12 プライド
我が身に起こる現実の、あまりもの衝撃に、顔をずっと背けていた。
ふとしたときに見上げると、自分の上に乗っている男の表情が、瞳の色が、少しの動揺も伺わせていないと、確かめるのが恐ろしかった。
そんな、冷淡な言葉と仕草と表情をしながら、紅が抵抗する気力を失うまで一度も拳を振っては来なかった。
残る、手首のあざと、全身の感触と、理不尽な痛みと、もたらされた熱。
(――――まさか、こんな貧弱な事態になるなんて)
紅が心身に無理を来して寝込んでいる間に、ラグ達はとっくにトゥエルへ向かったのだという。
未だだるさの抜けない身体を、毛布を抱え込んで、ベッドの上で丸まる。
――――はじめて、だった。
今まで恋人もいなかったのだから当たり前といえば当たり前なのだが、そういったことをするのはいつか結婚をして、その夜に、となるのだと思っていた。
というか、自分がまさかそういうことをするなんて、ウォッツに来るまでは想像すらしないことだったのだ。
ウォッツは、実力の国。
女性は男性に守られて、いかに愛されるかで生活が左右されるという。
「……ってことは」
強者( から、弱者( は何もかも奪われても文句は言えないと。紅 )
そういう、理屈だろうか。
その上、もう計画で要らなくなったからフェイに帰れと。
嫌いだから、顔も見たくないほど目障りだからさっさと消えろと。
で、最後だから一発やらせろと。
「………」
やっぱりあのペテン師は危惧したとおりの最低最悪性悪男だったのだ。
思いつく限りの罵詈雑言呪いの言葉を投げつけ、悔しくて全身が震えるのだけれど。
凌駕する、奥底の恐怖と悲哀。
―――――要らない、と。言われた。
切り捨てるように。
それはラグにとって偽りようのない事実なのだと思う。
でなければあんな風に見下げた目が出来るわけがない。
短い付き合いだったが、無駄を好む男だとは思わない。
本当に紅を要らないと思わなければ、傷付けるために、あんな風に犯しはしない。
それに、紅はあとから思いだしたのだが、あの男はきちんと避妊をしていた。
それだけ冷静だったのだ。
正気を失っていたというのなら、おかしな話だがまだ怒りようもあったのに。
それだけの余裕があっても、少しの躊躇いも見せずに、あんな事をしたのだ。
―――――本当に本当に、あの男から見放されたのだ。
「…フェイに、」
帰るべきだろう。
カゲロウが送ってくれると言うし。
邪魔になるのなら、早いうちにこの国を出るべきだ。
紅は正直、帰りたいとも思っていた。
これ以上ラグの存在を感じるところにいたくない。もう考えることもやめたい。
けれど。
「…姫?ちょっといいかしら」
控えめなノックの音と、艶やかな女の声が響いた。
ローザだ。今日は非番だったのだろうか。
こんな時間にいるのは珍しいと思いながら、紅はのそりと毛布から顔を出す。
「うん…いいわよ。いま頭とかちょっと凄いけど…」
「はいはい、お邪魔するわよ」
きつく波打つ黒髪をひとつに縛って、湯気たつ盆を持ったローザが行儀悪く足でドアを開けて入ってきた。
「…どうしたの」
「どうしたのはないでしょ。あんたまだ熱引きずってんだし。レモネード飲む?ハニーミルクのが良かった?」
口調はそんな感じだが、甲斐甲斐しさに少しだけ表情が緩むのを感じる。
「レモネード好きよ。ありがとう…あの」
「ん?なあに?」
ベッドの脇に腰を下ろしたローザを、少し伺うように見上げて。
「私まだ、ここにいても良いのかしら?えっとその、ラグから、出て行けと言われたのよ」
ラグの名を口にするとき、自分の心臓がびくりと跳ねるのを感じた。変な風に声が出なかったことに安堵する。
「やぁね。まさか病人放り出すほど薄情じゃないわよ。キングはもうこの街にはいないしね。安心して養生なさい」
「…うん…」
優しく諭すように言われて、素直に頷きレモネードを喉に流す。
「あんたフェイに帰るの?」
「…帰ろうかしら…」
ローザの問いがあまりにも普段通りだったので、紅も胸中をそのまま述べた。
「…あんたキングにやられたんでしょ」
「!!!!ごほっ、ごほっ!!」
いきなり核心を突かれて、レモネードが気管に入って盛大にむせる。
その所為だけじゃないと確実に分かる、紅潮する顔色で、もう隠したくても無理だろう。
「な…なんで…っ!?」
「あんたこの道十年になる繁華街の女をなめんじゃないわよ。合意でも事故でも男を知った女なんて服の上からだろうが身体見りゃ一発なのよ?」
「………」
淡々と言い放たれて二の句が継げない。
自分では違いなんて分からないような感じだが、見る人が見れば分かってしまうと聞けば、それだけで妙に恥ずかしかった。
「砂嵐同士で肉体関係持たないって決まりがあったんだけどねー、決めたキング自ら破っちゃったのね」
いや、だから平然と言わないで頂きたい。
さっきから「ラグとコトに至った」事実を指摘され続けているようで、紅としてはいたたまれなくてしょうがない。
「で、私は別に二人に何があろうがどういう事情があろうがアレコレ言う気無いけど?だからフェイに帰るの?」
少し、異なる声の響きに、紅もすっと視線を上げる。
「…砂嵐に要らない、目障りだって言われたから」
首を振って、正直に答える。紅がウォッツにいる理由を否定されれば、滞在を続ける必要もなくなる。
「それで納得したの?」
「…まさか」
ほんの少しの間をおいて、紅は迷い無く言った。
「だってあのひと、私に何の説明も無しなのよ?どういう計画で、どんな風に私が適任だったのか、どうして要らなくなったのか。私の、どんなところがどういう風に目障りで、ウォッツから追い出そうと思ったのか。ローザ達はきっと知っていても教えてはくれないでしょう?」
「…そうね。それでもしあたしがここであんたに教えて、それですっきり納得してフェイに帰れる?」
ローザの笑みが艶やかなものから優しげなものになる。
紅はそれに気づかない振りをしたまま再度首を振った。
「出来ないわ。納得なんて。だって私まだ一度も、ラグの本音を聞いていない」
口に出して、はっとする。
そうだ、そうなのだ。
初めて出会ったときから結局、ラグは紅を形だけでも恋人にするつもりはなかった。ただの口実だったのだと思う。
紅はそれに、どことなく感じるものがあって警戒していたのだ。
信じられなかった。
ラグの「嘘」を、本音と建て前を、気づかないまでも察していたから。
「帰れない…」
上掛けを強く握りしめて、紅はそう呟いた。
迷い込んでしまったから。この、ウォッツという未曾有の国家に。
出会って、しまったから。あの森で。ラグ・ディアスという名の、生涯で最も気にくわないペテン師に。
「あのバカを殴り倒して頭割れるほど土下座させるまで、帰れないわ」
紅の瞳には決意があった。
それを目にしてローザが笑う。いっそ快活に。夜の女には似つかわしくない様子で。
「それでこそ砂嵐の子よねぇ」
がぜん紅の顔に生気が戻って、レモネードを飲み終わるとローザが立ち上がる。
もう戻るのかなと見上げたが、顔にいきなり豊満な身体を押しつけられて面食らった。
「ロ、ローザ?」
「あんたひとりの時、いっぱい泣いたでしょうね。偉かったね」
「え…っ」
頭を抱き締められて、優しい声にそういわれて、戸惑って、見上げる。
「怖かったでしょうね。なまじ知ってる相手だから、かなりつらかったでしょう」
「……」
ようやく何を言われているのかを知って、紅は黙って髪を撫でられた。
ローザの手は、多くの男を悦ばす若い女性のそれだけれど、故郷の母を思わせるほどやさしかった。
「カゲロウ?カゲロウ、いる?聞いてね」
翌日の朝早く、準備を整えた紅は中庭に出るとそう呼びかけた。
「私、砂嵐をやめるの。リーダーのキングに言われたら、私ではどうしようもないわ。だから…」
自分でも不思議なほど心が落ち着いている。
初めて何もかも自由になった。そんな気がしていた。
「いまから私は、姫でも何でもなくてただの紅で、トゥエルに向かうわ。ラグを追う。追って、殴り飛ばしてすっきりしてから帰ろうと思うの」
迷子になる呪いの所為で、紅は一人の道を恐れていた。
だからあの時ラグの背を追った。手招かれて、不本意ながら従った。
けれどいまは、何も怖くない。この見知らぬ土地で、紅を知るひとなんて何処にもいない。紅もどっちに何があるのかなんて知らない。
迷うことが当たり前すぎて、恐れることすらばかばかしくなる。
そう、今は違う。
自分の意志であの男を追う。
あなたに手を引かれなくても、あなたの背に追いついてやったぞと。
私こそ、あなたなんか要らないと、
「…殴り飛ばしたところで、すっきりするかは分からないわ。多分ある意味一生、あの男への憎しみは消えないと思う。だから、これは私のプライドの問題」
冬の寂しい庭はやはり応えない。聞いてくれていなくても良かった。
これは紅自身に向ける宣言。
「許せないの、あの男。許さない――――一生かけて、追いつめて苦しめてやりたい」
結局、紅は、あの男に振り回されて、傷付けられて尚、離れられない。
これを運命だとか言うのなら、随分とたちの悪い運命にあるようだと思う。
もう、後戻りは出来ない。
(2005.2.16)
負の力も原動力。