18 嘘だよ2

















 遅い、と思った。


 苛々と、そわそわと、落ち着かない自分の心境が腹立たしかった。


 これも全部、ラグの所為だわ。
 見事な責任転嫁に、自分はその解答に対する方程式を、求めようとしない。





 そして、こちらに向かって駆けてくるラグに気がついた。



 自分の顔を認めたとたん、笑顔になったと思って、少し動揺してしまった。



 どうしよう、どうしよう。
 ここまで来たら、ご褒美のキスを強請るのかしら。
 狼狽して、速まる鼓動に落ち着きが無くなって、ふと、顔を上げると。




 目の前で、背を向けたラグが何かに押されるようにぐらつきを見せる。
 膝をついた彼は、血を吐いて、








 高鳴っていた鼓動が、一瞬、活動をやめた。







 

 

 



















「…う、わああああああぁぁああああぁぁぁぁあああ!!!!!」
 喉から溢れたものは、声というよりも感情の奔流だった。


 全身の、器官という器官が閉ざされてセピアになる。
 全てが濁る。滞る。




 その、全てが褪せてぼやけた世界で、紅は何もかも捨てて駆けだした。
「姫さん!?」
 メイが慌てて駆けつけるが、とても間に合わない。豪速だった。
 傷を負い倒れ込む男の横をすり抜ける。視線は真っ直ぐに、その先。



 綺麗にまとめていた髪留めがはじけ飛ぶ。そう長くはないはずの、赤い髪が踊った。
「……!!」
 突然逆上したように襲いかかってきた少女に面を食らう襲撃者は、ボウガンを構えたまま立ちつくしていた。
 最初は迎え撃とうとしていた。だが。
 激戦をくぐり抜けてきた、ウォッツ国王子ともあろう男が、少女の形相にひるむ。



「…くっ!」
「うわああああああ!!」
 叫びながら襲いかかってきた少女は、向けられたボウガンの矢先に構わず拳で殴り払う。
 細く血が散った。痛みに頓着しない興奮状態のまま、なおも拳を振り上げる。
 ボウガンが男、ナイドの手から弾き飛ぶ。動揺する間もなく次の手。
 この体格差だ。
 一手は軽いが手数が多い。動きも洗練されていて読みづらかった。
「くっ、ぐ、うわあっ」
 振り上げられ、振り下ろされる腕の動きは激しく、力強く、ナイドはあっという間に顔色を失い、後ろに倒れ込む。
 なおも打ち下ろされる拳。
 荒い呼吸と意味を成さない叫び声を上げた、赤い髪を逆立てた獣のような少女にのしかかられて、ナイドも錯乱状態に陥り、両腕で自分の頭を庇うしかなくなる。



「うあっ…うああぁぁ…っ!」
 咆哮めいた声は、いつしか震える嗚咽に変わった。
 しっかりと握られていた拳は、傷ついてぼろぼろで、指が開き。
 殴ると言うより、叩くような仕草になっている。
 それでもまだ、上がる腕を、横から誰かがそっと、押さえた。
「……」
 乾いた瞳で見上げた先には、きつい眼差しを向けるメイの姿がある。
「…あ…っあ、」



 パン!



 短い音が響いて、けして弱くない衝撃が紅の顔を襲った。
 メイの平手に撲たれたと悟って、紅の大きな碧眼が何度も何度もその事実を受け止めて瞬く。そして。
 たがが緩んだかのように、見開いていた碧眼が不意に潤み、顔面が歪んだ。
「…姫さん…」
 先ほどの辛辣さがすっかり消え失せた、優しげな声音で呼んで、メイは紅を抱きかかえるようにして立たせる。
 へたり込んだままの、すっかり腰を抜かしたナイドには目もくれず、紅を伴って倒れた男の元へ誘っていく。
 紅はろくに認識できてはいないだろうが、側には脱出の準備を整えたハイメと、男の側にはカゲロウが控えていた。
「…大丈夫かい、末姫」
 心配そうな声に、紅の表情は全く動かなかった。
 メイが頷くのを見て、ハイメも頷き返す。
 そして側に置いてある箱形の大きな機体に一番に乗り込む。
 紅をむりやり押し込んだメイが続き、ラグを抱きかかえたカゲロウが乗り込んだ。
 内部はかなりの広さだ。
 前列にハイメ、二列目に三人を押し込み、最後に回り込んだメイが扉を開けてハイメの隣の席(助手席)に乗り込んだとたん、機体が大きく震えた。
「時間がないからね!ちょっと荒っぽい運転になるけど勘弁しておくれよ!!」
 誰の返事も待たずに、ブウウン!と聞き覚えのない低い音をうならせて、五人を乗せた機体は発進した。



 ハイメは、砂嵐における“運転手”である。
 数々の船舶車種の運転免許を取得し、どんな難解な乗り物でもあっという間に乗りこなしてしまうという特技を持つ。
 砂嵐はウォッツ全土の情報把握を必要をしていたから、空陸海の移動の際にハイメは欠かせない存在になった。
 今回も、マスターが発掘し再利用開発した“車”が見事作戦に組み込まれ、脱出に必要な足となった。



 崩れゆく城内からの緊急脱出。
 それはもちろん、予定外の怪我人が出てしまった。
 急いでアジトで待つフクロウの所まで連れて行かねばならない、重傷であるのは見て取れた。
「…ラグ」
 カゲロウが、珍しく皆の前に姿をさらしているというのに声を発し、座席に仰向けになるラグの髪に指を触れている。
 出来る限りの処置はした。けれど医者ではない自分には限度があった。
 何しろ傷ついた場所が場所である。出血も半端ではなかった。
 一命を取り留めても、何らかの後遺症が遺るかも知れない。
 護れなかった自分のふがいなさが胸を突いて、握りしめた拳が手のひらを傷付けるのも気がつかぬほど憔悴していた。
 そしてそれは、カゲロウだけではなかった。



 車内で声を発する者はいなかった。
 ただひたすらに、車輪と道路が摩擦する音。機体の奏でる動作音だけが耳に障る。
 紅はずっと、ラグの胸に耳を寄せて伏せって、微動だにしなかった。





 うるさい。


 うるさい。と、紅は煩わしく思った。






 それでさえ、邪魔だ。




 ラグの心臓の音が、聞こえないじゃない。
 しずかに、して。  







「……っふ」


 突然、糸が切れたように。
 紅は息を吐く。




「くれ?」


 カゲロウに名を呼ばれても、彼女は反応しなかった。
 肩を静かに震わせて、くしゃり、と顔を歪ませる。
「ふ、ぅ…っ、う、う、うぁ、うぁあ、うああああ…っうわああああんっっ!!」



 その嗚咽が、鼓膜を振るわすほどの泣き声なのだと、その場にいた全員がすぐに気がついた。
「いや…やだぁ、やだぁ…!ラグ、ラグ…!いや、いかないで…っ!」

 

 あまりにも突然、紅が泣き始めたので、カゲロウは急いでラグの脈を取る。ほっと息を吐く。息はまだ微弱だが確認できた。
 先ほどの激昂といい、前部座席二人にはこの反応がいささか不思議だった。
 紅はラグのことを嫌い、それでなくても苦手だと認識していたからだ。
 だがカゲロウだけは違った。
 仮面の下の瞳を細めて、ラグにしがみついて泣きじゃくる小さな少女を、切ないと、悲しいと思い、そして愛しい存在だと思った。
「くれ」
 手を伸ばすと、縋る存在を求めるように紅が抱きついてくる。
 カゲロウ自身を頼ってのことではない。それが分かっているから、なおさら。
「ラグ…ラグぅ…う、うわああ…っ!やだぁ…嫌ぁ…」
 何度も何度も、事実を拒否して呼ぶ名前に、応えて欲しい人は応えない。
 カゲロウは背中を優しく叩き続けた。子どもをあやすように。自分自身も落ち着けるために。




「…ひとりにしないで…っ」
 小さな、消え入るような呟きが、聞こえたのはきっとカゲロウだけだ。


















 ひとりぼっちで異国に迷い込んだ少女が、頼りに追いかけていたのは、いつだってたった一人の背中だった。 








































 その場にいた全員が、彼の存命を望んでいた。



 利害の一致で集まった集団。
 目的は無事果たされて、彼の立場はもう意味のないものになって、自分の今までもこれからも、関係のない人物というのに。






 もう一度、笑いあえることを心から望んでいた。














 暗闇を彷徨うなか。彼の悪夢はいつも通りだった。
 現実に起こった、過去の出来事なのだ。
 寝ても醒めても、生きている限り終わることのない悪夢。




 そしていつも通り、辱められる母親が、いつしか自分に差し替えられる場面を見たくなくて、顔を背ける。
「しっかりしなさいよ」
 突如響く声に、目を見開く。
 暗闇が、介入した灰色にぐにゃりと歪んだ。
「私はここにいるわ」
 弾かれるように顔を上げると、黒しかない世界に鮮やかな光が射した。
「足を引っぱらないよう頑張るから、あなたも頑張りなさいよ」
 その少女は、正しい記憶とは異なって、髪を下ろして、普段着で、何故かふんぞり返っていて。



 けれど、妙に、懐かしくって、目の前がにじんで、しあわせな気持ちで一杯になる。


 世界で一番綺麗ないろ。



 初恋の、大切で、だいすきな女の子。




 だから、記憶の通りに、自分は情けないぐらい素直に頷く。
「……うん」










 









 光が本物になる。
「………」
 寝起きだ、と認識するよりも、体中が痛くて世界中の理不尽をかき集めて文句を言ってやりたくなった。
「………」
 寝起きが悪いのはいつもだが、これはまた一段と酷かった。
 顔を憮然と顰める。
 現状の把握よりも先に、視線を動かすと、不機嫌な心境が一気にほどけた。
 紅がすぐ側にいた。
 顔が見られたわけではないけれど、ベッドの端にちょこんと載せられた頭は、きれいな赤色だったので。



 ものすごく久しぶりな気がして、怒られるのを承知で(今は眠っているようだが)手を伸ばす。思うように腕が動かせなくて、まどろっこしい。
「紅」
 やっと会えた。



 そう思って、走る激痛に耐えながら必死に、身体を顔を、傾ける。




 妙に真っ白で、色を失った寝顔を見つめて、頬を撫でる。
 起きるのを待てそうになかったので、伏せた瞼に唇を押しつけた。
 だって起きてからじゃあ、はぐらかされそうな気がしたし。
「ただいま…」




 今は何も思い出せないままでも、これだけは言いたかった。 











 

 

 

(2005.6.8)
あっさり復活しちゃってごめんなさい。

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