知らなかった。
波打つ地面が人影を呑み込んで、もとの固さを取り戻すのを最後まで眺めやって、アスラン・ホーグ・ヨーグは息をつく。
口からは平素と変わりなく事務的な言葉が漏れた。視線の先には言葉を無くしてしゃがみ込むアニエスがいた。
呪術の行使による負担が大きかったからだろう、杖を支えに立っていることも出来なくなった。
けれどその姿は、ひどく傷ついて憔悴しているかのようにも見える。
(知らなかったんだよ、ちくしょう)
誰に告げるわけでもない。けれどそれは言い訳にもならなかった。
アスラン・ヨーグは、異世界から現れるものがひとだとは、思いもしなかった。
向けられた、きつい眼差しと確固たる意志の叫びがいまだ耳に残っていた。
―――――ああ、確かに俺は選び間違えちゃいなかった。
だからといってどちらを選んでも、一番傷つくのは朝だ。
41
全身を間断なく襲う痛みが慢性的に過ぎて、慣れるのはいつになるだろうと思考を巡らすのも飽きた頃にその時は訪れた。
しかし痛みに慣れたからではなく、単に治療が施された結果であると知ると苦笑が浮かぶ。
血に汚れたままの髪や頬を、湿らせた布で拭ってくれる手を少し前に感じていた。
(きっと姉(ねえ)だ)
キニスンはずっと伏せていたまぶたを、意識してゆっくりとあげた。
すぐ側に誰かが立っていて、自分を見下ろしている。薄赤の瞳が印象的だ。
見覚えのある顔だとはわかるのにすぐに名前が出てこなかった。かわいた唇をひらいて呼ぼうと、逡巡する。
「気分はどうだ」
先に声をかけられた。大丈夫、とか、悪くない、とか答えようとした。
強がりではなくてそんな心境だった。けれど言葉にはならなかった。
「そうか。よく頑張ったな、山越えたぞ」
うまくくみ取ってくれたらしかった。
(アサのおっちゃん…アスラン)
ようやく名前がひらめいたけれど、声にして呼ぶことは出来なかった。
「アニエスは怪我一つねえ。イスパルとカノアも今治療中だが命に別状はねえさ。ミーシャは」
アスランが状態を確認したときは焦ったものだ。ミーシャは体内の流れを停滞させられる「凍結」の呪術を施されていた。
血流も止まるのだから体温は下がる一方だが、この呪術は解呪法さえ間違えなければ後遺症無く戻ることが出来る。
「ヒヤッとさせられたが、問題ねえ。今は寝てるだけだ」
「……」
キニスンは、安堵から来る胸の痛みに顔をゆがめていた。
「重傷なのはシクだけだ」
続く言葉に、みひらかれた視線が向けられる。自らの傷も痛むのだろう、わずかに顔をしかめる。
町はずれに倒れていたシクを見つけたのは、群青( のパートナーとも言えるスクリーンだった。
転移の呪で駆けつけたアスランは、その姿を見てうめき声を上げたほどだった。
重傷。いや、重篤と言っていい傷を彼女は全身至る所に負っていた。
彼らのあずかり知らぬところで戦いに臨んだのは言うまでもなく、そばに誰の姿もないことから敗れてしまったと言うことも察しがつく。
「たすかるの」
キニスンの喉がようやく音を紡いだ。しかし心情をかくしきれず声は震えた。
「あとはシクの体力次第だ」
あれほどの重傷となると、呪術療法にも限りがあった。結局はそれ頼みとなる。
自力で快方へ向かおうとする、彼女の体力が一日でも長く持つか。それを見ながら慎重に癒しの呪術と薬などで地道に回復を見込むしかない。
「……」
一度気を緩めた分、暗雲はきつくキニスンの心をかき乱す。
家族全員が無事でなければならなかった。自身もひどい傷を負ったけれどそちらには少しも気が向かないほど。
事実を隠さず告げてくれたアスランを恨みに思うことはなかった。
子供だからという言い訳を振りかざすのは嫌うぶん、一人前の男と認められたように思って感謝さえ覚える。
どんな状態であっても、自分はしっかりしなければ。
けれどどうしたところで彼は十四の少年だった。深い息が口の端からこぼれ落ちる。
体中が痛かった。心臓は小うるさく、頭痛も先ほどから鳴り止まない。まぶたが震える。
「トキは帰った」
告げられてようやく、涙が頬を伝い落ちた。
「最後は激怒されちまったけどな、最悪巻き込まずに済んだよ。ありがとな」
痛みによるものではなくて、自然と涙が落ちた。
「まあ、あいつを巻き込んだ元凶は俺なんだがな、俺の所為だなんだとぐちゃぐちゃ言う気はねえ。こうなっちまったモンは仕方ねえしな」
「おっちゃんは呼ぶんじゃなかった、なんて風には思ってないよね」
「そんな殊勝に見えるかい、俺は。ヘッ、当人はしらねえが俺は後悔知らずでね」
涙を払いながら、キニスンは笑った。アスランのふてくされた口調の皮肉がおかしかった。
「うん、会えて嬉しかった」
すこし肌寒く感じて身をよじると、察したアスランが上掛けを掛け直してくれた。
「今はもう少し寝な。もうちょい回復したら今後のこととか話すぞ」
「うん」
イスパルやカノアに負けず劣らず重傷であるけど、弾かないと言われて素直に頷いた。
やることは多いだろう、こんな状況でも奮い立てる。なんだって出来る。
けれど、それでも今は、どうしたらいいのか水面を漂う木の葉のような心許なさに揺れていた。
目を閉じるとあっさりと眠気が襲ってくる。
黒髪の、きつく目をすがめる癖のある少年の顔が簡単に思い出された。
なんでも教えてあげる、護ってあげると言いながら、キニスンは彼の存在をとても頼りにしていたことを知る。
帰ってくれて嬉しかった。
けれど寂しさはどうしても埋めようがない。
じき枯月( にもなろうというクォの風は冷たかった。ヨルド )
初雪こそまだであるが、よりいっそう肌に感じる空気に震えるのは、単に冬の訪れだけの所為だけではないのかも知れないが。
騒動のち、えのぐり茸の家の外見は以前と変わったところもなく難を逃れた。
それだけでも良かったとシクならば言うかも知れない。家屋にひどい損傷がなければ訪れた客人が徒に不安を煽られることもないだろうから。
「……」
けれどアニエスは違う。
雲ひとつ無い空を見上げても表情は曇ったまま、これまでとは比べものにならない静かな家を見上げ、不安は募るばかりである。
アスランとふたりで怪我人の看護につきっきり当たった。
特にシクはひとときも目の離せない重傷で、必ずどちらかが着いていて、容態に変化があるたびに心臓が飛び跳ねた。
今もなお予断を許せない状況で、いつ悪化するかわからないが最悪の峠は越えたとアスランが告げた。それからようやくアニエスはほんの少しの仮眠を取り、熟睡できるはずもなく目が醒めたのでこうして水をくみに来た。
「……」
吐き出した呼気が白く形となって漂う。
これからどうなるのだろう。
どうすれば本当は、よかったのだろう。
アニエスはまたひとつ息を吐いて、水をたたえた桶を抱え家の中に戻った。
イスパル、カノアのふたりはまだ意識が無く、後遺症など残らないよう、身体に負担の無いようゆっくり治療していくと決めたのでもとのように生活できるまでひと月以上は養生しなければならない。
呪術師とはいえ本業でもないふたりがすべて受け持つには無理がある。アスランは早い段階でオセーネの医者を呼んでくれた。
町はずれにあることといい、一日二日で完治する状態でないことは火を見るより明らかで、怪我のひどい4人はすぐに町の医療棟に入院することになった。
こちらの方が設備も整っている、環境も確かだ。きっと家を無人にすることを誰も望まないと思うが、アスランは断行した。
「住む奴らあっての家だろうが。わかったらじっとしてろ」
清潔なベッドに横たえられ、処置を施される様子をアニエスは仕切り布越しに見ている。
怪我や病気を治してくれる、善良な場所なのに、多くの例に漏れず彼女はこういった施設が嫌いだ。
薬品の臭い。器具のこすれる金属音。苦痛に耐える声。子供の泣く声。
ここは陰の気配で満ちている。たいした病状じゃない時に通っても、逆に悪化しそうな心地になる。
気鬱だ。理性では納得するが、こんな場所に身動きも出来ない状態のみんなを預けるのは気が進まない。
「どっか出てくるか?しばらくはゆっくりしてていいぞ」
別室を借りてミーシャだけが健やかな寝息を立てていた。彼女の心身が呪術の衝撃から立ち直れば自然と意識が回復するので、ミーシャは特に治療を必要としないのだ。
長椅子にふたり、距離を置いて腰掛け、無言で過ごしていた。ふいにアスランからの問いかけに視線をあげて、アニエスは間を置いて首を振った。
どこへ行けというのか、こんな状態で。アスランの神経を疑いそうになる。
所詮他人と言うことか。彼のことはちいさなことはともかく認めざるを得ないほど世話になっていたが。
「笑え、アニエス」
視線を逸らしたとたん、そんなセリフを投げかけられて震えるのがわかった。
手が、肩が。怒りにか、違う衝撃からか。
「ばかをいわないで」
滑稽なほど、声がふるえた。ゆっくりと隣を睨み付けるように見たけれど、相手を威嚇できていないのは明白だった。
この状況やアニエスの心身状態に限らず、アスランにたいして朝やキニスン相手ほどひどい言葉をぶつけることが出来ない。
意味がないからだ。アスランの評価はアニエスがどうであろうと揺るぎはしないだろう。
「なにがおかしいの。なにもおかしくなんかない」
「おかしいから笑えってんじゃねえよ。ただ嬢ちゃんくらいは笑ってろ」
「私に指図しないで」
そういうアスランは笑っていない、至って真剣な表情を保ったままである。
そうでなくてもこんな要求のめるはずがない。
「…ずーっと死にそうな辛気くさいツラしやがって」
どこか憮然と呟かれたひとことに、怒るよりも呆気にとられてしまった。
というか、心底余計なお世話だと思ったが、年齢や立場のことを考慮して心のままに反論することは控えておく。
「もとからこんな顔よ」
「そうかい。そこまで落ち込むこたねえだろう。誰も死んじゃいないんだから、よかったとさえ思うがね」
(生きてさえいればどんな目に遭わされてもいいというの)
今度こそ、声を荒げて反論しようと思った。それほどアスランの物言いはあまりに身勝手で、事情を察しない他人の発言に思えたからだ。
(あなたに一体何がわかるの。みんながあんなにひどい怪我を負わされて、私は失うことを何よりも)
アニエスは立ち上がりアスランを睨み付けると、思いの丈をぶつけてやろうと口を開き、そのまま固まった。
「―――――――――」
二の句の継げないアニエスを、アスランは変わらぬ様子で見つめてくる。
ああ、ああ。許せない思いはいまだ燻っているのに。
高ぶった怒りが今も喉元にあるのに、せきとめられる。そうだ。
(私だって、同じ)
怪我をして苦しい思いをしているのはみんなの方だった。アニエスの痛みではない。
まるで自分が受けたかのように、そして自分が引き起こした災厄かのように落ち込み沈んでいる。
アニエスの苦痛はアスランからすれば恣意的なのだ。
心配するなと、楽観しろと言っているわけではない。
ただ、アニエスの様は見ていてあまりにも危うかった。どこか必要以上に痛苦を抱え込もうとする。
言葉を無くし、立ちつくす少女の様子に、アスランは無言で座るよう示す。結局アニエスはなにも言わずに従った。
「しっかりしろ嬢ちゃん。無事なのはあんただけなんだぞ」
容赦のない叱咤の言葉に、今度こそアニエスはアスランの瞳を見返した。
薄赤の深い眼差しがこちらを見据えていた。子を叱りつける親のそれに近いもののそれは、けれど息苦しさを覚えなかった。
呪術師はみんな、浮世離れしたどこか危うい人間ばかりだと思っていたし、実際そんなひとばかりを見てきた。
けれど、違うようだ。この男はまるで健常なひとの物言いをする。誰かさんとよく似た。
アニエスは不思議とこわばっていた目元をゆるめて頷いた。
指先は相変わらず震えるが、家族を護らなければならなかった。
「…トキはもういねえが、代わりに俺がいてやる。お前達を護ってやる」
なぜかばつが悪そうに言うアスランの言葉に目をみはった。
ふつうなら、アスランが朝の、いや朝がアスランのかわりとなるはずがないと思うところである。
けれどその点に関しての違和感を覚えなかった。
「トキのかわりなんていらない」
「…悪ぃ」
いつも通りの温度を廃したアニエスの声が答えた。アスランはすぐさま失言を詫びるように返してきた。
おかしなことに、そのやりとりでアニエスの心境は幾分か落ち着きを取り戻していたのだった。
三日後に、キニスンはもう一度目を覚ました。
それまでも何度かまどろむように意識を浮上させたが、とても意思表示できるほどではなかったし、失血と大規模な呪術治療が響いていた。
「……」
果たして久しぶりに自分と世界の共存を認識した少年は、順に今までのことを思い出して整理して、ようやく自らの身体に目を向けた。
正確には、左の腕に。
「……」
なんの感覚もなかったことで、ほとんど諦めていたのだが腕は肩からちゃんとつながっていた。
固定され重厚に巻かれた包帯から、傷の状態もわからない。そしてなんの感覚もなければ肩から先を少しも浮かせそうにもなかった。
「……いた」
試しに寝返りを打とうと背中に力を入れると全身が軋むような痛みを訴えて、再びベッドに沈むが、やはり左腕だけはなんの反応もない、感覚がない。
「動かしてはだめ」
頭の上から布を隔てて静かな声がした。よく知る声、今度はすぐに理解できた。
「アニ、姉。うで…」
喉が絡んで咳が出た。それだけでも肋骨や全身が軋んで何とか声はこらえたが、アニエスが支えて身体を起こす。
氷を口に放り込まれた。不思議と冷たすぎることのない氷。まじないが込めてあるのだろうか。水を飲むよりは今はこのほうが楽だ。
「何とか肉はつないだけど、今後もとのように動くかの保証はないわ」
「…そう」
思ったよりも悪い状況ではないようで、衝撃は受けなかった。
切れた肉と肉、骨と骨をつなぐ技術などキニスンは知らなかった。きっと呪術でアスランとかが処方してくれたのだろうけど。
だからほっとしたくらいだった。そのあと少し、やはりほんの少し、心に影が差すような居心地の悪い思いも浮かぶけど。。
「シクは?」
もう一度開いた口に氷を放り込まれながら、ことさら声を明るくしてキニスンが訊いてくる。アニエスは短く頷くが、それは喜ばしい答えの動作ではないようだ。
「状況はほぼ変わらない。あれから五日になるけど、まだ油断の出来ない状態ね」
「……他のみんなは?」
「あなたと一緒。ほとんど寝ているけど、みんな一度は意識を取り戻している。ミーシャはみんなより快復が早いわ。すぐ会えるけど」
「あいたい」
キニスンは反射的に即答して、いつもと変わらぬように見えるアニエスの顔をじっと見つめ、表情を崩すようにして笑った。
「何?」
「よかった。アニエスが泣いてなくて」
怪訝な目を向ける。いつも通り険のある様子で。
キニスンはめげずに嬉しそうな笑顔を向ける。再びだるくなって横になる頃にも頬は緩んだままだった。
「…泣いたって誰も助けてくれなかったじゃない」
まぶたを下ろしかけていたキニスンは、アニエスの呟きに呼ばれるように目を向けた。
ああ、そうだったねと同意するキニスンもいるのだけど。けれど。
「やっぱり、泣きたいときは泣いていいよ、おれも泣いたからね」
上掛けの中から手を差し出す。アニエスの白い手が伸ばされて、ずいぶんと久しぶりに手を取り合った。
キニスンが睡魔に耐えられず目を閉じるのを見守ってから、アニエスもすこしだけ涙を流してそれを拭う。
みんなが。
生きていてくれてよかった。
トキが。
(………)
自分で選んだことが、こんなに寂しいなんて思っても見なかった。
(2009.6.5)