5 一日
「のはあっ!??」
朝は悶絶しながら飛び起きた。
脳に酸素が行き渡り、鼻先に強烈な臭気を突きつけられたのだと理解するまでに数秒を要した。
「あ、生きてたね。おはようトキ」
「…おはようキニスン」
開け放たれた窓からすがすがしい風と射し始めたばかりの陽光を感じる。
そんな爽やかな空間で、起き抜けに見る美少年の笑顔は格別だ、なんて言っていられる余裕はもはや無い。
(というか、キニスンにも慣れたというか…)
あれから三日が経ってしまっていた。
「やー、トキは相変わらず死んだように眠っているのだものね」
「だからって毎朝デフレシアの粉を突きつけること無いのに…」
目覚めると同時に地獄も垣間見る、筆舌に尽くしがたいにおいを放つ粉だった。そもそも用途が違う。言ってしまえばそれは害虫駆除用の粉だそうな。
「うう…もはや筋肉痛でなにがなにやら」
抜けきらぬ眠気のまま、朝はのそのそ着替えはじめる。家の一室、朝はキニスンと同室で住まわせてもらうことになった。
と言うか、つい昨日知ったことなのだが、この「えのぐり茸の家」にすむのは朝ら二人を除いてあとは女性らしい。
つまり朝が来るまでキニスンが黒一点だったと言うことだが、中学に上がって以降ろくに異性との交流を持たなかった少年には軽い試練だった。
憂鬱だ。頑張ってみようとか殊勝なこと言ってみたけどそろそろ挫けそうだった。
三日前、あたたかく出迎えてくれたこの家は、朝の決意に対して本当に容赦がなかった。
6時起床。(24時間制で朝が計算したところそのあたりだ。なぜか日本語変換されているためか、数字は10進法。ちゃんと時分秒が通じる)
着替えて外に出、水場で顔を洗う。季節は春だが震え上がるほどに冷たい。シクに訊いたがこのクォは大陸の北部に位置し、年間気温は低め、夏を迎えても(四季もあるらしく)暑くなることは稀だとか。母国で言う東北、北海道かなと思う。空を仰ぐ。今日も快晴(天気が読めるわけもないけど)
6時15分。住人達と朝の挨拶。みんな揃って一斉に、とか合宿めいたものでなく顔を合わせた順に交わすものなので、アニエスとはまだろくに挨拶できたことがない。
「俺って何で嫌われてるの…?」
さげすむ眼差しを向けられる度心理的ダメージが計り知れず、弟であるキニスンにこっそり尋ねると、
「んー、姉は気難しいからね。そんな気にしない方が良いね」
からりとした口調で答えが返ってきて、何だかはぐらかされた気分になった。
(あきらかに敵意を向けられてると思うんだけどな)
しかも初対面から。
確かに理由があるなら気にはなるし、改善したいとも思うが、自ら嫌な気持ちになりたくはないのでアニエスにはなるべく近づかないようにしている。露骨に避ける、と言う風にもならないようにしている。
(理由が分からないから接し方が分からない)
ただ無視という形は取りたくはないと思う。要領が良くないと自覚している朝の、昔からの人との接し方だった。
6時20分。今朝の役割分担。
ここでは自給自足。全てを住人達でやりくりしていくので、朝からばりばり働く。
もちろん来たばかりの朝も例外ではなく、夏休みのラジオ体操前でなければこんな早起きなどしたこともなかったのだが。
「アニエス、畑の水まき。キニスン、裏山行ってハーブ採取。料理に使えるのだったら二、三種、どれでも良いよ。トキ、川で水汲み!」
「ぅえっ!?」
イスパルがしゃきしゃき命じていって、自分のところで思わず変な声を上げてしまった。
注目が集まったので苦笑いする。イスパルは気に止める風もなくさらりと付け足してくれた。
「トキは水汲み初めてだね。今日はミーシャと一緒で良いから、遅れないようにサクッと行ってくること!」
そうなのだ、昨日までの二日間朝の分担は畑の水まきという作業だった。
地味ながらもさんざん脅されびくつきながらも頑張った。なにせ、水の増減によって作物を枯らしてしまったら台所事情に大打撃である。
ようやく、今日こそうまく出来そうだと思ったところに違う指令だ。
(しかも水汲み…)
家屋のすぐそこにも井戸があって水が汲めるのだが、山から流れる川の上流から汲んだ水は清澄だ。そこに生える苔も一緒に持ってくれば浄水効果もあるという。
そして単純に節約にもなるし。
「トキ、さん」
てこてこと近寄ってきた小さな人影に情けなさを感じながら笑みを作る。
ミーシャは10歳くらいの女の子だった。この家で最年少。キニスンと仲が良くて、いつも彼にくっついている姿は微笑ましい。
「よろしくおねがいします、ミーシャ」
ただ、お世話になる手前小さな女の子相手でもぺこりと頭を下げておく。
うつむき気味のミーシャの黄色の瞳がこちらを見て、わずかに和んだように感じた。
桶を四つ持たされ(木製なので普通に重い)ミーシャにひとつ持ってもらう。
枝や蔦の這う険しい山道を、朝は慣れない足取りで、それでもミーシャに遅れないよう必死に歩く。
(この二日で相当な距離を歩いたような気がする…)
何とかつまづき幹に手をつき、飛び出した蛇や虫にビビリながら、目指す川の上流にたどり着く。
川は広く、流れは緩やかだった。雨が降った翌日などは足がつかなくなりそうだが、泳いで渡ることは可能だろうと朝は客観的に思う。(自分に可能かは考えないでおく)
足場の確かそうな岩場に下りて、桶にひとつずつ水を汲んでいく。
さすがにミーシャより朝の方が手足が長いので、彼女は川縁に待ってもらって、朝は川に落ちないようにえっちらおっちら水を汲んだ。
「良し、汲めた…ふぬっ!!」
斜めに傾けても空だったから持てた行きとは違う。水で満たされた桶は下手な持ち方をすると中身が零れてしまう。
ただでさえ倍以上の重さになったというのに。朝はふるふる両手を震わせながらがに股になりつつ前に進もうとする。
「トキさん、あぶない…」
ミーシャが、足元の見えない朝を心配して手を差しだしてくれる。
「や、うん危ないけど、持って行かないとまた怒られるし・・・頑張ろうミーシャ。でこぼこな道とかあったら教えてね」
「……」
二歩ほど進んで抱えなおし、三歩進んで桶を一旦下ろす、そんな具合で朝はちまちま進んでいたが、山道を下りに差し掛かったところで派手につまづく。
「……!!」
なんとか桶二つ分の取っ手は確保したが、残りひとつが傾き大量の水を零しそうになる。
前を歩いていたミーシャが、小さな手をさっと差しだしてそれを支えてくれた。
「ありがとうミーシャ」
汗だくになりながらほっと息を吐き礼を述べると、ミーシャはかわいらしく、小さくはにかんだ。
今更のように気がついたが、ミーシャは桶ひとつとはいえ行きと変わらぬ足取り(朝を気遣ってゆっくり振り返りながらだが)で、顔色一つ変えていない。
基礎体力どころか、もしや腕力も負けているのではないかと思った。
案の定戻ってきた二人を見て、とっくの昔に採集を終えていたキニスンが、
「あれー、トキが三つも桶持ってるね!えらいね!」
と、驚きの表情で出迎えてくれた。誉められたわけだがその評価は微妙だった。
「遅い!もう朝ご飯出来てるよ!急いで手洗ってきなさい!」
と、イスパルからは厳しい口調で急かされたし。
(やっぱりミーシャにふたつ持ってもらえば良かったか…)
今更男子らしくなく項垂れてみるのだが、先を見ればキニスンにまとわりつくミーシャが何だか嬉しそうに話をしていて、まあいいか、とも思うのだった。
(うん、次の水汲みはもっと頑張ろう)
7時。朝食。ここを訪れた初日に話を受けた一室が、予想通りダイニング兼リビング(兼教室)だった。みんな揃って頂きますをする。
共同生活しているなあと実感しつつ、料理や食材の名前、食事時のマナーなども教わりながら食べる。
基本的に母国の洋食風のメニューが並ぶ。今朝は焼きたてパンと茸のオムレツ。緑のサラダと言った感じ。
食事はほとんど毎日イスパルが作って用意してくれる。時々順番が回ってきて交代制らしい。朝は家庭科の調理実習くらいでしか経験がないため、今からその時を思って内心震えている。でもきっと誰かの指導があるはず、と期待してもいる。
片付けは本当に交代制だ。明日はトキにやってもらいますねとシクに言われて飛び上がる。あんまりにもビビッたのでシクの無駄のない片付けの様子を見学させてもらう。
多分ヘチマに似た植物を乾燥させたスポンジで、汚れを洗い落とす。汚れの酷いものは先に油を取る効果のある葉で拭く。水は貴重だ。最低限の量で流す。
基本的にあとは自然乾燥。
(こ、こんなに素早くできないだろうけど)
というか皿洗いもほぼ経験値ゼロなのだけど。
そうしてひとつひとつ、思い知っていく。自分の世界にいたとしても、朝はひとりで生きていく力なんて持ってはいないのだと。
8時。人それぞれ。
週七日制として、六日おきに休みがある以外はえのぐり茸の家は学校をしている。
アニエスは生徒兼先生もすることがあるが、キニスンとミーシャはほとんど生徒らしい。
あとの年長組はほとんど教師と言うことになる。通いの教師がもうひとり来てくれるらしいが、朝はまだ会ったことがなかった。
というわけで授業開始の9時までは各々準備の時間だ。
イスパルは洗濯をしている。
アニエス、カノアは今日行われる授業の準備や確認をしている。シクはみんなの様子を見ながらキニスン、ミーシャと一緒に教室の簡単な掃除。
朝はと言うと、年少組と一緒に片付けをしながら予習復習。
毎日きっちり決まっている訳でもないが、時間割とクラス割は比較的分けられている。
小学生レベルまでの勉強を学ぶ緑組、中学生レベルまでを学べる青組、高校生レベル、さらに専門的に学べる赤組。そして本当に基本的な、読み書きや常識を教わる幼稚園から小学校低学年レベル黄色組。
午前中の授業は赤以外のクラス、比較的若年の子供達に占められる。
もちろん教育を受けられなかった大人達も混ざって勉強する。小規模な学校で室内教室は二つしかないが、ローテーションでうまいこと回っているようだ。
定員人数があって少人数での運営が良いのかも知れない。時間割をグラフ化してみて、従兄弟の兄さんに見せてもらった自動車教習所に似ているかもなと思った。
午後は仕事を終えた大人達も参加できる、専門的な学問の時間だ。アニエスはここの生徒で、ちなみにキニスンとミーシャは同じ青組だと聞いた。
本来なら赤組にいても良い朝は、もちろん黄色組で小さな子に混じり文字の読み書きで悪戦苦闘している。
というわけで9時から授業開始。
黄色組の生徒はこの時間5人やってきた。みんないつも来られるわけではないのでまちまちだが、5人は多くも少なくもない人数だった。
4〜8歳の小さな子が3人。12歳の子が一人。40代の男性がひとり。そして朝だ。
今日の先生はシクだった。黄色組の授業ではシクの教えが優しく分かり易く、人気だ。
いわゆる国語らしい「国文学」の授業だが、まだまだ「こくご」の域を出ない。
朝は教室の隅で英語の授業よりも難解な異国語の理解に努めた。
言葉は通じるのに、読み書きとなると全く別だ。朝に内蔵されているらしい翻訳機能は字幕まで付けてはくれなかった。
厚い紙を巻いた黒炭のような筆記用具で繰り返し繰り返し文字を書く。今のところ自分の名前くらいしか解らない。
記憶力に自信がないので必死に書いて体で覚えるしかなかった。
この時間では他に、時計の見方やお金の数え方、各単位、動物の名前、地図の見方(朝の世界では小三くらいで学んだ気がする)、足し算引き算などを学べるのでまさに世界初心者としては有り難い限りだった。
知識としては十分にあるので理解は早い。ただ紙に書くのが困難なだけで。
「書くのはともかく、読めた方がこの先良いですよね」
シクは笑顔で言って、毎日朝ひとりに膨大な宿題をくれる。
書き取りと、子供向け絵本と、それの感想を出来るだけ多くの文字数で書いてくるといったもの。
提出期限はないと言ってくれたが、それが毎日かさんでいく。雪だるま式に増えていく借金を連想して、早く絵本を読まなければと、今日も朝を机に齧り付かせた。
実はまだ一冊目の絵本を読めるほどに至っていないのだ。
数式学、いわゆる「さんすう」は、数字、記号を覚えれば朝には楽勝だった。まだまだ足し算引き算レベルだが。と言うか四則演算がそのままで助かった。
まあ、式の書き方や組み方が若干違うようだし、文字自体アラブ圏のように右綴りだったり左綴りだったり、統一してくれよ!とか思うのだが。
そして未知の世界の学問、「呪式学」の時間もあった。小さな子供でも知っている基礎を教えられる。
「せんせい、そんなことだれでもしってるよー」
とあまりに基本的すぎたのか6歳の子供が不満そうに零したとき朝はびくりとしてしまった。シクは笑顔を崩さずおさらいですよと流してくれて助かったが。
「呪いの力、呪術は、誰にでも使えるものではありません。ですが、誰しもがその力に関わる可能性を持っています。誰かに何かをしよう、これがこうなったらいい、そういった、希望や欲望、つまり、思いの力がなければ呪いはうまれません。みんなも、呪術を使おう、頼ろうと思ったとき、誰かや何かにどういう影響を及ぼすのか、よく考えて使いましょう」
はーい!と元気良く子供達の挙手と返事。
(希望や欲望、思いの力…)
朝はぼんやり、ノートを取りながら言葉を反芻した。
朝はいわゆる、巻き込まれてここにいるわけだが、一応は誰かに望まれた形であるというわけだ。
良くあるファンタジーは自然の力、精霊とかの媒介を得て魔法が操れたりしてる。ただ本人がすごくて超能力が使えてたりするのもある(まあ、フィクションの話が主だが)
この世界でもああしたい、こうしたいというのが顕著に実現しちゃうのか。能力さえ伴えば。
そこまで考えて朝は背筋が寒くなった。考える度に幾多の疑問が浮かぶ。今夜もシクに話を訊こうと、浮かんだ疑問をひとつずつ忘れないようにノートに書き込んだ。
11時。自習。
その日は黄色組の授業は10分程度の休憩を挟んだ二時間のみだったので、余った時間昼まで朝は自習に当てる。
同じく手の余ったカノアに解らないところは質問させてもらう。
カノアとは余り話す機会がない。すらりとした体型の、物静かな女性だ。白っぽい金髪を頭の後ろでまとめ、薄紫の瞳は常に半眼で眠たそうだ。
「トキ、もしかしてあなた視力が悪いのではないの?」
机にかじりついて書き取りをしているのを見て、静かな声が響く。
朝は女性と二人きりという状況に緊張しながら、小さく頷き返す。
「そう、ちょうどいいわ。視力回復の薬と眼視鏡を研究開発しているところなの。もし出来たら成果を試させて頂戴?」
うふふうふふ、ふふふふふふ、声の漏れそうな含み笑いに晒されて、朝は耐えきれずに机の上の問題に逃げた。
カノアは、まあ、理化学、調薬学担当で、マッドな印象がどうしても芽生えてしまった。
と言うか実際マッドなところはあるだろう。
一日の終わりに滋養強壮のお茶と銘打って出された飲料を、一口飲んで気絶した。翌朝まで目覚めなかった。
確かに夢も見ずぐっすり眠ったが、あのまま永眠してもおかしくなかったと思う。
腕は確かの様だが、心臓に悪い。小心者の朝は出来るだけ関わりを遠慮したいと思った。
(せっかく女性だらけの生活でも、心ときめかす余裕なんて無い…!)
ある意味でドキドキの連続だが。
12時、昼食。
昼食は希望者の生徒も一緒にみんなで食べる。
天気の良い日は外で食べても良い。持参したものを食べる者もいれば、イスパルの手製を食べることも出来る。食事代は授業料に含まれない。
今日は平麺のパスタっぽい食べ物だった。野菜ジュースが付いてきて、濃い味が苦手だったが頑張って飲み干す。午後体が持たないと困るし、というか残そうものなら殴られる。
好き嫌いがあって、食べ物を残すなどということはこちらでは考えられないらしい。
食材の確保も保存も朝の世界より困難なようだし、体質による問題以外は絶対に残さず食べる、が鉄則なのだ。それと無駄な飽食もしない。そう言った贅沢はほんの一部の上流階級に限られているとのこと。
朝もトマトとネギ、ピーマンなど食べられないものが多かったが、食べ続けていると何とか慣れてくるような気がする。
(というか突然湧いた居候だしな…なんの稼ぎ手にもなれないぶん早く色々覚えないといけないな)
食事ひとつでいろいろ考えてしまう。いつも通りキニスン、ミーシャと並んで食べて、揃ってご馳走様でしたを唱和した。
13時。
食後の休憩を終えると、午後はまるまる体育の授業になる。
(うお…筋肉痛まだ痛…)
覚えることは山ほどあるし、朝としては机にかじりついて勉強を続けていたほうがマシなのだが、そうもいかなかった。
ただでさえ運動不足の運動音痴(気味)。出不精な現代人であった朝は、基礎体力が低すぎることを指摘され、みっちりトレーニングを余儀なくされた。
けして大袈裟に言うほど治安が悪いわけではないのだが、それでも朝のいた世界ほど司法体勢が万全ではない。山を歩けば山賊が出るし、野生の動物が凶暴化して襲ってくることもしばしばあるという(パトロールや退治もえのぐり茸メンバーの仕事だったりする)
ろくに使ったことのない場所の筋肉が、準備運動だけでじりじりと痛んで、おそるおそるとしか体操が出来なかった。
(ラジオ体操第一だけでこの有様…)
「トキ!準備は出来たかね!」
トホホと項垂れ、はじめる前からやる気が萎えている朝とは対照的な、明るい笑顔でキニスンが駆けてくる。後ろからはやっぱりミーシャが着いてくる。
「ん?今日は二人だけ?」
「もう三日目だからね、そろそろトキも自分で行ってこねばならないね」
「…うん…」
(うわあああスパルタぁ…)
昨日まではシクやイスパルが顧問的位置づけで見守ってくれていた。いろいろ手間取るとアドバイスをくれたり手を貸してくれたりしていたが。
(もう、三日目にして自主練か…)
午後は赤組の授業が主なので、大人組は教鞭を執るのだろう。学校の用事じゃなくてもやることはいくらでもあるようだし。
「あ、それとおれたち三人だけではないね?今日は」
瞬間的に朝の背筋がびくっと伸びた。
「姉もいるしね」
足音静かにアニエスが歩いてきた。こちらを見向きもしない横顔は相変わらず感情が伺えず微動だにしない。
(っていうか、ピリピリしてるような気がするんだよな)
朝は尻込みする内心を抑えられずにそっと視線を外した。アニエスとこの時間帯を過ごすのは今日が初めてだった。
「では準備は良いかねっ。よういっ、」
一応構えては見るが、徒競走とは形ばかりの持久走だ。
「だっっ」
号令(?)と共に見えなくなったキニスンと、張り合おうとは端から思っていない。
ミーシャも最初はそう速くは感じないのにあっという間に見えなくなる。
朝はやはり苦笑しながら、自分のペースを守って走り出した。
この家の裏山は敷地が広大で、自然も豊か。頂上を目指すとなると半端ない脚力持久力を要求される。
(しかも、走って…)
最終目的は日暮れ前に往復してくることなのだが、朝は当然5合にもたどり着けず夕暮れを迎え、へろへろになって下山すると、夕飯が冷めたと叱られるのだ。
しかも初日よりも昨日は疲れがたたって、記録も帰りも悪い結果となってしまった。
今日も相変わらずひどい筋肉痛を引きずっているし、本当は庇いながら控えめに、ゆっくりと行きたいのだが。
(ん、このあたりは平地。障害物無し。まだ走ってて大丈夫か…)
最初のコースは把握できていたので足を緩めずに行く。
無理せず行こう。でもやはり記録を少しでも更新したい気持ちもある。
朝がここまで慎重になるのも無理はなかった。この山に安全の確保された登山コースというものはなく、真っ直ぐ頂に向かっていても途中で大岩や巨木、崖や湖に普通に阻まれる。
キニスンなどは(朝はまだ目撃していないが)障害物を飛び越え乗り越えほとんど直進しているので速いが、もちろんそんな芸当が出来るわけがない。
迂回して逸れて逸れて、迷子になりながら、道を確かめつつ登っていくしかないのだ。
というわけで、山道に慣れない朝の足は、藪に入ってすぐ歩むものに変わらざるをえない。
「うう」
切り立ち足場の見あたらない斜面に突き当たり、仕方がなく腕を使って必死によじ登る。
こんな事も一苦労だ。
身体を上まで持ち上げて転がると、汗が噴き出て荒い息が漏れた。
小学校低学年の頃までは平気で塀によじ登ったり、飛んだり跳ねたり。遅くなるまで走り回ってもここまできつかった記憶はないのだが。
(やっぱ、身体の衰えかな)
あのときより成長しているはずなのに、何をやってもきつくて苦しい。さらりとこなせるものなんて一つもないような気がする。
「…はあ、」
袖で汗を拭って、立ち上がる。少し肌寒い空気にさらされて肌が冷えた。
このあたりは何処に行っても、濃い緑のにおいがする。
立ち止まって呼吸をしているより、足を前に動かした方がいくらか気分がすがすがしかった。
段々と傾斜も厳しいものに変わってきて、足を滑らせないよう細心の注意を払いながら登る。足を意識する分筋肉に負担がかかる。無駄に力を入れている所為で疲れも増加するのだが、朝はまだまだ身体の使い方を探る段階であるので、木々の切れ間から見える日差しが斜めに傾きかけた時点で、折り返し下らなければならない。
(…タイムアップ)
全身汗だくの泥だらけ。歩いて登っても息は弾む。心臓を抑えて、その場にしゃがみ込む。
昨日よりは登れただろうか。違うルートで登ってきたので分からない。
けれど朝は、一昨日昨日と同じに近くの幹に預かった小型ナイフであとを付けた。
ナイフなんて扱った経験皆無に近いので当初はどきまぎしたが今日はすんなりと線を刻めた。
隣に3、とアラビア数字を刻む。3日目はここ、と後日も分かるように。きっと朝にしか分からない記号。
(ああでも、生えてる木だから、生育すればいずれは分からなくなるんだ)
出来れば分からなくなる前に、記録を伸ばしていきたいものだ、朝は細い息を吐き出して、もと来た道を下りはじめた。
重力が下にあるのだから、下りの道は速く進みがちだ。けれど登り以上の注意を払わねば、足を滑らせ転がり落ちる危険があった。結果として下りの方が疲れる。
しかも舗装もされていない山道。どこに何があるか分からず、出っ張った石を踏みつけては痛い、と顔を顰め、ちょっとした雨水のたまり場に足を突っ込んで冷たい思いをする。
朝は、(ここに来てから自覚したことだったが)自然は好きだった。すがすがしく雄大でうつくしい。しかしその中を歩み、体感するのはなかなかに厳しいものだと身を以て学んだ。
自分の過ごしてきた16年間なんてほとんどこの世界では無意味で、結果一から学ばせて貰っている。無意味なら、どうして朝がわざわざ選ばれたのかともう数えてもいない疑問を繰り返す。今日も、自分のちっぽけな存在を感じながら山を下りる。
けれど少し、今日は違った。
朝は今まで持ち得なかったものを、ここで知り、感じて、見ている。
故郷では見られないような景観を臨んでいて、自然をうつくしいと感じる。
役得なのかも知れない、額の汗を、泥だらけの手で拭いながら少しだけ、少しだけ思う。
と感慨に浸るのもつかの間、重なり合った木々の向こうからがさっと物音がした。
飛び上がって足を止める。
鳥やうさぎや、害のない動物と遭遇することは今までもあった。けれど大型の、熊や狼のような凶暴な動物が出てこない保証はない。だからいつも物音に緊張する。
「……?」
しかしいつまで経っても物音の源は姿を見せてこなかった。ただの通りすがりの鳥や蛇なら良いのだが、
(キニスンだったら、下りついでに俺を脅かしに来たりはするかもだが)
初日を思い出して苦笑する。あの少年は気兼ねなく屈託無く朝に関わってくれて、困惑するのと同じぐらい気遣いが嬉しかった。
「…?」
しかしやはり人の出現もなく、朝はそっと枝葉を掻き分けて奥を覗いてみた。その先にもやはり緑の木々が広がっていると思ったが、少し木々の途切れた薄暗い場所が見えた。
「…?…!!」
思わず身体を乗りだして、気がついたら飛び出していた。
それに向こうもすぐに気付いたらしく、すくみ上がるような拒絶の声が朝を打った。
「来るな!」
「アニエス…!」
反射的に従い、足を止めてしまったわずか5歩先に、険しい形相のアニエスがいた。
くるくると柔らかく巻いた金髪も、整った顔立ちも、朝を見る苛烈な青い眼差しも相変わらずなのに。
朝は全身を硬直させたまま、驚愕に全身を強張らせた。
山中に、あまりにも不自然に、けして大きくはない沼がある。沼から幼児をかたどるようなぽってりとした手のようなものが伸びている。
アニエスは足を掴まれてその左足はすでに沼に浸かってしまっていた。
朝が身動きできないその間も、ずるり、ずるりと引きずられている。
金髪の少女は朝を睨み付けたまま、てのひらを地面で掻いてはいるがそれ以上の抵抗は出来ないようだった。
「…アニエス…!」
勇気を振り絞って手を差し出すべく朝が一歩踏み出すと、先程以上の拒絶と叱責がアニエスから放たれる。
「近づくな、離れなさい!!」
あまりの形相に再び足が凍り付く。アニエスは屈辱だというように目線を逸らし、早口で朝に声を投げかける。
「これは呪術を食らうもの。あなたも言ってしまえば構築呪術の固まり。捕らわれれば逃げ場はない。いいから離れなさい」
「アニエスは!?」
確かこの少女は呪術を扱う、呪術師だと聞いた。では彼女はこのままでは。
「さようなら」
ぴしゃりと言い放ちアニエスは完全に朝を視界から追い出した。その目を閉じて、今度は口も閉ざしたのだ。
そんな、そんなのって。
朝は完全なパニックに陥った。もしかしたらまだ山にいるかも知れないキニスンやミーシャに助けを求めるべきだろうが、この広大な森で探し当てられる時間が足りるとは思えなかった。
山を急いで下りるのも同じ事だ。ここに戻るまでに、最短でもどれだけの間。
アニエスをひとりにしておかなくてはいけないのだろう。
そう、混乱の極みの中にしては冷静に考えた結果、朝の取った行動は最もおろかと思えるものだった。
アニエスの忠告を真っ向から無視したのだ。
「アニエス…ッ」
「!!なっ」
空いた数歩を詰めて、少女の両手を掴んで引き上げようと引っぱった。
沼に近づいたとたん、ぐんっと朝の身体が前のめりになる。
アニエスを引き上げようとするその努力を無駄なものとして、不可視の力に引き寄せられる。
「ぐ、ぐぎぎぎ…!」
「手を離せ、離しなさい、馬鹿者!私に触れているからあなたも引かれる!」
「離したらっ、アニエスが落ちる…ッ」
歯を食いしばり、両脚を踏ん張っても、嘲笑うかのように沼から数多の腕が伸びる。
人型を模した、手のようなものが朝もろとも二人を呑み込もうとする。
「うう、キニスン、キニスン…ッ誰かーーーーーッッ!!!!」
もうなりふり構っていられなくなって、もしかしたら聞こえるかも知れないと声を張り上げる。
分かっていたはずなのに。アニエスが忠告してくれたのに。自分が大したことが出来ないことも、分かっていたのに、言いつけ通り、離れていくなんて出来なかった。
「…イッ!??」
鋭い痛みが腕に走って掴んだ手を離しそうになる。涙目で見やると、アニエスが朝の腕に噛みついていた。
「……!!」
こちらを睨み付けてくるアニエスの瞳が、傷ついたように歪んだのを一瞬だけ垣間見た。
朝は身体を乗りだして、もうすぐ沼に浸かりそうなアニエスの上半身を抱き締めた。
アニエスは全身で抵抗しながら朝の肩に歯を立てて、身体に爪を立てる。
この少女には抵抗されてばかりで、けれど今度ばかりはこの抵抗を拒もうとは思わなかった。
「誰か、キニスン、ミーシャあ、シク…ッ、誰かーーーッッ」
アニエスを抱き締めたまま、ひたすら声を涸らして朝は叫ぶ。
自分ではどうにも出来ない。アニエスを助けられない。
(駄目、だ…ッ。イヤだイヤだイヤだっ…)
沼に引きずり込まれたら、どうなるのか。窒息死か。予測もつかない自分たちの末路に、朝の全身は震える。
(駄目だ、駄目だ駄目だっ)
落ちる、と、アニエスを掴んだ朝の手が、ついに沼の湖面に触れた。
その時。
「!!!」
水が弾けた。耳の奥を、不快な断末魔が揺さぶり、朝はつよく目を瞑る。
衝撃はあっという間だった。もう引き込もうとする力はどこにもなく、朝は訳が分からないままに目を開く。
すぐ目の前に、ぽかんと目を見開く美少女の顔があった。きっと朝も、鏡のように同じ表情をしている。
沼は、先程までが夢幻であったように静かに、沈黙している。少し力を入れてアニエスの身体を引くと、ぱしゃりと水音を立てて少女の半身が抜けた。
先程まで、びくともしなかったのに。
「は…っ」
アニエスを完全に沼から引き上げると、脱力してその場にへたり込む。助かった。
助かった。実感が湧いてきて、相変わらず茫然としたままのアニエスに笑顔を向ける。良かった。
アニエスと目があった、その瞬間少女の青い双眸に、憎悪とも取れる火が灯る。
ばちいんっっ!
いい音が響いて、朝は衝撃に横を向いていた。アニエスに平手で頬をぶたれていた。
「あなたは心底目障りだわ。消えて欲しい」
アニエスはそう言い放つと、すっくと立ち上がって先程までの疲労も見せずに朝の前から姿を消した。このまま下山するのだろうと思った。
「……」
そう、認識は出来たけど、頬の痛みを自覚して、朝は次第に目元に熱が籠もるのを感じた。
(痛い)
アニエスを助けたことには、欠片も後悔を感じはしないけど。
(…痛い。泣きたい)
風を受けて汗だくの全身が冷たかった。歯を立てられた腕も、爪を立てられたあちこちも、ひりひりする、はじめて女の子に殴られた頬も。
幾度向けられたって、嫌悪と拒絶に心は慣れない。
(痛い…)
朝は耐えられなくて少しだけ泣いた。涙は溢れず、数滴落ちただけで収まっても、膝を抱えて頭を押しつける。
「…トキ?」
がさっと大きな音を立てて飛び出してきた人影があった。声だけで分かる。キニスンが来てくれた。
けれど朝は顔を上げることも声で応えることも出来なかった。
「姉がいたかね?」
小さな、伺うような声が降ってきた。自分のことを頭が悪いと評価する少年は、それでも十分に察しが良すぎる。
慰めの言葉があるかと思った。キニスンは何も言わなかった。ただ朝の目の前に座り込んで、覆い被さるようにして体重をかけてくる。
(…重い)
じっとりと凹んでいる暇もないぐらい、重い。キニスンは全体重で朝に乗っかっているようだった。
「ごめんね」
さすがに抗議しようかと朝が動きかけると、頭の上で押し殺した謝罪があった。
誰も悪くないし、きっと朝も悪くない。
だから、謝ることはない、そんなことはないと言うべきだと朝の心はその方向へ傾いたが。
「ごめんね」
謝る声が、いつもの明るい少年のものと違うので、ただ静かにそれを聞いた。
全身にかかる重みが、少年の体温の高さが、少しずつ朝の気持ちを落ち着かせてくれた。
朝はその後、気を失った。
朝を背負ってキニスンが下山してくると、裏口で心配そうに立ちつくしていたミーシャは息を呑んで駆けだした。
「トキさん?」
「心配ないね、疲れて寝てるだけ」
ミーシャの頭を撫でて、ごはんにしようと優しく促す。
けして納得できる説明ではなかったが、黄色の瞳を揺らして、それでも渋々頷く。
「うん…」
その日の夕食は、朝とアニエスの二人を欠いたものになった。
夜の帳が下ろされて、当たりは自然の生き物の声だけ響いている。
左手に灯り、右手に湯気を立てるカップを持って、夜着のシクが音もなく暗闇の廊下を歩いていた。
「―――アニエス」
やがて闇の凝りにしか見えない、うずくまった人影にささやきかける。
「きちんと身体を拭きましたか?」
問いかけと言うよりも優しいただの呟きに、金の輝きを持つ少女の肩がぴくりと小さく震えた。
よく眠れるよう鎮静作用のあるお茶を側に置いて、シクはおやすみなさい、とそれだけ告げると、頭を優しく撫で、もと来た廊下へ静かに立ち去っていく。
過ぎた干渉も、詮索も、必要があるとは思えない。無神経とも取れるそれは、時に人の心を取り返しのつかないくらい傷付けることもある。
シクは自室へ向かいながら、一瞬だけ目を伏せる。
冷めていくカップに触れることも出来ず、アニエスは膝の上に置いていた手をもう片方の手で押さえていた。
少年に、つよく掴まれた手の感触が遠かった。もうずいぶん昔のことのように。
膝の上に置いた、震える手をもう片方の手で押さえていた。
本当に助けて欲しいとき、助けてくれる「誰か」なんてこの世の何処にもいないことをアニエスは知っている。
(2008.3.7)