16 独りぼっちのウサギ1





















 ひとを好きになることは、大変なことだと思ってた。
 俺の容量はとても小さい。



 自分以外、誰も受け止められない、から。




 だから誰も好きになることはないんだって。無意識にそう思ってた。





 誰かを好きになればその瞬間、俺はその気持ちに、押しつぶされるんだって。
 それが、怖かったから。


 でも。

















 くれが、ラグへ向けてきっぱりと大嫌い宣言してから、なぜだか黙り込んでしまった。
「……」
「……」
 こうなるとは予想外で、すっきりするはずの紅がやきもきせねばならない。
「な、何よ。たとえあなたが傷ついたって、私は痛くも痒くもないわよ」
 呆然と立ちつくして紅を見下ろしてくるラグへ、ふたたびきっぱり告げてやると。
 とたんラグの目に光が灯ったかと思うと、彼はその場にいきなり膝をついた。
「ごめんなさい」
「はあっ!??」
 我が耳を疑って後ずさる。
 幻聴ではない証拠に、ラグはそのまま頭を下げて繰り返す。
「ごめんなさい、紅。傷付けて泣かせてしまってごめんなさい。俺はとんでもないことをした」
「あっ、あの、な…っ、なによ?何、一体…っ!?」
 とても誠実な声に、謝罪されていると気がついて、紅はもう何が何だか、狼狽えるしかできなくなった。
 しかしここは街の往来。人混みがごった返す広場である。
 注目を集めていることに耐えられなくなる方が先で、紅はラグの腕を掴むと力尽くで立ち上がらせる。
「とにかく場所!場所を変えるわよ!どこか人気のないところに案内して!」
 ここでラグにお願いする形になってしまう辺り、こんな場面でも自身の呪いが恨めしい。














「何なの、一体?」
 ようやく喧噪から遠ざかる場所に落ち着いて、念のため紅はふたたびマントのフードを被った。
 サーヴ以外のウォッツ国内で、紅の容姿はあまりにも目立ちすぎる。
 隣のラグを伺うように見上げると、ラグは悄然とした顔で俯いたままだった。
 ひどく苦渋に満ちた、珍しく感情を露わにした表情だ。
「…実はまだ俺にも何が何だか、分かんないんだけど…すごい、いたたまれない…」
「…それは、つまり何?あなた私にしたことを後悔してるの?」
 眉根を寄せて尋ねると、ラグはゆっくりと首を横に振った。
「俺が選んで、そうした結果だから…後悔は、してないよ」
 言いながらも、暴力として抱いたのは、どういう形であれ男として紅を求めていたからなのかと、今更になって考える。
 でも、今は、そういうことを告げるのは卑怯だし、言うべきではないと思った。
「紅のことを、守りたかった。俺から遠ざけて、危険からどこまでも遠ざけて、本来の居場所に、安全な場所に行って欲しかった」
「……」
 今度は紅が呆然と立ちつくす番だった。
 あまりにも唐突に、ラグが本音の吐露をはじめたからだった。
「でも俺は、紅が側にいるのが嬉しかったから、心地よかったから、我が侭を通したんだ。あんな…するべきじゃなかった。あんな、傷付けるなら…泣かせるなら……ごめん」
 ラグが、ぎゅっと拳を握る音がした。
「ごめんなさい…」
「………そっ…」
 それまで呆然と聞き入っていた紅は、じわじわと熱くなる耳元を意識して、たまらず声を上げる。
「そんなこと、今更言われても…ッ、遅いのよ!私がはいそうですかって許してあげるほど…」
「許してくれるとは思ってない!」
 存外鋭い声が遮った。その意外な響きに紅がふたたび口を閉ざす。
「でも、言い訳をして、居直るのはもっと嫌だ。紅は女の子だもの。どれだけ傷ついたかなんて、傷を付けたかなんて、俺が測れるものじゃないよ。でも、怖がらせた分、煩わせた分、今更だけど、俺も痛い」
 息を呑む。
「すごく、痛い。何万分の一か分からないけど、俺も苦しいと思うだから」
 深く深く、息を吐いて、それでも呼吸が追いつかない。
「謝らせて。死ぬまで謝らせて」
「な…っ」
 反論しようと声を上げたとたん、ついに紅の目から涙がこぼれ落ちた。
「何言ってんのよあんたは!えらっ…偉そうなのも大概にしなさいよ!それ…ッ、それのどこが謝ってるつもりよ!」
「ごめん」
 多分その一言は指摘に対する謝罪だろうが、かえって怒りに油を注ぐだけだった。
「俺は謝り方をよく知らない。心を込めて、特に誰かのために、なんてしたこと、ほとんど無かったから。でも、謝りたい。許してくれなくてもいい。紅に謝りたい。ごめんなさい」
「……!」
 その言葉を聞けば一目瞭然で、その謝罪すらラグの自己満足なのだと分かる。
 紅は本気でどうしてやろうかと思案した。
 もう一度、今度は顔の形が変わるぐらい殴り倒してやるべきか。
「謝られたって…どう責任とってくれんのよ!」
 結局何だか、訳が分からない怒りを吐き出していた。
 今時、たとえフェイでも婚前に経験があっても問題は薄かろうが、これがトラウマになったらどうしてくれるのか。
「俺をあげる」
 それに対するラグの即答には、思わず紅は凍り付く全身を感じた。
「身体も、心も、命も全部あげる。」
「………!!!!」
 人生十五年間で最大の絶句である。



 すぐに張り倒せなかったのは、ラグの瞳が一切の揺らぎもないからだ。
 そう言ったからには、紅が今死ねと命じればこの男はこの場で命を絶つだろう。
「…あなたに、プライドってものはないの…っ!?」
 だからそれとだけ、震える声で返す。もう二度と、この男に対して冗談でも死に関する罵倒を封印すると自分に律して。
「…謝るときに、それって必要かな」
 ラグは困ったように首をかしげてみせる。
 偉そうな謝罪をかますわりに正論を吐く。
 そうしてその男は苦笑すると、いまだ怒りのあまり肩で息する涙目の紅を覗きこんでくる。
「紅さえ良かったら、俺の誕生日が過ぎるまでウォッツにいて欲しいよ。砂嵐にいて欲しい」
「…私はもう計画に必要ないんじゃなかったの?」
 先ほどまでの会話展開で何故こう話が行くのかさっぱり分からないが、紅はとりあえず睨み返すだけに留めた。
「確かにいなくても計画は遂行できるけど、紅がいたらもっと素敵になる。今度はちゃんと本当だよ。紅は俺が絶対に守るし、終わればフェイに、今度こそ送り届ける」
「……つまり最初の話の時はまた事情が違ったわけね」
「うん」
 素直に答えられて、ちょっとばかり溜飲が下がる。
 実際、紅もこのまま引き下がるのは後味が悪すぎた。これだけ関わっておいて。
「…そうね。もう二度と説明を省かないって約束してくれるなら、考えないでもないわ」
「ありがとう」
 かなりつっけんどんな紅の返答に、それでもラグは見たことのない表情で満足げに頷く。
 紅は言葉を失ってしまった。
 もしかして今のが、ラグの本当の笑顔なのだろうか。
「良かった。紅はもう二度と俺の我が侭を許してくれないと思ってたから」
「…我が侭吐きの自覚はあるのね」
 疲れた溜息を吐いて、紅は景色を見渡しカゲロウの気配を探りはじめた。どうやらまだ近くにはいないらしいが。
 そうやってごまかしてはいるが、ラグの顔を見ているのも気まずかった。
 怒りにとらわれて我を失うこともなくなったが、憎しみが消えたわけではない。苦痛が、終わったわけではないが。
 でも、紅にも色々あったのだ。
 このウォッツで過ごした半年足らずの期間が、紅に心境の変化をもたらしていた。
 結局のところ、ラグのことを嫌いだという「嫌い」は、理性を凌駕するほどのものではないのだ。




「紅、あのね」
 呼びかけられて振り返ると、ラグが目を細めて眩しそうに紅を見ている。
「たぶん俺、紅がいなくても生きていけるけど、いないと思ったこの一月、すごく寂しかったし、今はすごく嬉しいんだ」


 あと少しの間で良いから、お願い。俺の側にいて。




 少し泣きそうな表情で呟くラグを、紅は初対面の男を見る気分で見つめ返した。










 この男はずっと独りぼっちだったのかもしれない。



 それが、死ぬほど寂しかったのかも知れないと、何となく思った。
 

 

 

 

 

(2005.3.9)

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