「あなたにとっては呪術という概念が一番理解しがたいのでしょうか」
 黄色組の授業のあと、夕食のあと、時間の合間、シクはときにいろいろな話をしてくれた。 
 授業のあとならばそのまま教室で。けれどその場が住人の集うリビング兼ダイニングなら、イスパルがお茶を煎れてくれることもあって、朝は落ち着いて話に耳を傾けることが出来た。
 言葉が伝わるのが幸いだが、日々生活環境の違いと価値観の違い一つでも朝の中で疑問は処理、対応しきれないほどに降り積もっていった。
 誰でもいいと言えばいいのだろうけど、シクは特に年長だからか、よく朝の相手をしてくれた。煩わしいという態度をちらとも見せずに。
「ええと、俺の世界でも水力とか、電力とか、色々なことが便利に出来てるんだけど、人間の手によって工夫されて、機械とか道具とか用いてはじめて可能になってるもので、理屈で説明付けられるものしかなかったんです」
 聞いた限りの話では、呪術とは朝の常識外にある事象にしか思えない。
 シクは穏やかに微笑んだまま、それでは得体の知れないもののように感じるのも無理はありませんね、と相づちをくれた。
「けれど私たちの感覚では、呪術とて言葉で説明できないものではけしてないのですよ」
 テーブルの上に、水滴の残るコップがある。シクはそれを細い指先ですくって、卓上になにやらかたどっていく。
「呪力というのは、土地に刻まれたエネルギーなのです。まだはっきりとしたメカニズムは判明していないのは確かですが、風や海や、雷などとも大差ないとされる、自然現象の力なんですよ」
 横に地平線を引いて、それを分割するように縦に矢印を引く。矢印の先に「呪力」と書き込む。朝の目には温泉が噴き出す図のようにも映る。
「力そのものはどこにも転がっている。道に転がる小石のように。もちろん増減はするとは思うのですが、私達も時間をかけ、それを操るすべを身につけたに過ぎません」
「そこにあるのが当たり前でも、慣れ親しんでいても、侮って良いものじゃない、ってこと、ですね」
 自信が無さそうに、朝はシクを伺う。彼女はうれしそうに微笑み返してくれる。
「ええ、そうですね。我が国クォでは普及が著しい分、被害や弊害が多く規制も厳しい。まあトキにはそのどれも、関係のないことかも知れませんが」
 思い切り顔を顰めてしまった。シクは気にした様子もなく説明してくれる。
「忘れましたか?トキがこちらに喚ばれたのは呪力の影響を受けない異世界のものだからです。トキにはどんな、兵器級の呪力も通用しないのですよ」
 さすがに巻き込まれたりなど、余波までは無効化できないだろうし、逆に回復のまじないも効かないことにもなるのだが。
「あ、そういえば!」
「とはいえ、この国に滞在する以上呪式学は一般教養としても学んでいた方が良いですからね。頑張ってくださいね」
 間を置かず、にこやかに今日の宿題を手渡される。がっくり項垂れるが、はやくひらがなレベルぐらいは解読できるようになりたいのも事実で、朝は神妙に紙の束を受け取った。
 そんな風に、世界を学んでいく。






6  外出








「アニエスは少しおっとりしたところがあります。うっかり足を踏み外してしまったのでしょう」
 あやうく沼でおぼれかけ、気を失った翌日、朝は昼過ぎにようやく目が醒めた。
 すぐ枕元にはシクがいて、今日の黄色組の授業はおやすみですと教えてくれた。
 少し複雑な心境のまま、少女の安否を尋ねると、ご心配無くの一言のあと、シクはいつも通りの穏やかな口調でそう告げた。
(そんなバカな)
 朝はシクを凝視したが、けっきょく彼女は何も言わずに言葉を続ける。
「軽い貧血でしょうね。トキの性質は水だと聞いていますから、その沼を浄化するのに消費したのでしょう」
 聞き捨てならないことを言われて目を白黒させる。
「こちらへ召喚する際、媒介に20ラスの水を使用したと聞きました。それと引き替えに、あなたを呼び寄せたと」
 20ラス。1ギラが約0.8グラム。1000ギラが1ジオ。1000ジオが1ラス。
 いきなりのことで暗算に頭が回らなかったが、約16トンということだ。
「……俺って水製なんですか?」
 悩みに悩んだ末、おそるおそる尋ねる。シクは何でも無さそうに返してくれる。
「もちろん身体はあなたが産まれて育ったそのままなのですが、この世界に何の弊害もなく存在させるために大量の水を媒介として被せているんです。カモフラージュのようなものですね。無意識だったのでしょうけど、アニエスを助けてくれて、ありがとうございます」
 朝はせわしなく、何度も瞬きを繰り返した。
 体内の見えないところに、何トンもの水が圧縮されて溜め込まれているのだと、そう解釈すればいいのだろうか。
(あったまいってえ)
 今までは、不思議ワールドに足を踏み入れてしまったとはいえ、自分は自分そのままなのだと言うことで、何とか納得していたのだが。
 どうやら知れずにトンデモ設定が搭載されているらしい。
(ああ、そういえば)
「こっちに来るとき、何か、高いところから水にばしゃーんと落とされたような気がする」
「実際にあなたは水に落ちてきたようです。その全ての水を、干上がらせてようやく召喚が完了ということですね」
 またもやあっけらかんと告げられて、朝はもう脳内が許容量オーバーでパンクしそうな心境だ。それを察してか、シクも気遣う眼差しで付け加えてくれる。
「けれど、今回のような緊急事態でもない限り「水」を使うことも、必要もないでしょう。トキも、どうやって使ったのか、また、どうすれば使えるのか、分からないでしょう?」
「……」
 言われてみればそうだ。とにかく必死で、死にものぐるいで、同じ状況に陥ったとしても同じ事ができる自信なんてさらさら無い。
「だからあまり気にしないで。今日は一日、ゆっくりしていてもいいですよ」
 いつも物腰は優しいが容赦はないシクにしては、本当に掛け値無しに優しい言葉をくれた。確かに貧血時のように全身がだるいような感覚はまだあるのだが、朝は首を振った。
「いや、すみません。今日、俺が茶碗片付け当番でしたよね。やります。起きて、働きます」
 もとの世界にいたのなら、絶対に言わないような真面目で殊勝な態度が朝から飛び出した。
 たった数日過ごしただけでも、この家のサイクルに加わらないのは住民として悪いような気もしたし、じっとしていることは無理だと思った。
 毎日くたくたになって、布団に入ればすぐに眠りに落ちる日々が続いた。
 そのおかげだと知っていた。思い悩むことも、愚痴をこぼすことも、自分に許さない日々は朝には有り難くあった。
 役割が欲しい。何でもするから、出来ることをするから、立ち止まる暇を与えて欲しくなかった。



 それからも慌ただしい日々が続いて、朝はようやく最初の読書感想宿題に手が出せるようになった。
 キニスンやミーシャ、子供達とは当初から気兼ねが無く、いつも一緒に行動していた。さすがに走れば追いつけなかったりするが、元気な力強さに励まされる。
 イスパルやカノアとも少しはうち解けてきた。二人は朝が今までしたことがなかったことを一つ一つ教えてくれる。
 はじめて作った野菜の炒め物が食卓に並んだ際、文句をいいながらみんなで残さず食べてくれて感動したし、傷薬を自分で作れるようになったときは誰かが怪我しないかと不謹慎な考えに駆られたものだ(けっきょく自分に使うことになったが)
 生傷は絶えなかったが、午後の運動が楽しく感じられるようになった。体育の授業は嫌いでやる気がなかったのに、生徒さん達総出で鬼ごっこやこちらの世界での遊び、朝の世界の遊びではしゃいだ。小学校のグラウンドで夢中だったことを思い出す。
 少しずつ慣れる度に、次々にやることが増えていった。出来ることが増えていった。
 相変わらず要領も、覚えも悪いが、強制されていることが一つもないからなのか、朝は一生懸命になった。
(もとの世界では、なにひとつ真剣に取り組んだこと無かったのにな)
 けして得意なことや好きなことだけやっているというわけでもないのに、朝は何をやっても新鮮で、楽しいと思った。
 アニエスとだけは相変わらず、嫌われたままだった。
 けれど朝の方は次第に、尻込みすることが減っていく。彼女の対応に慣れたからなのだろうか。
 返事がないことは承知でも、おはよう、と挨拶をすることが出来るようになった。
 そして朝がえのぐりだけの家に来てあっという間に2週間が過ぎた。
「オセーネに買い出しに行かないとね」
 イスパルが今日のおやつの準備をしながら、朝を真っ直ぐに見据えてそう言いはなった。
「お、おせーね?」
 聞き覚えのある固有名詞に首を傾げる。たしか、朝がはじめてこちらに来たときに放り出された街の名前だ。
「小麦粉と砂糖と…」
 キッチンの調味料の残量を見ながら、イスパルはメモに書き連ねていく。
 家庭菜園で調達できる野菜や、魚肉は森の恵みで足りるが、調味料や嗜好品はそうもいかない。
「お茶っ葉は?」
「ああそれも要るね。トキ、えらい!」
 そういえば残り少なくなってたなと思って、メモを覗きこみながら告げると打って響くように誉められる。
 こんなやりとりも、一員になったかのように思えて嬉しかった。
 もちろん、そうなるだろうなと思ってはいたが、朝は自分から、少し緊張しながら切り出した。
「い、行ってこようか」
「うん、よろしくー」
 メモをぽん、引き出しから取り出した布の財布をぽん、と気兼ねなく渡されて頼まれる。
 オセーネまでは道がきちんと続いていて、迷うことなく行けるだろう。訪れたのは一度きりだが、街の中心部に広がる商店街のような場所なら全て揃うと思うので、朝の社会勉強にはうってつけだった。
(というか、こっちに来てはじめてお金使うな)
 もちろん人のお金なのだが。
「あ、そうそう。お駄賃で500カーンまでなら欲しいもの買ってきて良いよ。せっかくの買い物だしね」
「ご、500カーン!??」
 お駄賃、という子供のような扱いよりも、その金額に狼狽える。もとの世界なら(お駄賃の金額としては高いが)映画も見れない値段だが、この家の節制生活になれてきた朝にはとんでもない高額に思えた。ちなみに日本円では900円相当だ。
「い、いや、あんまり金銭感覚無いのは承知だけど、500カーンって、いいのか?」
「いや、そこまで赤貧でもないから、大丈夫だから。こっちの世界でトキのものって無かったでしょ。服でも本でも、見てくるといいよ」
 思いがけない言葉に声が出てこない。
「ありがとう、イスパル。お手伝い、してみるもんだなあ」
「あはは。アホ言ってないで行った行った。夕飯に間に合わせないと拳骨だからね」
 肝っ玉母さんを地でいくイスパルにカラカラと笑われて、朝はひいっと冗談ではなく震え上がりつつ、上着を取ってきて羽織り、早歩きで家を出た。
「…行ってきます」
 家を一歩出て、ふと口から自然と言葉が漏れた。
 今までも学校に向かうたびに、習慣として口にしていた言葉。何の感慨もなく、あくび混じりに、リビングの母親に聞こえていなくても構わないような、元気のない声で。
 だらだらと口から漏らしていた。ああ学校いやだなあと。
「…行ってきまーす!」
 朝は家の戸口を振り返って、大きな声で言い直した。照れくささがこみ上げてきて、早歩きで歩き出す。うしろから、朝の声に気付いたらしく、
「あはは、行ってらっしゃーい!!」
「トキ、どこ行くのかね?買い物?あ、いってらっしゃーい」
「気をつけてねー!」
「行ってらっしゃい」
 ざわざわと声が追いかけてくる。その賑やかさに口元がにやついてしまう。
 心臓がどきどきと音を立てている。



 最初この家に来るまでに辿った道を逆に歩く。
 あの時はとにかく精神的にも肉体的にもふらふらだったので、景色を見ることなくみんなに着いて歩くだけだった。
 今は早歩きながら(あの家で過ごすうち怠惰に歩く癖すら改良されてしまった)緑満ちあふれた道を眺める。木々の深い道を抜けてしばらくすると大きな川と橋があって、その橋を渡る。
 橋を渡って再び道沿いに進むと、街道が幾つか別れた開けた場所に出た。朝から向かって右手には山々が連なり、左手には(黄色組の授業によると)世界最大の、国境にも当たるレイ・ヴィシス湖が広がっているはずだ。ここからはまだ見えないが。
 立てかけられた看板の、「オセーネ」の文字を確認して、朝は示された道に進む。
 ちゃんと字が読めるようになっていて安堵と同時に少しの感動。
 英語にしろ中国語にしろ、たぶん地名ぐらいは読めるから、そんなに難しいことではないのだが。
 家を出ても、この世界になじんで行っているのだと自覚できると、感慨深い。
 さらに道なりに進んでいくと、見覚えのある顔と鉢あった。えのぐり茸の家に通いに来ている、生徒とその母親だ。
「あら、こんにちは」
「あ、トキにーだ!」
 黄色組に通うその子とはすっかり顔なじみで、指を差されて笑顔を返す。
「こんにちは」
 今から買い出しに行くんです、そうなの、気をつけてね。じゃあねトキ兄!また遊んでねーっ。和やかに会釈を交わして、朝とはすれ違いに学校へ行くのだろうか、親子を見送って、再び街へ向けて歩き出す。
(やっぱり)
 俺はこの世界にいるのだなあ。
 今更ながらに実感していく。朝が過ごして蓄積された日々は、確かにこの世界にたった一部にでも、刻まれているのだ。



 それからはひたすら歩き続け、2時間ほど経っただろうか、日が頭の真上に差し掛かる頃ようやくオセーネの外門に着いた。
 クォ中心部では、首都フェドレドに次ぐ大きな街。大概のものは手に入り、商品、情報、人々も年間季節を問わず流通し続けているという。
 はじめてここに来た時、まる一日放浪し続けた身としては若干苦い思いが過ぎりもするが、過去は過去として、今度こそ落ち着いた目で街並みを見渡すことが出来た。
 最初の広場には大きな、街全体の案内図が掲げられていて、朝は熱心にそれに見入った。
 このまま真っ直ぐ北上すれば、ありとあらゆる商店の建ち並ぶ大通りに出るらしい。
 店名の読破は難しかったが、「野菜果物」「魚介」など店の分類は理解できた。
 お使いのほとんどを占める食料品は、大通りに入ってすぐの界隈でおおむね揃うようだった。もとの世界でも、ひとりで買い物というシチュエーションはなかなか無かったが(いつも生活必需品は母親が買い足してくれていた)、都会の華やかな雰囲気に心が否応なしにも浮き立つ。
 遊びに来たのでないことは承知しているが、好きなものを買っていいと言われて正直に嬉しかった。人並みに物欲だってあるのだから。
 とはいえ夕飯までに帰る制限もあるため、ゆっくりと街見学する余裕はない。朝はほとんど小走りに商店街へ向かい、店先を覗きこんでいく。
(良いものを安くが基本ってイスパルが言ってたな)
 当番の時に受けた教えを思い出しながら、色々と比べてみる。イスパルはまだまだ年若いが、他人の妥協も見逃さず許してはくれない。こと彼女が仕切る台所事情なら尚更だろう。
 どれだけ安く、良いものを買って帰るかで帰宅時の朝の命運は決まる(といっても過言ではない)
 もしかしたら色々と体験させてくれる、という社会勉強の面だけでなく、朝の適応力や柔軟性など、住人にしばしば試されているのでは、と思うことがあった。
 もちろん朝はあの家で面倒を見て貰いながら生活力(?)を学ばせて貰っているのだから、そうなるのも当然といえば当然なのだが。
(あー、そう考えると、なんか)
「きゃっ!」
 朝は思考に沈み、ぼうっと立ちつくしていた。背中からぶつかってしまった女性が声を上げ、狼狽えた様子で謝罪される。
「うわ、あ、俺こそごめんなさい、ぼーっとしてて!」
 弾みで女性の持つかごから転がり落ちた大量のじゃがいもを一緒に拾い集める。
「まあ、親切に拾ってくださってありがとう」
 それにしてもじゃがいもの数が多いなあと思いつつ最後の一つも手渡すと、30代の頭だろうか、まだ若々しい女性が改めて笑顔を向けてくれた。
 薄い茶色の髪を結んで後ろに流し、瞳の色も優しそうな茶色だ。ところどころほつれ、失礼ながら薄汚れたエプロンを着ていた。
 大家族のお母さんには見えないが。
「おつかいに来られたの?」
 正直、初対面の人とにこやかに談笑する柔軟性も社交性も余り自信のない朝は立ち話に捕まったかと苦笑を浮かべ曖昧に頷いたが、優しそうな顔立ちを見ていて思いついた。
「あ、あの、厚かましいことを承知でお願いが!」
本当に、朝にしては大胆な行動なのだが街の住民で買い物にも長けているであろう女性に、おすすめの店や探している商品見分け術の教授をお願いしてみたのだ。
 彼女は少しきょとんとしていたが、すぐに笑顔になって快く付き合ってくれた。
 おつかいの品計9品。おかげで予算を大幅に下回る買い物が出来た。品質も妥協しないものが選べたと思う。
(死活問題だと思えばやれば出来るもんだなあ)
 まだまだ小銭のいっぱい残った財布を抱え、布袋に入った戦利品の重みに感動する。
「お役に立てたみたいで嬉しいわ。わたしも若い男の子と一緒にお買い物なんて久しぶり」
「ええっ」
 少しくだけた様子でおどけてみせる女性の言葉に、朝は素直に赤くなって狼狽える。
 その表情も彼女の笑顔を深めるようで、まだ時間ある?と訊かれて数秒返事が遅れてしまった。
「良かったらうちへいらっしゃい?お茶でもご馳走するから」
「いや、まさかそんな。そこまでご迷惑は!」
 こっちがぼーっとしていてじゃがいもぶちまけてしまい、買い物も手伝って貰った挙げ句家にお邪魔するとか!どれだけ厚顔かと朝は全力で首を振って後ずさる。
「遠慮しないで?とは言っても家にはちびばかりだから、かえって疲れさせちゃうかもだけど」
 いえ、でも悪いですからっ。と恐縮する朝。いいからいいから。手を引いて、強引に引っぱっていく女性。
 勝敗は誰の目にも明らかで、朝は人通りも少なく静かな、街の外れにある大きな建物まで連れて行かれた。
「…はくれんそうのいえ?」
 建物の入り口にはそう書かれているのが読めた。白蓮草。れんげの白いバージョンのような、小さな草花の名前だ。
 横に長い建物と、薄い樹の囲いの間には大きな広場があって、たくさんの子供達が思い思いに遊んでいた。
「あ、ニナ!」
「ニナかあだ!おかえりー!」
 囲いを越えてきた二人に気付いて、4、5才かそれ以下の小さな子供達がわらわら群がってくる。それ以上の年の子は、遊びに夢中か、手を止めてこちらを見るが近寄っては来ない。
「だれ、このにーちゃん」
 どうやらこの女性はニナというらしい。ニナと一緒に取り囲まれた朝は、たくさんの子供達に興味津々の目を向けられて硬直した。
 狼狽えながら、ニナに目を向ける。彼女は申し訳なさそうに、苦笑した。
(ああ、孤児院、なんだ)
 どきん、と胸が一つ異なる音で跳ねた。朝の知識にもあったけれど、あまりに遠い感覚として、どうしたらいいか分からなくなる。
「トキお兄ちゃん!?」
 いきなり、甲高く驚きに満ちた声に名前を呼ばれてぎょっと顔を上げる。
 そこに見いだした顔は見覚えがあった。相手も、くりくり大きな瞳をいっぱいに見開いている。
「セロ君?」
 この街で放浪していたとき唯一声をかけてくれた小さな男の子。一緒にナップを食べて、さみしそうに家出を決行していた子。
「どうしているの?あそびにきたの?」
 セロは再会を喜んでいる様子で、笑顔で朝に駆け寄ってくるのだが、はっと何かに気付いたようにその足を止め、戸惑うような眼差しを向ける。
「ああ、トキって言うのね?みんな、このお兄ちゃんはお客さんよ。中に案内するからね、離してあげてね」
 はーいと素直な唱和があって、みんなあっさりともとの遊びに戻っていく。ニナは笑顔を向けて、ご覧の通りと小さく述べた。意味がわからなくて朝は首を傾げる。
「気を悪くしたのならごめんなさいね。身寄りのない子を預かり育てる施設なのよ」
「あ、はい…」
 どうして気を悪くしたと思われたのか、疑問が顔に出たのか、今度はニナが不思議そうな顔をしながら言葉を足してくれた。
「この街では煙たがられているの。身分のない子が親無しで育つから、尚更ね」
「身分…?」
 今度こそ露骨に目を見開いて、ニナの顔を凝視してしまった。この世界は王制だとは聞いているが、あまりにも朝には実感の湧かない言葉。
 まだ、身分制度を朝は知らなかった。
「変わった子ね。わたしみたいなのに話しかけてくるし、名前も二音だし、無遠慮に接しても怒らないし、第三層の人かと思っちゃった。喜んでお茶に誘ったけど、迷惑だったなら謝るわ」
 第三層。それの意味も、名前が短ければ短いほど身分の低さを示すことも、クォの常識を朝は知らなかった。
 ただ、ふると首を振る。意識の違いに、ニナの詫びるような言葉に、胸が軋む。
 ひとり、遊びに戻らず朝を見上げているセロに目を向けた。伺うような、遠慮がちな眼差しでこちらを見ている。
 初めてあったとき、家まで送ろうかと告げた朝に、要らないと首を振ったセロの様子を思い出した。
「お邪魔して、いいですか」
「ええ、もちろん」
 ニナが詰めた息を吐き出しながら、もとの明るい笑顔に戻ってくれた。セロはニナを見上げながら、やはり嬉しさを我慢できなくなったようにぱっと笑って朝にしがみつく。
「わっ」
「トキおにいちゃんっ」
 抱き留めて、複雑な心境で頭を撫でた。
 こちらに来てから、朝は妙に子供受けが良い。その事に首をひねる。心底謎だった。
 奥に通されて、えのぐり茸の家以上の広さ、そして老朽ぶりの建物だとすぐに悟る。失礼だとは分かっていてもきょろきょろ見渡してしまった。
 部屋の中で(おそらく今は自由時間なのだろう)過ごしている子供達が、朝が通り過ぎたあとでひょこひょこ顔を出してひそひそ囁きあっていた。
(…子供だらけ)
「どうぞ、トキ」
 やはり朝の過ごす家と同じ、食堂の隣らしきこじんまりとした一室に通された。客間なのだろう。ニナを待つ間膝の上に飛び乗ってくるセロの相手をして過ごす。
「ニナ母さんはねー、おりょうりがとくいなの。ミミ母さんはよくあそんでくれてね、セロと仲良しなのがアイとネルとレスだよ」
 セロは一生懸命にこの家でのことを話してくれた。裏庭に生るりんごの話や、楽しかった虫取りや、仲の良い友達の話。
(嫌ったりしないのにな)
 漠然と、遠い話としてしか受け止めていなかった朝は、かわいそうだなとしか思っていなかった。親がいない、家族がいない子供達。接点がないから、そう思うしかなかった。
 セロは嫌われたり煩わしく思われることに慣れているようだ。だから隠そうとしたし、再会して嬉しく思ったのに戸惑いを見せた。
 けど今はこうして、好きになって欲しい、良く思って欲しいと健気に朝に訴えているようだ。
 以前ならともかく、今の朝には子供達の状況を哀れむ気持ちは湧かなかった。
 身分格差や、差別のことなんかは、まだ実感がなく良く分からないままだけれど。
 駆け寄ってきた、室内ですれ違った彼らはみんな細っこくて栄養不足、貧しいのだろうなとは思ったが、瞳に宿る光は感情豊かで、真っ直ぐだった。かげりは見えない。
 この家を、居場所を大事に思って身を寄せ合っている。
 それはとても。
「セロ君。この家や、先生や、友達が大好きなんだろう?だったら誰に何を言われたって、関係ないよね?胸を張って、大事だよって言っていて良いんだよ」
 セロの脇に手を差し入れて少し持ち上げ、抱え直し瞳を覗きこんでそう告げた。
 少し目を瞠った子供は、恥じるように顔を赤くして、お兄ちゃんは?と訊いてくる。
「うん、好きだよ。いい家だなって思うよ」
 ぱっと輝く顔に笑顔を返して、持ち上げたりぐるぐる回ったりはしゃいで遊んだ。
 黄色組の生徒達と遊ぶ時のノリで、セロが喜ぶままに付き合ってやっていると、さっきまで遠巻きに覗いていた子が次々やってきて、自己紹介を終えると朝に振り回されたがった。
「うあははは!!ぎゃはははは!!!」
「ね、もーいっかい、もーいっかい!」
「ターくんが先ー!おにいちゃんブンブンしてー!!」
「ちょっ、順番順番・・・あーもうこれは外で遊んだ方が早いか!?」
 今まで遊んでいた人数とは比較にならない子供達に押しかけられて、朝は焦っていつも通りの提案をする。
 わっと湧く子供達。はい急がないよー転ぶからねーと、すっかり慣れた様子で先導をはじめた朝は、奥からお茶を持ってきたニナと目があって我に返った。
「はっ…」
「ぷっ…くすくす。あははっ。ねえトキ、また遊びに来てね?いつでも歓迎するわ」
 けしてばかにするようにではないけど笑われて、かーっと朝の顔面は赤くなった。
 知らなかった。いつの間に自分は子供相手に遊ぶことが身体に染みついていたのか。
 けっきょく、長居は出来ないので朝と子供達の戯れは次回に流れた。
 当然ながら不満のブーイングの嵐。それでも次を約束すると、子供達はニナに促され外や、子供部屋に戻っていった。
(素直だなあ)
 ひたすら感心してお茶をすする。ミルクティーのような飲み物でほんのり甘く、疲労が癒された。
「良い子達ばかりですね」
 しみじみ告げると、何だかニナが泣きそうな顔をしたので朝はあわあわと腰を浮かして焦ったが、けっきょく彼女の頬は濡れることなくて、くしゃりと笑顔になった。
「ありがとう。お金はないけれど、悲しむ暇はないくらい、元気に育ってくれる子供達がたくさんいる。わたしの誇り、生きがいよ。ほめてくれて、嬉しいわ」
 本当にありがとう。きっとまた、遊びに来てね。みんなで待っているから。
 重ねて言われて、朝は正直狼狽えながらも頷いた。さっきから意味のわからないまま、胸が騒いで音を立てていた。
 ご馳走様でしたと告げて、立ち上がる。表から出るとまた囲まれて大変だろうから、裏口を使ってと気遣われ、頭を下げる。
 どうしてか分からないけれど、朝は内心言い出そうか迷った。けれど
「また来ます」
 笑顔で告げる。ニナは頷いてくれた。
 そして裏口から一歩外へ出て、目の前に佇む人影に声もなく飛び上がった。
「!!!!」
「お前」
 静かに落として響く声は、まだ幼さの残る少年のもの。
 建物の影だからか日中でもひんやりとする辺り、壁により掛かってひとり、朝を見据えているものがいた。
「きみは」
 セロと再会した時と同じ、小さくない驚きが朝に訪れる。
「もうあの辺なカッコーじゃねえんだな?」
 揶揄する響きに困惑する。目の前の男の子は、やはりこの街で以前遭遇した、パン泥棒の逃亡者だった。
「セロ君と同じ家の子だったんだ」
「まあな。まさかセロと顔見知りだとは思わなかったけど」
「……」
「…もう盗みはやってねーよ。悪かったな前は、あんたの都合も知らずにてきとーな事言った」
 少しの沈黙を置いて、ばつが悪そうにそっぽを向いた少年がいきなり謝罪してきた。
 面食らってひたすら瞬く。少年の心境の変化の理由が分からなかった。いや、盗みをやめてくれたというのは良かったと思うし良いことなのだが。
「…あんたも家無しなんだな」
「!」
 どきん。
 先程から、とくとくと巡りの速かった鼓動が、一つ大きく拍を打つ。
 そういう顔してる。まあ、オレらとはちょっと違うな、悪ぃ。少年はなおもうまく言葉が紡げないようで、けれど懸命に謝ってくれた。
「謝ること、ない」
 朝はたぶん、笑うことが出来た。素直に告げてくれる、この少年の性根の真っ直ぐさはやっぱり嬉しい。
「俺は、トキ。きみは?」
「…レス。じゃあな!」
 ぶっきらぼうに名乗ると、少年、レスは用は済んだと駆けていった。
 レス。先程のセロの会話にも出てきた名前。きっとこの家を守るために、彼なりに一生懸命だったに違いない。
(………)
 きゃあきゃあわあわあと、子供達の楽しげな嬌声が耳に響く。それが少しずつ耳から削がれていく。朝は早足で進み、白蓮草の家を、気がつけば走って立ち去った。
 走って走って、立ち止まる頃には全身が汗に濡れ、息がつけぬほど弾んでいた。
 どきんどきんどきんどきんどきんどきん。
(………)
 息を吐いて、吸って、地面に付いた二本の自分の足、靴を見ていた。ふと、顔を上げてまた、びくっと肩が震える。
「アニ、エス」
 ここにいるはずがない、少女も朝の形相にわずかにひるんだ表情をしていた。
「どうして」
「…新しく買い足して欲しいものが出来たから、告げに来たの」
 それもそうか。この世界には携帯電話という便利な道具がないのだから。誰かが伝言に走らない限り、朝の買い物は二度手間を取ることになる。
 しかし何故アニエスを。朝は配慮も忘れて肩を落として苦笑した。
 二人の不仲、ぎくしゃくとしたままの均衡を、家の誰もがどうにかせねばと画策してくれるのはなんとなく分かっているが。
(しょうがないじゃないか、アニエスは俺が嫌いなんだから――)
 俺はしょせん、この世界のものでは、無いのだから。
「いい迷惑だわ。買い物ひとつで騒いで。あなたがどれだけ甘やかされているか自覚はある?」
 いつも通りの辛辣な言い捨て。朝は眼を細めて。
 なにがどう、スイッチが入ってしまったのか。
 ただただ、根元から腐った柱がばっきり折れたみたいに、それは来た。
「…っう、」
 朝は青い、汗だくの顔のまま身を折って、反射的にアニエスから身体を逸らし、その場で吐いた。
「…!?」
 アニエスが明らかに狼狽した気配があったが、そんなことに構っていられなくてひたすら胃の中のものが逆流して口から零れていった。
 中のものを全部吐きだしても咳は続き、胃液を吐きだしても気持ちの悪さは終わらなくて、意識しないまま朝は声を上げる。
「うう、あっ、がはっ、はあ、ああ、うああっ、うああああ…!!」
 荒い呼吸だったそれは次第に苦しい吐息になり、すぐに嗚咽になった。
 口から声とも呼べないものしか出なくなって、両方の目から涙が溢れる。身を折って膝をついて、涙が涙が、目から体内の熱が、止まらない。
「ちょっと!」
 とうとう放っておけなくなったのか、アニエスが側によって背中に手を伸ばそうとする。
 まだどこかで冷静な朝が、背中をさすろうとしてくれる手を理解する。ああやはり、アニエス自身は優しい子なんだなと、和みすら覚えるのに。
 思い切り、その手を払って、拒絶する。
 その手を受け入れたら、気がおかしくなるくらい、今は誰にも触られたくない。
「うあああ、ああああああ!!」
(帰りたい)
(帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい)
 今まで忙しさでごまかして、目を逸らしてきたのに。
 掃除の手の行き届かない場所の塵みたいに、郷愁は朝に降り積もり続けた。
 こちらに来て、毎日充実し、仕事はたくさんあって、少しずつ人達との交流も出来るようになって。
(なんだそれ)
(なんだそれなんだそれなんだそれ!!!)
 どうしてここが!!朝の世界ではないのに!!笑っている場合か早川朝!!!
 どうして、どうしてどうして!!!今まで同じように過ごしてこなかった!!!!
 環境に甘えてきたのだ。母親に辛抱強く言い聞かせられても明日やるよ、まだやらなくてもいいだろ。進路。三年生になってから考えるよ。
 何を、して生きてきたんだろう。
 土を掻いて血を吐いても、突き刺す切り裂く、心をずたずたにする。悔恨!後悔!
 もう、もう、二度と!!帰れないかも知れない!!!
 帰れない、と明言されたわけでないと同時に、帰れる、と言われたわけでもないのだ!!
 父親、話すことも少なくなっていた、聞いて欲しいことがある!いっぱい、話を、やりたいことがある!今ならもっと、真剣に、色々な話を!
 母親、母さん、母さん、俺、家事が手伝える、母さんの負担を請け負ってあげられる、煩わしいなんて嘘だ。孝行したい、大人になってからなんて悠長なことこれっぽっちも思わない!!
 妹。ゆう。バカ夕なんて。鬱陶しかった?でも俺の部屋に、用もないのに遊びに来ていた。いやじゃなかったんだ。少し照れくさくはあったけど、きっとまだ照れくさくはあるけど、かわいい妹だった。大事な、嫁に行くまで俺が守ってやるんだって幼い頃決意したのに。
 祖父母!友人!先生!ああどうしよう!!もう、どれもこれも、取り返しがつかない!!
もう二度と、彼らに感謝を述べることも、優しくすることも出来ないかも知れない。
 引き剥がされた。朝はここに、ひとりぼっちだ。
 ああそうだ。積もっていくのは孤独感や郷愁はもちろんだけど、いつだって後悔だった。
 大事だったのに、かけがえのない朝の世界だったのに。
「…キ、トキ!」
 澄んだ声が耳を打つ。ようやく、自分の両肩がつよく揺さぶられていることに気がついた。
「アニエス?」
 朝の慟哭はふいに、突き抜けたようで、ぱちっと瞬きをするとその瞳には光が戻っていた。残った涙が最後にぼろっと落ちていく。
「…な、なんなのあなたは」
 朝の目の前にしゃがみ込んだ、アニエスは明らかに動揺していた。
 それもそうだろう。いきなり朝が吐いて喘いで泣き出したのだから。気が狂ったか悪い病気持ちなのか疑われても仕方がない。
 けれど当の朝は先程までが嘘のようにすっきりとした心地だった。
 あー、泣いた。でもしょうがない、どうしようもないことだもんなあと肩を落とす程度だ。
「ごめん、大丈夫」
 さすがにアニエスの前で、無茶苦茶な醜態をさらしたことには羞恥を覚える。頬を服の袖でぐいと拭って、おずおずと立ち上がる。
 どうしようもなく、身体ごとアニエスから逸らす。
「故郷が懐かしくて。情けないな」
 ぽつりと呟く。軟弱なことだと、またアニエスから厳しい叱責が飛ぶだろうか。
「…そう、そうね。さみしいでしょうね」
 同じくらいぽつりと、アニエスが呟いた。朝はびっくりして、けれど振り返ることはやめた。
 とても普通に、アニエスの冷たい態度を受け入れる。彼女はこのままでも構わないと思った。ずうっと、朝を嫌いなままだって。
 その後アニエスと追加の買い物を急ぎ足で済ませ、なにせ色々と寄り道をしたものだから、小走りで帰路についた。
 持たされた小遣いで、朝は結局自分のものは買わなかった。色とりどりの飴がたくさん詰められた、透明瓶を買った。
 おみやげに。





 明かりの灯ったえのぐり茸の家が見えてくる。屋根から出た煙突からは煙。
 イスパルの作る、夕食のいい匂い。ああ急がなければ。
「ただいまー!!」
 元気な声で告げる。後ろのアニエスは目を瞠って意外そうに朝の背中を見やる。
「おかえり」
「おかえりっ。どうだったいいものあったかね?」
「ほらちゃんと手え洗ってきな!」
「ふふふ、待ってたわよー」
 溢れる声が、迎えてくれる。
 しくしくと、泣き出す心にもう少し蓋をする。がんばっていこう。
 聞こえはしないけど、頑張っているよと、唱え続けていこうと。








 

 

(2008.3.20)

  

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