「あっ、おい!えーっと…」
 話を終え、王の執務室から退室したところで、すぐに呼び止められて相手を認めるとしぜん笑顔になった。
 寄りかかっていた壁から身を起こす仕草から見ても、自分を待っていてくれたのが解る。
「何でもいいよ、呼びたい方で。ちなみに今度の新しい名前はラシードっていうよ」
「またかよ、改名何度目だよ。っと、とにかく。またどこかの国に行くのか?」
 育ち盛りではあるが、身長差はまだまだ縮まらない。
 必死に見上げてくる少年に心持ちかがんで目線をあわせると、素直にうんと頷いた。
「…外国って楽しいか?」
「うん、いろいろな人や物がある。フェイでは当たり前のことが外国では全然ちがったり。見るものがあって面白い」
 家族のどれとも異なる、深い大地の眼差しには、いろいろな感情が伺えた。
 期待、羨望、不満、その中にすこしの、
 笑みを深くして、少年の頭を撫でてお土産楽しみにしててというと嫌そうに振り払われた。そろそろ彼も頭を撫でさせてはくれなくなるようで、寂しくもあり成長が嬉しくもあり。
 少年は何か言いたげに、しかしくちびるを結んでなにも言っては来ない。困って、もう一度笑顔で行ってくるよと告げ、背を向ける。
「グンジョー」
 ぎこちなく名前を呼ばれて、驚いて振り返る。
「お前、この国好きか?」
 ―――――――ああ。
「俺は、そこまで偽善者でもないよ。ベネディクト」
 そうかえすと、少年の浮かべる表情にこちらの方がどきりとさせられる。
「それ聞いて安心したわ。ん、どこにでも行ってこい」
(おとなになったなあ)
 上から目線で(いや、正しいのだけど)、しっしっと追い払われる仕草までされたのに、何だかのんきな感慨を覚える。
 こんなふうに言われずとも、たとえ反目の意志を疑われようとも、帰ってくるのはここしかないのに。
 一年のほとんどをたとえ外国で過ごしていても、いつも心を向けているのは、彼を知る人がある場所なのだから。
 だから、言われた言葉に反応を忘れてしまった。どこにでも行ってこい、なんて。
(帰ってこい、とは言ってくれないのだなあ)
 感動する。寂しいという心地もあるが、それよりも、寄せられた信頼と自由を許されている愛情が嬉しかった。
(おとなになったなあ)
 重ねて、しみじみとおっさんくさい心境を零す。もはや親心にも近かった。  





46





 群青ぐんじょうはひとりで道を急いでいた。
 大祭を終えた王都は冬支度に忙しいのか、道行く人も少なく閑散として見えた。
 それとも、嵐の前の静けさとでも言うのだろうか。
 転移を無事に成功させ、大幅の時間短縮に成功したが、つぐみの居場所とキリーのいる屋敷は違う方向を示していた。
 おそらくカーロのいるであろう方向、つぐみ救出は呪術師に任せ、群青はキリーとの合流を急いでいるのである。
(キリーからはまだ連絡がない。まだ護衛の任から解かれていないのかも知れない)
 となると、エイギルやその正体が謎に包まれたままの主もそちらにいる可能性が高い。今回のことで、このふたりの人物も放置することはできないと踏んでのことだ。
 エイギル自身か、もしくはその主の所有だろうが、カーロは雇用に当たって屋敷をひとつ譲り受け間借りしていると聞いたことがあった。つぐみはそちらに捕らわれているのではないかと思う。
(ともかく、カノアのぬかりない手配のおかげでつぐみの居場所はわかる。もしかしてサザが介入してくれると有り難いんだけど、確証もないものを頼れない)
 来てくれるような気もするが。それがどちらにしてもこちらには関係のないことだ。
(エイギルは、俺が引き受ける)
 シクから借りている国宝級の遺産、破砕呪を指で探る。気を改めたはいいが、すぐにキリーが手伝ってくれたらいいけど、と思ってしまうのは我ながら情けないことであるが。 陽が沈みきる前に、群青はカレイス邸に辿り着くことができた。
 ここ最近で通い慣れた屋敷は、相変わらず手入れのされない庭で冬枯れの植物が誇張されて寂しく、どこか空寒くも映った。
 それらを一瞥だけしてまっすぐに玄関へ向かう。扉は錠も下りてはおらず、群青が身体を滑り込ませたところで使用人のひとりも姿を見せなかった。
(…無人か)
 キリーの手紙は真実か。エイギルはどうやら自分の周りの人間をすべて追いやってしまったようだ。
 これでまたひとつ、確証が強くなる。
 エイギルは自分のあるじを側に呼び寄せた。そして、他者がいると厄介になる事態を招こうという予兆。
 カーロを使い、たくらみごとを果たしたあとはどこかへ逃れるつもりかも知れない。それは大いにあり得ることだ。
 群青は息を殺し、緊迫した際のならいから足音を殺し、しかし迅速に屋敷中を探って回った。
「………」
 果たしてエイギルはいた。
 いつも彼の過ごすことの多かった、二回奥の書斎兼研究室と呼べる部屋に。
 鬼気迫る、といって差し支えのない表情は、一瞬群青の足を止めたほどだ。
 半開きとなった扉から伺っているのにも気付く様子もなく、見開いた目を抱えた分厚い書籍に向け、本当に見ているのか、という速度でひたすらにめくっている。
「エイギル」
「ヒィッ!?」
 群青が部屋の中に足を踏み入れても見向きもしない姿に、逡巡しながら声をかけた。
 余程不意をつかれたようで、引きつった叫び声を上げるとエイギルが飛び退き、ぶつけた肩が積み上がった本を揺らし、騒がしい音を立てて崩れ落ちた。
 視界が曇るほど土煙が立ち上るが、目を見開いたエイギルも、もちろん群青も構ってはいない。
「あ、ああ、ああ、ラシード…?ラシード・セッテ。戻ったんだ、戻ったのか、そうか…」
「誰もいないので驚きました。夜逃げでもされたんですか」
 吹き出した、おそらくは冷え切った額の汗を拭うエイギルの尋常ではない動揺に気がつかない振りをして、いつも通り群青は話しかける。
「あ、ああ、ああ。暇を出したんだ。すこし用事ができた。大変な用事だそう、君にも告げなくてはならないな。短かったがご苦労だった。金は銀行の口座に入れておく。私は今忙しいんだ、出て行ってくれないか」
 まくし立てるような、解雇の宣言をして。
 エイギルは再び抱えた書物にからだごと向き直る。
 群青は思いの外驚いていて、エイギルには見えてはいないのだがすこしだけ紫の目を瞠って息を吐く。
(まだ、俺をただの外国の旅人と思ってくれているんだ)
 それは有り難く、ある意味で使いようによってはやりやすいと言えるのかも知れないが。
「エイギル。アルフィス・フリングスが、君のあるじか」
 ひとつの名を口に上らせたときの、驚愕にみひらかれたエイギルの眼差しに、なぜか場違いにも苦笑してしまった。
「ど、どこで、どこで…!」
 それだけの衝撃を受けたのだろう、取り繕う余裕などなく、真実であると語るに落ちるさまで、エイギルはがくがくと全身をふるわせた。
「キリーが伝えてくれた。容姿特徴、その年頃の男子でカレイス家が関与していそうな生死不明の子と言ったらフリングス家の不祥事だ」
「……君たちがぐるだったのか!」
 青ざめ、言葉をなくす顔色が、見る間に赤く染まり表情も激情のそれに変わる。
 側に置かれた杖を荒々しく掴み、口を開きまじないの呪詛を口にする―――――。
「……ッ!?なにっ!」
 群青が半身を引くと、エイギルはようやく自分の喉元に長く硬質な、飾り気のない棒を突きつけられているのに気がついた。
 曲がりなりにも呪術師である。向けられた獲物がなんであるのか、頭で理解するよりも早く身をもって知らされる。
 紡ごうとした呪術を、この切っ先を向けられただけで吸い取られたのだ。
「は…砕呪…ま、まさか…」
「おかげで俺に呪術は利かない」
 群青は意識してひとつ、声の調子を落とすとエイギルの目を真っ向から見据えた。
 この国でも珍しく、異質にも見えるだろう、鮮やかな紫の色彩で。
「フリングス家の落胤、君のあるじののぞみは何だ。彼はカーロに何を命じ、そして何を果たそうとする」
「…ッ、……く」
 フリングス家は王家の相談役や議会にもその一族の名を連ねる第一層の大貴族である。
 現当主の長男がその権力をかさに着て放蕩の末、妻帯の身にして不義の子をつくってしまった。認可はされたが私生児の扱いは免れず、またどうしようもないほど病弱だった。
 その後、報いといわんばかりに夫婦は子宝に恵まれなかったという。
 そんな、望まれずして生まれた子が誰からも愛されるはずもなく、政治的利用価値も見いだされず、ひとつ屋敷だけ与えられその存在を隠されて生きてきた。
 日々めまぐるしい噂や不祥事に夢中の王都ではもはや誰も覚えてはいないと思われる。ましてやその子どもの名前など。
「知るはずがない…知ることが、できた、はずが…!」
「俺は顔が広いんだ、知ることのできない名前なんて数少ない」
 群青の特技のひとつ、一度聞いた名前はけして忘れない。
 昔から見聞きしていた情報、時節別の出来事、さらに使える限りの人脈を駆使して、キリーの報告の甲斐もあってようやくこの名にたどり着けた。
「さあ、話を聞かせてもらおうか。返答次第では暴力も辞さない」



 ほぼ同時刻、フリングス家が有す、人目につかず隠れたように立つ郊外の一軒の屋敷にて、相変わらず病床の少年にキリー・クアンドラはついていた。
 つい先ほど、最後まで残っていた使用人もいとまの挨拶を告げて去ったところで、屋敷の主たる少年とキリーのふたりだけである。
(…今日、何かあるな)
「なぜ俺だけ残した」
 今まで何度となく、機会を変え言葉を変えて問いかけたが、明確な返答はなされなかった。今となって必要性を感じずに、自然な調子で問いかける。
 わずかに脅しかけるよう強調した響きにも、少年は驚いた様子も見せなかった。
「君が一番強いから」
 笑顔さえ浮かべる、細身の少年を怪訝な眼差しで見やる。
「しぶとく死なないんじゃないかと思って」
 もはや、キリーは気味が悪いものを見る目を隠そうとは思わない。
 常に愁いを秘めた瞳をしていた少年は、どこか吹っ切れた様子さえあり、朗らかに語り出した。
「僕は私生児なんだ。しかもこの身体では二十まで生きられないとたびたび言われて、この家とギルだけを与えられていつ死ぬか来年まだ生きてるかと怯えながら生きてきた。だから親のどちらも顔も見せない。誰も僕を知らないんだ、この王都ですら誰も。」
 みんな、知っていた人も忘れている。
 死んでしまったとしても、生きているか死んでいるか、またいつ死んだのかさえ、誰も知らないままだろう、そして知りもしないだろう。
「十五まで何とか生きてきたけど、もうろくに起きあがるのも難しい。手術をすればという可能性もあったけど、もうそれに耐える体力もなくなっていて、いつ発作が起きて死んでもおかしくない。そう思うと、ああ僕って何だったんだろうって思って」
 名も知らぬ少年は、口元に微笑を浮かべてゆったりと語る。抑圧されて生きるものが、苦しみからようやく解放される間際に見せる光が、瞳の奥に見え隠れしていた。
「できるだけ、派手に死のうと思って。僕を忘れさせないような死に方を」
 少年から感じられる声の調子や、表情のかげりに、何の凶器も不穏も感じられないことが、またよりいっそうにいびつな光景を作り出していた。
「罪悪だってことは知ってる。きっと罪もない人を傷つけてしまうんだろうなって、その人生を閉ざしてしまうのかも。けれど人は利己的なものでしょ?僕の両親も自分勝手に僕を産んで放り出して何も与えずただ殺すだけだ。いいじゃない、僕の勝手なんだから。人は人を殺すよ。キリー、君だって」
 多くの言葉を語るだけでも、彼には負担であるらしく、息を吐いて、しばし息を整える。
「その結果誰かの愛する人を害してしまって、僕が恨まれるならそれでいい。そのほうがいい。そのひとの脳裏に刻まれるもの」
 少年は、色の薄い瞳を閉じた。生きることだけで難儀する子どもが、心底から懇願する声音だった。
「憎悪であっても残りたい」
 それも、ひとつの希求なのだろうか。
 この年頃の少年が、胸に抱くにしてはずいぶんと、いびつで、不当なものにも思える。
「あなたには、わからないだろうね、キリー」
「解るわきゃねえだろうが」
 にべもなく、冷ややかな眼差しでキリーは少年を見下ろした。
 咎められるように見られて、それが嬉しいのか、なぜか彼は笑顔を返す。少年の、健全な明るい表情だ。
 言葉からしても、自分が正常ではない行いに向かっていることは、理解しているのだ。
「スゼネが、叶えてくれるって」
 くちびるの中で、落とすように、呟いた。
 声は、いつの間にか震え、泣きそうに。
「……うれしかった…」





「カーロが実際に何をしているのか、それを詳しくは知らない」
 陽はほとんど沈みゆき、薄暗さを増す一室で、破砕呪に追いつめられたエイギルは歯切れの悪い様子で言葉を紡いでいた。
「ただ、大仰な呪術を用いるには異世界の媒介が効果的だろうというので、その環境を整えたんだ。あとは彼ひとりでずっとやっている。わ、わたしは、ずっと指示に従っていただけで」
 何も、知らされてはいないと、口の中で繰り返す。
「異世界の媒介が喚ばれたのは知っていた?それがどんな姿とかは」
 言葉を疑うでもなく問いを重ねる群青に、エイギルは慌てて首を振る。
「とてつもなく危険なものなんだろう?とても近寄ろうとは思わなかったし、カーロにも不安定だと聞いていた。召還が成功したことは聞いたが見たことはない」
「………」
 やはり、群青が純粋にエイギルのもとで指示を受けて雇われていたときにも、そんな話は聞いたことがなかった。
 ただ、雇いの呪術師であるカーロは長い間呪術研究に熱心であると、そんな風にしか。
 どれだけ厳重にカーロは例の兵器呪術を秘匿していたのだろう。
 同じく喚び出したと思われるつぐみは、山中に置き去りに放置するなど、ずさんもいいところだったのに。
 何か聞き出そうにもネネに与えた屋敷の使用人は、外出のたびに記憶が曖昧になってしまう暗示がかかっていて、徹底したものだった。
 エイギルも三流呪術師とは言わないが、その腕前が叶うはずもなく追求を諦めたのだ。
「わ、私は、あの方の意に添って動いただけだ」
「………なんで」
 ふいに、息苦しさに突き動かされるように声を絞り出す。顔が歪むのが解る。
「どうして、それ以外の楽しいやうれしいや、もっと生きたいとかを、教えてあげなかったんだ。アルフィスには君しかいなかったのに。エイギル」
「あの方の名前を呼ぶな!」
 どうして。
 群青はまぶたを伏せて、もう一度目を上げる。悲しみに落ち込む心情を一掃させるよう、すでに迷いは見られなかった。
「君なんかに解るものか!あの方が望むものが私のっ!」
「……ッ!」
 詠唱もなく呪術の気配が高まっていくのを肌で感じ取り、群青は腕を引き一撃の下でエイギルを叩き伏せた。
「…く、ぁ…!」
 昏倒し、その場にくずおれる背中を見下ろす。
 思案するように見えたのはほんの数秒にも満たない間で、群青は急ぎ身を翻すと駆けて屋敷をあとにした。
「……ぐ…うぅ」
 肉体的にたいした打撃ではないとはいえ、破砕呪の一撃はエイギルの心身から大量の呪術を、それを行使する余力を奪い取ってしまった。
 地を掻き、散乱する置物をなぎ倒し、肩をついて、エイギルは身体を起こそうとする。身もだえするような激痛が、いまだ体内を蝕んでいる。
「…あの、方の、のぞみがすべてだ……わた、しは…」
 わたしは。
「従者だ……」
(アルフィスさま)
 孤独な死を恐れた、細身の少年の儚い笑みが脳裏に浮かび、エイギルは歯を食いしばってうなる。
 何も叶えられず与えられず、そんな子どもののぞみを、どうして反論できたろう。
 口の端を、歯で食いちぎる。ぶちり、と、肉の裂けるいやな感触と鉄の匂い。粘つき、熱いものが口内に広がる。
 ままならない身体を動かして指先を、ぬるつくもので汚す。
 地面に這ったまま、彼は懸命に腕を伸ばして描いていく。
 血の、呪法陣を。
 このまま呪術を発動させれば、制御が効かず暴走か、うまくいってもそこで力尽きるか、もしくは己の呪術の一番の餌食となるか。
 どうでもよかった。
 ただ、あるじののぞみを阻むものが許せない。
 あとはカーロが果たしてくれるだろうけど、はじめから、彼には叶えられないあるじののぞみであったけど。
 自分も何かがしたかった。  







「…満月だ……」
 定まらない思考と、視界の端で、夜空にぽかりと浮かぶ真円をみつけてただ口に出してみた。
「満月、だよね、ネネ、あれ…」
「………」
 ノースゼネ・カーロは呼びかけにも応えず、早川夕はやかわゆうを抱えたまま道のりを進んでいく。
 長い期間を過ごした屋敷をあとにして、転移をした後人目のない道のりを進み、半日ほどが過ぎていた。
 夕が以前のように、全身の発熱を訴え自分で歩けなくもなったのはもうずいぶん前のように思われる。
 空知つぐみから離れたから当然の結果だと、今のネネは断言できた。
 まだ余裕のあった頃は、抗議や問いかけや不満などをわめき立ててネネを責め続けていた夕だが、今はただ抱えられてぐったりとしており、呼吸も浅く短い間隔で繰り返されていた。
 異世界のものは呪術の影響を受けないが、これは媒介にたいして呪術の規模が大きすぎるのだった。
 夕自身は何の被害も受けずいるはずが、この世界にいることで大気に支障が出て、本人にも余波が及ぶ。
 もちろんこれが異世界のものでなければ一瞬で蒸発するほどの威力の術であるから、媒介として形をとどめるだけでも十分であるのだが。
「…つぐみちゃん…」
 まだ言う。
 夕が呟くのは短い期間であっという間にうち解けた少女の名前だった。
 まだ色々と喋れたときにも、ネネにつぐみの安否を気遣っては怒りをぶつけてきたものだ。
アレはエサに置いてきた。ちったあ時間稼ぎになりゃいいが」
「えさ…?」
 久しぶりに口をきいたと思えば、どこか不穏な響きを感じて夕は身体を起こそうと、ネネの表情を確かめようとする。
 結局力が入らずに抱えられた胸に再び頭を預ける形になる。
「…はあ、は…」
 少し前まで、痛いだの苦しいだの泣き言を呟くだけの余力もあったのだが、そろそろそんな気力を尽きてきたようだ。
 続く山道を抜け、すこし拓けた場所に出たところで夕を下ろすと、幹にもたせて座らせてやった。
 ひとつ息を吐いて、汗の浮く額に指先で触れる。焼けるかと思うほど熱をもっていた。
「う…」
 苦悶にゆがめられていた、眉間の皺がすこし和らぐ。気休め程度とはいえ、ネネは夕の調子をすこしだけ整えてやることができる。
 この術は、太古の資料からネネが編み出し、再構築して作り上げたものだから。
「ねえ…」
 痛みと熱によるものだろう、今にも泣き出しそうに潤んだ瞳が、うっすらと開かれて向かいに立つネネを見上げる。
「どうすんの、今から…」
 夜の闇の中で、こうして立つネネはひどく映えた。白に近い灰色の髪があかるいからだろうか。おつきさまのようだと、ぼんやり思う。
 ずっと知らされずいた、自分が今ここにいる理由、ネネが夕に求めている事情を、ようやく知ることになるのだ、というのは、屋敷を連れ出された時点である程度は感づいていた。
 やっと、というどこか安堵にも近い思いもあったが、言葉少なに先を急ぐネネの様子から、緊張と不安ばかりが高まっていくのだった。
(答えて、くれるんだよね)
 答えてほしい。どうして連れてきたの。
「ネネ、あんたの口から」
 ふれられると痛みが楽になるという認識がある。無意識に、手を伸ばす。
 でも腕は思うほど上がらなかった。目の前に立つ男は静かに見下ろしてくるだけで、手を伸ばしてくれたりなんかはしないのだ。
「お前を媒介にこの辺一帯を焦土と化す」
 静かに、夜の雰囲気を壊さないように告げられる。
「発動させてみなければ威力さえ掴みづらい。どの程度の規模に影響が及ぶかはわからねえが」
「………っ」
 すごいことを、何でもないように(以前からそのつもりがあったのなら当然だが)言われているのは夕にも解った。
 すぐに脳裏に、なんで、とか、いやだ、とか否定の言葉が浮かぶのだが、形にはならなかった。
「……」
 ただ、唯一自由になる視線だけで、様々に思惑の込められた眼差しが、ネネへと向けられる。
「俺になにひとつ期待すんなって言ったろう」
 歯を食いしばって、首を振っても、涙が溢れてきた。
 どうしてだろう、怖い、とか、嫌だ、とか、やめて、とか、感情のままに浮かぶ言葉はいくつもあるのに。
 熱い身体の奥、胸にぽっかりと、大きな穴が抉られたみたいだ。
 苦しい、苦しい。
「これだからガキは嫌いなんだ」
 ネネが呟く。それはそれは小さなつぶやきだったが、不思議にも夕の耳にはちゃんと届いた。
 ネネなんて、大嫌い。
 大嫌い、知ってる。わかってるじゃん、あたし。解ってたはずじゃんか。
(かなしいかなしいかなしい)
「―――心を持つヤツはどいつも泣く」
 それはおそらく独白だったろう、夕は自分を抱きしめるように膝を抱えて泣いていたが、顔を上げた。
「ネネももってる」
 何でもいいから反論したかった。口をついてすぐは、そんな思惑からの言葉だった。
 それに、ネネはいつも以上に視線を険しくして睨み付ける。冷ややかではなく熱を伴った苛立ち。
「デタラメ言うんじゃねえ」
「…もってる、…さっきガキ嫌いっつったじゃん…それも心だっつーの……」
 声はかれていてほとんど聞き取れないほどだったが、ネネには十分伝わったらしかった。
「……お前とは違う」
 そりゃ違うだろーよ、世間様にご迷惑かけて火事騒動とか理解できないしな。
 夕は強がってみるが苦笑いを浮かべるのでやっとだった。
 やがて姿勢を保ち続けるのも難しくなり、夕は苦痛に息を乱しながら意識を闇に沈ませていった。
 一度だけネネに呼びかけられた気がした。
 名前を呼ばれたこともないので、んなわけねーじゃんと自分で突っ込みを入れた。





 








 風が悲鳴を上げて木々の葉を引き裂いては鳴らした。
 大気が震え、ひとつひとつの細胞が反応してネネに知らせる。
 彼らは、お互いがうごくと、それを察知することができた。
「………」
 膝を着いていた姿勢から立ち上がり、目を向ければすでにサザーロッド・リビットが立っていた。
 呪術に長けずとも相変わらず、呪術のような芸当もやってのけてしまう。
「来たか」
 ネネは呟くと、面白くも無さそうに体内の気を高めていった。
 いつでも、呪術を放ち迎え撃てるよう。 

 

 

 

 

(2009.8.5)

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