登山トライアスロンに挑戦し続けて20日目。朝はとうとう、その場に辿り着いた。
山の端にはすでに陽がかかっており、汗で張り付く前髪が風に浮いて、肌寒くもある。
けれど見渡す限り、視界を遮るものはなく、辺り一面の景観が一望できる。
こんな達成感、久しくなかった。
「やったぞーー!!」
万歳をして、拳を突き上げて空に叫ぶ。青い空白い雲。紫のグラデーションが次第に覆っていく。
「あー…きれいなゆうやけ…」
ぼんやり踏破の感慨に浸って景色を愛でていると、とたん現実に引き戻される。
時刻は夕暮れ。日没までもう幾ばくかもない。
朝はここに辿り着くまで、およそ半日を費やしたというのに。
「…もう、むりっぽい、な…」
今日こそは今日こそはと頂上目指して頑張ってきたのだ。体力の残量なんて無いに等しく。
けれど夕飯までに帰らなければ、イスパルの拳骨とお説教。冷たくなってしまった夕飯。茶碗洗いの刑罰が待っている。
「……」
重い足を引きずって、朝は何だか泣きたくなりながらきびすを返した。
次の目標は、日没までに往復すること・・・。またもや先の見えないハードルだ。
7 群青(前)
気がつけばもう風の冷たい衣月( 。いわゆる十月。この世界の暦は独特で一月29日計算だ。中日の15日が祝日で、お祭りの日になるらしい。
朝の感覚ではまだまだ九月。けれど北国のクォ気候だからか、朝晩は布団に全身をくるんで出られないほど冷え込んだ。
日のない天気の時も同様に身震いするようになった。今日は横殴りの激しい雨。
室内でも防寒対策をして、温かいお茶を置き、朝は今熱心に生徒さんのひとりから譲り受けた情報誌の解読をしていた。
「読めるようになったかね?」
向かいに座るキニスンが覗きこんでくる。返事はせずに曖昧に首を振る。実際、ほとんど読めない。
子供向け絵本の解読はおおむね進んでいる。けれどこの情報誌は大人向けで、言い回しも俗的だったり流行語というのか、意味の通じないものが多すぎる。
「えーっと、くがつ、とよみまつり、おおどおりのやたいでひまん?」
「全く意味不明ね。どれどれ?ああ、首都の偉人祭の記録ね。九月は豊月( 。豊作を祝って料理コンテストや大食い大会とか、食に関する催し物が多いね」シェーヴィング )
「イスパル、張り切ってたよね」
隣からミーシャも顔を出しておずおずと告げてくる。朝がこちらに来る前の、先月の話だ。
「イスパルも参加したの?」
「そうだね、おれたちは大抵オセーネの祭に参加するからね。イスパルは今年ベリーパイを出展して準優勝したねえ」
準優勝。間近な人のすごさに改めて驚嘆する。
「すごいなあ。この辺りで二番目に料理がうまいってことか」
朝は心から感心しているのに、目の前の見目麗しい子供達は視線を交わして、こそっと声を落として朝へ顔を寄せた。
「本人の前では言わないでね。優勝できなかったのは結構悔しかったみたいだからね」
「あ…そうなん、だ」
挑戦するからには一番を目指す。それは立派なことだが。
職業料理人でもないのに、料理大会準優勝は充分誇って良いと思うんだが。
さすがイスパル。妥協は許さないのか。苦笑しながら、朝は引き続き次のページに移った。ぱっと目に入ったのは今月の十月ではなくて。
「じゅういちがつ、たたかい…おとこたちの…」
口に出して音読していたが、その口を開いたまま止める。
その月は前年の様子を描いたものか、絵付きだったので読むまでもなく分かった。
十一月は、闘いの月のようだった。
異世界だなあ、いかにもファンタジーだなあと、緊張した胸中とは裏腹に、少し抜けた思考が巡る。
オリンピックのような、スポーツな闘いではなくて、剣や武闘の、もう少し物騒な闘いの祭典だと分かる。絵で一目瞭然。
朝がしばし思考を停止させていると、キニスンが出入口の方向にぴくっと顔を上げた。
その仕草が犬みたいだなあと顔が緩んでしまう。かわいいという意味なので悪気はないし、本人にもわざわざ告げないが。
「誰か来た?」
「うん、来たね。トキ、出迎えてね」
名指しされて首を傾げる。その間にもミーシャに大振りの布を持ってきて手渡され、受け取る。
まあ彼らが言うのだから危険な人ではないのだろうけれど。
天気の悪い日のえのぐり茸の家は、ほとんど開店休業状態で万が一生徒さんならば早くこの布を届け出迎えねばならないのだが。
「こんにちは、すごい雨だったでしょう…」
小走りに駆け寄った先で、被ったフードもコートもびしょぬれで立ちつくす来訪者が目に入った。
はじめて会う人だ、見覚えがない、と朝は久しぶりに人見知りで尻込みする感覚が湧く。
若い、男の人のようだった。とても背が高い。彼は布を差しだした朝の顔をじっと見詰め、思案するように少し間を置いた。
「ああ!」
「うお、はいっ!??」
いきなり声を上げられて二歩下がってしまった。しかもその声は底抜けに明るい。
「君がトキか!手紙で聞いてた!」
言いながら彼は、水を吸って重たそうなフードを上げて、顔を出した。髪も濡れている。水滴が散る。
(うおおお…!!)
朝は思わず、もう一歩後ろに下がってしまった。
年は20代前半だろうか。イスパルよりは若く見え、カノアより上に見える。浮かべている表情は屈託のない笑顔で、美形に慣れた朝の目には冴えなくも映るのに好青年と言った雰囲気だった。とてもいいひとそうだ。
朝がひるんだのは彼の顔立ちにではない。濡れて少し肌に張り付くその髪は、蒼かった。
空の色だ。夏に見上げたときのような、真っ青。蒼い。不自然なくらい自然に地毛なのだと認識させられる。
ここに来て、どうやら国によって異なるらしいが金髪や茶髪と、大人しく淡い色彩の人ばかりを見ていた。ある意味現実的に外国人、な色合いばかりだった。
けれどこれはない。蒼髪って。
「髪の色が珍しい?」
嫌味なく微笑みかけてくる双眸は紫だ。確か紫眼も朝の世界では遺伝子的に現れない色だと聞いたことがある(カノアも薄紫の目だけど)
意外と長いまつげも蒼い。ああやはり地毛なのか。
問いかけに、朝は素直に頷いた。気を悪くした風もなく、彼はうんうんっと頷く。
「クォでもやっぱり珍しがられるんだよな。ここでは金、茶。ウォッツに行くと黒、茶がほとんどで」
「が、外国人、デスカ」
本来の目的を思い出して、布を差し出しながら朝は尋ねる。ありがとうと受け取った彼は、うんと頷いた。
「俺はお隣フェイの人。あまり大きな声では言えないけどな。初めましてトキ。群青( と呼んでくれ」ぐんじょう )
「ぐん…?」
それは不思議な響きだった。今までであった人達は、ロビンとかジョンとか、名前としての響きだったのに、彼の名前は言葉みたいだ。意味を敷き詰めた、日本語でいう漢字の熟語のよう。
「鮮やかな青って意味でさ。ご覧の通りの頭だから。俺の親は大概適当だ」
「そう、ですか。初めまして群青さん。トキです。トキ・ハヤカワ」
よろしくーと握手を交わし、朝はそこでようやく気がついた。目の前の男性の正体を。
「あなたがジョーさんですか?」
「あ、それで通じてなかったんだ?」
ジョーこと群青は残る最後の先生。動育( 学の先生だ。どういく )
動育学はいわゆる保健体育と、理科の生物を合わせた教科で、人間のみならず他の動物や植物の生態も学ぶ。小学校低学年の生活科みたいな感じだろうか。
群青は外国人のため常勤するわけにはいかないが、時間があればちょくちょく顔を出して臨時授業をしてくれるのだという。
「そうか。俺がいない間山登り強化月間だったのか…」
イスパルやカノアも集まり、毛布でぐるぐる巻きになった群青はみんなの話に相づちを打っている。
朝はと言うと少し離れて座り、その様子を不思議な心境で眺めていた。
ジョーという通称でしか存在を聞かされていなかった人物が、実像を結んで現れた。
それは、ここに来て初めて訪れた大きな波のように感じられた。ただの予感とはいえ、津波でないことを小心者は祈るばかりである。
「今回はどれくらいいられそうだい?」
馴染みの顔が相変わらずの様子で上機嫌のイスパルは、手ずから温かいお茶を差しだしてやって群青に尋ねる。
「今回は結構。11月の首都大祭には出なきゃならんが…みんなはオセーネに行くんだろ」
「首都大祭。闘威( 大祭ね」とうい )
キニスンの耳慣れない言葉に、朝は思わず身を強張らせた。先程見たばかりのイラストが過ぎる。
聞かずとも分かる、きっと強さを競う闘技大会だろう。
朝が目にした絵は前回の決勝。優勝者が対戦者の首を打ち落とす、決着の瞬間だった。
「ジョーさん、出るの?」
見上げ、控えめな問いのミーシャに群青はいっそ爽快に笑った。
「まさか。指導はしても俺自身なんて良くて一回戦敗退だ。予選も危ない」
「またあんたは無駄に過小評価して」
「知り合いと会う予定でな。今年は強いのが出るぞー。おっそろしくて参加したくもない」
明るい様子の群青だが、朝は未知の大会に思いを馳せる余裕もない。
(人が、死ぬんだ)
それはそうだ。武器を取って戦う大会なんて、剣道だってあんな防具をがっちり付けて。朝はそんなものしか知らない。
この世界は何もかも。常識も道徳も違う。どちらかが命を落とすかも知れない闘いで、手を叩いて声援を送る気にはなれない。
(やっぱり、こえええ…!)
さらに言えば国家単位で破滅をもたらすらしい呪術兵器と対決せねばならない使命を課せられているわけだが、朝はここでは幸いなことに思い出さずに済んだ。
「群青、こんにちは。お久しぶりですね」
そこでみんなとは少し遅れてシクがリビングに顔を出した。
「ああ、シクさん。こんにちは。ご無沙汰でした」
群青はシクに向き直って頭を下げる。彼は朝よりも客人という立場だから、気安さよりは家の主人とも言えるシクに敬意を払う形なのだろう。
「また今月は闘威大祭までお世話になります。トキにも会えたし、いろいろな課題を出したかったんだがこの雨じゃあな」
「何だよ来た早々じゃないか。雨天決行はいいけど今日ぐらいゆっくりしな」
イスパルの留める言葉に安堵したのもつかの間、朝は目を剥いた。
雨天決行もあるんですかそうですか。消防隊員さんも天気関係なく訓練してるしな。
闘威大祭は他の祭と比べて長期間開催される。朝の感覚で言うと現在10月9日ぐらい。開催は10月25日から11月25日まで約三十日間。
つまり2週間ほど群青はこちらにいられるらしい。首都への移動を考えれば十日ほどとなるが。
「ん、そうだな。じゃあ今日はゆっくりさせて貰って、明日からジョー先生復活と行きますか!」
「だったら希望者を募る張り紙を用意して、時間割表に組み込んでおくわ…」
いつものことなのか、カノアがさっそく紙と筆記用具を取り出している。
新しく吹き始めた風に、朝が目を白黒させている間に住民達はじゃあ今日はご馳走だ、旅の話を聞かせて等々、盛り上がっている。
朝はどうしようか迷ったが、キニスンら子供達に混じって群青の話を聞くべくその場に留まることにした。
彼がこちらを訪れるのは実に3ヶ月ぶりだという。生国であるフェイの話も、朝はもちろんみんなにも新鮮だった。
この世界は他国との行き来が気楽に出来るものではないらしい。強力なコネややんごとない召還、もしくは何食わぬ顔をして勝手に入国、滞在するしか方法はない(法に触れるわけではないが公の場にばれるとやばいらしい)
「トキは国栄学や地層学も学んでいるんだっけ?じゃあ少しは分かると思うがウォッツは閉鎖的、フェイは広くて平和で実のとこ警戒心が強い国、と思ってくれていい」
地層学は地理。国栄学はいわゆる世界史。この場合クォ史が主だが、どうしてこの三国に分かれ今の状態であるのかは理解していた。
「ええと、呪術が発見されたのがクォで、新しい土地を見つけて開拓していったのがウォッツの民の祖先で、土地と利権の争いに嫌気がさして、人々が集まって出来た大国がフェイ、だよな」
「その通り。もうはっきりとした年号も記されていないぐらい太古の興りってのに、この三国は三竦みのまま今に至る」
結局歴史の授業が展開されているが、朝は必死になって頭の中に世界地図を描き出す。
フェイの土地の広大さ、豊かさは他の二国の比ではない。クォは呪場、呪力が無尽蔵に産まれる土地。ウォッツは長年の戦争経験でどこよりも国自体が闘い慣れしている。それぞれに強みはあったが、長い歴史の中で大戦と呼ばれるほどの衝突はなかった。
「そりゃあ歴史上いろいろなヤツが覇権を握ったさ。運営法や考えも様々だった。けど基本的にフェイは平和主義を貫き通してる。仮にどちらかの国へ戦争を仕掛けたとしてもう片方の国に叩かれる。両国同時に相手する、そして勝利を収めることも不可能ではないだろうが、もともと戦争が下手な国柄だ。全国統一できたとて国力は大打撃を被ってボロボロだ。扱い慣れない土地を治める余力も残らない」
まあ、大体平和を愛すると同時に狸キャラが王の国。今までもこれからもフェイが原因で戦が起こることはないだろう、群青はご意見番のようなことを言う。
「他の二国は尚更、戦を仕掛けるわけに行かない。これも同様、残る国に叩かれて負けるのが目に見えてるからだ。内乱で手一杯のウォッツが対岸の火事だと放置する場合もあるけど、まあ無いだろうな。ウォッツとてどちらかが負ければ次は自分が危うい。結局はどこかで戦が起こればどの国も動かずにはいられない」
話がどこに行き着くのか見当がつかず、困惑したまま朝は群青の顔を見ていた。横のキニスンやミーシャを見ると、熱心に聞き入っているようだ。
「さて、フェイが戦に勝てる見込みは示唆した。ではクォやウォッツが、万が一でもこの三国で覇権を握るにはどうしたらいいと思う?」
先程からなぜだか緊張すると思っていたが、ここに来てそれは確信に変わる。
(っていうかこの人、こんな話をしていいのか!?)
クォ国内。しかも群青は外国人でフェイ人だと言うではないか。
クォ側に着いた密偵とかそういう風でもない。そもそもえのぐり茸の家が自由すぎるのだという気もしないでもないが。
そんなことを考えていたので、群青の問いかけに関して頭を巡らす余裕なんて残っていなかった。
「トキ、分かる?」
「へえっっ!??俺!?」
分かるわけがない。なにせこの世界に関しては素人も素人。来たばかり。
しかも戦争の話だなんて、朝には教科書やせいぜいテレビや本の中でしか知識を持たないのだから。
「お、俺、戦争とか良く―――」
頭を下げ、分からないと告げようとしたが、ふとひらめいてしまった。
何故日本は戦争をしないのだっけ?寝ぼけ眼で眺めていたニュース。歴史の授業。朝の頭でそれらがふいと過ぎっていった。
「…かくぶそう…」
「ん?何だって?」
「他の二国にはない、人の手に余るような、強大な力があれば、独占できれば…」
朝がぶつぶつ呟いた言葉の羅列に、キニスンはきょとんとし、ミーシャは驚いたような、群青は不敵な笑いを浮かべた。
「その通り。兵と兵でぶつかる戦で全てを掌握できずとも、あらゆる面で有利に立てるよう、クォとウォッツは長年その力を模索してる」
フェイの土地はそれだけ豊かなんだ。人は生きやすく何でも手にはいる。群青は少しだけさみしそうに付け加えた。
「そのひとつがこの国クォで栄えてる呪術だ。まあ未だ世界を未曾有の恐怖に陥れた伝説の、破滅呪法に及ぶものは作られていないし、発見もされていないけど、今後無いとは限らない」
そんな事態に陥らないよう、陥ったとしても、最善の対処が出来るようにフェイからやってきたのが俺なんだ。群青は優しいお兄さんの笑顔でそう告げた。
「…え…?」
話が耳と目を疑って、眼前の、目にいたいぐらい蒼いお兄さんを凝視してしまった。
「そんなことぶっちゃけちゃっていいんですか…」
「ぶっちゃけますよ。そもそも隠して行動するならフェイ人って事も明かさないよ。この見た目だからまあ隠しようもないけど」
「ジョーさん、シクさんと協力してるの」
ミーシャが朝に笑いかけてくれた。(最近キニスンだけでなく朝にも笑いかけてくれるようになった)
結局戦争が起こって国が肥えても、国民は嘆くことになる。それは全国共通であるので、群青とシクは協力しながら国の動向を探りつつ平和を保とうと情報交換をしているというのだ。
もちろんこの家の住人以外には知らせておらず、極秘事項だから内密にね、と含まされた。
長い話の終わりを見て、うとうとしていたキニスンが終わったかね?とぱっと顔を上げた。ついて行けなかったのか、眠りつつあったようだ。
「ああ、長くなっちゃったな。ごめんごめん。今日はもうイスパルのご馳走を待ってどんちゃん騒ぎしようか」
群青が朗らかに手を打って、その場はお開きとなった。彼の素性に終始して旅の話が聞けなかったので、食事時に改めて、全員にお披露目すると言うことになった。
「トキ」
立ち去ろうとしたところを呼び止められ、手招きに従い群青の側に戻った。
彼は背をかがめて朝の耳に口を寄せ、内緒話のように囁いた。
「君もそのひとつ、クォの持つ「力」なんだぜ?」
一瞬、何のことだか分からなかった。
理解して、目眩がして、もう一度あらためて理解をした。
だから自分は、この家に預けられているのだ。
群青を交えての夕食の席は、和やかで大いに盛り上がった。
彼はとても話し方がうまく聞かせ方というのを心得ているようだった。医者や先生のような、対する相手に無条件の信頼を持たせるようななにかがある。
時々キニスンやイスパルがノリの良い相づちや、問いかけを投げ、他の面々はそれに黙って耳を傾ける、と言う進行でおおむね歓迎の宴会は続いた。
外国の話はおもしろかった。彼は三国どこでも飛び回っているようだ。
「ウォッツは、相変わらずだな。ラムダスさんはいいひとだった。まさか亡くなっちまったとはなあ…見事その席を簒奪して即位したイージスは、まああの国らしいっちゃらしいけど暴君だな。何か黒い策略巡らしそーなんだが…あと数年はまあ様子見ってとこだな。確かラムダスさんには子供がひとりいたはずだ。男の子。その子が今どうしてんだかちょっと心配だが」
と、まあ(その国にいれば耳にはいるかも知れないが)国家の中枢まですらすらと淀みなく報告してくれる。
これらの事情の把握も、(国同士の接触がほぼ皆無のため)現在取るに足らないものとは言え、かなりの機密事項の筈だ。
「ぐ、群青さん、なんでそんな…情報通なんですか」
おそるおそる挙手して朝が問えば、なんとも形容しがたく逆らいがたい、得体の知れない笑顔で返答があった。
「顔が広いんだわ、俺」
一言で完結されてしまっては追求も出来ない。っていうか朝は無駄な労力だと察して大人しく手を下ろした。
「グローリアは健勝であらせられますか」
「はいはい、まだまだお元気ですよー。シクさんとカードゲームに興じた日々を懐かしがっておられましたっ」
シクの、穏やかな問いにも緊張感を取り除いた朗らかな返答。
隣のカノアに助けを求める視線を向けたが、彼女も首を振った。誰の名か、みんな分からないようだった。
「フェイも相変わらず、のびのびぽかぽかと平和だな。春には大量の仔牛が産まれ、夏には氷菓がバカ売れ、この秋には一番下の弟に呪いが発現した」
「いや、家族情報はいいから」
笑いながらイスパルの裏手ツッコミが入る。
兄妹が多いのかなあと朝はぼんやり話を聞きつつ考えた。群青はなんとなく上っぽい印象がある。
と、普通に聞き流すところだったのだが朝は持ち直した。今度は勢いよく手を天に突き上げて主張する。
「ハイ、トキ」
授業中でもあるまいし。けれど仕方がないことだ。朝はこの世界に疎い。一から疑問を質さなければ話にもついて行けない。
「弟さんに、呪いが発現って…」
嫌な汗がだらだら垂れている。それはけして笑顔で告げられるようなことではないと思うのだが。
「ああ、うん。うちの三男、ヤマブキ君。11さい。かわいいよ?オレンジ頭は見るからに食欲をそそる」
「い、いや弟さん自身の話じゃなくてですね」
「つついてはいけないね、トキ。ジョーは家族の話になると長いからね」
や、藪をつついて蛇を出したか!??己の失態に気付いて朝は慌てて群青の話を遮りにかかった。
「呪いが発現って!大変な事じゃあないんですか??」
意を決して大きな声で本来の疑問をぶつけてみる。群青ははたと紫の双眸を瞬いて、慌てたままの朝を改めて見据えた。
(ああ、その事はまだ知らないのか)
一人、胸のうちで群青は手を打って、説明しようっと、指を突きつけてきた。
少しは慣れてきたと思ったが、まだまだ、話の途中で説明を求め、腰を折ってしまうことは今後も多そうだった。朝は苦笑する。
「三国の興りとなった神話は知ってるんだよな?その続き、フェイの話だ。彼らは戦争が嫌で、呪いの恐ろしさに怯えて、保険をかけたんだ。これから産まれてくる子供達全員に、自動的にその種は植え付けられた」
深刻な口ぶりの語りではなかったが、朝は無意識に喉を鳴らす。
呪いを抱え、それと一緒に生きていくって保険さ。
「呪いって言うモンは一つかかると二重にはかからないものなのさ。理屈の上では」
だからあえて、子供がある程度年頃になると、生きていくのに苦ではない程度、たわいない呪いがひとりに付きひとつ、付きまとうようにした。
「……」
朝は大国で、豊かで、長年平和だとしか聞いていなかったフェイの、かかえる弊害を知った。
(そうかお隣も、色々あるんだ…)
群青の話を聞いて、納得できたのだがどこか、何か引っかかるものを感じた。しかしすぐには言葉にならず、頭をひねる羽目になる。
一度は途切れてしまった群青の話は、そのあと滞りなく続いて、みんなが食後のお茶とデザートをつつくにいたるまで、和やかに賑やかに時間が過ぎた。
「ぐ、群青さん」
いい加減俺ってしつこくないかなあ、自分でも少し尻込みする思いで、解散したリビングにいる、青い人に再度近寄る。
こちらに来るまで授業後だって、聞きたいことがあっても先生に質問しに行く事なんて一度もなかった。最近はシクとかに聞きに行く。身近に感じる人相手だから出来るのだろうか。
それもあるだろうが、以前よりずっと、疑問を放置しておけなくなっているのだ。
群青の方は、なんだい質問かい、と鷹揚に出迎えてくれた。
何かねお話の続きかね、とキニスンも寄ってきて三人で向き合って座る。男性陣勢揃いだ。
「さっきの、フェイの呪いの話です」
うん?と優しい眼差しに促されて、朝は勢いをつけた。もしかしたら自分は、とんでもないことに気がついてしまったのかも知れなかった。
「群青さんはえっと、俺のことも知ってるん、ですよね…シクに聞きました。俺はその、異世界のものだから呪術を受け付けないって」
だからこの世界へ、召還されたのだと。
「けど、それって全くの無意味じゃないですか。あなたは言った。フェイ人は、みんな呪いを持って生きているから呪いにかからないようになっているって」
「…ふむ」
血の気が、引くような思いがした。
「おおおお俺って、全くの無意味…!!」
なんかそう思うと、泣きそうだ。っていうかなんてことだ、泣いてもいいですか。
「なんていうかね、うーん、じゃあ例えるぞ?」
朝の混乱を目にして、しかし群青は動揺した様子など微塵も見せずに顔を突きつけ合う三人を見渡した。
「俺はフェイ人。呪い持ちだ。生粋のクォ人であるキニスン。そして異世界人のトキ」
ぴっ、ぴっ、と指を差しながら群青は確認していく。ここまではいいか?と目で問われておずおずと頷く。
「とある呪術師が、俺たち三人に名指しで呪いをかけてきた」
そこで群青は目を伏せて、わざわざ声を落として演技を見せる。
「トキ、病で倒れろ」
「!」
冷たい眼差しに見据えられて思わずぎくりと身体が強張ってしまう。嫌な心地になった。
日本には言霊というものがあるが、呪いもこういったものが作用した力なのではないだろうか。
「キニスン、病で倒れろ。群青、病で倒れろ。と、まあそんな感じ。この場合、高い確率で病気にかかるのがキニスン」
「おれもまあ免疫はあるのだけどね」
とりあえず話を合わせてくれよー。すまないねえー。あははなんて和やかに笑いが飛び交う。朝はもう言葉もなく、そんな二人を横目に見送る。
「で、今度は呪術師は無差別に呪いをかけてきた。みんな、病で倒れろ」
「え?」
群青はどこか、薄く笑った。非現実的な、ここにない災害を語るような笑い。
「この場合、俺も病にかかる場合がある。トキは、どんな効果でどんな強力な呪術にも引っかからない」
眉を潜めた。さっきと今の例に、どれだけの違いがあるのか分からなかった。
「俺たちの保険はな、せいぜい自分一人分の盾なんだ。しかも人によって個性豊かな呪いと同じく、材質が違う。その盾は木製だったり鉄製だったり、ある種の呪いには強い、という特製もあるだろう。無いよりマシだが絶対でも強力でもない場合が多い」
自分が呪われる、という対策には強いが自分も含む多数、の場合、守りがあやふやになってしまうような、そんな不確かなものらしい。
「けっきょく、そうなんだよなあ。一個しか呪いが罹らないって言うのも。新しい構築式を組み替えればごまかしが利くんだ」
群青はうんうん一人頷いて、フェイのは確かに気休め対策だが、しないよりマシなんだよと笑った。
「だからトキが無意味なんて事はない。まったく、無い。君は次元が違う。だから身体は大事にしてね」
「……は、はあ…」
乾いた笑いで、曖昧に頷くことしかできない。無意味じゃないという太鼓判を貰っても、残念ながら安堵はほんの少しで、あんまり喜ばしくはなかった。
何とか空気を変えたくてキニスンへ視線を向けてみる。美少年は相変わらず話について行っているのかいないのか、きょとんとした顔で見返してくるだけだった。
(うーん、ばかじゃないとは思うんだけど、おこさまだよなあ…)
しみじみと、ため息が落ちてしまう。
「あ、そそうだ!群青さんも呪い持ちって、一人一人違うんですよね。どんな呪いか、聞いても良いですか?」
「えー、聞きたい?」
群青は何故か照れたように後頭部に手をやって頭を掻いている。
面白くないよ?と俯く彼を盛り上げて、聞かせてくださいと押してみる。渋った割にあっさり教えてくれた(まあ実際そんな勿体ぶったわけでもないのだろうが)
「俺の呪いは無制限式呪術って言ってね」
彼曰く、「数限りシリーズ」(シリーズって…)というのがあるのだという。
「一日に腹筋十回以上」とか「卵を二個食べる」とか「水に10分以上触れる」とか、数字や時間指定系統だ。
(な、なんてささやかな…)
まさかフェイの抱える呪いがそこまでささやかな呪い達だとは、想像もしていなかった朝は正直笑いをこらえねばならなかった。
否、人それぞれなので本当に本人にとっては冗談で済まない呪いもあるのだろうが。
「その、何回以上、とか何時間以下、とかの区切りは本人達が身体で覚えていくんで次第に解るものなんだけど、こういう人達は俺と逆で有限式呪術持ちな訳だよ」
さて、無制限式呪術の説明に戻ります。
「区切りがないんだよねえ、この呪い。すればするほどよくて、少ないほど悪い。その逆もあるけど」
朝はもう何も差し挟まずに群青の顔を見た。
彼も大袈裟にするつもりはなかったのだろうけど、主語を抜かしていたことに、どうやらようやく気付いたようだった。
「俺の呪いは、実在の人物の名前を口に出して呼ばないといけない。と、いうことで、変なヤツだがこれからヨロシクな、トキ」
「……」
差し出された手を、やっぱり苦笑しながら受け入れた。
(2008.4.1)