43







 早川夕はやかわゆうはいつになく興奮気味で、その心情が足取りにも現れているかのようだった。
 理由は単純にして明快である。
 「こちら」に連れてこられて今まで、ほぼ屋敷の中で軟禁状態で過ごしてきた夕にとってほんの少しの来客だけでも過敏に反応していたほどで。
 それが、今回は年の近い少女で、しかも自分以外でははじめて出会う、同じ世界のひとだというのだから。
(張り切っちゃうってもんでしょ!)
 勢いよく角を曲がった先で、危うくトレイを抱えた侍女と衝突しそうになった。
「っわあっ、ご、ごめえん!マリーヤ!」
「…ふう、ああ驚きましたわ。ユウおじょうさま。廊下は走らないようにとカーロ様からもいつも言われていますのに…」
 おっとりとした、すこしふくよかな体型の侍女は胸をなで下ろし、やんわりとたしなめてくる。
 こちらで屋敷の維持のために通いで訪れる使用人は全部で6人しかおらず、マリーヤは一番話のわかる侍女だった。
「いいじゃん、別にここ借りてるだけであいつのお屋敷でもないんでしょ。あーっ、おいしそう!クッキー?」
「ええ。午後のお茶の時に召し上がりになりますか?」
 マリーヤの抱えたトレイの上には、きつね色をした素朴なクッキーが山になっていた。
 我慢できずにひとつをつまんでぽいと口に放り込む。
「いただきますっ。んん!んまーいっっ」
「もう、ユウ様ったら」
 口の中に広がるほどよい甘さとさくりとした感触に、ばたばた、その場で足踏みしてしまう。
 あんまりにも美味しかったので、夕はひらめいた考えに目を輝かせてマリーヤを見つめた。
「そうだ!お茶まで時間あるでしょ?そのクッキーさ、今ちょっともらってもいいかな?いいでしょ?ちょっとだけだから。ねっ!」
「え、ええ。構いませんけれど」
「やたっ!ありがとー!」
 許可がもらえるやいなや、ポケットからきれいなハンカチを取り出して、何枚かその上にのせて包む。
「あまりおやつばかり召し上がってはいけませんよ?食欲があるのは結構ですが、またお熱が…」
「あ、ああうんうんわかってるよっ!じゃあ、あたし行くとこあるからっ!ありがとねマリーヤっ!」
 これは長くなる、と危機感を感じると、夕は一目散にその場を駆け去った。
 廊下にひとり佇むマリーヤは、数の減ったクッキー達を眺め、ふうとため息を落とすのだった。



 ばたばたばたばたっ。先ほど言われたばかりのことも気に留めず、夕は足音を隠すことなく目的の地へ急ぐ。
 屋敷の中でも一番奥まったところ。だれも近寄らないような隅の隅、隠すように部屋がある。
 ハンカチに包んだクッキーを両手に持って、夕はその部屋の前で立ち止まるとノックもせずに肘でノブをまわし肩で押し開けた。
 手がふさがってるからノックできないじゃん、と内心で言い訳を零しながら。
「…あ、ゆうちゃん」
「やっほー、つぐ姉!来たよーっ」
 自分でも驚くくらい調子の高い声が出て、気恥ずかしさをごまかそうと早足で部屋の奥へ進む。
 窓の前に、けして開け放てないカーテンの隙間から外を眺めていたらしい、黒髪の少女が気付いて顔を向けていた。
「つぐ姉、元気なくない?昨日眠れた?」
「うん。大丈夫。どこも悪くなイヨ」
 すこし発音のおぼつかないこの少女は空知そらちつぐみという。夕よりも三つは年上と聞いて、何となくつぐねえと呼ぶようになっていた。
 身長は夕よりも低く、顔立ちも幼げな印象なので最初は同じくらいかとも思ってしまった。
 けれどすこし話して解る。つぐみは落ち着きがあり、やはりここに来た当初の夕よりもずっと冷静だった。
(あたしなんてひと月以上は泣いたり暴れたりもう散々だったんだけどなあ)
 なにをしてもやっても、状況が改善されることはなかったので慣れてしまったというか。
 慣らされてしまっている。
 けれどつぐみが来てくれた。これは夕にとってかなりうれしい変化であり、進展のきざしだった。
「つぐ姉。さっきそこでマリーヤがね。あっ、ここで働いてるメイドさんなんだけど。クッキー持っててさ、せっかくだから一緒に食べようと思って持ってきたんだ!」
 じゃーんっ、と口で演出しながら、ハンカチの結び口を解いて差し出す。
 この部屋にも茶器とポットはある。夕は立ち上がろうとするつぐみを見て慌てて、手で制して立ち上がった。
「やだなあもう、座っててよ。お茶くらいあたしだって煎れられるんだからっ」
 伊達に外に出ない生活ばかりを送ってきた訳じゃない。
 以前の夕はインスタントコーヒーでさえ(むしろ自分で飲まないから)煎れない子どもだったのだが、今では通いの侍女に教わって茶葉からお茶も煎れられる。
「えーと、じゅーう、じゅーいち…」
 湯気を眺めながら、蒸らし時間を指折り数える。
 一生懸命にもてなそう、励まそうとする夕の心遣いを感じて、つぐみも表情をかすかに和らげた。
 つぐみが連れて来られてから三日目になっていた。ネネはあれから姿を見せず、夕にも何をしているか解らないほど屋敷の地下室にこもっているのだった。
 その間もこの部屋を出ることは許されず、食事も何もかも一人きりで、ここで過ごすことになった。
 夕は毎日つぐみに会いに行ったが、ずっといることは許されず一定の時間になると連れ戻されてしまう。
「……」
 夕は、不満を隠しきれず唇をとがらせた。やがてお茶の準備が出来て、慌ててつぐみの待つソファへ向かう。
 しばし、朝食があまり喉を通らなかったふたりは美味しい美味しいとクッキーに歓声を上げて笑顔になった。
「…ねえ、つぐ姉。あのさ、えっとさ」
 どう切り出すべきか迷いながら、夕は上目遣いに、向かいのつぐみを伺った。
 つぐみは首をかしげてじっと、その先を待ってくれている。
「つぐ姉、さ。あいつ、ネネにさ、なんか言われた?なんかされてない?」
「……」
 かなり意を決して尋ねたものの、要領を得ないのかつぐみはわずかに目を見開いただけだった。
 うまく伝わらないものなのだろうか。同じ日本語を操っているはずなのに(つぐみはこちらの言葉を話しているらしいが夕には翻訳されて聞こえる。ややこしい)
「ほら、あいつカオはいいけど変態なんじゃん。あたしなんてこっち呼ばれてひたすらこの屋敷の中で軟禁状態だよ?おかしいよね。理由のひとつも言いやがらないの。えーっとなんだっけ、あたしってどうやら金持ちの道楽で、物珍しさみたいなので喚ばれたみたいなんだよ」
 はっきりとネネの口から聞いたわけではないが、問いつめて問いつめて、それらしいという説明を使用人の口から聞き出していた。
「でもあたしいまだにその金持ちらしいのと対面した覚えないんだよね。だから本当は違くて、もっとやばいこと考えてんじゃないかって思ってんの。ネネ、つぐ姉来たときからこもりきりでほとんど出てこないんだもん。怪しいよね、怪しすぎるよ」
 一息に自分の考えを述べて、つぐみの顔を伺ってみる。
 つぐみは特に不安がる様子もなく、すこし困ったように首をかしげただけだった。
「ね、どう思う…つぐ姉」
 同意を得られると思っていたので、夕のほうがふいに不安を覚える。何か言って欲しくて催促するような言葉が出ていた。
「うん、そウね。あのひとのこと、ゆうちゃんのほうがわかると思ウの。でも、きっと考え、ある、よね…よくないの」
「そうだよね!そうだと思うんだ!」
 ああこういう時だ。夕が思わず声を上げて気分を明るくして欲しいと思うのは。
 こういう時だ。つぐみが自分よりも、年上だと感じるときは。
 いつも夕が笑いかけると、つぐみも優しく笑い返してくれるけど、それでも愁いを感じるのだった。陰、とでも言うのだろうか。
 夕はいつも、それを感じるたび悲しくなってしまう。
「なんか訳わかんないことになってずっとふて腐れてたんだけどさ、あたし、つぐ姉が来てくれてやる気が出たんだ!大丈夫!なんかあってもつぐ姉だけは何にもないようにするし!ねっ。あたしたち一緒に帰ろうね!」
 両手でつぐみの手を取って、盛り上げるようにまくし立てる。
「っつっても何の根拠も考えもないんだけどね!」
 付け加えて言って舌を出すと、つぐみがふふっと花のような笑顔を浮かべてくれた。
 取り合っていた手をひとつ外すと、夕の頭をそっと撫でてくれる。
「うん、そうだね。でも、ひとり、無理は、だめよ?ワタシ、いるから」
「あはは。やだあたし信用なーい…」
 冗談めかして笑い飛ばしたが、つぐみの眼差しと、頭を撫でる手のひらはあんまりにもやさしかった。
「…う、ううう、うーっ」
 こらえていたものが突如あふれ出してしまった。こちらに来てから今まで、こんな風に、いたわるように優しくされたことがなかったように思う。
 つぐみが不安がらないように、元気づけに来たはずなのに、話していると心を溶かされて何もかも開け渡したくなってしまう。
 そんなあたたかな優しさが恋しかった。ずっとひとりきりだったような寂しさが拭えなかったから。
「つ、つぐ姉、おねえちゃん、おねえちゃんっ。か、かえりたいよう、おかあさんに会いたいんだよう!」
「うん。…うん…」
 気がつけば差し出される腕にしがみついて、声を上げて泣いていた。
 こんな風に抱きしめてなぐさめて欲しかった。誰だって良かったけど、この屋敷のだれに頼ることも出来なかった。
 思いを共有する人と出会って、うれしくて心躍らせたら、おさえていた郷愁の想いが溢れてしまった。
(つぐみちゃんはやさしい)
 頭を、肩を撫でてなだめ続けてくれる。ゆうちゃん、と呼んで、だいじょうぶ。かえれるよ。あえるよと。繰り返し。
(ごめんね、つぐみちゃんも泣きたいよね)
「おかあさん、おとうさん…帰りたいよう…!」
 けれど涙は止まらない。自分ではどうしようもない。
 心の塞き止め方を、思い出すまでもう少し弱音を零しても、いいのだろうか。
 胸の痛みが邪魔をして、涙を止める心をくじいてしまうんだ。
(苦しい)
(たすけて、お兄ちゃん)




  
「………」
 ベッドに身体を投げ出して、いつの間にか眠り込んでいたらしい。枕元のろうそくはすっかり燃え尽き、暗闇の中で目が醒めた。
 ドア越しにノックと食事を告げる声がしたが、水でいくら洗っても赤く染まったまぶたはごまかしようもなくて辞退した。あれはどれくらい前だろう。
 今は何時だろう。夜には違いがなかったが、眠気はどこかに去ってしまってこのまま眠るのも難しそうだった。
 夕はベッドの上で身じろぎしたあと、枕を抱えて勢いよく飛び降りた。何か手に持っていた方が心強いからだ。
 靴を履いて、手探りでドアまで。家具の配置は覚えているのに、片手を突きだし探るように、なぜか慎重になって摺り足で進んだ。
 つぐみに泣きついて、すっかり困らせたことを思い出すと恥ずかしくなった。
 眠れないこともあって心細く、会いに行きたいと思ったし、あわよくば一緒に眠れないかとも思ったが、甘えすぎる自分の思考回路に首を振った。
(っつーか真夜中じゃん。つぐみちゃん寝てんじゃん。ふつーにアウトだろ)
 自分で自分に突っ込みを入れ、とりあえず誰も起こすことなく、ひとりで屋敷を徘徊することにした。うん、ミルクでももらってこよう、そうしよう。
 部屋を一歩出ると、眩しく目をすがめるくらい、廊下に面した窓から月明かりが漏れていた。
 星や月がこれほどまで明るいなんて、夕はこちらに来るまで知らなかった。
 当たり前にある電気や便利な設備が無くても、何とかやっていけるものだ。
 それでもなんでも、足りないものは足りないし、現状には不満しか抱きようもないが。
(だってさああたしさあ、どうせ異世界トリップすんなら冒険するヒロインやりたかったわけよ。どうよこの現状。とらわれのお姫様過ぎるしうける)
 ぶつぶつと、もう何度繰り返したかも解らない愚痴を思い描きながらそうっと足を進めていく。
(このあとイケメン王子が助けてくれんのなら許せるけど。あーうんもういいや。ぶさくてもいいから助けてほしいなあ。そこはいいひと限定で)
 ぶさくてもださくてもいいから、あたしとつぐみちゃんを帰してくれないかなあ。
 …お兄ちゃんみたいなひとが、助けに来てくれないかなあ。
「……で、そう思うだろ?」
「!」
 ぼうっと歩いていたらしく、気がつけば厨房のある通りの前まで来ていて、聞こえた声に足を止めた。
 すぐ隣は使用人の休憩室兼控え室になっていて、明かりが漏れている。
 今日の泊まりのものが揃って休憩のお茶をしているらしい。
「俺も給料いいからどうしようか迷っててさ、あの呪術師、どう考えてもやばいだろうって」
「敬虔な研究者には見えないよな。一切他言無用って契約からしてもう、怖いったら無いし…」
「まあそれは、第一層の方々には良くあることだけど。あの奥に捕らえている女の子!ほとんど近寄らなくてもいいのは有り難いけど得体が知れないわ」
「そうかしら。彼女を見ていると何だか和んでしまうのよね。悪い子には見えないし、すこし不憫だわ…」
 4人分の男女の声が聞こえる。控えめな、最後の一人がマリーヤだと解った。
(つぐみちゃんの話…?)
 思わず息を潜めて聞き入ってしまう。
「気をつけな!呪術師には暗示のまじないを得意とするものもいるんだから。きっとあの娘は君を洗脳して取り込もうって腹なんだぜ」
「呪術ってのは便利は便利だが、出来れば関わりたくない輩が多いよな…ほんと、早く雇用期間が終わって欲しいよ」
「与えられた仕事をこなしていれば文句も言われないし、愛想良くしなくてもいいからいいじゃない。マリーヤ、あんたも大変ね、あの小娘に妙に懐かれて。放っておけばいいのに人が良いったら」
「カーロ様も相当だけどあの小娘も気味悪いよなー。近寄るだけで呪われた使用人がいたって噂本当か?」
「マリーヤも気をつけろよ。いつ本性をむき出しにして大怪我でもさせられたらたまらない」
 心の底から、不審がり敬遠し、すこし揶揄するような響きで盛り上がる他の三人と。
 静かだけれど、確かにおびえを含んだマリーヤの声。
「――――ええ、そうね。怖いわよね」




(―――――知ってた、うん)
 夕はなにも取らずに、そっと後退すると一目散に駆けていった。
  



 誰も頼れない誰も助けてはくれない。
 さんざん泣いて暴れて叫んで抵抗をして。一人で脱走しては連れ戻され得体の知れないものを見る目でさげすまれた。
 最初っから疎まれるのはまだいい。関わりたくないって態度で無視してくれた方がよっぽどいい。
 でも、優しくされたあとで、ほんとうはきらいっていわれるのはとても悲しい。
(それも、これも!ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ!)
「あんたのせいだっ、ネネ!」
 ぎしぎしと鳴る、地下室のイメージを裏切らない薄暗い階段を、いつもなら戦々恐々とするのにそれすらなく駆け下りて。
 勢いよく研究室の扉を開け放ったが、鍵がかかっていないことにまず驚いた。自分で開けておいて、だが。
「……ネネ?」
 性格さえ腐ってなかったら思わずきゅんとしてしまうだろう、整った顔面に、掴んだ枕をまず叩き付けてやるつもりだった。
 本や紙束。夕にはチョークの落書きにしか見えない図形が地面や机や至る所に書き込まれた、意味不明の部屋。
 引きこもりのネネの仕事場。そこにいるはずの彼の姿はどこにもなかった。
 ランプに灯された明かりはそのままなのに。夕は間違って踏まないよう気をつけながら、そうっと部屋を進んでいった。
 一番奥、わずかな生活スペース。それでも本や怪しげな器具であふれかえっている。その隙間から灰色の髪が見えた。
 横になっているらしい。身体の上に毛布のかわりに本などを被って、埋もれていると言ってもいい。寝苦しそうと言うか、一種の事件現場みたいに見えた。
(……寝てんの?)
 気勢をそがれたように脱力するが、まぶたを落として静かにしているだけでは油断できない。
 というか、無防備な姿で無視とか思うとさらに怒りがわき出した。
 まつげとか長すぎてむかつく。一本一本抜いてやろうかと殺意に似たたくらみも芽生える。
 ―――――それでも。
 夕は、ネネの寝所らしいソファの端にスペースを作ってちょこんと腰を下ろした。
「あのさ、この前の怪我さ、やっぱりやばかったんじゃないの?病院とかさ、行った?」
「………余計な世話だ。お前こそ熱は」
「っ起きてんじゃないか!」
 即座に枕で殴りつけた。ネネは難なく受け止めてぽいっと放り投げ返される。あしらい方が適当でさらに怒りを煽る。
 反応がないことに物足りなさを感じていたなんて、そんなことはない。ない。ないが、やはり少しほっとしていた。
「熱なんてもう慣れたし。あー、でも調子いいや。つぐみちゃんが来てからかな。すごく身体軽くなった」
「あれだけドスドスいわせてか。…それはそうだろ」
 ようやくゆっくりと半身を起こしついでの、ネネの嫌味に殴りかかろうとするが、続く言葉が引っかかる。
「なんか今の初耳の話?」
「あの「無貌の盾」は不完全なお前を補助するために喚んだものだ。術が安定もすれば体調も落ち着くだろ」
「……へ??ムボーのタテっ…て?ってゆーか、えっと、ちょっと…」
 ネネの話はいつも専門的というか小難しく、夕にはさっぱりなことが多いが、今のは単純に考えると、つまりだ。
「あたし…のためにつぐみちゃんを喚んだ、って…?」
「馬鹿なくせに今日は妙に冴えてるな。寝ぼけてんのか?」
(うそ、ウソ、ウソ…!)
 いつも通りの、ネネの嘲る言葉に怒りを覚える暇もないほど、夕は動揺した。
「そんな、な、なんでよ!ああああたしのせいでつぐみちゃんまで巻き込んだっていうの!???」
「そうだ」
 一気に、頭に血が上り、顔が紅潮するのが解った。
 夕は衝動的に拳を振り上げ、ネネの膝に乗り上げるとその胸元を掴んで。
「お前の所為だ」
 刃物のように、言葉を突きつけられて体中をこわばらせる。
 にぎった拳を、唇を震わせて。
「バカーっっ!!」
 出てきたのはただ、声を振り絞っての罵倒だった。
 もうずっと涙も我慢してきたのに、昼間すっかり緩んでしまったのか、深い色彩の瞳からはぼたぼたと涙がこぼれ落ちた。
 自分に対しての無力感と、悔しさと、情けなさ。つぐみに対しての申し訳なさと、悲しさ。そして目の前の男に対しての怒りと、消化しきれない憎しみをいっぱいにたたえて、睨み付ける。
 こんな事しかできない自分は悔しい。
「…ふっ、う、うううう〜」
 泣き顔を見せることも屈辱だったが、止め方が解らず、歯を食いしばって唸る。
 その様子を間近に見据え、ネネは嘲るでも呆れるでもなく、視線をわずかに逸らした。
 それをむりやり引き戻す。襟を掴んで揺さぶる。
「な、に、が、お前の所為よ!あんたの所為じゃん責任転嫁してんなよっ、全部あんたの所為じゃんかっっ!!」
 さらにネネに詰め寄って、全体重をかけてのしかかるが夕の身体は本人が思うよりもずっと軽い。
 ネネにとって何の制限にもならなかったが、それでも上に乗る少女の顔に視線を戻す。
「つぐみちゃんに何したんだよ、言えよっ。ひどいことしてたら許さないから!!」
(揃いも揃って)
 聞いたばかりの気のする口上に、ネネは橙の瞳をうっすらと細める。
 何をどう許さないというのだろう。こんな細い腕で。
「無貌の盾とは文字通り盾の役割を果たす。お前の呪の荒れを防ぎ、あらゆる致命傷をはねのける。アレにはそう刻んだ」
「……ッッ、じゃ、じゃあつぐみちゃん自身は苦しんだりしなくていいんだ!?あたしと違って…そっか…」
 とりあえずはほっと息を吐く。
 夕は自分がネネに何をされてここへ喚ばれたのか把握し切れてはなかったが、ほぼ慢性的に発熱や倦怠感に襲われてひどく苦労した。
 風邪なんて数えるほどしか引いたことのない、健康体が自慢だったのに。
 それを抑えるためだけにつぐみを巻き込んだと思うと、やはりやりきれなく思うけど。
「ずいぶんと懐いたな。お前も魅入られたか?」
 あからさまな様子に、ネネは怪訝そうに眉をひそめた。
 夕は少しだけその変化にひるむ。
「え。意味分かんない。懐いちゃだめだって言うの」
「……違うか。お前らにはすべての呪術の効果はやはり無いようだな」
「ちょ、ひとりで納得しないでちゃんと言ってよ」
 ていうか今日のネネは珍しく饒舌だなと思った。   
(もしかして酔ってるとか?)
 近づいてもそんな匂いはしないが。夕が首をかしげていると、少しの間を置いてネネが口を開いた。
「盾の性質上、近寄る生物の警戒心を削いで庇護欲を煽る。そういった効果もある。俺やお前には効かないが」
 夕は思わず顔をしかめて、無駄に端整な顔立ちを凝視してしまった。
「は?えーとつまりつぐみちゃんはどんな人にも好かれるってこと?無条件で?」
「効果の程度は場合にもよるだろうがな」
 違う、そんなことをききたいんじゃない。
「だってつぐみちゃんふつーにかわいいじゃん。一緒にいると和むよ、あたし好きだもん」
 誰もが好きになったっておかしくはないと思うのだ。まあ、世界中のみんなって訳にはいかないだろうけど。
「あんたの術って、人の心まで操れんの」
「暗示みたいなもんだな。一度意識すると人間てものは単純だからそっちに向きやすい」
「…………」
 あまりにも実感が湧かなくて、しばらく呆然としていたが、またもや新たな怒りがこみ上げてきた。
「すっごく、反則っぽくてむかつく。あんたやっぱ頭おかしい」
「今頃気付いたのか」
 反論どころか、どこかけだるげに同意されてまたもや拍子抜けした。
 頭だけじゃなくてどっかおかしいのか。妙にぺらぺらと喋ってくれる、今のうちにあれこれと聞きだしてやろうと思い立つが。
 それで夕たちをどういうたくらみに利用するつもりかとか。ここぞと聞きだしてやりたいのは山々だが。
「俺はおかしい」
 腹の上に夕を載せたまま、冷えた眼差しでネネは零す。
 ああ、いやだ、と思って。こんな風なのはいやだ、と思った。出どころの解らない思い。
 気がつくと夕は、ネネの額に手で触れていた。
「…熱はない。今日は寝たら?」
「…はあ?」
 眉をひそめ、訝しむ表情で睨まれる。いつもの調子だ。かすかにほっとする。
「今日のネネなんか気持ち悪いもん。こんなところで籠もってて調子悪いんじゃない、寝たらいいよ」
「お前が起こしたんだろが、馬鹿か」
 それもそうだった、と思い腹から飛び降りるが、まさか謝ってやる気もない。
 舌を出して挑発しておいた。ネネはわずかに口元を引きつらせたが、なにも言わずにふいっと顔を背けてしまった。
「…寝てよね、ちゃんと。そんで、怪我も治してこれまでの悪事を悔いて、あたしに土下座して謝ってつぐみちゃんとふたり、無事に家に帰して欲しいわ」
 言い連ねると鼻で嗤われた。ああ、むかつく。
「……期待なんかすんな、なにひとつ」
 部屋を立ち去ろうとした夕の、背中から声がかかる。
 振り返ると背を向けたまま、ネネが呟いていた、けど。
 響く声に胸が冷えた。いやな感じのネネだった。
 ネネはいつもいやだけど、そのいやよりももっと。
「――――俺はおかしいんだ、お前なんかの頼みなんざ知るか」
 ああそうだよねって、いつもならそう思って憤慨して終わりなのに。



 いやだ、いやだ。胸が騒いでどくどくと血が全身にうまく回らないような息苦しさ。
 ネネはいつも訳のわからない、変態だと思ってるし嫌いだけど。
 夕を見るときは、ちゃんと目を見て、というか、「夕」を見ていると感じる。それがわかる。
 ――――――それだけは、そんなにいやじゃなかった。
 それが、今のネネは、夕から目を逸らしているようにものを言うからいや。
 いやだけど、それだけ。
 ―――――悲しいなんて思うのは、気のせいだ。













 

 

(2009.6.24)

TOP ◇ 世界呪頁 ◇