アスラン。…興月アスラン
 一月の偉人と同じ名前だ、と思った。そんな感想が自然に漏れるほど、この世界はときに浸透してきている。
 かつては最高位の呪術師として国に仕え、すべての権限をほしいままに与えられていたというそのひとは、今から十五年以上前に引退を宣言すると、国家全体が血眼で止めにかかるのも一蹴し、あっさり田舎で隠棲生活をはじめてしまったらしい。
「贅沢に飽きた」
 去り際のその一言が町民達に親しみを湧かせる名言として、数多い彼の伝説エピソードを語る上でも外せないものとなっている。
 それからのホーグ・ヨーグ(ホーグは国から与えられた称号であり、彼の姓はヨーグであるらしい)は住処はいつまでも明らかにされず神出鬼没。
 大きな災害や事故があったとき、あちらこちらに現れては気まぐれな神のように解決策を編み出し、もしくはその類い希なる呪術を用いて人助けをすることもあったようだ。
 そのほか薬草採集や病避けのまじないを授けてやるなど、街の呪術師がやるようなたわいのない依頼を、一宿一飯と引き替えに受け付ける姿もしばしば見られた。
 一度はこの国一の呪術師として、栄華も名声も思うままだった男が、と嘆く貴族や王族も数多かった。当時は少女であった現クォ国女王陛下、ネストリアもこの報告を耳にしたときは呆れてものが言えなかったようである。 
(つまりは変わり者ってのか)
 朝は口元に浮かぶ苦笑を隠す気もなくそのままにしていた。
 シクに話を持ちかけられてすぐ、朝は本棚横のラックに詰め込まれた過去の雑誌や記事群を引っ張り出しては読みあさった。
 まだ大人向けの文面は難解なところが多かったが、読む度に自分の勉強の成果を感じてうれしくなるのも正直な気持ちだった。
(言葉が通じるからって慢心しないで、読み書きを教えて貰えて良かった…)
 誠実に接してくれていると、こういう時実感してうれしかった。
 この時は自由時間だったのだが、調べ物に没頭する朝に気がついてキニスンが違うアスラン関連の記事を引っぱってきてくれ、ミーシャがそれを内容別に分けてくれ、イスパルは黙ったままお茶を煎れてくれる。
 何だかむずがゆくなって、通りすがりのアニエスに読めないところを尋ねて罵られる。そんなことで少し気が落ち着く自分に苦笑する。
 アスラン・ホーグ・ヨーグ。男性。51歳。
 今を持ってなお、この国最高の呪術師と名高い。
 朝を、この世界へ呼んだ、
(明言される。出会ったら、)


 帰れるのか否か。



9  出立





「以前、会ったとき…あなたを呼ぶという依頼の時ですね。彼がそう言っていたのです。今年の闘威大祭は荒れる。俺も見に行くか、と言った風に」
 この家で唯一アスラン本人と面識のあるシクに、事の詳細を尋ねた。
 確かにその言葉にはかなりの信憑性があるし、何事もなければ確かに彼は大祭へ訪れるのだろう。
「…しかし、そうですね。彼は気まぐれです。首都へ向かう途中で引き返したり、来はしたけれどほんの短時間で立ち去ったりという可能性も考えられます」
 いきなり不安になるような予測を打ち立てられた。
 そうですよね、本人のお言葉ならかなり大丈夫かとは思ったが、気が変わるなんて誰でもありますもんね、朝は項垂れて口の中でぶちぶち呟きを漏らす。
 だがしかし、今回の朝はそこでめげたままではなかった。顔を上げて、では、と心持ち詰め寄る。
「彼の滞在していそうな場所、日程などは、予測できませんか。もしかしたら、程度のものでも良いんです!」
 そんな有名人ならおおっぴらに探すわけにも行かないだろうし、(本人もきっとお忍びだろう)出来る限り対策は立て、絞り込んでいきたい。
 なにせ大祭と来たら三十日間もあるのだ。メインの大会会場中心に探すとしても首都だけに相当な距離を洗うことになるだろう。
(誰か一緒に探してくれたとしても、未知の街だしきっと人出も相当だろうし)
 はっきり言って、この状況で見ず知らずの人物を捜し当てるなど無謀も無謀。不可能と思ってかかるしかないのかも知れない。
 けれど探さなければ、そもそも出会うこともないのだ。
 朝は、少しずつ変化している自分の心境に自覚がある。絶対にしなくちゃならないことでも渋々行い、確実に成功することだけを選んできた昔の自分。嫌悪こそ違うかも知れないが、戻りたいとは思わなかった。
 いくら望みは薄くても、前が見えなくなっても、掻き分け掻き分け、何かを探していきたい。
 それは単に、ここにおいて何かをしていたい、今までの取り返しの付かないことで、後悔を繰り返したくないという、明るく溌剌とは言えない思いかもしれないが。
 きっとそれは、二月近く共に過ごしてきたみんなも感じ取っている変化で、シクは朝の必死な表情に目元を緩めた。
「分かりました、トキ。ヨーグとはそれほど親交が深いわけではないのですが、出来る限り彼のことを教えましょう」 
 その言葉に心強さを得て、朝は紙束で作ったメモ帳を握りしめ、ぐっと身を乗り出す。
 そうですね、ヨーグは…。シクの口から漏れる情報を、一言を漏らさず書き留めておこうと。
「お酒が大好きな人です」
 その後に続くあまり長くない説明に、朝は聞けば聞くだけ微妙な顔つきになっていった。



 朝をこの世界に呼んじゃった(彼の意志ではないらしいが)高名だが変人呪術師、アスラン・ホーグ・ヨーグについて追記。シク曰く。
 三度の飯より酒が好き。ただし常に飲んだくれているわけでなく、決まった時間に決まった量を摂取するなど、こだわりを持った酒飲みである。
 人の指図は嫌いで面倒臭がりなわりに、自分のためならば、もしくは気の向いたことならば何でも率先してこなしてしまう。
 一人で隠棲しているくせに人好きだ。寂しがり屋である。
 実は呪術よりも芸術全般の技術に優れている。ネズミが大の苦手。うわばみ。
「わけがわからん…!!」
 自分で聞くがままに書き連ねた走り書きを繰り返し眺めつつ、朝は正直頭を抱えた。
 50代の男性という、あまり接点の無かった年代のせいもあってかうまく人物像を描きにくいこともある。
 いちばん年の近くなるシクも40代前。彼女のことでさえやはり遠いのに。
 両親や学校の先生も近いが、やはり呪術師の知り合いがいないため、比較対象には程遠いようだった。
「呪術師と言えば…」
 朝の知り合いの呪術師と言えばアニエスしかいない。
 実際に彼女が呪術師である、と実感する機会は少なかったが、同じ生業ならば少しは見当が付くだろうか。彼の思考パターンなど。
「は?分かるわけがないでしょう?会ったこともない人の行動をどう予測しろと言うの。無駄なことで呼び止めないで」
 果敢にも立ち向かってみたが、思った通り玉砕した。二の句も告げないうちにアニエスは去っていってしまう。
(は?って言われたよ、は?って…)
 もちろん心臓はずっきずきと痛むが、分かり切っているためかアニエスのこんな態度にも苦笑を返すことが出来るようになった。慣れって恐ろしい。
 それが諦めに変わる時を思うと、何だかもっと怖くて、胸が痛い。
「トーッキッ。何してるかね?調査?」
 突然背中からずっしりと重みにのしかかられて、前のめりになりながら呻く。
「キーイー。なーんでそうそう人に乗っかるのか!重いって!邪魔だって!」
 子供ながらのじゃれ合いだと分かっているから強く言えないが、朝はうってかわって低い声で背中のおんぶおばけを咎めた。
 背に乗っかって足をぶらぶらゆらしているキニスンは、以前はこうするとべしゃっと潰れてしまったのに、今は足元がふらつきつつ自分の体重を支えて立っている朝の後頭部を見詰めて目をぱしぱしとさせた。
(あーもー何でこう姉弟で対応が違うかねえ。キニスンのべたべたしてくるっぽいところは14の男にしてはどうかと思うぞ…)
 正直屈託のないところは彼の美徳だと思うし、嫌いではないのだが少々心配にはなる。
 肩から垂れている少年の細腕を持ち上げて、振り向いてきちんと向かい合う。
 この美貌に何の感動も衝撃を覚えなくなってどのくらい経っただろう。結構早くに慣れた気がする。
 最近では、言ってしまえばやんちゃな5歳児をたしなめる年上の心境だ。
「今はまだ子供で通る歳だけどな?ええとその、こんないきなり抱きついたりは、普通しないから。男同士とか尚更変だから。あー、いやこの世界の常識知らないんだけど、今の内に直した方が良いぞ?」
 出来るだけ、傷付けることのないよう声色に気を遣ったつもりだ。キニスンは言われた言葉が脳内に浸透するまで、無垢な子供そのままの表情できょとんとしていた。
「変かね、なぜ?」
「ええー、なぜ?なぜってなあ、誤解されるから?」
「誤解。どういった誤解ね」
 何故か詰問されているのはこちらだった。言われてみれば、答えていけば、別に悪いことではないのだけど、そう、恥ずかしいから自粛してくれと、そう伝えたかったのだ。
「おれは頭が悪いけどね、トキが嫌がる顔、困った顔、分かるからね。重い、やめろと言っても、嫌だと言わなかったから、うれしかったんだね。ごめんなさい」
 どう説明しようか視線を彷徨わせていると、ふいに真っ直ぐに見詰められてそう告げられた。笑顔も困惑もない、無表情。
(アニエス)
 その表情に彼の姉を確かに見いだした。朝は思わず俯く目の前の金髪を、いつものようにわしゃっと撫でた。
 もごもご言いながらも、誠実に対応しなければと自分に言い聞かせる。
「嫌じゃないよ。そりゃ重いしいつもいきなりだからさ、困っても、嫌じゃないよ。は、恥ずかしかったんだ」
 それだけだよ、そう言うと、こっくりと頷く、上げた顔は、いつもの明るい笑顔だった。
 この姉弟はもしかしたらよく似ているのかも知れない。外見だけじゃない、内面も。
 ただ姉が覆い隠している分を、弟は余分に表現しようとしているだけなんじゃないのか。
 考え詰めても栓のないことを思う。
 出来るだけ、抱きついたりはしないようにするねとキニスンが呟いた。朝は少しだけ、罪悪感と寂しさを覚える。可哀相なことをしたと、思ったのだ。
 恥ずかしいくらい、何でもないことなのに。
 抱きつきたいのなら、いくらでも抱きついていいのだよと笑って言えるには、朝はまだまだ修行が足らない。



 あらかじめ首都内の建物の位置関係、予想される会場周辺の混み具合など群青に訊きながら朝なりにシミュレートしてみるのだが、やはりすぐに行き詰まる。
 群青の護身術授業(引き続き受講させて貰っている)と同じだ。
 予測を打ち立て対策を練ることは出来る。しかしその時、現実になって行動に移せるか、うまく行くかは誰にも分からない。
 今年の大祭はどうなるのか、アスラン術師がどのような動きをするのか、ここでいくらやきもきしたところで仕方がないことなのだ。
(でもやっぱり、何かしておきたいんだよなあ…)
 母国と違うので、インターネットで検索とか手軽なことが出来ない分、自分の頭を足を動かして、手を尽くそうとしてみた。
 朝は今「酒場リスト」などを作ってみている。しらみつぶしになるだろうが、地区、店名、アスランがいたかどうかをチェックリストとして記しておこうと思ったのだ。これなら二度手間は省けるかも知れない。
 しかし気がつけば机にしがみつくように、前のめりで姿勢が悪くなっている。
 朝はそもそも眼鏡着用者だった。夜就寝時にこちらに落ちてしまい、眼鏡は向こうに置いたままなので、読書時や授業中は常に目を凝らして目付きが悪い。
 普通に生活する分には問題ない視力だし、自然に囲まれて生活してるからか、それとも偏食を矯正されたからか、若干目が良くなった気もするのだが。
「トキ、頑張っているみたいね」
 いきなり背後から呼ばれて、勢いよく身体を起こしてしまう。横からそっと顔を出したカノアが、そんな様子にうっすらと微笑んだ。
「目、疲れるのでしょう」
 いつも通りの含み笑いのまま、カノアが朝の付く机の上にことんと細長い瓶を置いた。
 さらに隣に、木で出来た長方形の箱。
「なん、なに?これ」
 以前までの敬語の癖が抜けなくて、朝は言い直して、しかし引きつってしまう口元は改められなかった。
「この瓶はね、心配しなくてもただの目薬よ?視力回復に効果があると思うし、眼精疲労にもいいはずだわ。私のいない間使ってね?」
「何か微妙に本人希望が多分に含まれた説明文だけど、ありがとう。使います」
 確かに無茶なところのある女性だが、実力も充分体感させて貰っていたので突っ込みつつも受け取る。
「この箱は…?」
 瓶に比べると結構大きい。小振りの弁当箱サイズだ。
 カノアに頷かれたので上蓋を引き上げて開けてみる。名称の紙が巻かれた薬瓶。包帯。栄養剤まで入った携帯救急セットだった。
「え、え、ええ!??」
「トキに回復のまじないは及ばないもの。私の出番でしょう?」
 でも私は一緒には行かないのだから、いざというときは何とかしてね?
 マイペースで神秘的、近寄りがたい印象は今もそのままだったカノアの突然の気遣いに、朝は目を白黒させて、けれど息を詰まらせて。
「ありが、とう…」
 顔が赤くなるのが分かって、救急箱に顔を伏せる。薬草学で毒草を食べさせられたのも、意味不明な薬品の実験でありえない腹痛にのたうち回ったのも帳消しに、なるわけがないがとにかくうれしかった。
 カノアも朝の反応に満足したようで、いつもよりやわらかな笑みを向けてくれた。その背中を見送って、再度箱の中身を確認しておく。
 風邪薬、腹痛薬、血止め、傷薬、化膿止め、一つ一つの容量は少ないが十分な品揃えだ。そうだ、この箱の隙間に薬草学で習った使えそうな薬草リストもメモして挟んでおこうと思い立つ。まだまだ、やれることはいっぱいありそうだ。
 と、箱の下部に何か取り付けられているのに気がついた。紐できつく縛り付けられている。
「??」
 個人的に、物凄く気にはなるのだが、託された相手がカノアであると言うことと、きつくきつく縛られた紐がしばらく頑張ってもほどけなかったため一旦諦めておいた。
 今度思い出したときにでも、ナイフで切って確認してみようとしておく。
 いや、実際何が出てくるかは怖いのだけど。
 月日はたんたんと何事もないように過ぎていった。
 朝の焦りや緊張も長く続くものではなく、いっそもうすぐにでも出発した方がマシだー!という頂点を過ぎるといつも通りに日々を過ごすようになった。人間の身体は時々にあわせ順応していくものなのだ。



「明後日、出発しようと思う」
 朝の感覚で計算して10月17日の夜。群青が食卓の席で一同に告げた。
「王都、フェドレドに着いたその日は一緒にいられる。でも一晩明けると俺は俺の用事で出かけなきゃならない。それでも良ければ行こう。行きたい人」
 はいっと勢いよく真っ先に上がったのはキニスンの手だった。
「トキが一人では、またのたれ死にだものね!」
 生意気な口を叩く隣の少年に苦笑して、朝も手を挙げる。それを見てミーシャの手がゆっくり上がった。
「あたしは家で留守番しているよ。楽しんできな」
「そうね、その間学校はおやすみと言うことになるだろうし…」
 イスパルとカノアは留守番になるらしい。彼女たちは王都に用はないというし、確かに留守を守る人員も必要だろう。
「私はあとから遅れていきますね」
 シクはおっとりと笑って、群青の案内は必要ないと言外に述べる。
 帰りは一緒に帰りましょうと子供達に笑いかける。それを聞いて朝は正直安心した。
 キニスンが護衛にならないとは言わないが、群青が外れれば子供達だけ。年長者になる朝がしっかりしなければならなくなるだろう。
「アニエスはどうしますか?」
 あわよくば沈黙を守って会話に参加しないつもりだったのではないだろうか。シクに問いかけられて彼女は少し、憮然と眉間に皺を寄せる。
「行かな」
「はいっ!姉も王都見学!」
 と、キニスンが勝手に手を取り、アニエスの手を挙げさせ宣言する。
「なっ…」
「姉はいっつも思うけどね、若さがないねっ。都会に行って、呪術の本でもお洒落なアクセサリーでも見てくるがいいねっ」
 まるで年頃の娘を心配する母親のようなことを告げて、キニスンは一人、姉の参加に頷き、決めつけてしまう。
 行く気はさらさら無かったが、強く反対する気概もないらしく、アニエスは深いため息をついて顔を背けてしまった。
(うーん、たしかに若さがない…)
 本人を前にして言えば絶対零度の眼差しどころか、回し蹴りぐらい飛んできそうなことをこっそり、胸のうちで呟いてしまう。
 というわけで群青+子供達四人(シクは後から)の首都行き、闘威大祭見学が決まった。
 朝にとっては初めての遠出。中学の修学旅行よりも気合いを入れ、無駄がないか、足りないものはないか、所持品のチェックに余念がない。
 ここまで来ると緊張を突き抜けて楽しみになってきている気がする。遊びに行くんじゃないのに不謹慎じゃないか、そう言う思いを告げると。
「いや、遊びに行く気でいいんじゃない?」
 気の抜けた群青の返事が返ってきた。緩みすぎるのも良くないが、がちがちに固まりすぎても良くない。
「なにもディグル退治に行くんじゃないんだから。有名人に会いに行くぐらいのミーハーな気分でいいんじゃない?」
 ディグルというのはワニのような、獰猛なは虫類で、ザグルと化した場合世界の最強生物ともなりうるらしく。朝はドラゴンみたいなものか、と解釈しているが。
 確かにディグル退治と比較されては、朝にとっては重大な問題もアイドルの武道館ライブ見学レベルになるかも知れないが。いやいやいやいや。それはあんまりだが。
 けれどまあ、ミーハーはともかくおかげで肩の力が少し下りた。
 あと二日といえど、特に慌てることもなくキニスンやミーシャとどこへ行こうかと遊びの計画も立てる余裕が出来てきた。(時間が余ったらね、と前置いて)
 その影でこそこそと、キニスンとミーシャが秘密の計画を練っていた。朝は結局それに気づけない。
「トーキ。ほら、出来たよっ」
「う?!うお!!!」
 背後からイスパルの声がする、と思った直後顔面に厚手の布を押しつけられて視界が遮られた。自分は後ろを取られすぎだ、となんだか鍛錬不足を痛感する。
「カバンだ!」
 前にずり下ろすと、丈夫そうな生地で出来た薄水色の鞄があった。ウエストポーチだ。イスパルの手作りらしく、ベルト部分に名前が塗ってあった。
「イスパル、器用…!」
 ぶっちゃけ名前入りとなると顔を覆いたいぐらい恥ずかしいが、あえて触れずに鞄の出来映えを誉め叩いておく。彼女は当然だと言わんばかりに腰に手を置き、鼻を鳴らしていた。
 見た目コンパクトなのに中は結構奥行きがあってポケットも多く、いろいろ詰め込めそうだった。ウエストポーチなので手も空く。
 ボタンはあるがファスナーもミシンもない世界。なのにこれは立派だ。もとの世界に持って帰っても重宝できそうだ。
 そこに至った思考を、急いで頭を振って追い払う。
「ありがとうイスパル。大事にする」
 なかなかこんな、素直にお礼の言葉が出てくることも難しい。けれど間違えることの無いように、朝ははっきりと口にする。
 ん、と言ってイスパルは朝の肩を叩いてくれた。それだけの励ましが心強い。
 その中に数少ない持ち物、カノアの救急箱、お小遣い(笑)を溜めておいた財布、飴玉、必要になりそうなことを綴ったメモ帳などなど、少ないけど詰め込んで、お下がりの上着を羽織り、その日の朝を迎えた。
 子供達は順番にイスパルの弁当を受け取って、日が昇る前の肌寒い早朝のうちから出発する。
「お世話になりました。また、遅くても春にはお邪魔します」
「ええ、お待ちしています。子供達を頼みますね」
 群青とシクが大人同士の挨拶を交わしているのを横目に、朝はえのぐり茸の家を真正面から見上げた。
 ここへはじめて来たときも、待たされている間ここに座って景色を眺めていた。家を見詰めていた。
 あの時はまさか、こんな気持ちになるなんて思わなかった。
「トキ、どうかしたかね?」
「ん、なんにも」
 いつも通り、(そんなに幼いわけではないけど)年下二人に両側から覗きこまれて、両手でそれぞれの頭を撫でた。二人は動物みたいに眼を細めて笑う。
「おおい、行くぞーう」
 先から群青の呼ぶ声がする。陽はまだ昇らず薄暗い森で、けれど朝はもうこの道を知っている。見れば木の名前も生える草の名前も、聞こえる鳥の鳴き声も、解るものがある。
 道を知っている、世界を知っている、教えてもらったのだ。
「…行ってきます」
 ミーシャが言った。いつも通りの大人しい声で。
 振り返ると、大人の女性三人が並んで、笑顔で手を振ってくれている。
 特に言葉は交わさなかった。気をつけてとか、お金の無駄遣いしないで、とか。
 朝の母親のようなことは何も。ただ、いってらっしゃいと。
「行ってきまーす!おれたちのいない間ぜいたくはなしだからねー!」
 キニスンが大声で言って、アニエス以外の一同が吹き出す。
 その姉だけは少しあきれ顔。けれど送り出す3人を振り返り見詰める数秒間、いつもよりも表情の硬さが融けて、瞳が不安定に揺れていた。
 うん、そうだなアニエス。俺もその気持ちなんだ。きっと一緒なんだ。
 新鮮な空気を吸って、声を張り上げた。
「行ってきます!用事が終わったら、すぐ、帰ってくるから!」
 すこし、その場の全員が目を瞠ったようだった。
 朝は、滑稽なことを、言ったなあと自分に笑いながら、でも手を振り返してもう一度、
「いってきます!」
 と、大きな声で。




 再生を、する。
 やり直しを、している。



 ただし違うから。
 ここと朝は、本当は違うものだから。
 心の中で、もう一度、今度は本当の、いや違う、もう。



 もう一つの本当の、ひとたちへ。




(頑張っています。用事が終わったら、真っ直ぐに、帰ってくるから)




 行ってきます。

 

 


 

 

 

(2008.4.17)

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