王都から歩けばかなりの距離がある、緑の茂みの奥深く。
 夜であっても、昼間と何ら変わりのない明るさをサザの両目は感じていた。
 彼の並ならぬ視力ゆえ、だけではなく、頭上に真円の月。さらにはかすかにではあるが、光の気配を感じる。
 聴覚が水音を捕らえていた。すこしだけ先に、小さくはない水源がある。
 ―――――いつかの時を思い出す、湖面が月の輝きの照り返しを受けている。
 本来ならば目を瞠り息をつくような、静けさの場が張りつめた緊迫に包まれていた。
 突風のごとく現れたサザーロッド・リビットに、ノースゼネ・カーロは険しい眼差しで応えた。
「愚問だが、あえて訊くか。何をしに来やがった」
「止めに」
 息ひとつも乱れのないサザの、答えはじつに早く簡潔だった。
「お前に俺は殺せねえように出来ていてもか」
「殺せなくてもとめられるだろう」
 ようやく、サザがその言葉を紡ぐと、ネネは改めて現れた男の顔を見据えた。
「…お前」
 何か、感じるものがあったのだろうか。ネネの眉間には深く皺が刻まれ、ただでさえ不機嫌な様子が際だつ。
「―――ああ、そうかい。そうかい。じゃあ、しょうがねえな…」
 ひとり、独白のようにうつむいて零す、呪術師の声は小さい。
「そこまで違うモンになっちまったらな。―――死ね」
 細身の男が呪いの言葉を紡ぐのと、顔を上げたのは同時だった。
 サザが地を蹴りその場から大きく飛び下がる。一瞬ののちに白土が変色し、空気さえも一変する。
 ざわっ…と、木々さえもおののくようだった。すでに少なくなっていたが、あたりに残っているわずかな生き物たちが一斉に逃げさる音が、気配が伝わる。
「……」
「もう、お前にも解らなくなっちまったろうよ、この世の絶望が」
 ネネがかざす手のひらから、強大な拒絶の力を感じる。
 単純な破壊の力とは異なる。目の前にしたなら大概のものが、逃げる気力すら奪われてしまうだろう、
 ―――――それは絶望の権化と呼べるだろうか。
 冬を前に枝葉は乏しくなっていたとはいえ、豊かな自然をたたえた木々が、みるみるうちに退色していき葉を落とし、しおれ音を立てて枯れていく。
 それは徐々に広がっていく。
 見渡す限りの一面に、溢れた水を浸すように。
 ―――――自然が立てる、恐怖の声が聞こえる。
 サザは何とか波動の弱いところに移動を繰り返しながら、直撃といえる衝撃は受けずにいる。
 己の身を顧みずであっても、間合いを詰めるのは至難の業である。
 まるで、世界の終わりかのような光景を、しかし黙ってみている気は毛頭ない。
「この世の絶望は、こんなものではない」
 サザはふとしたように呟く。その言葉に、予期せず波動が揺らいだ。
 その合間を縫ってふところからナイフを放つ。重さを削いだ、殺傷能力のごく低い武器だがサザが投げ放つと当たり所によっては致命傷になりかねない凶器となる。
 けして身体能力の高くないネネは、ナイフの飛来は認識できたが反応しきれず左肩に直撃を受けてよろめく。
 サザが動く。
 だがネネも、痛みなど感じていないかのような立ち直りの速さで再び呪術の構えを取る。
 向かい来るサザにたいして直線の攻撃呪術。さすがに飛んで避けはしたが再び間合いが開く。
「俺を殺したところで術は止まらねえよ」
 突き刺さった小刀を引き抜きながら、息を吐くようにネネが言う。
 このタイミングで紡ぐ台詞は、場合によっては命乞いのようにも取れるが、もちろんサザはそうは思わなかった。
 呪術は意志、感情といった、何らかの志向性が働いて発動し、存在するちからである。
 強力な思いが、死後もなお残る意志がそこに宿れば、術師の生死は問わず術も消えることなく発動し続ける、その場合も多いのだ。
「本当の絶望やら生きる幸せやら見いだしたヤツが、邪魔すんじゃねえよ」
「……」
 かすかにうつむく、ネネの表情はサザからもよく見えない。
 けれどサザは口を開く。先ほどの呪術の影響が少なからずあって、全身に虚脱感があった。
「邪魔はする」
 ネネの頭がすこし動いた。
「お前が死んでも、ツグミは泣く」
 すこしその速度が衰えはじめたが、森はなおも枯れ続ける。
   






「……」
「ああ、吐き気がしやがる。アニエス、平気か」
「………」
 確認するように声をかけられても、少女は答えることが出来なかった。
 今向かう方向、その先から、強大な呪力の波動をひしひしと感じる。
 常人よりもずっと耐性のある彼らでさえ、悪態をつき歩みをためらうような、邪悪な感触のする力である。
「…ノースゼネ、カーロ…」
 ようやく、絞り出すように漏らした名は、皮肉にも憎悪を喚起しアニエスに顔を上げる気力を与える。
「…違いねえ。ヤツめ、どうすりゃこんな呪術が制約無しに使えんだか」
 杖を手に先を行くアスランは、見る限りでは平素とかわりがないように見える。
「どれだけの器があろうが、ひとの身じゃあ長くはもたねえぞ」
 しかし漏らした呟きには、現状にも安全を確信するような余裕も残されてはいないのだ。「そんなの、許さない…」
 アニエスの脳裏に、炎がひらめく。
 血のつながる家族を、そして今となってはそれと同じくかけがえのない家族を、傷つけ苦しめた、元凶が。
 あの、悪魔のような男。
「私が、苦しめて息の根を止めるのだから…そんなふうに死ぬなんて許さない…」
 呼吸を途切れさせながら、アニエスの青い瞳の奥に炎がともる。
 それは強い意志の光でもあるが、力強くきらめくものとはとうてい思えず、横目に見やってアスランは目を細めた。
「アニエス、気をしっかり持て。負の心持ちじゃあお前さんもヤツの呪術に食われちまうぞ」
 命の定着が薄く、足の鈍い虫たちの死骸が、そこかしこに散らばってひからびている。
 この呪術は命を乾かす、灰色の炎だ。
 気概ももちろんだが、心と命をきちんとつなぎ止めておかなければ、人であっても瞬く間に絶望し、乾く。活気という潤いを失い、朽ち果てていくだろう。
 文字通り、そのこころも。
「かまわないわ。たとえ死んだって魂だけになってあの男を殺してやる。ヴァリアンの志で、呪い殺してやるわ」
「……嬢ちゃんよ、ちっと…」
 カーロの呪術に触発されたのか、頭に血を上らすアニエスの目に余る変貌にアスランはひとつ舌打ちすると、どうにか一喝して目を覚まさせるべきと口を開き、
「…あ、アッ、アサさんっ」
 ふいに場違いなほど柔らかな、しかし怯えきった声に呼ばれて顔を上げた。
 梢にしがみつくようにして、ようやく立っている小柄な人影は、まさしく保護するべく探し求めていた空知そらちつぐみ―――呪術媒介となった少女に相違なかった。
「ツグミ嬢ちゃん―――何だってこんなところ…いやいい、無事だな、怪我あねえ…うおっ!」
「きゃあっ」
「…!」
 つぐみの立つ足場が悪かったのか、体勢を崩して斜面から転げ落ちそうになる。
 思わず、近い方にいたアニエスは手を伸ばすと、身体を抱き留めてやっていた。お互い華奢な少女だが、わずかによろめくだけでもちこたえる。
「あ、えっと、アニエスちゃん?アリガト…」
「…ッ、近寄らないで!」
 顔を上げて、つぐみがほっとしたように笑いかけてくる、その瞬間アニエスはぞっとした。
 今まで業火のように渦巻いていた怒りや憎しみが、急にしぼみ衰え行くのを感じたからだ。
 もはやアニエスも知っている。これがこの少女に刻まれた呪術の特性なのだ。
 叫び、突き飛ばしはしたが勢いが足らず、つぐみの身体はそう遠くまで離れなかった。
 いきなり拒絶の態度を受けて、事態が飲み込めず、大きな瞳をきょとん、と見開いている。
「あなたになんか、あなたになんか殺されない!私の思いは、私の憎しみはそんな簡単に消えない!あの男を、カーロ、を、殺すの!そんなふうにあいつを赦すなんて認めない!!」
 再び、爆発するかのようにアニエスは声を荒げて叫んだ。
 目の前のつぐみを拒み攻撃するようでありながら、自らを抱きしめて思いを吐露する少女は泣いているかのようだ。
「………」
 つぐみは、何を言えばいいのか解らなかった。
 アニエスの想いはアニエスだけのものだ。今までに受けた苦しみも悲しみも、これから抱えていかなければならない想いも。
 キニスンの話を聞いて、カーロと対面した彼女を見ていて、事情は知っていても、知っているだけだった。
「アニエス…」
 アスランが前に出ようとするのを、しかし震える腕でつぐみは止めた。
 顔いっぱいに困惑を浮かべ、眉を下げて、今にも泣きそうに。
「でも、アニエスちゃん」
 つぐみはアニエスの気持ちの何分の一もきっと知らない。だけど、だから自分が思うことを言うしかできない。
「アニエスちゃんは苦しソウ」
 くちびるを結んで、アニエスの瞳がいっぱいに見開かれる。
 ヒステリックに叫んだあとの引きつった頬は、いつも通りの氷のような美少女の印象とは遠い。
(それでもきれいだけど)
 だからこそ、綺麗な彼女がそんな顔をするのは悲しい。
「つらそう、みえル。カーロを殺す、して、よくなるの思えナイの」
(笑ってほしいの、今じゃなくていいから)
 いつかきっと。ずっと未来だって構わないから。
 そうすればきっともっと、ずっと綺麗だ。
(私はあんまり成績もよくない方だったけど、こういうときどうしたらいいかは解るつもり)
 泣きそうな女の子が目の前にいる。
 ちいさなつぐみは、それでもいっぱいに手を伸ばしてアニエスを抱きしめた。
「………」
 アニエスは一度顔を引きつらせて身を強ばらせたが、やがて脱力するように息を吐き、目を伏せてつぐみの肩に頭をもたげた。
 憎しみを殺して赦すのは、相手を殺すよりずっと困難なことだろう。
 相手を殺したところで、苦しみや悲しみから解放されはしないこと、ましてや失ったものが戻るとは思っていない。アニエスにだって解っていた。
「なかないで、よいこ。わたしのかわいいこ」
 耳に覚えのあるフレーズ。つぐみのかすかな囁くような歌声が耳に届く。
 世界的にも有名な子守歌の一説である。異世界の、この娘はこんな歌をどこで覚えたのか。
 とたん我に返ったのか頬をわずかに染めてアニエスはつぐみから離れる。
「な、なれなれしくしないで」
「ゴメンナサイ」
 子守歌など歌われて、いつもなら憤慨もいいところだが馬鹿にされたとは思わなかった。呪術とは関与しないはずの、この少女のもつまじないのひとつなのだろう。
 素直に謝るが、つぐみはそれでもにこにことしている。それまでやりとりを見守っていたアスランが、気まずそうにだが手を挙げて割ってきた。
「うおーい。そろそろいかねえか。どうやらツグミのおかげでずいぶんと調子がいいわ」
 本当?とでも言いたげに振り返るつぐみの表情が明るくなった。アスランは不謹慎にも和んでしまって笑い返した。否、これぐらいの余裕が出来た方が良い傾向かも知れない。
「そういやお前、ひとりなんだな、逃げてこれたのか」
 疑問を向けられると、とたん自分の境遇に気付いたのかつぐみの表情はさっと曇る。
「サザが、助けにきてくレタの」
「へえー、ほおう。けっきょく動きやがったか」
 口笛まで吹いて、アスランはそれでもまんざらでもなくうれしそうにする。
「…この先に、先にいっタノ」
 アニエスを気にしながらも、つぐみは山の頂へ向けて指を向ける。
 先ほどのような、アニエスの動揺は見られない。呪術の縛りからも、心の葛藤からもすこしは逃れられたようだ。
「…サザーロッド・リビットと、カーロが、この先で戦っているのね」
「それでこの有様か。ひでえ迷惑だ」
 しかしその状況は有利とも言える。サザーロッドが相手をしてくれている間に、呪術平気となる媒介を保護、回収して何とか解呪にまで至らなければ。
「いっくぜ、アニエス。この辺一帯を火の海にされたかあねえからな」
「…そうね」
 けして積極的な様子ではないが返事をしてきた少女に笑みを向けて、アスランはその頭を撫でてやった。彼にしては珍しく、やわらかに。
「な、なにするのよ」
「や、ツグミに感謝しねえとな?」
「……」
 そう言われると、素直に頷く気にはなれない。
 今は、まだ。





 ―――――まるで、この世から色が失われたかのようだ。
 ようだ、ではなく、実際に目につく光景はどれも現実感がない。
 夜の森は視界を遮られるほど、闇と同調し真っ黒に染め抜かれているはずなのに。
 白、白、白――――。進むたびにその傾向は顕著に、深刻に、また異様さと同じくして増していった。
 木々も地面も目につくものすべて、いろを奪われ白く染まる。白のはずが夜のため、薄ぼんやりとそれが解る。
 混ざり合い、結果作り出されるのは一面の灰色の世界だった。
(気味が悪いな)
 実際の吐き気さえ覚えてアスランは自らの口を手で覆う。
 つぐみがしっかりと上着の裾を掴んで、側にいてくれなければもっと、肉体的な不調は現れていただろう。
「アニエスちゃん、大丈夫?」
「…ええ。あなたこそ」
 反対側の手で上着を掴まれているアニエスが、気遣う言葉をかけられて静かに返す。その表情は余裕といえるものではないが、言葉を向けられてつぐみは瞳を緩ませた。
 すこしだけ、その表情にふたりとも目を瞠る。
 この状況で、笑えるのだ。強がりかも知れないが、見習うべき気丈さだろう。
「よっし、サッサカ行って媒介回収すっぞ。その、ユウチャンとやらをな!」
「ええ」
「ウン…!」
 つぐみがかいつまんでなんとか説明を終えていた。
 今回、兵器呪術の媒介として喚ばれたのは、やはり二十にも満たない子どもだということ。
 そうではないかと危惧していたが、事実だと知ればまた心構えも変わるというものだ。
(ガキばっか巻き込みやがって…胸くそ悪ぃ…!)
 自身も喚んだ呪術師だから解る。「子供来い」と限定して喚んだわけではないだろうが、そして年齢の若い老いで命のはかりなど出来るわけもないのだが、それでも。
 子供の犠牲は、気持ちが悪い思いがするものだ。
(…うげっ?)
 身を固め、四方を警戒するようにだが確実に進んでいた三人は、ほぼ同時に身を震わせて天を仰ぎ見た。
 空気の震える、おとがする。実際に聴覚が捕らえたわけではない、呪術的な糸のようなものが、震えて三人にそれぞれ知らせるのだ。
「くる……あ、ワタ、シ…しってる…に、にげて!にげてっ」
 呟いたつぐみが真っ先に、慌てて掴んだ二人の腕を促すように引く。
 彼女は「それ」を知っているという。この怯えようからも察せられる、というか解らなくてもとんでもないものが近づいてくるのが、呪術師の二人にも感覚だけは認識できる。
「な…」
 やがて。
「なんっじゃこりゃ…」
 空を見上げたまま、口を開いてそう呟くしか、さすがのアスラン・ヨーグにも出来ない。
 灰色の世界にあって、有色の存在が空を埋め尽くし現れた。
 そう、埋め尽くし。誇張ではなく視界いっぱいに、肥大した巨大な生き物が。羽を広げ空に佇んでいる。
 ―――――――ギャアアアアアアアアンン!!!
 三人は、夢幻ではない証拠に残響に耳を塞いだ。鼓膜をつんざく、悪夢の単語を連想する咆哮。
 灼熱の紅蓮。赤い化け物。それは伝説上とさえいわれる太古の生き物。しかしこんな大きさの生き物が。
「ディグル、ディグルかオイ!いくら何でもでかすぎるだろうよ!」
「こ、この状況でよくそんなのんきなこと…」
「う、うううう…」
 とりあえず驚きを素直に表現しておくアスランと、呆れながら目眩を覚えるアニエスと、困惑と恐怖で、しかしふたりをしっかりと掴んだままのつぐみ。
 反応も様々だ。しかし蟻にも等しい地上の生き物の事情など、巨体のディグルには関わりのないこと。
 ほぼ枯渇状態になった木々の端々が崩れて壊れていく。風を震わせ皮膜の張られた羽根を揺らし、紅蓮のディグルは大きく胸を膨らませた。
「…やべっ」
 アスランとアニエスが構え、足裏に力を込めたのはほぼ同時。
 紅蓮の体表にふさわしく、口腔から放たれた火炎の放射に、森の一帯が一瞬で消し飛んだ。
「……!!!」
 ディグルが息をいったん切れば、煙が晴れた先に白い大地に立つのは三人きり。
 とっさに防火壁を何重にも強化して展開したのが幸いしたが、かなりの負荷だった。かざした手はふたりとも、ひりひりと軽火傷を負ったように痛む。
「け、消し炭になるとこだったぜ」
「…早くこの場を離れた方がいいわ」
「う、ウン、ウン…!」
「逃げるったってな」
 言いながらも走り出す。空を舞うディグルに人の足で逃げたところで無意味だとか、どうやって退治するかとか、そもそもどっからこんな大物が湧いてでたかとか、
 ―――――ウルスの地下に残された、氷の秘密のひとつ。その存在を知るものはごく少ないだろうが。
 その眠りを醒ましたのが、執念の果てのエイギル・カレイスによるものだと知るものはもっと少ない。この先も永遠に。







 ―――――――どくん。
 ひとつ波打つ。



 ―――――――どくん。
 またひとつ。





 早川夕はやかわゆうは音を聞いている。
 和太鼓を打ち鳴らすかのように力強く、かといって心躍るような高揚感はない。
 鼓動、のような。
 鼓動。だとしたら誰の。
 あたしの?まさかそんなだって。
(あたしのなかからきこえてくる)
 それはいままさに息づこうとする鼓動。
 そして、あゆみくる足音。
 意識の無いまま、夕は無意識に悲鳴を上げる。真っ暗闇の深層心理のうちで、逃げ場のないまま叫び声をあげて拒む。
 ――――――たすけて、助けて助けて助けて!だれか誰か!だれか助けてこれを止めて!
 喉は震えず音にならない。
 だから誰にも、届かない。






「―――!」
「時間だ」
 サザが足を止め、それまで臨戦態勢だったネネが構えすら解き、無防備に立ちつくしたのはほぼ同時だった。
 瞬時、何かを察したサザがもと来た方向を振り返る。
 いままでにないほど、切迫した表情で、
「ツグミ!」
 このときまで気がつかなかったのが不自然なほど、異様な光景が背後には広がっていた。
 見る影もなく焼き尽くされた森であった残骸。無事なところもすっかり色を落とし、まるで違う場所に移動した感覚を覚える。
 それだけ、お互い相手に集中していたと言うことだろうが、それにしても。
 何よりも目に飛び込んでくる、深紅のディグル。
 ウルスで自らが対峙したものよりも、なお強大に見える。
 そんな異様な存在に、怯むそぶりも戦く様子も見せず、サザは即座に駆け出す。異形へと向かって、いままで戦っていた敵に、あっさりと背を向けて。
 いまなら背中を狙い撃ちできる、絶好の機会を得ても、ネネは微動だにせず見送る。サザとひとしい橙の瞳を、わずかに細めて。
「それでいい」
 そして、ひとつ呼吸を重ねるごとに、強まる呪術の気配を感じる。
 背後、ややしばし離れた位置に、媒介である夕を横たわらせていた。
 彼女の気配、というべきか。いや、というよりもやはり呪術の気配を色濃く感じる。
 もはやここにこうして立っているのも、ネネはやっとの思いだった。発動に至るまでのプロセスを経て、準備を整えて、その規模の膨大さを身をもって知る。
 兵器呪術というのは大昔から、複数の呪術師が媒介を経てようやく扱えるほど、莫大な呪力と高度な技術を要するものだ。
(それを、まあ俺ひとりでか。よくやったもんだ)
 他人事のように思う。
 軽く咳をすると、予想通りに赤いものが見えてきた。先ほどまでのサザの攻撃によるものではない。
 ネネは目を閉じる。作り上げたかたちが目覚め、身じろぎし、誕生の兆しを感じるのと同じく身体の端から崩れていくものがわかる。
「ネネ、ネネ」
 ――――いつもの幻聴、女の声がする。不安そうにただ、名前を繰り返し呼ぶ。
「さあ、起きなの鳥。まずはアレが獲物だ」
 軋む腕を上げてひとつ指をさす。導かれるように、ソレ、、の意識がぐん、とゆびさきに向かうように感じた。
「食らいつき、燃え盛れ」
 声に導かれるように、目を覚ます。
 眠る少女のからだを突き抜けるようにして、あらわれる、視認できるその姿は、焔。
 四枚のつばさを持つ、鳥のような金色の焔だった。




 アスランも、アニエスも、そしてつぐみも、呪術の干渉においては敏感なことが幸いか、災いしてか、事態の把握は早かった。
「発動しやがった!ヤロウ、やりやがった!」
 舌打ち混じりのアスランの悪態が、簡潔に最悪の状況であるとふたりにも知らしめる。
「ディグルから、逃げるのもやっとなのに…」
「ゆ、ゆうちゃんハ!?ゆうちゃんハ!??」
 つぐみは先ほどまでの気丈さが見る影もないほど、顔の血の気をなくしてアニエスにしがみついてようやく立っている。
「しっかり立て、ツグミ!呪術は媒介が無事じゃなきゃ発動もしねえ!いまはとにかくこのディグルから逃げ」
 アスランの叱咤は不自然に途切れた。二十年以上にもわたって、この国最高峰の呪術師といわれる彼は、目視できる前に感じ取ってしまった。
 やがて、アニエスも、つぐみも、ソレを目にする。
「四枚羽根の…鳥?」
 空に浮かぶ、歴然たる力の暴挙と言っていいほどの目映さを放つ、もの。直視できない。
 呪術師は呪術にたいして耐性があるが影響も受けやすい。この場にいる誰も、地面に足が縫い止められたように動けなくなってしまった。つぐみをのぞいて。
 つぐみは、思わず綺麗と思ってしまった。金色に輝く鳥。
 あれが、夕ちゃんの呪術。
(きれいだけど、見ていると悲しい)
 胸がいっぱいになって、泣きたくなるような美しさ。
 そして、一歩を踏み出す。
 一歩、一歩と。足を交互に動かして、永遠に思えるような一秒一秒を、つぐみは前へと、手を伸ばして。
「ツグミ、逃げろ…」
「そう、あれではあなたは傷つかないけれど、ディグルの炎には無防備…にげて、すこしでも遠く」
 硬直して動けないままでも、アスランとアニエスがそう言ってくるのを聞く。
 とてもうれしく思うのだが、つぐみはゆっくりと首を振る。視線は先の火の鳥へ向けたまま。
「ワタシ、あのこをまもルの」
 その為にここにいる。
 ふたりを置いて逃げることも、考えられない。やはり怖いけど、足が震えているけど、いま、自分はやるべきことがある。
 出来ることがあるいま、逃げることは出来ない。
「ゆうちゃん…!」
 手を伸ばす。あの太陽のような光の下にいるはずの少女めがけて。
 つぐみが一歩を踏み出すのと、三人の頭上で飛翔するディグルが再び炎を吹きかけるのと、閃光が視界を白く染めるのはほぼ同時だった。
「!!」
 急遽熱された空気が、呼吸するだけで肺を焼いた。
 死を覚悟した呪術師らだが、爆風に煽られしりもちをつく程度に留まり、とりあえず命はあった。
「アニエス!ツグミ!」
「私はここ、ツグミは」
 何が起こったかの把握よりも、身体を起こすと視線を四方へ巡らす。
 気配を、うめき声や泣き声はないか、ちいさな人影を捜す。
 あんな小柄な少女が炎を受けてはひとたまりもない。
 やがて煙が次第に晴れていく。焼けこげた地面が陥没し異臭を漂わせている惨状も身の毛がよだつものであったが、アニエスの視線を奪ったものはそれではなかった。
「ギィ…ギャ…」
 ディグルがいた。あれほどまでに強大で暴虐に見えた地上最強生物が、身体の半分を失い、ただれた断面から黒い煙を上げていた。
 もはや見開かれた隻眼に光はなく、空にあった巨体が傾ぐ。なおも身体に残る火に身を焼かれながら、紅蓮のディグルは轟音をとどろかせ地上へと落下した。
 いまの、一瞬にして、鳥の呪術兵器が、あの体躯を穿ったのだ。
(……ひとの人智を越えている)
 ぐらりと目眩を覚えて、しゃがみ込んだまま顔さえも上げられない心地にされた。
 呪術に携わる身として、こんなものをひとのみで操るとは、知っているだけに理解が出来ない。気持ちが悪い。
「アニエス」
 腰が抜けているというのでもないが、すっかりへたり込んでいるアニエスにたいしてアスランは立ち上がって近寄るだけ、さすがと言うところだろう。
 だいじょうぶか、とさすがに緊迫し張りつめた表情でのぞき込んでくる。
 強がりでも、頷くことが出来なかった。
(理解、出来ない)
 ノースゼネ・カーロ。家族の仇と憎む相手を、もはや同じように見ることが出来ない。
 そういうものではないのだ、彼は。アニエスと、違いすぎる。感覚から何から。
「だから気をしっかり持て、アニエス。ヤツはひとだっつってんだろ。いかれた呪憑きだ。こんな呪術を行使して、長くもつわきゃねえ。さっさと気が狂うか、そうでなきゃ身体がぶっ壊れちまうよ」
「……あ」
 言われてようやく、すこしだけ冷静さを取り戻す。
 術者が死ねば、呪術は収束し効力を失うか、現世に留まって暴走するかのどちらかだ。
 対処はしやすくなるが、その前に何とかしなければならないことは多かった。
「媒介の、確保を」
「そう、ユウチャンとやらな。…さっさとしねえと、っっ!!」
「!!!」
 息をつく間もなく、天から火の雨が降ってくる。
(どんだけ呪力許容量でかいんだよ、カーロのやろう!ふつうならとっくにぶっ倒れてんだろうが!!)
 うまれたばかりの火の鳥は、世界の勝手がわからずに、けれどどこか楽しげに飛び回る。
 呼び出した親鳥のいのちだけを、頼りのえさとしながらも。
   









 ――――――助けて、助けて助けて、誰か。
 少女は意識下で訴え続ける。
 あついよあつい、怖いよ。あつい。助けて。
 明確な思考もままならず、心のままの言葉、単語ばかりが渦巻いて、呑み込まれそうになる。
 苦しくて、出口を求めて手探りでさまよい歩くよう。心細さに涙がこぼれる。
 ―――――お父さん、お母さん、
 会いたい、家族の顔。無条件に側にいてくれ護ってくれた人たち。もう一度会いたい。
 ―――――助けてお兄ちゃん。
 手を伸ばして、思考の端に、最後に一瞬だけ、過ぎる名前。
(ネネ)


 声にならないから、届かない。





 

(2009.9.6)

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