8 群青(後)






 やっと裏山登山も軌道に乗ってきた、と思っていたのだが、群青ぐんじょうの登場で午後の授業はがらりと様相を変えることになった。
 ときは引きつった笑みを浮かべながら強烈なデジャヴを覚えたものだ。
 運動神経がない、どころか切れている、とクラスメイトからの批評を浴びたこともある朝は、中学に上がって以降の体育の授業が嫌いだった。
 大体学ぶ科目は決まっているのだ。バレーやバスケ、サッカー、夏に水泳、冬にマラソン。詳しくはないがおおむね全国共通では無かろうか。
 朝はやっぱりどれをとっても要領が悪く、球技やチームプレーなど目も当てられないほど役立たずだった。
 バレーでようやくサーブが相手コートに入るようになり、やっと試合を人並みに楽しめると期待した矢先、はい次から武道場で柔道をやるぞーと先生が告げる。
 その諦めにも近い落胆を、久々に感じて項垂れた。閑話休題。
 その日に寄るが、裏山登山はそもそもえのぐりだけの家に住む子供達に当てられた体力作りの課題だ。
 登山のない日は生徒さん達と昼休み状態で遊び回ったり、室内の仕事で一日が潰れるような、忙しい日もある。まあおおむね平和なものだ。
「はーい、ではジョー先生の久々授業を開始します!」
 動きやすそうな平服で、群青は朝を含む4人の子供達に向き合って宣誓をした。
「今回はトキもいるんで、少し参考に一人一人、組み手をしたいと思う。サボってないかのテストでもある」
「組み手ッ!??」
 組み手って、あれだろうか。空手とかでいう。やっぱりアレだろうか。
 朝は空手どころか人を殴った経験さえないので、(兄妹げんかとかの叩いたレベルしか暴力に覚えがない)あからさまにそわそわと落ち着き無くまわりの面々と群青の顔を見合わせてしまった。
「んん?トキはそもそも武術の経験がない?」
 こくこくと気持ちが悪くなるぐらい首肯する。いままで戦えるようになっておくように、と言った忠告を受けたこともなかったので、てっきり勇者修行はしなくて良いものと思っていた。
(あー、そうなんだよなあ。すっかり忘れてたけど、立場的には異世界の勇者様ポジションか…)
 まったく自覚もないのだが、もとの世界の知人に自分の状況を説明するなら、やはりそう言った方が伝わりやすそうではある。
「トキはそもそも体力も脚力も抵抗力も無さ過ぎだったからね!今までは健康体作りを優先させていたね」
「ぐふっ…キニスンはっきり言いすぎだろ!」
 事実ではあるが、あんまりにも遠慮のない言葉に朝は隣のキニスンの頭をぐわしぐわしと揺さぶってやった。美少年には何の障害でもないようでむしろ楽しそうに笑っている。
「でも、ずっと頑張ってたよ。頑張りやさん…」
 キニスンの隣から顔を出したミーシャが、精一杯フォローしてくれた。
「ミーシャありがとう…そうなんです、この前何とか日没までに頂上に到達しました」
 朝としても、未だ縮まらない子供達と自分の実力差を知っているのでけして偉そうに言えたことでもないが、隠しても仕方がないと正直に伝える。
「ふうん、もともとのトキを知らないから何とも言いようがないけど、まだまだ発展途上、でも頑張りやさんって事だな。わかった。とりあえずトキは後回しでいいから、みんなの動きとか見ていてくれ」
「…はい…」
 やっぱり武術指南は受けねばならないらしい。気が進まないなあとどんより俯きつつ、家の裏庭であり、運動場も兼ねる一画に、地面に直接座り込んだ。
 この世界にとって、自分の身を守る護身術や最低限の武器などは、時として国語や数学よりも覚えねばならないのだという。
 産まれてからずっと街で暮らすような、普通の町民には縁がなかったりもするらしいが。
 山中で暮らす村人になると、狩猟やその際に凶暴な獣とも戦うこともあるとのこと。
(まあ自給自足の暮らしだと、自然そうなるのかな)
 魔王と戦わないまでも、これも教養の一つ。居候させて貰っている身として、自分の身を守れるくらいにはなった方が良いのだろう。
 と、自分を納得させているうちに目の前ではアニエスを片手で相手している群青の姿があった。
 左手を腰の後ろに置いて、右手だけで素早く繰り出される拳の一つ一つを捌いている。
 アニエスは、呪術師だと言うし、そういった体術とは無縁だと思っていたがやはり、朝とは比べものにならないぐらい迷いのない動きだった。
 けれど実力が違いすぎるのか、群青相手だと大人と子供のように、その差は歴然としていた。
「アニエスは一撃が軽い。呪術で牽制するにしても不意をつく一撃を与えられなきゃ活路が見出せない」
「!!」
 朝にはもちろん分からなかったがわざと群青は左に隙を作って見せた。アニエスはそれを見逃さず膝を上げる。みぞおちに見事決まる、と確信したその瞬間、封じていた左手のひらが軽く膝を受け止めて衝撃を殺す。
「……はあっ、」
「良くできました。次、ミーシャおいで」
 アニエスの、少し乱れてしまった髪を直すように撫でてやって、群青は微笑んだ。
 見守りながら順番を待っていた少女が、名前を呼ばれてぱっと駆け寄る。アニエスはすぐに、邪魔にならないよう下がる。
「おねがいしますっ」
 ミーシャは礼儀正しく、ぺこっと群青へ頭を下げた。群青も笑顔のまま、こちらこそ宜しくお願いします、と若干慇懃に頭を下げる。
 相変わらず群青は片手だった。ミーシャは、トランポリン選手のようにとん、とんと軽く数回その場でジャンプしていたかと思うと。
 かき消えた。
「えっ、えええー!??」
「トキ、うるさい」
 心底迷惑そうにアニエスに咎められるが朝の驚愕は冷めやるどころか。
 はっと目を瞠った先に、群青の後ろに回ったミーシャが加速を付けて迫る。
 振り返りもしない男は、特に焦った様子もなく後ろ手に繰り出される一撃を受け止め、ばしっといなした。
「…!」
「今ので充分。よくできました」
 振り向いて、恥ずかしそうにはにかむ少女の頭を撫でてやる。群青はあっさりしているが、ぶっちゃけ打ち払った右手を痛そうに振っていた。朝ですらはっきり確認できた。
「さてはキニスンと二人で遊んでいたな?」
「うん、ジョーさんの言いつけを守って、ちゃんとしたの」
 うんうんと先生の顔で頷いて、ミーシャの背中をひょいっと押しやる。それまでの笑顔が、口を開くと同時、少しだけ強張った。
「…じゃ、キニスンおいで」
 その台詞を皮切りに、さっきまでそこにいたはずの少年の姿が消えた。
 いや、朝だってこの中で一番キニスンが強いだろうとは知っていたが。いやしかし。
 それはもはや朝には視認できない打ち合い。
「……!!」
 びしばしびしばしびしばし、風を切るような、と言うには強烈すぎる、殴打と防御、肌と肌がぶつかる音なのだ、朝にはそれも分からない。
 群青は最初から両手でキニスンの猛襲を受け止め、打ち払い受け流す、防戦一方だ。教える立場としては当然の行動だが、それにしても反撃の隙を許さない。
 鋭い拳戟に、頬の肉が裂け血が飛ぶが、なおもお構いなしに打ち合いは続く。決定打を与えなければ、これはもはや止まらないのでは。
 群青は軽く溜息を吐き、意を決して拳を固めた。繰り出される二本の腕を押しやり、かいくぐるように突き出される一撃。
「!!」
 キニスンが吹っ飛んだ。
「…キィ!!」
 ミーシャがびっくりした様子で、珍しく大きな声を上げてごろごろ転がっていく金髪めがけて駆け出す。
 朝もすぐ、駆けつけたいと思うぐらい心配だったが、もはや何がなにやら、茫然とその場に立ちつくすしかできなかった。
 ごろごろ、なおも転がり続けていたキニスンは、やがて開脚後転のように座り込む状態でぴたっと止まり、ゆっくり顔を上げた。
 少し泥に汚れているが、ほぼ無傷に見える美少年はぱちぱちっと瞬きを繰り返し、
「ああ、びっくりしたね」
 と、ため息をつく。側にしゃがみ込んだミーシャに、笑顔を向けた。
「バカが付くほど頑丈で羨ましいわ」
「……」
 やっぱり弟にも辛辣な物言いのアニエスに、驚嘆の思いも込めて絶句しつつ、朝はそろっと、群青へ視線を戻した。
 彼は自分の、頬が切れにじんだ血を手の甲で拭いながら、朝の視線に気付いてにっこり笑った。
「トキもおいで?」
「ムリ!!!」
 首と手のひら、必死に横振り。
「まああんなのになれとは言わないから。トキ。君は呪術に関しては誰よりも強力な鉄壁の防御力を誇るけど、身体は生身だ。剣の一振りであっさり死んでしまうんだ。保護するこちらの側としては全力で危険から守らせて貰うけど、どんな状況でも、自分でも対処できた方が良い」
 あんなの呼ばわりされたキニスン当人は、気分を害した様子もなくまあ大概はおれが守ってあげるけどね!と頼もしい発言をくれる。 
 朝の小心者で正直な意見としては、そもそも戦わねばならない場面になること自体が冗談ではない、と思うのだが。
 仕方がない。渋々ながらも決めてきたではないか。頑張らねば。頑張っていこうと。
(自分に、出来ることで、もう後悔はしたくない…よな)
「…お願いします」
 内心おそるおそるという思いは拭えない。けれど朝は群青へ頭を下げた。
「じゃあま、とりあえず適性を見ようと思うので、思うままにかかっておいで」
 群青は両手を後ろ手に組むと、いきなりそんなことを言ってきた。
「は?」
 かかっておいで、ったって…。
「いや、よくわからない、というか…」
 殴る蹴るという行為自体気が進まないのに、自分から。
「殴り方、蹴り方も分からない?」
 正しい殴り方、と言うマニュアルがあるのなら答えはイエスだ。やっぱり気が進まない。戦うということ自体、朝には遠い概念だ(部活もやっていないし)
「なるほどね。時間もそうないしな。トキには基本や基礎を教え込むつもりはない。必要だと思ったらシクさんに聞いて教われ、な?」
 困惑した表情の朝に、群青はなにやら結論を出したらしく両肩にぽんと手を置いた。
「基礎も大事だがトキにはまず打たれ強さと回避を教えよう。ついでに護身術もちょっとな」
 結局本日、ジョー先生は朝につきっきりとなりそうなので各自自習になったようだ。
 申し訳ないと思いながら、群青に改めて向き合った。
「さっき剣の一振りで死ぬって言ったが、それはもう俺だって一緒だ。どんな強者だって大事なトコをばさーっとやられたら死ぬ。身体は痛みに慣れはするが、痛いもんは痛いんだ。一撃食らえば隙は大きくなり動きも鈍る。闘いの基本は攻撃を受けないこと。もしくは攻撃を封じること」
 朝にも理解しやすいよう、理屈から説いてくれるようだ。一つ一つに頷いて、経験もなく鈍くさい自分には至難の業だなと苦み走った笑みが漏れた。
「体力の削り合いのような、技ばんばん繰り出す長期戦なんて一生に一度あるか無いかなので、基本的に真剣勝負はすぐ決まる。トキはまあ、誰も助けのない状況で襲われたら、すぐ冷静に判断すること」
 何を、と問う間もなく、群青は指を折った。
「逃げるか、逃げられないかの二択」
 未だ追加されない、倒せるかの選択肢を群青はあえて封じる。今後朝の成長に応じて、それはシクに任せるべきと判断した。
「一対一なら打つ手は多い。素人のトキでも切り抜けられると思う。多数対一なら、どれだけ俺が対策を立てておいても油断は出来ない。これから、一つ一つ教えていく」
「は、はい」
 真剣な物言いにじっとりと頷く。まあ先にこれだけごちゃごちゃ言っておいて何だが、と群青は再度改めた。
「俺が口で伝えて、トキがいくら頭で理解したって結局動かなきゃならんのは身体だ。指導の際痛い思いもする。けれど鈍くさいなら鈍くさい分身体が覚えるまで反覆しなきゃな。俺は人の良いお兄さんで通っているが厳しいときは厳しく行く」
 ここに来て早三週間。あらかじめこんな忠告というか、予告をしてくれたのは初めてだった。それだけで十分、群青は人が良いように思う。
「大丈夫です。イスパルの拳骨より痛いものもそう無い」
「おお、意外と言うなあ。じゃ、まずはな…」


 そうして群青との護身術、その他諸々の指導が始まった。
 代表的な人体急所を教えてもらって、そこを重点的に防御するよう念頭に置く。
 朝が危険にさらされた場合、意識するのは逃げること、この場を最小限の被害で切り抜けること、助けを待つ間致命傷など受けないようすることなので、ひたすら受け身の取り方や各武器の間合いなど、体験させられながら教わる。
 前言の通り群青はなかなか容赦がない。ほうきを剣に見立てて構え、丸腰の朝に俺を越えてみろとバスケの試合じゃあるまいし宣言されたときは、実際なら16回は死んだ。
 我ながら飲み込みの悪い生徒を自覚している朝は、付き合いのいい群青に心底感謝した。普通ならすぐに見切りを付けられ、お前なんて破門だー!と言われているだろう。それぐらい鈍くさかった。
 と、基本のアレコレは省いているらしいがいろんな状況、いろんな場面で生還できるか、どうすれば効果的かと口頭で身体でビシバシ体験させられた。
 いつになく全身アザだらけとなったが、群青の心の広さに救われて、自分に自信が持てなく、いじけ性の朝も何とか続けられた。
「うーん、トキ。こう言っては悪いが、君は確かに運動神経も飲み込みも良くない。登山とここ数日のやりとりで成長もしているけどね。うん、光るものはないんだけど」
「ぼろくそ!?」
 言われたとおり反復横跳びのような運動(基礎トレもするよう言われた)をしていると、何かしみじみ罵られてしまった。
「反射神経、いや、動体視力、両方かな?は結構いいセンスがあるように思うよ」
「え…?」
 運動神経と反射神経って違うのか?と一瞬頭をひねってしまった。
 違うよな、と思い直す。
「いや、運動神経がないと反射とか動体視力がよくっても意味無いんじゃあ…」
「まああるに越したことはないが、俺が動こうとする直前、君は反対方向に意識が向くんだ。すぐに身体が逃げられなくても、それを意識できるだけでも違ってくる」
「いや、でも運動神経が無くちゃ感知できても逃げ切れないし」
 堂々巡りしそうになる会話を、建物からいつの間にかやってきていたシクが遮った。
「どうですかトキ。はかどっていますか?」
 トキは曖昧に微笑み返すだけに留めた。何とかリタイアせずに続けてはいるが、ひとえに面倒見の良い群青のおかげだと分かっていた。成果も良く分からない。
「ん?シクさんはどこかにお出かけで?」
「ええ。少し。何事もないと思うのですが、子供達を見ていてもらっても良いですか?」
 いつもの穏やかな口調で群青へそう告げ、メモ帳サイズの紙片を手渡す。
 返事も待たずにシクは、裏山の方向へと歩いていってしまう。
「…シク?群青さん、紙にはなんて?」
「ん、ああ、心配要らないよ。いつものことだし、シクさんがこの家で一番強いし」
 もしかして隠されるかなと思ったが、群青はあっさりと朝にその紙片を見せてくれた。
 やはりすらすらとは行かないが、午前中は相変わらず勉学の日々を積み重ねているのだ。何とかその意味は読み取れた。
「えーっと、暴れみのむし退治、ほかくの仕事?依頼?」
「みの虫じゃなくて猪な」
 すかさずツッコミが入るが、大体のところは解読できたらしい。シクは要するに、えのぐり茸の家のもう一つの顔。何でも屋さんのお仕事に向かったと…。
「ええ!??」
「え、何それ何に対する驚きの声?」
「し、シクさんが一人で!??猪を捕まえに!??」
 とたん落ち着きを失ってあわあわと宙を手で掻いてしまう。ついうっかり呼び捨てに慣れてきたのにさん付けが復活してしまうほど混乱する。
 シクは確かに雰囲気が強くて気配なんて全然読めないが、どう見ても魔法使い系で、細くてやはり穏やかなおばさん(まあ年齢よりずっと若々しい外見だけど)のイメージが強いのだ。
 猪を一人で仕留める、歴戦の女戦士にはどうしたって見えなかった。
「落ち着けよ。さっきも言ったけどシクさんがこの家で一番強いんだって。あのひとなら猪どころか熊の大群でも素手で凱旋されるって」
「うううう嘘をおっしゃい!」
 思わず貴族口調で反論してしまった。
 確かに汗くささなどとは無縁の、花をしょっていれば存在意義の見出せる美少年、キニスンが身軽さを生かした俊敏な動きで自分の何倍もある警官(この世界では警組と言う)を打ち倒したのは見ている。
 ついでに言ってしまうとシクなんかは立ってるだけで相手を怯え、震え上がらせてしまったのだが。
「でも、でも万が一、シクに何かあったら…!」
 頭を抱えてウロウロしてしまう。
 群青が嘘をついてまでシクを一人で行かせる理由なんて思いつかない。本当に、実は彼女は強いのだろう。
 けれど心配だった。そんな恐慌一歩手前の朝の姿に、群青は微笑みを浮かべた。
「君は物事を悪い方に考える癖があるみたいだ。心配症だな。まあ、そこまで言うなら彼女を追いかけていってごらん?シクさんの実力の片鱗くらいは見えるかも知れない」
 けして邪魔にならないように、と背中を押されて前に出る。
 肩越しに振り返ると、大丈夫あとはちゃんとしておく、と目で訴えられて頷いた。
(そう、心配なら納得できないなら、目で確かめよう)
 シクは怒るかも知れない。でも群青が快く送り出してくれたのだから、本当に危険はないのだろう。
 だから見学になるのだと、思いながら山に足を踏み入れた。
 シクの実力を目にしてみたいという欲求も、抗いがたく朝を捉えていた。
 もう山道もそこそこには慣れたもので、足場を確かめつつも小走りに駆け上がっていく。
 耳を澄ませ、視線を彷徨わせながら、シクの姿を追った。あの銀髪はきっと目印になるだろう。
(いた!)
 梢の隙間から、枝葉を踏みしめる靴の擦れる音。緊迫し、張りつめた空気を遠くから感じて、朝はそっと呼吸を落とし、目を懲らす。
 シクはいた。目的の標的を、難なく探し当てた様子だった。今まさに対峙してるそれが、ソレ、、ならば。
(って、アレのどこが!??猪じゃねえええええ!!!!)
 思わず掴んでいた枝を握る手に力が入ったが、声を上げてのツッコミはこらえることが出来た。
 シクの前方には、およそ十匹はいるであろう獣たちの群れ。血走り、殺気だった様子を隠しもせず、息荒く、立ちふさがるシクを威嚇している。
 全身毛むくじゃらで、四足歩行の短い足。丸みを帯びた体躯は、確かに猪と言えるかも知れない。
 しかしその威容は、顔の横に突きだした角といい、その大きさと言い、
(なんて言うんだっけ、ええと…)
 さいと言った方が近いようなものだった。 
「ザグルか。このところ多いですね…」
 シクが小さく呟いたが、その内容までは朝のところまで届かなかった。
 それが合図かのように、先頭の猪が巨躯を震わせシクに向かって突進をかける。
「ごめんなさい」
 シクが小さく呟いた。
 結った、長い銀の三つ編みが、ロングスカートがふわりと舞う。
(…あれ)
 と、朝が思考した間に猪とシクの位置は交代していた。突進した形のままの猪は、自らに何が起こったのか分からず、数歩ふらふら歩み、その場に横転する。
 ずどん、と凄まじい体重を思わせる音が響き、その間にもシクは続く二匹目にかかっている。
(速!速すぎて…!ちょっ)
 初撃は本当に見えなかった。気がついたら事が済んでいた。それは数日前のキニスンと群青の組み手でもそうだったのだが、しかし今は注意して眺めていると、シクの姿は確認できた。
 今まで見かけたこともない、長い獲物で猪を叩き伏せている(切り伏せている?)ようだ。狙い澄ましたように、無防備な首もとや鼻先、前肢をかいくぐって臓器の集中する腹部などに飛び込んでは次々と震動を起こしていく。
 ずどん、ずどん、ずどん、彼らは苦痛の咆吼を上げる間もなく細い一人の婦人によって沈められていく。
 言葉もなく、本当に間抜けな顔で、口を開けたまま朝はそれを見ていた。視認出来るようになった自分の成長に、気付くこともないまま。
 息を吐く暇も無い短時間で、シクは最後の一匹に獲物を向ける。
 朝はその瞬間に固唾を呑みながら、しかし何故か、捕らえることが出来た。彼女の背後で、何かが微かに揺れたのを。
「シク、危ない後ろ!!」
 反射的に、身を乗り出し声を張り上げていた。
 シクはわずかに目を瞠り、動きは止めずに最後の猪を仕留めると、振り返りもせずに獲物を背後に向かって投げた。
「っひい!」
 それは朝のすぐ側まで迫ってきていた、くちばしと蹴爪の異常に肥大したカラス(カラスかどうだか疑問だか)に見事突き刺さった。声を上げて飛び出してしまったので急遽標的にされたのだ。
 異形のカラスはビクビクと震え、苦しそうに悶えながらもやがて絶命した。化け物のような存在とはいえ生き物の死を間近に見てしまい、朝は顔を顰めて目を背ける。
「トキ!」
 切迫した声に呼ばれ、びくっと全身が強張る。見る間に斜面を駆け上がり、シクが朝の側までやってきた。忍者か!と言うような身軽さだ。
「ごごごごめんなさい!!!」
 今までも何度も感じている、シクに対する出所の分からない絶対の恐怖にまたもや震え上がり、朝は反射的といっていい早さでひたすら謝った。
「怪我はないですね?」
「はい、はい、はい!無いです無事です!!」
 強い語調の問いかけにぶんぶんと首を振る。シクは朝の側に立ってようやく息を吐き、カラスに突き刺さったままの獲物を引き抜いた。改めてみるとただの木の杖に見えた。
「よかった…無事で…」
 目の前で、朝にとって恐怖の権化、見知らぬ戦士と化してしまったように思えたシクが、肩を落としてほっと安堵したように呟く。
 顔を上げれば、そこにあるのはいつも通りの穏やかな微笑み。
「ああ、良かった…」
「……」
 朝は、未だ心臓の鼓動の早さを持て余しながら、なんだ、と胸中で呟いてみる。
(怖い、人だけど、怖いけど…やさしい、ひとなんだ)
 やっぱり、やさしい人なんだ。
 そう感じることが出来て、少なからずほっとした。シクは本当に、言語を超越するぐらい強い人なのだ。朝にとって強い人は、無意識に怖いひととして変換されるようだ。
 自分がその強さの標的にされるわけではないけれど、強い人は、やはり何だか怖いひとだと。
(あの、闘威大祭の説明とか見ちゃったからかな)
 心が拭いきれない怯えで、満たされてしまうのだ。
「群青にたきつけられて、着いてきたのですか?」
(見破られてるー)
 いつも通りの穏やかな微笑みながら、シクに対する怯えがちゃんと払拭できずに朝は空笑いを浮かべ、結局笑っていられなくなってごめんなさい、と再度謝罪した。
「しかしトキ、あの鳥のザグルの接近に良く気がつきましたね?」
「え、ザグルって、あの?」
 朝は授業中に習った事項を、頭から引っ張り出してみる。
 ザグルとは、大気中や地表にたゆたう、または余剰している呪力の影響を受け、変貌、凶暴化してしまった動植物のことを指すのだと。
(モンスターみたいなものだって認識してたけど)
 さすがにゲームのエンカウントとは臨場感といい真に迫る緊迫感といい、違いすぎる。
 現実って怖い、と朝は頷きを重ねる。もし帰ることが出来たとして、ゲームをやらなくなるかも知れないと思うほど。
(怖かった…)
 シクも怖かったが、一瞬とはいえ命が危険にさらされた、この世界が怖かった。
(いや、もとの世界だって、事故や病気や、どんな理由で死ぬかも予測は付かないんだけどさ…)
 そんなこと、普通に生きていたら考えないものじゃないか。
「群青さんのおかげかも。動体視力とかは、結構人並みみたいだから。運動神経はやっぱりからきしだけど」
 心がどこか乾いたおとを立てていた。それをごまかしたくて、笑うしかなくて笑う。
「トキ…」
 心配そうな、薄緑の眼差しにひるんで、気がつかない振りをして背を背けて山を下りはじめる。
 シクが後ろを付いてくる足音が聞こえる。わざと、響かせてくれている。彼女は普段足音なんて立てない。
「トキ、群青と一緒に、首都の闘威大祭に参加しませんか」
 突然、静かな山中に、穏やかなままの言葉が行き渡って、朝はそのまま足を進めていたのだが、やがて。
「は?」
 振り返って、恐怖もどこへやら、シクの顔を凝視していた。
「大会に出場しろと言うのではありませんよ。首都見学で息抜きも良いと思いますし、それに、」
 どこかシクらしくない言葉だと思ったが、続く言葉に大概の疑問は吹き飛ぶ。
 彼女は続けた。朝がそれをどう受け止めるのか、気遣うような、試すようなどこか、探る眼差しを向けて。
「あなたを召還した呪術師、アスラン・ホーグ・ヨーグが来るのです」

















 

(2008.4.3)

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