19 スノードロップ1
18歳になりました。
……って、それ自体、どうなんだろう。
一年前のこの日は、この日がどういう日になるのか、考えたり考えなかったり、色々な意味で特別な日になるはずだったのに。
実際は特別な日には…なったんだけど。
想像してたのとは、ぜんっぜん違って。
なんていうの?拍子抜け?かな。
誕生日は一日中ベッドの上で。寝ていて気がついたときには過ぎ去っていた。
脱出の時俺ナイドに襲いかかられてうっかり撃たれちゃったらしく。
しかも当たり所が悪かったみたいで、油断のしすぎだってローザには呆れられるしフクロウには怒鳴られるしサブなんて失笑だしみんな酷い。
でも紅が可愛かったからいいや。
紅は、一生懸命看病してくれた。
世界で一番嫌いな俺のために、むっと押し黙ったまま、顔を赤くしながら、献身的に。
窓から見える、干した洗濯物に囲まれた紅を目にしたりする度に、可愛いなぁと思って。
優しくしてあげたいなぁと思って。
一旦は解散して事後処理に走っている(俺の代わりに、ごめんね)、砂嵐のみんなに囲まれた療養の日々が、あんまりにも穏やかに、真っ白に過ぎていくものだから。
18歳になってからの一日一日は、一年前想像していたものと全然違って。
俺と俺の過去を、いとも簡単に別離させてくれる日々だった。
ほぼ中枢部は全壊し、立ち入り禁止状態になってる王城の地下の呪法陣も、じき調査団に発見されるだろうとか。
瓦礫に生き埋めになったと思われる国王親子の遺体は未だ発見されていないとか。
砂嵐の起こした内部からの暴動は、ブロッサムはじめ各レジスタンスが協力して隠蔽工作してくれたとか。
いろいろいろいろ。
怪我が治る間、俺は話を聞いているばっかりで。
それでも心は大して騒がなかった。
へんなの。
5年以上も暇を削って文字通り血を吐きながら奔走してきた目標が、悲願が達成されたのに。
腑抜けみたいにぽーっとしてて。
そっか、そっかと、頷くぐらいで。
感慨とか、達成感とかは、薄い。
あ、俺、やろうと思っていたことが無くなってしまった。
言うならば、これから俺は第二の人生を歩む。
ってことになるんだろうけど。
はてさて、どうしたもんだろうね?
そんな風に考える時間だけは無駄に余っている中、それにも飽きてきたなあって頃に、マスターから手紙が来た。
いつか言ったとおり、宴会やろうぜ!
日程は、ラグの完治を待って取られた。
そうすると桜はすっかり散ってしまって、花見どころではなくなったけれど。
「イージスの野郎がおっ死んだ!これだけで十分酒の肴にならぁ!」
いつになく酒が入って上機嫌なエッジが杯を掲げて大笑している。
負けじと空の瓶を作り上げていくのはローザで、各々のペースで呑みながら、みんな穏やかで、笑顔の絶えない宴会だった。
「というか…言い出した張本人のマスターはどうしたんだい?」
「…まさか、また寝坊か」
そう、とうとうマスターは砂嵐のメンバーの一堂に会さずじまいになってしまっていた。
お詫びの気持ちらしい、酒宴を盛り上げる「花見体験機」と札の付いた、無駄に場所を取る箱が隅っこに押しやられ使われずじまいだ。
紅はついに、マスターとだけは顔が合わせないまま帰国となってしまう。
「残念よねぇ。紅も明日にはフェイに帰っちゃうし」
ローザは元通り紅を本名で呼んでくれるようになっていた。両腕を巻き付けるように抱き寄せられて、苦笑するしかない。
「そうですね…あっという間の半年間でした」
甘いカクテルのグラスを両手で支えたメイが、感慨深そうに呟いた。
「色々ありましたし、紅さんには大変だったかも知れませんが、お会いできて嬉しかったです。どうかよろしければ、覚えておいてくださいませね」
どうやら砂嵐のメンバーは全員平均以上に酒に強いらしく、メイは顔色一つ変えていなかった。
だからかえって、素面で向けられる感傷の言葉に頬が熱くなるのを感じる。
忘れるなんて。確かに大変だったかも知れないが、そんなこと。
「それで、明日はキングが責任を持って、約束通り紅嬢をフェイまで送り届けるのだろう?ボク達は今日でお別れということだ…見送りが出来なくて済まないね」
「え、そんな。気にしないで。こうやって楽しく出来て、嬉しいわ」
おかしい。舌がもつれるように、言葉が上手く出てこなかった。
そもそもこんな場面は苦手なのだ。
でも、きっと本当にここでしか言えない。ここが終われば、本当に、みんなとはお別れ。
きっと、二度と会うことはない。
「私も、大変だったのは確かだけど…楽しかった。みんなと出逢えて、良かった」
半年間、一緒にいてくれて、有り難う。
最後の言葉を飲み込んだ。
飲み込んだはいいが、それでも集まる視線の、その温かさに次第にいたたまれなくなって、顔に集まる熱が半端じゃなくなる。
「え…えっと!!飲み物作ってくるわね!!!」
勢いよく立ち上がり、駆け足でキッチンに向かうと、背後で波のような笑い声がさざめいた。
自然と、ほっとした。
彼らには笑っていて欲しかった。
別れを惜しんで顔を曇らせてしまうようなら、厄介事が片付くと、安堵して笑ってくれた方がずっと良い。
さすがにそれは卑屈に過ぎ、考えが過ぎるとは思うのだが。
だって自分の方が耐えられなくなってしまう。
みんなと離れることを思うと寂しくて泣いてしまう。
自分は、こんな、甘ったれではなかったはずなのに。
お姫様扱いが嫌、と、突っぱねていた頃の自分が懐かしい。
(みんな私を…甘やかし過ぎなのよ)
愚痴のような呟きを舌の上に乗せて、本当に飲み物追加のためにキッチンに立つ。
何が足りなかったろうか。
赤ワインはまだあったはずだ。
戸棚に手を伸ばしたところで、
「紅?」
後ろから不意にかかった声に、過剰に驚いて肩が跳ね上がる。
振り向くまでもなく相手の名前を呼んで、慌てた口が開く。
「っっ、ラ、ラグ!?なに?何かが足りなかったかしら。私が用意するから、あなたはみんなと待っていて―――――」
「ちょっと二人にならない?」
聞かれてもいないことを言っていたら、先手のように遮られた。
平然としているラグからは、以前のような曰くありげな雰囲気は感じなくなっていた。
そして思った通り、紅が嫌がるようなら近寄ったりすることすら控えてくれた。
そんな風に、ラグが紅を気遣うようになって、逆に紅の方が、気がつけば落ち着きを失ってしまっている。近頃は特にそうだ。
はっきりとは分からないが、徐々に、感覚に浸食されていくようだった。
「ふた、りで?」
「紅と二人になりたいんだ」
今も、わけもなく顔が熱くなるのを感じる。否、体中が熱い気がする。
婉曲しない、ストレートなラグの物言いには逆に安心してしまったのか、紅は気がつけばこくりと頷いていた。
ラグが嬉しそうに微笑む。
それを見て、紅も何だか嬉しくなった。
錯覚だ。慌てて頭を振り払う。
酔い冷ましにと、二人はこっそり、みんなには内緒でサーヴの町に繰り出した。
言付けた方が良いとも思ったが、変に勘ぐられるのが嫌だった。そう心配はかけはしないだろう。
春の夜風は温かで、少し強かった。
眠らないサーヴはまだまだ店の明かりが費えず喧噪も多い。いつどんなときも、ウォッツにいる間、静かで寂しいと思うことがなかった。
先を歩き出すラグについて行くと、自然と手を繋いでいた。紅は抵抗しなかった。
今日が、サーヴで、ウォッツで過ごす最後の夜だ。
紅は、自分がしなければならないことを悟っていた。
何処に行くのとは聞かない。多分、紅は知っていた。
ラグがどう言うつもりなのかは知らないが、言い出すのは早い方が良いと思って、出来るだけ無感情に努めて前を行く背中に声を投げた。
「ラグ、抱いて」
足が止まる。当然か。
振り向いた顔は信じられないような、動揺と狼狽と疑惑の眼差しだ。
平然と努めるつもりだったのに、はやくも顔中が、耳まで赤くなっているのが自分でも良く分かった。
「…どうしたの?」
ラグはただそれとだけ訊いてきた。
どうしたもなにも。あなたが私を好きと言うから。
言いかけて、首を小さく振った。
「ずっと、考えていたの。私はあなたに何が出来るか」
その、言い出しの部分で何を言いたいのか悟ったのか、ラグが憮然とした面持ちになる。
「結局私は、どれだけあなたの役に立ったのかは分からないけど、約束通り半年間護って貰ったわ」
「抱きたくて紅を好きになったんじゃない」
ラグは怒ったようだった。当然かも知れないと思うし、紅は自分がラグを怒らせても構わないとも思った。
「最後まで聴いて?でもその過程で、あなたは嘘をついたわ。大きな嘘。これで私はあなたを絶対に許すことはない」
護るために紅を犯したこと。
その裏にある真意を紅は当然知らないし、ラグは言うつもりもないが。
心も体も傷ついた。
今も尚、それはまだ遺っているだろう。
「…だから」
もう一度言うのはさすがにはばかられて、目を伏せ、染まったままの頬を意識する。
「あなたの為じゃない。私のためよ。これからのために、ちゃんと、教えて」
ラグはようやく、自分の思い違いに気付いたのか瞳を何度も瞬かせて。ついでにちゃっかり照れる紅にたまらない愛しさを覚えていたりして。
「教えてって…えっとつまり、セッ」
「言わなくて良いからっ!!このウォッツで!あの出来事だけが私の酷いトラウマなのよっっ!!」
遮るような喚く言葉に、ラグは赤くなるどころか神妙な顔つきで紅を見つめた。
「…俺に?」
「あなた以外誰がいるの」
「…なんで、俺?」
あんな、痛くて悲しい思いをした相手に、もう一度抱けと言う。
その紅の心境が分からない。
「あなた、贖罪という言葉を知らないの?」
半眼に見上げられて、もう一度、目を瞬く。
もちろん知っている。罪をあがなうこと。
「ラグに犯されたことが私のトラウマよ。だからそれを払拭するのもあなた以外にあり得ないでしょう」
伏せられた睫は、色濃い羞恥を残しながら、確かな決意と、覚悟が見て取れた。
だからラグは、かえって辛辣な気持ちで首を振る。
「だめだよ…俺はだめだ」
紅は真面目で優しい子だ。だから、本当はあんな事は一度だってあってはいけなかった。
「紅は、ちゃんと好きになった男に抱かれないとだめだ」
それをラグ自身が口にするのは、酷く自虐的な行為になった。
しかしその悲痛な呟きを、紅は気分を害したとでも言うようにはね除ける。
「どうしてラグに私のことを決められないといけないの」
首を掴まれる。
細い両手に引っぱられて、逆らう間もなくラグの上半身は前のめりになった。
「私はウォッツを受け入れたいの。初めてなんて大したこと無かったって、忘れられるよう責任取りなさいっ」
加えられる力のまま引き寄せられて、柔らかな唇が押しつけられる。
目を閉じるのが早すぎたのか、感触は上唇にわずかに触れたに過ぎなかったが。
ああそうか。ご褒美をくれるんだなと、何となく得心した。
紅はウォッツのことを好きになってくれた。
だからきっと、逃げるではなく帰りたいのだ。
逃げ去る理由を、ウォッツの汚点を、残して去りたくないのだ。
思い出を、思い出にするために。
観念すれば行動は早いもので、ラグは紅をそっと抱きしめる。
「女の子に、恥かかせてごめんね」
「ホントだわ」
ちょっとおどけて言うと、むすっとした、紅の赤い顔が目の前にあった。
紅はただでさえ、不慣れな言動と緊張で所在ないことこの上なかった。
後はもうラグに責任を取って貰うしかない。
こんな、誘うような真似までして、帰って親に顔抜けが出来ない?
不思議と、そうは思わなかった。
自分のことが好きだと言ってくれたラグを利用するのは気が引けるのだが、これは本当に、紅の最後の意地悪だと思って、ラグが分かってくれたらいい。
いや、分かってくれると信じている。
一度目を、無かったことにしたいのではない。
あれは間違いだった。これが正しいんだよと、そういう形でラグに教えて欲しかったのだ。
それも紅の、我が侭なのだろうか?
頬に手を添えられて、考えている場合ではないと、現実に引き戻される。
ゆっくり過ぎず、急すぎず、ラグにキスされる。
唇のキスは、先ほどのを入れるとこれで三度目だ。
そうぼんやり思う間もなく、優しい、押しつけがましくなく強引でもないキスが何度も降ってくる。
四度目、五度目…強弱を付けて触れてくる唇の感触は心地よくて、紅は初めてそれを知った。
十度目くらいまで律儀に回数を数えていたのだが、それからほどなくして思考の自由を奪われた。
笑顔で、お別れするために。
(2005.6.10)