16 独りぼっちのウサギ2
トゥエルでの砂嵐のアジトまでようやく、辿り着くことが出来た紅とカゲロウだが、何よりもメイから熱烈な歓迎を受けて仰け反った。
「姫さん!まあ、お久しぶりです。まさかお一人であの砂漠を抜けていらっしゃったのですか?」
「いいえ、カゲロウが着いていてくれたから…」
「そうなのですか?お怪我はありませんか?どこぞの無頼漢に乱暴は受けていませんか?」
「だ、だいじょうぶ。大丈夫よ、メイ」
「…ああ、良かった…!」
そこでようやく安堵の息を吐いたメイに、両腕で全身を包まれる。
「……」
優しい、やわらかいにおいがして、紅もなにやら胸の奥が詰まる。
この、異国で、紅を知るものが何処にもいない場所で、無事を喜び抱き締めてくれる腕がある。
居場所。
「あの、感動の再会も良いんだけど、玄関先でやられると俺、中入れない」
「あら、いらっしゃったんですか“無頼漢”」
紅の背筋をぞっと這い上るような何かが、駆け抜けた。
メイは紅を守るように抱き締めたまま、後ろに立つラグへ、これ以上ないほど温かな笑みを向けて出迎える。
いっそのこと新妻が「おかえりなさいあなた」で愛の三択を向けそうなほど甘やかな笑みだ。
メイは怒りと笑顔の美しさが比例しているのだろうか、と今更だが思う。
ってゆーか先ほどの会話展開から考えて、メイにも紅とラグの間に何があったのか、ほぼ気付かれているということになる。
(うわっ…何か今更恥ずかしくなってきた…!)
もう何ヶ月かぶりに火を噴く顔面。ふたたびラグと過ごすことになってしまったあと一月と少し。
紅は果たしてこの羞恥に慣れるのか、全く見当が付かなかった。
もちろん二度と、屋外で二人きりになったり隙を見せるへまはしないつもりだ。
(あああああんなことがっ、二度とあってはたまらないわッ)
まあ、その内心で、ラグは二度と紅の嫌がるようなことはしないという確証のない確信が、心のどこかにあるのだが。
そして少しの休憩を挟んで、紅は砂嵐のサブリーダーと顔を合わせた。
「“砂嵐”のサブです。どうも」
「…フェイの、紅です」
ぼそり、素っ気ないといってもいい、サブの自己紹介に、やや戸惑いつつ紅も名乗ると、冴えない外見の青年は小さく頷く。
「紅、とは本名ですか」
「…ええ、そうよ」
「この街ではコードネームでどうぞ。式典の際はまた違う偽名を考えておきますので」
ぼそぼそ。
やや長いサブの忠告に、紅は少し首をかしげ、横で聴いていたラグが慌てて声を上げる。
「ちょっ…、サブなに考えてんの!?それって紅もパーティー参加メンバーに入ってるってこと!?」
「それ以外に聞こえましたか」
案外しれっと眼鏡を光らせて返された。
ほんの一瞬口を開閉させたラグは、紅の無言の視線に気付いて一旦息を吐く。
「…ごめん。説明省かないって約束だったね。一月後の式典に、俺たちは正式な招待客として参加する。招待状もある」
「何か、無茶苦茶じゃない…?」
話の腰を折りたくはなかったがあんまりな作戦に、紅は呟く。ラグは苦笑して応える。
「でも確実だよ。それでね、招待客は必ず男女ペアで出席する決まりでね。まあ警備上の苦肉の策だと思うけど、男所帯の俺たちも女性がいるんだ。もちろん一人はメイで良いんだけど、二組参加できるから、あとは俺が女装でもしようかなって言ってたんだけど…」
「それはかなり効率性を欠くわ」
「容赦ないね紅」
ラグの女装姿をうっかり想像してしまったのか、紅の顔色は悪く、それを見て本人もちょっぴり心理的ダメージを食らっていた。
「そこへあなたが現れた。もちろん頭数に数えても宜しいですよね?」
「だからちょっと…!」
「ええ」
サブの横から入った確認に、ふたたびラグが抗議しようとして、それを紅本人の同意に遮られる。
「えぇーっ!」
「えーじゃないわよ!あなた何の為に私を側に置いているの!?拾って引っぱってきて巻き込んで、尚かつ側に居てって言うくらいなら都合の良いように利用しなさいよ!」
「そんなのヤダー!」
「だだっ子になっても無駄っ!!」
何だか言い合っている本人達にも、訳が分からないやりとりになってきている。
紅はもう覚悟が出来ていて、最後まで付き合って結果を見届けたい心理と意地があるし。
ラグの方はとにかく危険な目には遭わせたくないという一心であるから、ここに来て話が噛み合わないのだ。
「キング」
それまで黙って成り行きを見守っていたメイが、紅茶をひとくち飲んで、ラグを呼ばわった。
紅もラグも、条件反射のように口をつぐむ。
この場の誰もがメイを怒らせてはならないという実情を理解している。
「償う気がおありなら、姫さんのご要望は全て叶えて差し上げたら如何です?それこそ、身体を張って護るぐらい、当然のことですよね?」
「……」
「……」
最近のメイには珍しく、言葉の影にも背後にも攻撃的な印象はない。
けれど何だこの、プレッシャーのようなものは。と。紅はやはり冷や汗を禁じ得ないでいた。
「……サブ」
しばし俯いたいたラグが、決心したように参謀の名を呼ぶ。
「紅が参加して成功する確率は?」
「キングが女装して四人出席するよりも遙かに上昇します」
事実だろうが、にべもない返事だ。
「…危険に、さらされる確率は?」
「四人均一です。どちらかといえばマスターとカゲロウの働きに寄りますね」
「……」
またしばらく黙り込んでしまったラグに、しびれを切らして紅が立ち上がる。
「忘れたの?私はお姫様扱いされるのが嫌いなの!私の身のことなんか考えてないで、確実な方を選びなさいよ」
「……」
ふっと、上げられる視線の、微かに向けられるおだやかな感情を、紅はどう受け止めたらいいか分からずにたじろぐ。
「…うん。分かった。俺の我が侭なんてどうでも良いから、四人で行く」
「分かりました」
サブが静かに頷いたと思ったとたん、手元の帳面になにやらすごい勢いで書き込んでいく。作戦遂行の際の細かな調整を加えているのだろう。
紅は、先ほど受けた動揺の意味がわからずに、立ちつくして席に着けずにいけたのだが。
「そうなるとこれから大変ですね。一月で姫さんを立派なレディにしなければいけません」
「え!?」
メイの放ったにこやかなひとことに、ふたたび違う意味で立ちつくすことになった。
梅が咲き、桃が咲きこぼれていく季節、花を楽しむ余裕もなく紅は多忙を極めることになった。
式典に出席するのは当然王室関係者や貴族階級が多く、その場で出来るだけ目立たず浮かずに行動せねばならないので、相応のものを身につけなければならない。
マナー、言葉遣い、立ち居振る舞い、ダンスの所作諸々といったものだ。
驚くことに、出席するほかメンバー3名はすでにそういったものは極めているらしく(だから選ばれたのだが)サブ以下砂嵐も最終調整に忙しくはあったが、紅は別の意味で駆け回っていた。
「ああ、ようやくたどり着けたよ!久しいねみんな!!」
途中、ハイメが合流してさらにどっと疲れが増したが、彼は紅の、優秀な行儀作法の先生になってくれた。
「末姫はどこか美しさに磨きがかかったように見えるね。これで淑女のたしなみを身につけ、盛装した君の手を引く日が楽しみだよ」
殺伐な計画を前にして、そうやって微笑んでは紅の緊張を和らげてくれた。
ラグ、メイ、紅と来て、どうやらハイメが残り最後の出席メンバーらしい。彼の“役割”はまだ分かっていないが。
彼は何故か、紅一人を相手にするときは独特なテンションを抑えて穏やかに笑いかけてくれるような気がするのだ。ハイメにあのやわらかい灰目で微笑まれると、紅も何となくつられて笑ってしまうから不思議だ。
「末姫の髪や目の色も考慮したドレスを用意するとローザ嬢が意気込んでいたから、楽しみにしておいで」
「…そうね」
ドレスなんて着るのは生まれて初めてだが。
ハイメはその日を楽しみだという。
紅にとって作戦決行のその日に私怨はない。思い入れはきっと浅いだろう。
けれど心待ちにしていた何かは、胸に確かにあるから、楽しみにしていよう、と、前向きに思うのだった。
ただでさえ多忙を極めるのに、紅は自ら進んでエッジに師事を志願した。
「組み手だあ?」
「手間を取らせると言うことは分かっているわ。それでもこの一月を無駄にしたくない。エッジが飽きるまでで良い。助言は要らないから、付き合ってくれないかしら」
「……ったくよぉ…」
頂点で突っ立つ焦げ茶の髪を、彼はいかにも面倒くさげに掻き。
「オレのは何の参考にもならねえぞ。我流も良いトコだ。しかもオレはもっぱら斬り合いを戦いの主流にしてる」
「それで良い。それが良いの。型にはまった動きはある程度分かってる。でもウォッツに来て、我流が全く入ってない人はいないと分かったの」
「……」
紅は自分でエッジを師に選んだ。ラグも、メイも、きっとカゲロウも望めば紅に付き合ってくれただろう。
「面白ぇ…楽しませて貰おうじゃねーか。言っておくが、オレは手加減なんざ器用な真似は出来ねーぞ」
「大丈夫。実戦で手加減してくれる敵もいないと思うわ」
こうして紅の、自分に容赦ない修行も同時進行されたのだが。
ことのほかエッジが(暇つぶしにでも)この日課を気に入ってしまったらしく、面白いように進んだ。
最初は言葉通り手加減無しの返しを受けて吹っ飛ぶ紅など、メイがヒヤヒヤする光景が繰り広げられたが、エッジも次第に成長したらしく、最低限の力で受けている。
一応ではあるが、きちんと“組み手”として成立しているように見えてきた。
そんなある日、雨の夕方だった。
相変わらず訳の分からない書き込みのされた膨大な紙面と向き合っているサブへ、お茶を持って行った。
「…どうも」
カップをテーブルに置いてすぐ、耳を澄まさねば聞き取れない声が謝礼を述べた。
すっかり作業に没頭していると思っていたので、早い反応に驚いた。
「当日は、王城を半壊させて、脱出する手筈です」
「……え」
背中合わせで、初めて知らされた概要。
ラグから、言われたのだろうか。代わりに言って欲しいと。
「不安ですか?」
元を辿ればサブのひとことで、紅は王城行きを決意した。
きっと彼が紅を不安要素と告げれば、紅も我を通して連れて行けとは言わなかったはずだ。
紅は一時迷って、踵を返すとサブの顔が見えるところまで戻る。
サブは真っ向から人の顔を見ることを嫌う(というか苦手)らしく、俯いた顔はそのままだった。
「あなたと、ラグ達の五年間を潰すようなことはしないわ」
その為の、後悔しないための努力を、している。
「知っています」
サブは不意に顔を上げた。
眼鏡越しの瞳は平凡な形でも、とても深い焦げ茶で紅を見る。
あなたを見ていましたから、と。試すように言って。
「あなたを信頼します」
サブは初めて紅へ笑顔を向けた。
そして、憂鬱なダンスの練習時間がやってくる。
「どうしたの、紅」
先生はラグだ。
ダンスを習得するのは良い。その必要性も理解している。
一月では付け焼き刃も良いところだから、基本のステップだけでも覚えて、パートナーのリードに慣れるようにはならなければならない。
だがなぜ、ラグと手を繋いで向き合ってくるくる回らなくてはならないのだろう。
「…機嫌悪い?」
しかもワルツだ。パーティーの基本はワルツだろうけれど、何というかこう…大人でムーディーな雰囲気の漂うダンスだ(チークとかよりマシだろうが)
それはもう、機嫌が悪くなって仏頂面にもならざるを得ないだろう。
連日の稽古の無理がたたって、疲れが表に出ているだけではない。
「気持ちは分かるけど、ホールに出ることになったら知らないひととか脂ぎったオヤジとか妙に汗ばった手とかでも繋がなきゃいけないからね?」
「…今から言わないで」
具体的すぎて嫌だ。
ドレスも初めてだがパーティーダンスも当然始めてである。
踊りといえば隣町のお祭りで踊るようなつたないものくらいしか知らなくて。
「でも紅、筋は良いよ。音楽好き?」
そう何となくごちると、ラグは何故か上機嫌で誉めてくる。
「音楽は好き、だけど、宮廷音楽とかそういうのは知らないわよ…」
「あはは。俺もそんなの良くしらねーよ」
やっぱり楽しそうに笑って、ラグは突然歌い始める。
動物や花の名前がたくさん出て、風や水が擬人化された、どう考えても幼い童謡めいた歌。
所々歌詞が飛んでいたりおぼろげにごまかされたりするのは、記憶力の衰退だろうか。
「……」
紅はしばらくそんなラグを見上げて呆然としていたのだが、やがて踊りまで適当にごまかされているのに気がつく。
「…これは何?」
「いやぁ楽しいなあって思って」
くるっと回されて、戻ってきたところでぱんと手を打ち合わさせる。
ラグはやはりにこにこしていて、どうやらほぼ本物の笑顔らしくて、紅は面食らいながらも引かれる手をされるがままにした。
そういえば、歌はこうやって歌っていた気がする。
踊りは、こうやって踊っていた気がすると、紅も何となく記憶に当てはめてみる。
子供の歌は得てして単純だ。
繰り返しのフレーズを紅も覚えてしまって、いつしか一緒に歌い始める。
今日はダンス教室は二人して放棄することにしたらしい。
こういうのも、たまには良いかと、紅がすっかり諦めかけて、うっかり笑顔など浮かべそうになった間際に。
「俺、紅が好きだよ」
歌を突然やめたラグの爆弾が投下された。
ぴたり、と、二人の足も止まって、手をつなぎ合わせたまま向かい合ったまま、何をしていたのか分からない状態になる。
「紅が好きだよ」
もう一度。
落とされた言葉に紅の思考力は長い間停止していて。
頭の中は真っ白というのが相応しくて。
目の前の男は今何を言ったのだろうと考えていた。
「今まで俺のまわりにいた女の子ってね、自分が護られること前提か、護られなくても良いくらい強いひとしかいなかったから」
ラグが、ゆっくりと話し始める。自分のことを、話そうとしている。
今までの彼には見られなかったこと。
「弱いことに甘えないで、強いひとの所為にしないで、一生懸命頑張ってる紅を見て、なんて不器用なんだろうって最初は思った。でもね、目が離せなくなるまでは早かったよ」
伺うように、やや屈んで紅の顔を覗きこんでくる。
何というのか、慈愛に満ちた顔。そんな表情で愛の告白をしている。
「不器用で、やさしくて、意地っぱりな紅が可愛いよ。大好きだよ」
言い終わって満足したのか、ラグは一層に笑顔を深める。
俺のものにしたいなんて、そんなことは言わないから。
ただ、言いたかったから。
そして、気がつけば両手が繋がれたまま、顔に影が落ちる。
ゆっくりと、確認するように、拒絶を容認するように、降りてきたというのに。
呆然と、頭で認識をしながらも、身体は全く動かずに。
唇を、受け止めていた。
「……」
瞼は、落とさずに、しっかりと見開いたまま、触れた感触が遠ざかるまで、目の前の前髪を見ていた。
「…紅?」
「…っ〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
自身に起きた事態を、そこでようやく冷静に(?)受け止める。
「ななななななにすんのよ!!!この変態!!」
ばきいっっ。
エッジ仕込みによってさらに磨きのかかった拳が綺麗に決まる。
構えなどまるでなかったラグはそれでよろめき、繋がれていた手がようやく離れる。
「…あ、紅!」
止める間もなく、紅の背中は遠ざかる。
ラグは一人、殴られた頬をさすりながら首をかしげる。
「…これで終わり?」
てっきり、ボコボコに殴られると思って覚悟くらいはしていたのだが。
紅は、アジト裏にある倉庫の隅でしゃがみ込んで脳内パニックに陥っていた。
何あれ何あれ不意打ちも良いトコだわ油断するんじゃなかった何で油断したの私。
というか、顔が熱い。こんなに熱いのはおかしい。心臓もばくばく言っている。そんな激しい運動なんて全然していないのに。
病気だ。ぜったい、何かの病気なんだ。そうとしか思えない。
―――――――式典当日まで、あと一週間ほどだった。
(2005.3.24)
どうしてくれよう。