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 視界いっぱいに、横一線、光が走る。
 文字通りの光速で、紅の輝きは厚く硬い皮膚を易々と貫いて。
 その身の半ばまで蒸発させてしまった。
「………」
 またたきの間の出来事。
 だから、それを目にしたつぐみが呆然と立っている間にも、なお燃え盛る遺骸となり朽ち行く巨体から飛び散って。
 火の粉が。
 空から降り注ぐ星屑のように。実際はそんなに悠長な速度ではない。
 あっ、という暇もなく、つぐみの目前まで。空気を燃やした巨大な火の矢が。
「……っ!」
 視界が覆われ、身体が宙に浮くのだけが解った。
 誰かの腕にさらわれ、その場を一瞬で離れる。事態を理解できた時点で、つぐみは慌てるどころか安堵を覚えてその腕にしがみつく。
「サザ!」
「無事か」
「ワタシ、へいき。サザは?」
 お互いの顔に手を伸ばして無傷であることに、ようやく一息がつける。
 サザはつぐみの問いかけをはねのけることなく素直に頷く。
「怪我はない」
 嘘ではない。ネネの退廃の呪術を一番間近に受けて内蔵各部に違和感を覚えるだけだ。 それでもその答えに、つぐみがほうっと息を吐いて笑みを浮かべる。
 しかしその表情も、すぐに不安に塗りつぶされる。
「サザ、ゆうちゃん、ゆうちゃん、いた?」
「姿は見ていない。だが」
 居場所の見当はつく。サザは先の言葉を切って、つぐみを再び抱きかかえその場を離れる。
 火の雨は大小様々に、予測不可能な動きで間断なく降り注ぐ。
 頭上を飛び回る焔の鳥は、飛び方をよく知らない雛のような頼りない旋回を見せている。
(……ネネは長くない)
 ただ、厳然と迫る事実として、サザはそう思考する。
 無意識につぐみを支える手に力がこもってしまうが、痛みを与えないよう、その注意だけは怠らない。
 この事態を未然に防げなかったことに不満はあるが、これが、ネネの望んだことならば。
 本当に、のぞんだのなら。
(俺は俺で動くだけだ)
 ―――――心を知ってサザは自ら動くようになれた。けれど。
 なんと、我が身は重いのだろう。




 宵闇の黒い空と、枯れ果てた白い森に、煌々と灯りがともるように。
 燐光を放つ、朱の炎が広がっていく。いろのない世界に彩りをもたらすかのよう。
(…もえる)
 熱がなければ、臭気がなければ。
 あるいは、この光景を美しいと思えたのだろうか。
(燃える、燃えてしまう、なにもかも)
 炎の矢から逃げる合間、倒木に足を挟まれ気がつけばアニエスは倒れていた。
 とっさに呪を紡ごうとしたが煙を吸い込んで喉をやられている。情けないことに呪術兵器を目の当たりにしたショックからも立ち直り切れてはいない。
 身体を動かそうとすれば足首にひどい痛みが走る。悲鳴をこらえるのがやっと。
 耳元ではぜる音がしている。全身がひりひりと痛むほど、熱気に包まれ息苦しかった。
 アニエスは、これを知っている。
(…キニスン)
 心細さから、血のつながるたったひとりを呼んでしまう。ああ、でも彼がこの場にいなくてよかった。 
 よかったと、自分でアニエスは思えたことにすこし心が救われた。
 炎は、どうしたって恐ろしい、恐怖を呼び起こすものだった。
 何もかも奪ってしまう、奪っていった、忌まわしい記憶の源。
(…怖い…でも、)
 すこし、動かすだけでも足が痛む。大木に挟まれた足は引こうとしてもびくともしない。
(私はもう、何も出来ない子供じゃない)
 許せないと、喚いて憎む以外のことが、きっと出来るはず。
「…っぅ、ひ、ぃう…ッ」
 くちびるを噛んで悲鳴をこらえながら、片方の足で木の根本を固定する。
「一度だけ、でいい、から…」
 出てきて、呪力。気持ちが源になるのなら、いくらだって振り絞る。
「我が、身を、阻むものよ、退け…!」
 びりっと全身を電気のような痛みが駆け抜け、それに耐えきると幹の一部が砕けて足が何とか抜けた。
 怪我を治す呪力はさすがに残っていない。自分の傷を治す呪術は、重傷であればあるほど行使が難しいこともあるが。
(十分…よ)
 立ち上がることも出来ず、アニエスは膝と両腕を使い、這ってでも進もうとする。
 全身に軽い火傷を負っているほどに熱をもっていて、わずかに動かすだけで気絶しそうになる足の痛み。骨に異常があるかも知れない。
 けれど、諦めない。
 もう、アニエスは諦めないと決めた。
(何も怖いことなんて無いもの)
 誰かを、もう二度と失うこと以上に、この世に怖いことなんてひとつも。
 ずりずりと、灰にまみれて何とか進む、アニエスは、視界に入れてやっと、それに気がついた。
「…え」
 すでに呪術による影響で燃えるほどのものが少ないとはいえ、あたりは火の海と言っていい状況だ。さらに怪我により五感はかなり鈍っている。
 だから目にするまで気づけなかった。光とすら思わせる幻想の焔よりもさらに、赤いものが地面に染みついていることを。
「……ッ」
 見覚えのある衣服と背中が、血塗れで眼前に立ちつくしていた。
ああ、木が倒れ込んできたときアニエスは気絶したのだ。そう長い時間ではなかったが、その間炎に直接さらされずにいたことをなぜ疑問にも思わなかったのか。
「…よう…へへ」
 肩越しに振り返って、薄赤の瞳が細くなる。
 軽口を叩き続ける態度が余裕の表れのようで、頼りに思っていた。
 けれどくれた笑みすらも、悲壮感しかもたらさない。アニエスは苦しい呼吸の合間何とか言葉を紡ごうとする。
「半端ねえわこりゃ…まーだ終わらねえでやんの」
 杖を支えに何とか立ってはいるが、結界を張りアニエスを護り続けた彼の呪力も尽きかけつつあるようだ。
「あとは気力勝負か」
 しかしなおも、膝を屈するつもりはないらしい。顔を上げるアスランの横顔を見上げ、アニエスは思わず口走る。
「もう、いい。やめて…」
「お前はやめるか、アニエス」
 苦しさはにじむが、いままでと変わらないアスランの声だった。
「俺はやめねえ。俺がいねえとこの国終いだと思ってやってやるさ。護ってやる」
「……!」
 決意の声と、眼差しに身震いがした。
(いや)
 いやだ。こんなのって嫌だ。
 羨ましいと、私だってと思うけど、そう信じても叶わない思いだってあるのだ。
 絶対の力に、純粋な思いは負けてしまう。それは実際おこりうること。
 アスランが、死んでしまう。
 このひとが、私の目の前で。もういや。
(ぜったいにいや、嫌…)
「アスラン……師匠ぉ」
 くちびるの隙間からたまらず、哀願のような声が漏れた。土を掻いて、爪の間の砂すら熱い。
「泣くなあ、嬢ちゃん、かわいー弟子よ。ここであっさりくたばっちまっちゃあ、トキに合わせる顔がねーだろうが」
「……っ」
 ひくり、泣いてもないのに喉が鳴った。自然、弾かれたようにアニエスが顔が上げたのを、背を向けたままでもアスランには解った。
「俺は二度と喚ばねえといったが、二度と会わねえつもりはねえんだ。この一件が終わったら、穏便に遊びに来てくれたらと思ってんだよ」
「…う」
 アスランの背で、とうとうアニエスは顔を伏せた。
(トキ)
 思い出すと、別れたときの恐怖がよみがえる、異世界の少年。
 しあわせになりたくないと否定的に生きてきたアニエスの視界を、何だかかき乱して帰っていった人。
(だってたいせつになってしまったら)
 一度、しあわせを知ってしまったら。
 もう一度失ったとき、今度こそアニエスは耐えられないと思ったのだ。
(トキ)
 もう、当初ほどの強度を保てないアスランの結界に、炎の雨がなおも降り注ぐ。
 きっと直撃すれば熱を感じるまでもなく骨まで蒸発するだろう、衝撃に空気が震える。
(トキ、トキ…!)
 地面に這いつくばって、アニエスは歯を食いしばる。アスランの助けひとつ出来ない、呪力の欠片も残っていない、それでも、こんなアニエスでも。
 失いたくないと、諦めたくないという思いが。
(あなたを思い出すと)
「……たすけて、トキ」
 あるいは、おまじないのような呟きだったのかもしれない。
   




 ――――――――最初に、水の香りが。

 

 

 





「っぶ、ああ!??」
「……ッ!??」
 ふたりへ襲いかかろうとしていた火の雨が、弾かれたように四方へ霧散していく。
 あらたに、力強い結界が展開される。ふたりを覆うそれは空気すらも浄化して、臭気や熱気も遠ざける。
 かわりにアスランとアニエスを包むのは、しっとりとした水の呪力と涼気。
「ちょ、オイオイオイ…ッ」
 とたん、緊張の糸が切れてしまったのかアスランは膝を折った。もうすでに心身共に限界だったのだ。
 アニエスはただ、言葉もなく眼前を見上げる。事態が飲み込めなくて、瞬きすら忘れている。
 ふたりの目の前に、それ以上に困った様子をにじませた、奇妙な服装の少年が立っていた。
「……よ、呼んだ?」
 しゃくり上げて喉を鳴らす、泣きそうなアニエスの顔を目にして、間の抜けた表情がとたん険しくなる。
「アニエス」
 名前を呼ぶ。呼ばれる。
 アニエスはゆっくりとまたたきをする、返事のように。
「トキ?」
 呼んでみる。返事がないかわりに、少年はアニエスのすぐ側に膝を着いておろおろとする。
「うわっ、や、火傷?これ全部か?ど、どうしよう、痛いよな」
「トキ」
 自分の痛みのように、顔をゆがめる少年と真っ向から見つめ合う。
 事態をすぐ把握したらしい彼と違って、いまも夢の中のような心地がするが、どうやらこれは、目の前にいるのは本当に。
「トキ!」
「あ?はい!?うわっ、アサさんまですごいことに!」
 背後から呼ばれて振り向けば、少女と同じように全身を炎にあぶられて満身創痍の中年男がいる。
 彼もまた、いるはずのない人物の出現に目を瞠り、苦渋さえにじませているのだが。
「てめっ…この野郎、なんでここに!」
「お、俺にも解りませんよ!」
 責めるような剣幕にさらされて、先ほどまでの救世主っぷりも台無しに小さくなっている。
「でも、」
 ふと、気の弱い少年の顔つきが改まる。
「名前を呼ばれたんだ。とても強く、呼ばれた気がして、助けたいと思った」
 そして気がついたら、ここにいた。
 怪我だらけのふたりを心配する瞳の奥に、それでも強い、以前までのときにはなかった意志が見える。
「俺は確かにここの人間じゃないから、帰れと言われれば帰るべきだろうけど、呼ばれれば来るよ。来てしまったんだ、心がまだ、こっちにも向いているんだからさ」
 一息にそう告げて、自分の言葉を恥じるように顔を伏せるが、すぐに上げて、アスランを見る。
「……呼べば来れるとか、犬じゃねえんだから…」
 あんまりな事態に頭のひとつも抱えたくなる。そうそう簡単に異世界とこちらがつながれて、行き来されてたまるものか。
 よほど朝とこちらの世界のつながりが深くなってしまったのか。それとも術者主であるアスランと、朝の呪術の相性がよほどはまりが良いのか。
 どちらであろうとも、まあ。
(―――――呪術は意識や志向の影響を強く受けるもの、か)
 心が向いているんだから、来れた。
 それではまあ、しょうがないか。アスランは深く考えるのを諦めて、そう結論づけておく。
「来ちまったもんは、しょうがねえ」
 四肢すらもままならず、地面に座り込んだままでは様にならないが、しかしアスランは構わずに笑いかけた。自分あってこそここにいる少年へ。
「よお、トキ。元気してたかよ」
 それに、朝はなんて答えるべきかと、苦笑を返すのだ。
 内心安堵をにじませながら。別れ際に感じた思いは、いまも恐怖に近い感慨となって朝を怯ませる。
「――――まあ、見ての通り俺たちゃクソッタレ呪術師の呪術兵器に打ちのめされてこのざまだ」
「………かいつまんだ説明をありがとうございます」
 なんというか、そう答えるしかできない。自分ひとりが高い視線で立っているのが申し訳なく、朝はその場に膝を下ろす。
 朝があらわれて以来、あたりの熱気はすっかりなりを潜めているため呪術への警戒は無用であるらしい。
 すでに負った傷は癒せないが、息苦しさもなくずいぶん楽になった。ほとんど横臥していたアニエスもゆっくりと身体を起こす。
「往生際とはこのことかねというとこだったが、お前が来ちまったからな。この際渡りに船だ」
 良く言う。諦めるそぶりなど見せなかったくせに。アニエスは、アスランらしい一種の照れ隠しにくすりと隠れて笑いを漏らす。
 わずかとはいえ、笑みさえ、浮かべられる。
「それっぽく言っておくか?アスラン・ホーグ・ヨーグが命じるぜ、トキ・ハヤカワ。我の術式を宿すもの、我の手足たるもの、我を阻むものをぶち壊せ」
 朝は思わず吹き出した。その後ろでアニエスまでもが微妙に肩を震わせる。
「失礼な奴らだな、士気が上がるだろーが」
「りょ、了解…ご主人様」
 言いながら背中あたりがかゆくって仕方がないが、まあ事実朝は使役される召還獣と大差ない。
 ただ力を持つのは朝自身ではなくて、朝を容れ物に保たれている呪術のほうという話なわけだが。
 古来から呪術師が、非人道的という意見があっても人体実験を欠かせずいたのはこういった側面もある。
 人間に当てる、使わせる、宿らせる、そのほうが、呪術というのは飛躍的に進化するのだ。
 安定も、不安定も、増加も、低下も、感情の振り幅ひとつで著しくあらわれる。
 だから朝がアスランを嫌悪していないことも、呪術にとっては大きな安定の要因になる。
「そもそもこの呪術―――ネネの編み出した呪術兵器」
 今も、視界に捕らえられないが炎が飛翔する気配は感じられる。
「こいつと対峙するたったひとつの専用呪術、みたいなつもりで喚んだんだよ、トキを」
「…そう、そう聞いていたわ」
 アニエスもかなり息を整えたのか、落ち着いた声で頷く。
 朝は二人に囲まれてただ、神妙なおももちで佇む。
「そうか、俺、土壇場に間に合ったのか」
 このために喚ばれたのだ、と知ると、大変な事態に飛び入り参加となって混乱気味だった心が不思議と落ち着いていくような気がした。
 自分は「間違い」ではなかったらしい。いない方がいいというわけではなかった。
 ここにいていいものだった。たったそれだけに息がつける。
「この、呪術って…?」
「そう、だな、半分はヤツのオリジナルだが大昔にも似てる術があったな。全貌ぜんぼう灰燼かいじん
 ――――――燃えかすの総て。
 物騒すぎる名前にぞくりとする。勇気を得たばかりのような気がしたが顔が早くも引きつってきた。
「びびんなって。この世界の総てにとっちゃそりゃあ脅威だがトキは別だ。あ、ツグミもか。とにかくだ、お前は何も考えずにあいつを止めにいけ」
「止めにいけと言われても…」
 一度戻されてたいした時間も経っていない。こちらもたいして時間は経っていないようだが。
 朝自身に劇的な変化があったわけではない。アスランの言葉を疑うわけではないが、そんなおそろしい対象に立ち向かっていくのに情報が少なすぎる。
「何をやろうが無茶やろうが燃えねえってこったよ。呪術の炎はもちろん、煙にまかられる心配もねえ。お前の属性は水だ、すべて弾くさ」
「や!俺ってその水の使いどころよく解ってないって言うか操りきれないんですけどっっ!??」
 慌てて詰め寄ると、アスランは気が抜けたように目を瞠り、朝の背後のアニエスへ目配せをする。
 朝が首をかしげてアニエスを伺えば、彼女も肩をすくめるようにして。
「わからないの?トキ」
「なにが」
「いま、お前が何の意識もなく呪術発動させてなきゃ、俺たちゃふたりともとっくに蒸し焼きか窒息してるぞ」
「え!」
 指摘されて、四方と頭上を見渡す。
 目には見えないが、しゃぼん玉のような半球体がこのあたりを包むように囲っているのが感じられる。言われてようやく気がつける。しっとりとした空気と清涼感。
「……俺がやってんですか?」
「正確にはお前の呪術がな、相反する呪術に自動発動してるってとこか。っつうことで、何の心配もない訳よ、泥み湖沼なず こしょう
 朝は一瞬、何を言われたか解らずに瞬きを繰り返し、理解した瞬間鼻の頭に皺を寄せた。
「考え直してくださいよ」
「嫌だよ、これがお前の呪術の名前だ」
 なんか調味料みたいでいやだ。
 これなら最初の頃のように、勇者とか恥ずかしい称号をもらっておいてたほうが良かったのかも知れない。













 

 

(2009.9.16)

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