一足先に裏口から戻ると、自分と同系統の顔がにかりと笑って出迎えた。
「いじめたんじゃないのかね」
「…ムカつく。」
 険しい眼差しとその一言を放って、アニエスはキニスンの横をすり抜けていった。
 怒りの対象が自分なのかときなのかと、わざわざ思案するほど彼も間抜けではなかった。
 あり得ないことかも知れないけれど。
 アニエスと朝が仲良く接してくれればいいのに。
 たとえそれが他ならない自分の自己満足に過ぎないのだとしても。

 


4  歓迎




 濡れたままの膝が風に当たる度に冷たくて、さらに憔悴は根強くて、朝は心なしかとぼとぼと歩みを進めていた。
 ふと、顔を上げると戸口に人影がある。
 相変わらずままならない視界で目を眇めると、銀色の光がきらめいてシクだと解った。
 このご婦人にはなぜだか緊張してしまうのだと、朝は思わず身構えたが。
「おかえりなさい、トキ。濡れていますね、大丈夫ですか?」
 おっとりとした声と優しい微笑みで出迎えてくれた。
「あ、はい。ただ、いま…大丈夫です」
 思わず照れながら答えると、シクがやわらかな笑みを深めた。全く圧迫感を感じない、今のようなシクを前にするとふにゃりと気が抜けてしまう。
 不思議な人だ。
「温かいお茶にしましょう。そしてみんなに紹介を」
 シクは真摯に、トキの瞳を正面から覗きこむ。逸らすことも出来ずに息を呑む。
「あなたのお話をしましょうね」



 巨木を二分割したテーブルと、丸みのある木製の椅子には全て手作りらしい刺繍入りのカバーとクッション。
 女の子の夢見る小人の家みたいな、ほのぼのとしたリビングに連れてこられてトキの表情は強張ったままだった。
 広い。十人はゆうに座って食事が出来そうなダイニング兼リビングといったところだろうか。そしてこの家にドアは少ないらしい。
 バスルームやトイレ、客間や個室といったプライバシー空間以外はまたまた伝統的刺繍の刺されたすだれ(のれん?)が間口を仕切っていた。
 この一室の奥はキッチンらしいし、手前は玄関側で応接室のような部屋が見えた。
(確かキニスンが学校みたいなものと言ってたっけ。もしやここって兼教室でもあったりして)
「トキ、どうぞ座って」
 きょろきょろ視線を彷徨わせながら考えに浸っていた朝は、シクに背中をやんわり押されて飛び上がりながら勧められた椅子にかけた。
 沈黙の続く室内の空気に、とたん身の置き場に困って俯く。
「?」
 すぐ隣からとんと腕をつつかれて横目に伺うとキニスンが笑いかけてきた。からかうような眼差しに気が抜けて苦笑する。
 向かい側に先程別れたアニエスが仏頂面で座っていて、朝の方を見ようともしない。
 アニエスのひとつ席を飛ばして座っているのは朝のはじめて見る女性だった。
 ええと、確か。
 朝は記憶の底を探り探り口を開く。
「イスパルか、カノア…?」
 おそらく20代半ばと思われる女性は、葉色の瞳を大きく見開いて、不思議そうな顔を向けた。
「すごいねトキ。良く覚えていたね、そう、彼女はイスパル」
 この場で少しの動揺も見せなかったのはキニスンだけで、カノアのことはまた紹介するねと言ってくれる。
「そう、キニスンが言っていたんだ」
 名前を言い当てられた驚きは早々に落ち着いたらしい。イスパルはココアブラウンの髪を首もとで揺らして、明るい調子で声をかけてくれる。
「イスパル・サンシェーン。宜しく、トキ」
「あ、トキ・ハヤカワです。よ、よろしく」
 ぎこちなく頭を下げるしかできないが、イスパルは気にした風もなく、ひとり端の席に着いたシクへ視線を移した。
「さ、そろそろ話してくんないかな、シク。あたし達だってトキと同じ。全部を聞いてる訳じゃないから戸惑ってんだよね」
「そうですね。ですがトキに分かり易いよう、この世界の話なども交えつつ話します。みんなも、私ひとりでは説明の足らない部分があったら手伝ってくださいね」
 ひとりひとりの顔を見ながら語る、先生のような問いかけに3人は揃って
「はい」
 と頷く。とたん視線を一斉に向けられて、朝も慌てて「はいっ」と返事をした。
(俺に解ることなんて無いような気もするけど)
 肩を落として、けれどいざシクの唇が開く、と思って全身を集中させる。
 今だって自分がこんな目に遭っている事態は何かの間違いだという思いが拭えないけれど、言葉や笑顔を交わしてくれる人がいて、きちんと説明を受けられる状況で良かったと、朝にしては珍しく前向きの考えを抱いていた。



 シク達が住居とするこの建物は通称「えのぐり茸の家」と呼ばれる学校なのだが、シクが昔王都に勤めていた経緯から生徒達の実習訓練も兼ねて怪物退治や災害時救助活動など、危険を伴う仕事が依頼されることもあるらしい。 
「まあ、こういった依頼をこなすのはほとんどおれたち下宿人の仕事だけどね」
 通いの生徒さんはお客さんだしね。合間合間にキニスンが補足を入れてくれるため、朝は差し迫った疑問を抱く余地もなく黙って話に集中できた。
 そして半年ほど前に、世話になっている貴族の住む王都から手紙が来たという。
「近々動きがあり次第そちらに勇者を預けます」
「トキ、あなたのことです」
「……」
 笑いかけられて、そんなはずはないと力いっぱい反論したい気持ちを抑える。今はただ黙って話を聞きたい。
 案の定勇者というのは詩的な言い回しに過ぎず暗喩の表現であったようだ。
「今この国クォには魔王が存在しているようです」
 そしてそれも暗喩。魔王というのは甚大な破滅と破壊をもたらす兵器を差すのだという。
「トキ、あなたの世界のことは解りませんがこの国には呪術と呼ばれる不可視の力があるのです。ここで産まれたものは大小の差はあれど誰しも呪術に干渉し、されながら生きています」
 朝の脳内でその音は、呪いの術、という意味で浸透していく。シクの話す「日本語」が、漢字変換も同時にされながら積もっていく感覚だった。
 だからその「不可視の力」が、ファンタジーで言う魔法とか法術とかに相当するのだと思う。それが、朝をここへ誘った力なのだとも。
「我が国は近隣諸国の中でも呪術の研究が盛んですが、ある成果が出ています。この世界の外のものは呪術の干渉を受けない」
 朝は、自分の指先が冷えていくのを感じた。
「だからとある方は、異世界から召喚したなにかに古代の禁呪を封じられたようです。それだけでは発動したりしませんが、すでに“魔王”は十分に脅威となる兵器なのです」
「…な、なにかって何ですか…?」
 一応整理しながら聞いていたのに思わず、え、もしや俺がその兵器?と考え焦ってしまう。前に朝は勇者と呼ばれたはずなので違うだろう。
 ラスボス(であろう)対象の、抽象的な示し方が気になりずっと閉じていた口を思わず開いてしまった。
「解らないのです。掌におさまるほどの道具かも知れないし凶暴な獣であるかも。生き物であるかさえも定かではない。ただひとつ解るのはあなたと同じ世界のものだと言うこと」
「……!??」
(俺と同じ世界の…!?)
「にっ、人間である可能性も?」
 朝は弾かれたように身を乗り出して尋ねていた。シクはあっさり、けれど神妙に頷く。
「それはもちろん。トキも人間なのでしょう?」
「そ、そうだけど!」
 敬語も吹っ飛んで、ばくばくととたん騒ぎ出す心臓にどっと汗が噴き出す。
 とある方(古代の禁呪が結べて異世界召喚も紡げる使い手は高い身分に限られる)の無茶な呪術でこの世界に途轍もなくヤバイ禁呪が現出してしまった。(一般的には構築呪術らしい。呪術の種類はもちろん朝には良く分からないので、後日説明してもらうことにする)
 それを察した貴族のお得意様が、国で一、二を争う呪術師に依頼して救世主を召喚することになった。禁呪の影響を受けない同じ異世界産で、対抗策としてふさわしいもの、という占いや祈祷まで行い万全を期して、現れたのが朝だという。
(…………国でナンバーワンツーの術者様に呼ばれたの俺)
「や、やっぱり人違いでは」
 心の中で呟いたはずが声に出していた。
「気持ちは分かりますがトキ、あなたに間違いありません」
 きっぱり否定され兵器と立ち向かうのに相性抜群だと太鼓判押されて、嬉しくないのは万人共通の感想だろうか。そうであって欲しい。
「私たちはあなたを死なせるわけにはいかない。町では意志を尋ねましたが、本来なら縛り上げてでもあなたの身柄を確保しなければなりません。私たちはこれからあなたの保護を努めます」
 禁呪がどんな姿形をしていても最善の対処が出来るように、死なない努力もしてもらいたい。幸いここは学校であり、この世界のことを学び体を鍛えるにはもってこいだ。
「嫌と言うなら脅してでも。と言いたいところですがやはり意思を尊重したいです。ただあなたが努力を怠り私たちを拒もうとも、禁呪が脅威をもたらさんとするその時が来たら、真っ先にあなたをその渦中に放り捨てようと思います」
(…怖え!)
 シクから発せられるそれは怒りや脅しの感情ではなく、ただ単に厳格な覇気であると思うからこそずっしりと重みを感じられた。
(なんで)
 関係のない自分がそんな、無作為に選ばれたみたいに重圧を背負わなくてはいけないのか。
 ここまで来て、説明を受けたはいいが、その言葉に偽りは無いと思うし、自分の世界を憂う気持ちも分かる。
 朝が甘い気持ちを抱く余地がないくらい、大変な事態なのだろう。
「…なんて」
 シクの、気の抜けたような声に顔を上げる。
 銀髪の夫人は気負った様子を一切取り払って苦笑していた。
「厳しく言って脅すのが役割なんですけどね。嫌だと言っても、いいですよ。トキ。あなたの自由なのです」
 ただ、私たちの力では今すぐあなたを元の世界に帰してあげることが出来ないのです。そう、真摯に告げられる。ごめんなさいと。
「しばらくここに住むといいね、トキ。この世界の文字からおれが教えてあげるからね」
 机に行儀悪く上半身を伸ばしていたキニスンが、下から覗きこむように朝に笑いかける。
「じゃああたしは家事教えてあげてもいいよ。異世界じゃあ事情が違うんだろうしね」
 腕を組み椅子に深く腰掛けたイスパルも、口の端を持ち上げて笑ってくれる。何だかしごかれそうな雰囲気が漂う。
 アニエスだけが始終朝の方向すら見ない。じっと黙ってむっつりしている。
「そうですね。トキ、あなたがいいなら、ここにいて下さい」
 好きなようにしていいですよ。ただ家の決まりには従ってもらいますが。
「………」
 いきなり、優しい言葉に包まれて再度戸惑う。
 自分の世界から引き離されて、憤ったのも事実。今も腑に落ちない。けれどなにか、理由を求めて一日裸足で彷徨ったのも我が身に起こった現実なのだ。
「…考えても、いいですか」
「ええ、何日でも。何十日でも。答えが出るまで」
 シクの返答は澱みがなかった。
 いつ帰ることが出来るのか、それを提示されないのは寂しい気持ちになったが、けして二度と戻れないとは言われなかった。それがわずかな救いになる。
 頑張って、みようか。
 未だに自分のこととは思えず、いつか本物の勇者役がひょっこり現れたとしても、先輩風吹かせて助言できる、街人Aくらいには、なれるかもしれないから。  





 …魔王をたおし、世界の破滅を防ぎなさい。それがあなたの義務。ここにいる存在理由


 ふいに脳裏を過ぎったのはシクの台詞だった。
 まだ暴力にふらついていた朝に、頭上から落とされた言葉。
(…たおすって、生き物なら殺すってことか?)
 ずぐん、と収まっていた鼓動が激しく音を刻み出す。
 朝が立ち向かうべき禁呪は同じ世界のもの。
 そして同じ、人間であるかも知れない。
 ずぐんずぐんと早鐘を打つ心臓。あるわけがない。違うはずだと可能性を否定しながら、きっと今夜は頭から離れず眠れない。
(…ゆう……?ちがうよな…?)



 真っ先に脳裏に浮かんだのは、異世界に落とされたとき一緒にいたはずの妹だった。


 

  

 

(2007.11.30)

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