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 夢の中の小鳥は、いや、夢の中でだけは。
 小鳥は、心のままに涙をこぼすことができた。






「……」
 目を開いて、しばらくじっとしていると自分の手の白さだけが解る、常にカーテンの閉ざされたここはいつも薄暗い部屋。
 調度だけは揃えられている、つぐみを捕らえている牢獄だ。
 そうっと、ベッドから下りてクローゼットに向かう。中には好きにしていいと言われている服飾類が、何種類も何着も詰まっている。
 はじめは抵抗を覚えたが、着たきりで過ごすわけにも行かずに寝間着用の比較的簡素なつくりのドレスから、これまた地味な方と思われる色合いのドレスを選んだ。
 ひとりで苦労しながらも身につける。部屋の掃除と洗濯のためと、食事を運ぶときに来訪がある以外、つぐみはずっとひとりで過ごすことを強いられている。
 一歩も外へは出してもらえない。この状態がもう七日目。
 ゆうが来てくれるかも知れない、という期待もあればまだ心持ち気丈を保てるのだが、今日はそれも望めそうになかった。
 それというのも今朝早くから、ノースゼネ・カーロは夕を連れて外出をしているのだという。朝食を運んできた侍女から、珍しいことだという話を聞いて、それでもつぐみは置いて行かれている。
(ゆうちゃん…大丈夫かな)
 あの、日射しのようにまぶしく心やさしい女の子に、何事もなければいいのだけど。
 午前中はそんな不安や思考で落ち着かない時間を過ごしたが、結局おかしな時間に寝入ってしまい、頭が少し痛み、身体がだるい。
 ろくに運動もできない状況で、体力の衰えを危惧する思いも手伝ってつぐみはぐるぐると部屋の中を歩き回った。運動らしい運動というのも、これくらいしかできることはない。
(ドレス姿、動きにくいし…)
 身長の低いつぐみには合わないものも多く、どうしても引きずるような丈の裾に辟易する。女の子があこがれるようなこんなドレスには、行動を制限させるような、男尊女卑の思惑もあるのではないのかなと、考え込んでしまう。
 でも、夕ちゃんの服はどれも丈の短いスカートだったな。
 ふと思い出して首をかしげる。
 クォを旅してきた今まで、どの町でも見かけたことのないようなつくりの服を、いつも着ていたなと思った。もしかして特注なのだろうか。
 いかにもじっとしてはいないだろう少女に似合う、機能性の高い、襟の大きな可愛い服が多かった。
 夕のために、用意されたような。
(ええっと、でも、それって)
 自分の考えに困惑しそうになり、足を止めた。
 ふいに、扉の外から大きな音が響いて肩が跳ね上がる。
「!?な、なニ…?」
 人の声がいくつも上がっている。慌ただしい足音、何かと何かがぶつかり、響く音。
 怒号。なんて言っているのかまでは届かない。
 ただ、ただごとではない事態が起きたと知る。
 つぐみは扉にぴったりと耳をつけて様子をうかがったが、相変わらず騒がしい音はいまだ遠いらしい。こちらに誰かが駆けつけてくる気配もない。
 何が、あったの…?
 どきどきと逸る心臓の音を全身に感じながらも、じっと待つしかなかったつぐみの心が、急速に、冷静さを帯びていく。
(チャンス、かも知れない)
 逃げられるかも知れない。この騒動に紛れ、うまくいけば。
 すぐに脳裏を過ぎったのは夕のことだった。ここにもし彼女がいれば、彼女を置いて逃げることなど考えられないが(つぐみは夕を護るために呼ばれたという話であるし)、今は屋敷につぐみひとりである。
 やはり、あまり実感はないのだが怪我はしても死にはしないのだという、自分の今の状態も後押しとなった。
 たとえ何があったって、殺されることはない。文字通り。
 つぐみはドレスの裾を掴んで、側のチェストまで身を翻し、中から洋裁用のはさみを取りだした。
 ためらいなく膝下からドレスを切り裂いて取り去ってしまう。高価そうな手触りのよい生地が足下に落ちた。
 一度だけ、厚いドアに駆け寄って押してみる。当たり前だが鍵がかかっていてびくともしない。そうなると、つぐみが取る道はひとつきりだ。
 ろうそくの刺されていない、枕元に置かれた燭台を手に取った。硬い手応えが、冷たい感触が、つぐみの汗ばむ手のひらににぎり込まれる。
 つぐみは今まで、抵抗らしい抵抗もせず(夕が人質に取られたらという不安もあり)、いかにもおとなしい虜囚だったろう。
 不気味だとか、得体が知れないとか、勝手に思っていてくれたらなおいい。
 だからこうして、この機に乗じてこんな行動を取るとは、そう簡単に思われはしないはず。
(――――いち、にの。)
 閉ざされた窓の、鍵部分に燭台を振り下ろす。
 がつん、と鈍い音を立てはめ込まれた鍵は歪んだが、そもそも暴力になれていないつぐみでは力加減がつかめずまだ、足りない。
 もう一度。
「…んんっ!」
 腕に伝わる衝撃に声を漏らしながらも、同じ場所に叩き付ける。今度こそ鍵が壊れ、窓が開けるようになった。木製の柵を取り外し、ようやく、光が部屋に、つぐみにも届く。
 その窓ははめ殺しで、くもり硝子ではあるが、何の変哲もない硝子に違いはないようだった。
「………」
(これから本当に、ゆっくりなんてしていられない。怖がってなんか、いられない)
 汗ばむ手を腿で拭い、つぐみは燭台をにぎりなおした。
 決意を胸に行動を起こしはしたが、ひとつひとつ進めるごとに緊張は高鳴っていき、それに伴って恐怖も募っていく。
 自分の弱さに、歯がみする。深く考えてしまう前に、足が震えだしてしまう前に、つぐみはもう一度、裂いたドレスにくるんだ燭台を振り下ろした。
「……!」
 音は、布でくるむ一苦労により、つぐみが思ったほどはしなかった。割れた硝子が飛び散り、つぐみの手を浅く切り裂いたが構ってはいられない。
 耳障りな音を立てる硝子を踏み越え、そうっと身を乗り出す。
 はじめて見る屋敷の外の景色だった。ゆっくり眺めている余裕などないのだが、近郊に別の建物も見えない、どこまでも続く緑の自然が広がる。
 冬を前にした冷たい風が、屋内にいたつぐみの頬を撫で、汗を冷やす。心理的な意味の上でも。
(飛び降りる)
 思考せず、目に入れず、すぐ行動に移せばよかったと思うがもう遅い。足下に飛び込んできたのは二階とはいえたじろぐには十分な高さだった。
 屋敷の庭に植えられている、木々も目にはいる。あれに、向かって、うまく落ちることができれば、そんなに痛い思いをしなくていいかもしれない。
「………」
 ばくばくと、心臓が音を速めていく。ドレスの下、胸元にはカノアにもらったペンダントがある。無意識に握りしめてしまう。
 自分で、やらなきゃ。踏み出さなきゃ。ここには私しか、いないんだから。
 つぐみはぎゅっと目を閉じ、ひとつ、唱えてしまった。反射的に。
(サザ…!)
 そうして今一度、開いた視線の先に、先ほどまではなかったものが目に飛び込んできた。
 幻に違いないと何度瞬きをしても、消えない。消えない幻は、つぐみの視線の先、屋敷の庭にいる。
 剣を片手に提げた、サザが。
 サザだと思ったあとに、誰かと疑うほど、薄汚れているのが解る。
 どうしたの、何があったの、もしかして怪我しているの、本来浮かぶべき思いは無数にあるが、何よりも。
 頭が真っ白になる。視線が吸い寄せられて離せない。
 榛の髪をぼさぼさに乱し、遠目にも異様には映ったが、見間違えようのないサザがいた。
 彼は長棒を構え立ち向かってくる屋敷の使用人を、鞘を着けたままの剣で鮮やかなまでの動作で殴って昏倒させる。
 そうすると、あっという間にあたりは静寂に包まれた。
 屋敷を護っていた使用人のすべてが、サザの手によって沈黙させられたのだった。
「………」
 つぐみは、立っていられない、と思った。
 足下が割れた硝子の破片だらけだと解っていても、足に力が入らない。
 後ずさりするにも、それだけの余力がない。一歩も、その場を動けない。
 だとすれば、あとは。
「ツグミ」
 橙の瞳が、迷いもなくこちらを向いた。
 カーテンの陰に隠れるつぐみに、そこにいるのが解っているという風に。
「ツグミ、来い」
 ―――――心臓がこわれそう。
 差し出されるてのひらに、逸らせない橙色の眼差しに、吸い込まれるように、つぐみは二階の窓から飛び降りた。
 何のためらいも抵抗も、違和感もなくサザの腕の中にちいさな身体が収まる。
 お互いの体温が、びっくりするほどあたたかくて目眩がした。
「…………っ、ざ、サザ…っ」
 首にしがみついて震えるつぐみの目から、涙が溢れて止まらない。
 それをしっかりと抱き留めたまま、サザは無言で歩き出す。けして無理にではない歩行速度で、屋敷をあとにする。
 ようやくつぐみが泣きやんだのは、森に分け入り泉を見つけ、浸した布で腫れたまぶたを冷やしてやってからだった。
 地面に盛り上がった木の根を椅子に見立て、サザがつぐみを下ろし、座らせてくれる。
 そこでようやく、つぐみは間近にサザの姿を見上げてぎょっとする。
 先ほども目にしてはいたが、全身を土埃で汚し、髪は乱れ放題で、服もくたびれ色あせていた。もう何日も身繕いのことなど構っていなかったのだろう。
 当たり前のはずなのに、無精ひげなど目にしてしまって、訳もわからずつぐみはおかしな動悸に焦ってしまった。
 ―――――なんて、いえばいいか解らない。
 訊きたいことも言いたいこともあるはずなのに。サザのほうからも何も言葉もなく、ただ黙って立って、つぐみを見ている。以前に戻ったように。
「あの、おふろ、はいって、ナイ?」
 考えに考え、ようやく出てきたのは見当違いも甚だしい、口に出した直後につぐみが青ざめるようなひとことで。
「………」
 サザはわずかに怪訝そうに眉を寄せ、やがて黙ってつぐみに背を向けて立ち去っていった。
 いつか、出会ってすぐの頃のように焦ることもない。サザはつぐみの足下にけして多くないすべての荷物を置いたまま姿を消してしまった。





 気持ちを、なんとかようやく落ち着けて、あれこれと自分の考えをまとめてつぐみが待っていると、ろくに拭いてもいないらしい、この初冬に濡れたまま、しかも上に何も着ていないサザが現れてつぐみは飛び上がった。
「ふ、ふく!かぜが!さむイ!」
 おろおろとしながらも目のやり場に困ってサザの荷物を漁り、替えの服を差し出す。
 黙って受け取ってはくれたが、濡れた髪を拭く様子も、着替える様子もない。
 いや、つぐみの様子を察して水を浴びてきてくれただけでも有り難いことだし、サザらしからぬ気遣いに嬉しくないわけもないのだが。
「!!」
 今度こそ、言葉をなくしてつぐみは硬直した。サザが、保っていた一定の距離を超えてつぐみに接近している。
 顔が、近い。これ以上ないというほど顔を紅潮させ、今にも泣きそうに困惑するつぐみの顔を、サザは瞬きひとつせずに見つめて。
 相も変わらぬ、無表情のまま、静かな声が告げる。
「俺は、ひとりでなければ生きていけない」
「……」
 赤い顔のまま、サザの様子をつぐみは不思議そうに見上げる。
 手が伸ばされて、木の幹に両手が置かれる。つぐみを囲い込むように。
「けれど、お前がいなくても生きてはいけないらしい」
「……」
 つぐみはひとつ、瞬きをした。みひらかれたいろは、夜の漆黒。サザが求めて焦がれるもの。
 夜の静寂。心の安寧。それはもはややすらかさと、渇望の象徴でもあった。
「ワタシも」
 あたたかな夜いろが、潤みを帯びて濡れる。
 こえにも、その眼差しにも、この少女のすべてにサザはそれを感じる。
 乾いた地面に降り注ぐ、天の慈雨だ。
「サザがいなクテ、さみしいの、死ぬくらイ」
 泣いて欲しくはないけど、泣くのをやめても欲しくない。
 身勝手な心境に、サザ自身不可解に思いながら、心のままに身体を動かす。
 そうしたいと、思ったから。
 呪われた自分が触れてはいけない。たいせつなものを、自らの邪悪が傷つけてしまうから。
 ―――――そう、解っていても、一瞬だけ。
 くちびるが近づくと解って、つぐみは息を呑んだ。けれど身じろぎせずにまぶたを閉ざす。
 ふ、と。
 伏せられた、涙をたたえるまぶたに柔らかな感触が下りた。とたん、つぐみの全身を奔流のように熱が駆けめぐる。
 身を切られるような羞恥に気絶しそうになる。
 ――――くちびるに、直接触れられるより余程恥ずかしい。
 そう思うほどに、強烈な、ひとつの接触はつぐみが思うよりも一瞬の時間で終わった。
 身体を離したサザは、めまぐるしい感情に翻弄されているつぐみにたいしていつも通り、平然と向かい合って腰を落ち着ける。
 相変わらず、上も羽織っただけで髪から滴る水滴がつぐみの服をも濡らしていて、今更ながら諸々に狼狽える。
「俺はお前から逃げた」
「…う?うん…ソウ、なんだ」
 そんな余韻も何も感じさせず、自分のペースで話をはじめるのはいかにもサザらしい。
 まじめな話と見て、つぐみは慌てて思考を切り替えようとする。顔はまだまだ熱く、心臓の動悸も止みそうにないが。
「だが逃げ切れず、ここにいる」
「う?う…ウン…?」
 淡々と告げられて、頷きはするがきちんと理解できるはずもなかった。
 つぐみにとって、サザがなぜ離れて戻ってきてくれたのかは解らないが、ただこうして会いに来てくれて嬉しいのだ。それだけしか、自分にも解らない。
「エト、えっと、そばにいても、いい、って、コト?」
 自分でも、かなり怯えながらも、否定されれば立ち直れないだろう問いを、口にする。
 サザはそんなつぐみを、相変わらず不審そうに見て、それでも短くうなずく。不本意そうにではあるが。
「……!」
 言いようのない、安堵と、充足感と、幸福感が胸一杯に広がる。
 こんな、たったひとつのことで、すべてのことが吹き飛んで笑顔になれる。
 その笑顔を見つめて、サザは橙の瞳を細める。まぶしいものを、見やるように。
「―――俺は斬るしか脳のないモノだ。それでいいなら、お前の剣になる」
「そんなノ、いい!」
 つぐみは慌てて、やはりさらりと告げるサザの宣言に首を振った。
「そばに、いられレバいい。あの、困ったコト、少し、助けてもらいたイだケド、ワタシも!」 
 きゅ、とサザの上着の端を掴む。振り解かれない。その事だけにこんなに嬉しくなる。
 サザは、賢明に言葉を紡ぎながらも喜びを隠しきれない様子の、つぐみの笑顔を不可解に、やはりまぶしそうに見つめる。
「サザ、剣なら、ワタシ、盾なのよ、きいたの」
 とたん、サザの眉間に深い皺が寄る。
「お前の呪術に頼る機会など望まない」
「…でも」
 ―――――それは、つぐみを痛みや危険にさらすということだ。
「ネネを、止めればすべてが終わる。呪術のモノであるネネを、壊せるのはモノである俺だけ」
 静かに、淡々と告げるサザの言葉。つぐみは不安に駆られて顔を曇らせる。
「ちがう」
「……?」
「モノじゃない、サザ。生きてる。生きてるのはモノじゃないノよ。カーロも、エット、ネネ、も、モノじゃないノ。心、もってるよ。知ってるの」
 上着をしっかりと掴んで、身を乗り出すようにして、賢明に伝えようとする。
 まだまだ言語は堪能ではないけれど、サザのこともよく解らないままだけど、きっと伝わると思った。
「――――心など」
 見上げるサザの表情の変化に、つぐみは息を呑んだ。それははじめてみせる表情。
 ―――苦悶。
「……サザ、心ない剣、じゃない。こころあるひとで、ワタシ、知ってるの。」
 真摯に、見つめられる。
 漆黒の眼差し。サザが、目を逸らし逃げ出してしまいたくなるもの。
 けれどすぐに、焦がれてしまい、目が離せなくなるもの。
 かけがえのない、たいせつなもの。
 ―――――それが、心のかたちだと。サザはもう知っている。
「ひとは、ひとりじゃいきていけナイの」
「ツグミ」
「だかラ、サザ、すこしでいいの。心、おしえテね。なに、かんじる、かんがえる、おもう、」
 たのしい、しあわせ、うれしい、かなしい、くやしい―――――。
「ツグミ」
 名前を呼びながら、子どものような言い回しで言いつのる少女に、サザはすでに答えている。
 サザの心は一人きりにふれて動いているのだから、そうとしか、こたえようがない。





 

 

 

(2009.7.20)

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