、はーっ、ああ驚いた。これだから・・・はっ!??」
「ぎゃん!」
「ギャウ!」
 両腕両足、体中を拘束している獣のなれの果てを、振り払い投げ飛ばしてたたき落とす。激しい動きのたびに鮮血が散るが、まっすぐに男を睨み据える眼光は鋭さを増し、格の違う、獰猛な獣を彷彿とさせた。
「あ、あああああ、す、済まない私が悪かった。抗えないんだ、上司の命令なんだっ、君たちはただ呪術媒介を差し出してくれればいいっ、いるんだろう呪法陣のってうわあああああああ」
 言いつのる台詞を無視してザグルのすべての地面にたたきつけた金髪の少年は、ずかずかと足を進める。後ずさる男との距離を詰める。
「―――持って帰って、媒介をどうする」
(ツグミをどうする)
 怒りに震えたが、疑問はどうにか言葉になった。
 男は動揺に狼狽えながらも、何を当然のことを、といった不可解な様子で口を開く。
「あるじの考えだ、詳しくは知らんっ。だが何度か実験を重ね精度耐久度を確認っぃひい!」
 最後まで言わせずに蹴りが男の顔面すぐ横、石壁を穿った。紙一重で避けたのに、男の頬が切れて血が流れた。
「・・・き、金髪碧眼・・・ああそうか、ヴァリアンだ。きみヴァリアンの生き残りか、はは。ヴァリアンのくせに呪術研究の重要さを理解しないというのか・・・」
「うるさい!」
 追いつめられて引きつった笑みであざける男の顔面に、今度こそ逃れようのない一撃をたたき込もうと腕を振り上げる。と、
「―――――見ろ」
 突然告げられ、静かな声なのに、それが耳に届いて忠告と解った。
 目の前の男は背後を見ている。見てはいけない、見てはいけない。
 けれどこの男に何もせずに、おとなしく従い振り向いた方がいい。
 本能的な意識だった。キニスンは固めた拳はそのままに振り返り、
 こみ上げる嫌悪感に目眩を覚えた。
 それが大きな隙を作り、キニスンは大きな衝撃に左肩を大きく逸らした。
 一瞬だけ頭が真っ白になる。肘から先が吹っ飛んでいた。拍子抜けするくらい軽い音を立てて、自分の肉の一部が地面に転がるのを確認する。
 理解はした。自分の状況を理解はした。
 けれどそんなことは些細なことだった。
「ミーシャ!!」
 瞳を閉ざした、意識のないミーシャが抱えられていた。ぐったりとしている。どこを怪我しているのかは解らないけれど。
 気を取られたのは、ミーシャを、片手でぞんざいに抱えている男だ。この顔だ。
「カーロ!!」
 噛み締めた歯が唇を傷つけて血の味がにじむ。怒りに頭が沸騰して痛みや思考が吹き飛ぶ。
「ミーシャに触るな!なにをした、なにをしたんだ!」
 カーロはキニスンの記憶より当然のことだが年を重ねて大人になっている。けれどこの人相を忘れるはずがない。あのときの印象のまま、戦いのあとのように薄汚れ怪我を負っているようだがそんなことは関係がなかった。
 カーロは抱きかかえていたミーシャを荷物を下ろすように地面に転がすと、睨み据えてくるキニスンに視線を戻して鼻を鳴らした。
「てめえらは人の顔を見ると最初に同じような反応しかしないな」
 冗談がつまらなかったときのように呟いて、用は終わったばかりに背を向ける。
 自分の身は顧みず飛びかかりたい衝動おさえながら、キニスンはふらふらとミーシャの側に駆け寄る。
 顔色のない頬に手を添えて、片手で抱き上げる。なんだこれ、なんだこれ。
「ミー、ミーシャ・・・っ」
 揺すっても軽く叩いても反応がない。ただの気絶や眠らされているだけのはずがない。
 その証拠に、彼女から感じられる鼓動が次第に弱まっていくのだ。抱きしめれば体温が下がっていくのも解る。
 そのふたりを横目に、カーロを追ってもうひとりの男が逃げるように立ち去るのが解った。キニスンの思考回路は焼き切れる寸前だったのに、それでも声は溢れた。
「ツグミは!」
 その大声に、後ろの男が驚いて足を止める。前をゆくカーロは止まらない。どんどんとその姿は見えなくなっていく。
 男はしばしキニスンとミーシャを見ていてが、再びぐるぐると腕を回す。おどおどとした表情のまま、手を振ってカーロを追い姿を消した。
「・・・・・・!」
 とたん、森の茂みからさらに数頭のザグルが姿を見せる。
 あの男はザグルを操る使い手か。キニスンは軽く頭を振る。ミーシャをそうっと横たえて、再び立ち上がる。
 愚問だ、あいつらが立ち去ると言うことは、つぐみももうここにいないのだ。
 無力感がいっそうに募った。血のにおいに興奮したザグルが飛びかかってくる。足を振り上げて踵をたたき込む。
 間を置かずあぎとを開く、鼻面に拳を打ち付ける。
 燃えさかる炎が胸の裡にあった。守れなかったのだ、守れなかった、誰ひとり!
 なりふり構わず暴れて牙や爪をまともに受ける。別にいい、こいつらを全部片付けたら、どうなったっていいといまは思う。
 ただ、膝を着くその瞬間まで戦い続けてやる。生き続けてやる。死なない、いまは死なない敵が消えない限りは死なない!
(・・・よかった)
 大型の一匹にのしかかられ、木の幹に押さえつけられる。牙が喉に迫る。
 目を伏せずに、まっすぐに荒れ狂う獣を見ていた。
(アニエスとトキが、ここにいなくてよかった)
 ふたりが無事だと、信じられる。
「・・・ギャ・・・ッ」
 とたん、体にかかっていた重みが軽減され、目の前のザグルが鮮血をしぶいて崩れる。
 血の噴水の向こうに男がいた。はっと全身をこわばらせ、凪いでいた憤怒が再燃する。
「――――ネネは」
 橙の瞳が細められた。その視線の色彩で一瞬見違えてしまったと悟る。剣を構えた男はカーロではない。
 キニスンを助けてくれたのだから、そのはずだと思う。けれど似通った雰囲気の、得体の知れない剣士だった。
「ツグミは」
 問いかけられた名前に、キニスンはただ首を振った。男はじっと、痛苦を与えるような眼差しで睨み据えてくる。息がうまく出来ずに喘ぐしかできない。
(なんだ、この男は)
 キニスンが呆然と男の眼光を受け止めていると、男はふいと体勢をずらして残るザグルを熟れた果実を潰すように易々と切り崩していった。
 流れる血の色を諾々と視界に入れていたが、何とか体を動かす。重傷を負った上で止血もせずに動きすぎた。足取りが覚束ない。
 家の方から、苦痛のうめき声が聞こえた。
(――――――ああ)
 とうとう自分はおかしくなってしまったのか、幻聴だろうか。でも、幻聴でないならば。
 取り乱した声が、ミーシャの名前を何度も呼んでいる。絶望を共有している。同じ痛みを。
 涙で目が潤んだ。
 ごめんなさい、ごめんなさい見せたくなかった。こんな惨状を。
 つらい思いをさせたくなかった。なにひとつ守れなかったこんな、変わり果てた場所で再会を迎えたくはなかった。
 けれど溢れた涙は後悔ではない。熱い、体の熱を奪ってしまう血よりも熱い。
(逢いたかった)
 その姿が見えて手を伸ばす。たった数日ぶりなのに懐かしいそのひとは、(どれだけ自分が悲惨な姿をしているか想像がつきそうな)顔を痛苦に引きつらせる。
 本当に逢いたかった。逢えてよかった。
 ―――――――――――そして苦しい。





 

 

 

 



(2009.3.21)

   戻る