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 炎の直撃による被害を受けることはないが、呪術の盾は地上の木々に燃え移り発せられる熱や煙からは護ってはくれない。
 つぐみはサザの上着の中に隠されるようにして抱えられ移動していた。
「サザ、サザ…」
 火の粉が及ばぬよう、煙を吸わぬようつぐみに気を配るあまり、サザは己の状態を無視して足を進める。
 雪ではなく、灰の積もる白い木々で埋め詰め尽くされた山々。燃えるものもないのに、金銀くれないの明かりを灯して炎が踊る。
 これはまるで祭りの夜。
 荘厳神聖な雪の祭り。拝める神に祈りと感謝を捧げる。
 そんな景色さえ思い起こさせる、幻想的なシーンだ。
(神など俺は、信じない)
 いるとすれば疫病神のような存在だ。
 ひとならざる力を持つものを神というなら。
(俺を取り込みネネを取り込みくるわせて面白がる)
 そんなものには祈らない。
「サザ」
 抱きかかえた腕の中で、何度も心配そうな声が名前を呼んでくる。気をつけてはいるが、もしや力が強いだろうか、息苦しいだろうか。けれど空気を深く吸い込んではよくない。
「もう少し辛抱しろ」
「ちがう、サザが」
 わずかに視線をずらせば、至近距離で漆黒の瞳がのぞき込んでくる。
 サザ本人が看過していても、つぐみには濃い血の臭いと焦げる肉の匂いは無視できないほどになっている。
 その事実がわかっても、つぐみにはどうしようもなく、足を止めてとも言えずに、目に涙をためながら、それでもくちびるを引き結びサザにしがみつくしかない。
「わ、ワタ、ワタシ、いるかラ」
 ふるえる声で、叱咤だか激励だかつぐみも解らない言葉を紡ぐ。
 サザはそれを目にして、口の端をゆるめる。
「……!」
 滅多に見ないサザの笑顔に、つぐみはこらえていたのにけっきょく泣きそうになって肩に顔を埋める。血の臭いがする。けれどとてもほっとする心地がした。
 サザは、震える少女を抱え直すと、再び表情を引き締めて足を進める。
 ―――――どうせ祈るのならこちらがいい。
 




 いつも通りに飛ぶような移動が出来ないため、サザにとっては恐ろしく長い時間をかけてもといた場所にまで戻ると、ネネの姿はなくなっていた。
 今は兵器呪術の炎の気配が強すぎて、その軌跡すら感じ取れずにサザはかすかに焦燥を覚える。ネネが移動しても気づけなかったなんて、今までになかったことだ。
 だが迷うことなく足を前へと進める。この奥は、呪術の気配がよりいっそう濃くなっていくところだ。発動の場所と思われる方向だ。
 きっと探し求める呪術媒介もこちらにいるだろう。
「…!」
 サザはわずかに肩を震わせただけだったが、つぐみはそれも不思議に思ったのだろう。
 彼に何が起こったのか察することは出来ないか、顔を見上げて読み取ろうとする。
 けれどサザは一度だけ瞬きをして、それだけをして足を進める。
 金の鳥の動きが明らかに変わっている。規則性を失い、ふらふらと危なげに空を飛び交っていた。
「…ッゆうちゃん!」
 それが視界にはいるようになると、つぐみの反応は早かった。森の中を進んでいた頃よりもかなり炎も煙も薄くなっていたのでサザを促し地に降り立つ。
 サザの腕の袖を掴んだまま、先を急ぐ。
 梢の陰に、仰向けに倒れる夕の姿があった。このあたりは退廃の呪術の影響すら受けていないらしく、少女は一見ただ眠っているようである。
 もう少しで届く、その無事が確かめられる、とつぐみが手を伸ばすが、何ものかの気配がうまれる。サザはとっさに先を行く少女を引き寄せその背に庇い立つ。
 視界を遮るようにサザの背に覆われても、つぐみはその姿を目にしてしまった。
「……ひ…っ」
 悲鳴を呑み込むのがやっとで、嗚咽を抑えるため口元を手で覆いサザの背に顔を押しつける。
 理解した瞬間、大声で泣き叫びそうになってしまう。
 サザたちの前に立ちふさがったのは、ヘドロのように溶解した肉の塊だった。
 否、もはや肉に留まらず腐敗が進み続け変色し、骨が軋む音と異臭を放つ。
 それがもとが何だったのか、誰がどう見てももはや想像もつけられないだろう。
 しかしためらわずにサザは呼んだ。
「ネネ」
 白く細い骨、肋骨だろうか、蠢きながら肉から突きだし、また盛り上がる肉に隠れる。
 動いている。これらは活動を続けている。まだ、生きている。
(―――――まだ死ねないのか)
 皮肉ではなく淡々と、その事実にサザは顔を歪めた。
 本来ひとりの身に負える呪術の規模ではない。それを行使し無理をおして使い続けた代償がこれか。
 ぐにゃりぶよりと肉は胎動を繰り返し、何かを探しているかのように―――やがて単眼があらわれ口のような裂け目が出来た。
 瞳は見知った橙のそれではあるけれど、白濁しよどんだ奥に理性の光は見受けられず、ぼんやりとこちらを認めるようにうごく。もしかしたらあまり見えていないのかも知れない。
「うばうな」
 裂け目が何かおとを紡ぐ。以前からは似てもにつかない、ひどく甘ったるく耳障りな音、けれど言葉。
「おれからゆうをうばうな」
 サザはひとつ息を吐く。
 その言葉だけで、すべてが十分であるように思われた。
「サザ」
 背後から、震える声に呼ばれ服を引かれたけれど、構わずにサザは剣を引き抜いた。
「……」
 肉に埋もれそうながら、まるで状況を把握したように間を置いて、ゆっくりとその瞳は閉ざされた。
 裂け目がもぞ、ともどかしげに動く。つぐみは目を赤く腫らしながらも目を逸らすまいと見つめ続ける。
「いきるがいい」
 それは、何のための言葉だったのか――――。
 サザは渾身の力を込め、これ以上どんな苦痛も彼を苛むことがないよう刀を一閃に振り抜いた。
















 ―――――――涙が止まらなかった。
 理由はわからない。
 わからない、わからない、わからないワカラナイわからないただ悲しくて。
 悲しくて、かなしくて。
 涙の止め方がわからなかった。










(―――――――ライオン)





 いつか見た夢の中の登場人物が頭を過ぎる。
 あのときは解らなかった、ただ理解が出来なくて強い気持ちに押し潰されそうだった、誰かの苦しみと悲しみ。
 どうしよう、今はわかる。
 わかる、わかるのだ。めもみえないのにみみもよくきこえないのに。
 ああ、いまうん、「寝てる」んだ、そうなんだ。
 けれどわかるんだ、驚いてしまう、自分と彼は意外にもつながりが深かったのだ、こんな形で解らなくて良かったのに。




 ―――――苦しい、ホント苦しい、どうしよう!
(たすけてたすけて、たすけて!)


 ―――――求める面影はもうどこにもいない。
 ―――――名前を呼びそうになって、声にもならない。
 呼ぶ名前はどこにもない。



















 金の焔が瞬く。燃やすべきものを見失いけれどあらがい火花を散らすように、大小様々に形を変えながらふらふらと夜空にまたたいている。
 今まさに燃え尽き流れんとする星さながらに儚げではあるが、手の届かぬ天上の出来事ではなく、その熱すら感知できる距離で、鳥は。
 ――――突如、何の予兆もなく身に纏う炎の勢いを増した。






「―――暴走している」
 術者を失い、指標を見失って。
 強大すぎる呪術は世界においてうまく安定を図れない。
 ただの呪術であれば、あるいは術者の喪失と同時に霧散し消失するだけで終わるのだろうが。
 媒介が、感情を宿すひとである場合、高い確率でその場に留まり続ける。
「ゆうちゃん!」
 涙の涸れない瞳のまま、つぐみの声は悲鳴に近かった。
 もはや駆け寄ればすぐ側の距離なのに、少女の姿は見えるのに、どうしてもそれ以上近寄ることが出来なかった。
 見えない障壁のようなものが行く手を阻んでおり、つぐみの盾を持ってしても進めない。 手を痛めても構わず空を叩くが、びくともしない。その手を横からそっと捕らえたサザが、錯乱状態に陥りつつあるつぐみを見据え、ゆっくりと首を振った。
「……さ、サザあ」
「落ち着け」
 いたって普段通りの静かな声に促されて、それがかえって不自然に聞こえ、さらにつぐみの涙を溢れさせた。
(サザが平気なわけない。サザこそ、落ち着いてられるわけない)
 外見に変わりが無くたって、微妙な空気を感じ取れるようになっているのだ。
 あいている右手で軽く抱きしめられ背中を叩かれても、つぐみは涙を流し続けた。
 まるで、とても様にならないが、悲しみが分けられるなら、すこしでも自分が受け持てるなら良いと思う。心から。
 頭上を旋回する光は、もはや鳥には見えなかった。ただ、撒き散らす火花を羽根とするなら、あまり優美ではない大形の鳥には見えるかも知れない。
 実際には風や、あたりの木々が立てる枯れ音かも知れないが、ひどくか細く長い音が鼓膜を揺らす。
 聞きようによっては鳥の鳴き声にも聞こえる。兵器呪術は鳥ではないから声を上げることはないはずだが、つぐみには、まるで。
(――――ないているみたい)
 かなしいかなしいと。どうしようもない事態に泣いて暴れ回る子供のよう。
 しかし子供が泣き疲れて眠るのを待っていたのでは、この辺一帯どころか焦土と化す範囲が拡大してしまうのは必定であり、何よりも先ほどから一度も身動きをしていないように思われる少女の安否が気がかりだった。
 自分たちは呪術の影響を受けないとさんざん聞かされて理解はしているが、放置を続けていていい結果になるわけがなかった。
「ゆうちゃん…っ」
 つい目にしたばかりの、呪術師の果てる姿を思い出して血の気が遠くなる。
(だめ、絶対にだめなんだから。夕ちゃんまで連れて行かせない)
 つぐみは目を上げると、見えない障壁に背を向けて上空へと向き直る。そして、
「…おいで!」
 両手をさしのべて、炎へと呼びかけた。
 その様子に、サザもわずかに眉を寄せる。何をしているのか、とでも言いたげに。
「ツグミ」
「だ、だいじょうぶ。きっとあのこ、きいてくレル」
 何の自信もないのだが、根拠はある。ネネはつぐみを夕の補助呪術として喚んだのだといっていた。
 ではきっとつぐみの呪術は、夕の呪術にとって良い作用を及ぼしてくれるはずだ。
「俺が斬る」
 無謀きわまりない考えに、というか危険に晒すわけにいかないというのが正直なところだろうか。サザが前に出てつぐみを背に庇おうとする。
「きるのダメ!ゆうちゃんのこころがはいってルの!それにサザ、いたいヨね?」
「……」
 袖の端を引っ張って見上げれば、どうにも複雑そうな視線がかえってきた。
「わかるの!かくしてもむだナの!」
「………」
 強気で断言されてしまい、サザは返す言葉をなくす。隠しても無駄らしい。
 いくら呪憑きで強化された肉体を持つとはいえ、いつ死んでもおかしくない呪術に長い間さらされ続けた影響はけして少なくない。実は立っていられるのも不思議なほどの惨状になっていた。
「おねがい。まかせてくだサイ」
 じっと困惑したような顔のまま、けれど決意は固い眼差しで告げられる。
 疑うわけではない、つぐみに何かなすべきことがあるのだろうと察することは出来ても、ただ頷くだけがサザにはひどく苦行だった。
「…アリガトウ」
 納得がいかない、という様子を隠せないサザにそれでも笑顔を作り、手のひらにそっと触れて、そばを離れる。
 そして深呼吸し、騒ぐ心をなだめると再び、空に向かって手を伸ばす。
 ふと、背後にあらわれた新たな気配にサザが振り返る。
「ツグミ」
 呼ばれてようやく、つぐみも気がつき振り返る。そこに現れた人影に、つぐみはあっと声を漏らした。















 ―――――――記憶が。
 奔流し溢れ、よみがえっては過ぎ去っていく。
 幼稚園の運動会。かけっこで二位をとり悔し泣きしたこと。
 小学校に入学して、たくさんに増えた友達と毎日遊んで帰ったこと。
 小学校高学年から中学校に上がり、勉強が難しくて親に注意されるのが嫌だったこと。
(なんだこれ、走馬燈か)
 過ぎった思考はわりと気が抜けている。
 早川夕の十四年間が、身体から漏れてこの目で見える形を取っているみたいだ。
 ――――少しずつ、こぼれ落ちていくんだ。
 走馬燈のメカニズムを意外な形で体験してしまった心地がした。
(ああ、でも)
 なくしたくはないなあ。どっかにいっちゃわないでほしいなあ。
 ぬるい温度の海面に漂い眠気を促されるような、思考がうまくままならない中でも、夕はそう思う。
 これを全部取り戻してしまったら、きっと悲しいことも辛いことも、ああ、うん、今さっき起きたばかりの悲しいことも、思い出してしまうから怖いけど。
「夕」
 今まさに目の前を、ひとつの思い出が過ぎっていく。
 小学生の頃だ。家族揃って出かける約束をしていた。
 けれど出来なくなった。幼い夕ははしゃぎすぎて熱を出してしまったからだ。
「夕」
 夕はすごく泣いた。熱に浮かされながら、大丈夫だから、平気だから連れてってと駄々をこねて両親を困らせた。
 でも、きっと悔しがって嫌な思いをしていたのは、兄も一緒だったろう。
「夕、大丈夫か」
 兄の声がする。とても近くから響いて懐かしい。
 この世界に来てから何度も思い出したが、夢の中で助けに来てくれたのだろうか。
 夕の印象ではけしてそんな、格好良い兄ではなかったが、いつだって、誰かが助けてくれるなら兄が良いと思っていた。
「おにいちゃん」
 兄を呼ぶ。夢だから答えはないと解っているが、兄は苦笑して夕の手を握り返してくれる。   
「おにいちゃん…ごめん、なさい」
 思い出のままに謝罪が漏れる。熱を出してごめんなさい。楽しみにしてた動物園に行けなくて。
「馬鹿、なに謝るんだよ」
 兄の声がひどく深い。やっと気がつく。これは今の兄の声だ。当時のままならば、兄はもっとずっと幼い声をしているはず。
 覚えのある手のひらが、いや、何だか懐かしい感触が額にふれて撫でてくれる。
 ずうっと高熱に浮かされて苦しかった呼吸が楽になる。心地よい冷たさが肌の熱を奪っていく。
 億劫に、だが夕は目を開いてみる。
「…お前、ホントにいたんだな」
 兄がいた。学生服姿で、夕を膝に抱えて苦笑している。
 その姿といいいつもの眼鏡といい、朝はあまりにももとの世界の存在過ぎて、ひどく浮き上がって見える。
「…やっぱゆめじゃんこれ……」
「夢じゃねーって俺いるって」
 投げるように呟くと、思いがけなく強い否定があって、夕はまたたきを繰り返す。
 改めて、自分を見下ろす苦笑を見つめる。
 どこからどう見ても、また、ふれる手触りもなにもかも兄その者に違いなく。
 とたん、あたりを包む夜に気がつく。白によって廃された景色はここからは見えないが、どこにも人の手による灯りは見えず、相変わらず異世界の中だった。
「お兄ちゃん、なんでいんの」
「こっちのセリフだよ」
 すごく普通に言葉を返す朝のことが不思議でならないが、夕が呆然と兄を見ていたのはそれまでだった。
 とたん色々な思いが押し寄せ、たまらなくなって兄の身体にしがみつく。
「お兄ちゃん」
「夕、帰ろう」
 抱き返して、子供をなだめるように背を叩く。
「うちに帰ろう」
 腕の中で押しつけられた頭が、嗚咽をこらえながら何度も頷く。
「迎えに来るのが遅れてごめんな」
 とうとう、声を上げて泣き始める、震える妹の身体をずいぶんちいさなものに感じて朝は目を閉じた。
 





 つぐみも近寄れなかった障壁を、朝はあっさり踏み越えていってしまった。
 そうするとすぐに、空にあり動かなかった炎の呪術はつぐみが手招けばゆっくりと下りてきた。
 怯えるようだったそれは、やがてすり寄り甘えるようにつぐみの腕に飛び込むと、どんどんと小さくなって消えていった。
 もう、だいじょうぶ。
「よかっタね、ゆうちゃん」
 まさかトキさんと夕ちゃんが兄妹だとは、今の今まで知らなかった。
「まあな、こんなオチがあったとはよ」
 それは術者であるアスランも同様だったようだ。ようやく静けさを取り戻した山中にて、満身創痍のふたりが現れたときは肝を冷やしたものだ。
 呪術の憑依から解けずに昏睡状態にあったという夕を、朝の呪術が作用することによって至極簡単に抑えることが出来た。
 相性もあるが、心理的な安定が一番の効果だっただろう。
 しばらく朝にしがみついて泣きじゃくる夕が落ち着くまで、離れた場所で四人は見守っていたが、やがてふたりがこちらに歩いてくる。
 朝の腕に捕まるようにして、すこし足下がおぼつかないようだが、目が腫れている以外夕は至って健康に見えた。つぐみはほっとする。
 鼻を鳴らしながら、夕はやっと顔を上げてつぐみの顔を見いだす。一度は収まった涙がまたも簡単に溢れ、顔が崩れる。
「おね、おねーちゃん〜……」
「ゆうちゃん」
 手を伸ばし寄ってくる少女に、つぐみも走って駆け寄りその身体を抱きしめる。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
「ウン、ウン、こわかったネ、つらかっタヨね」
 なだめて頭を撫でていると、朝がそばにやってきて、目が合う。
 眼鏡の少年は目つきのきつい印象とは異なってずっと苦笑を浮かべている。
 つぐみも、目の端に涙を残しながら笑い返す。
 その時の視線が、やがて妹とつぐみからすこし離れて見守る異世界の三人へと移る。
「…じゃあ、帰るよ」
 その端的な宣言は、やはり苦笑い混じりのように聞こえる。
 幹に背を預けようやく立っているアスランは、口の端を歪ませて笑い手を挙げる。
 アニエスはぼうっと、どこか認識が遠いような様子で朝を見つめ返してくる。
「おう、ずいぶん急ぐんだな」
「ゆっくりしていきたいのも山々なんですが、ほら、俺の用事ってコレで終わりみたいだから」
 コレ、のところで妹に目をやる。
「あんまり長居するのも、気が引けるっていうか」
 これ以上居続けるとまた、複雑な思いを抱え続けることになるから。
 異世界に喚ばれて存在を課せられた、その役割はこれで終わり。
「ま、無理に止めはしねえさ。お疲れさん、達者でな」
「はい。色々ありがとう。アスラン」
 敬称を省略するのは勇気が要ったが、アスランはにやりと笑いを返しただけだった。
 朝は胸をなで下ろして、何とか晴れやかに見えるよう笑顔を作る。そして、煤と血で汚れたアニエスへ視線を移す。
「俺、教師になる」
 アニエスの空色の瞳がようやく澄んで、朝の目に合わさる。
「みんなのおかげで、こうしていられる。絶対になってみせるって、みんなに伝えてほしいんだ」
「……伝えるわ」
 アニエスが自分でも驚くほどすんなりと声が出た。
 嬉しそうに朝が頷く。
「死ぬまでみんなのことは忘れない」
(それだけは言いたかった)
 自分の言葉に耳元が熱くなるのを感じながら、朝は満面の笑顔を作る。
 以前に別れたときはさんざんな別れ方をしたから、この機会がもう一度得られたならすこしでも明るくやりたかった。
「私も…私たちも」
 出会ったときからずっときれいだと思っていたアニエスの顔が、今は煤や泥で汚れていても、向けられる眼差しのうつくしさに目を奪われる。
「あなたのこと、忘れないわ」
(死ぬまで)
 アニエスは約束の言葉を口にしながら、朝が付け加えてくれた言葉を想う。
 それはきっと、死ぬまで一緒のようにも思えるんじゃないだろうか。
 伝えようと思う、みんなに、一言一句違えずに。
「ずっと、あなたを想っている。私たちのことを忘れないで」
 ひどく傷だらけの顔でも、朝に負けずにアニエスは笑顔を浮かべる。
 それをとてもきれいだと思う。山の端からのぞく朝日のような、夜に浮かび上がる花明かりのような、この世界で出会った美しいものと同じく、何十年先も、どれだけの記憶を重ねようとも、忘れずにいようと思う。
 痛切に、胸に響く。
 アニエスの笑顔はとても優しい。目を細めて、泣きそうになるのを咳をしてごまかす。
「うん、うん…じゃあ、帰ろう、夕」
「…うん」
 名前を呼ばれようやく顔を上げた夕は、服の袖で涙を拭い、つないだままの手を引いて。
「……つぐ姉」
 わずかに抵抗する力を感じ、慕う少女の顔を見上げる。
「いっしょに、帰ろうよ、つぐ姉」
 泣きはらして痛々しい顔が、さらに不安そうに歪む。
 そばにいてほしい。離れたくないと、夕の心細さが如実に伝わってくる。
 つぐみはそれを間近に、年下の少女を抱きしめて、ずうっと望むままにそばにいてあげたいと思う。
 同じ世界、同じ国に住む人間同士だ。うまれた地域が違っても、望めばそれは叶う。
 違う世界の人間がそばにいるよりもずっとずっと、簡単に叶う願いだ。
「ワタシは…」
 背後を振り返らなくても、その存在を感じる。
 彼はなんと思うだろう、どんな顔をするのだろう、帰るときが来たこの時。
 もしかしたら表面上はなにも変化を見せないかも知れない。それが一番可能性が高い。
 けれど。
(永久の別れ)
 つぐみは目を伏せて、ほんの少しだけ深呼吸をする。
 ふれる夕の手を包み込むように、両手でぎゅっと握りしめる。
 優しくほほえみかける。母親のような笑顔。ほっとして夕の表情が緩む。
「――――私…」
 どちらを選んでも、後悔が残ることが解っている。
 それでも。




















 

 

(2009.9.28)

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