08 意地っ張り
寒さの厳しくなってきた冬の、夕食の準備中、牛乳が切れていることに気がついた。
最近メンバーの中でははちみつホットミルクが大ブームで、これは文句のひとつじゃ済まないだろうと事態を重く見た紅が、財布だけを持ってコートを羽織って駆けだした。
「気を付けてくださいね、姫さん!」
扉の閉まる間際にかけられたメイの声が本当に気遣わしげで、紅は手のひらを振って行ってきますと言う。
まるで本当に家族になったみたいだと思う。ニセモノの家族だけど。
いや、ニセモノだけど家族だって、思っても良いんだろうか。ハイメみたいに。
ひとつの集団( に連帯感や愛着を覚えてもそれは自然だと思う。
でも、やっぱり紅はゲスト扱いで、その中には入れないのだろうなと思うけど。
そうすると大の大人が揃って飲むホットミルクのために、牛乳を急いで買いに行く自分が何だかなあと思えるが。
まあ、それも、春のその日までは許された猶予なのだと。
約束を果たしてフェイに戻ったとき、良い思い出だったと懐かしむことが出来ると思うから。
「…っ」
「ッと、アブねえな。気を付けろよ」
曲がり角、出会い頭にぶつかりそうになったが、お互いの反応が良かったため大事に至らずに済んだ。
仰ぐような巨漢の男に見下ろされ、紅は余計な逆鱗に触れない程度に素っ気なく頭を下げた。
「すみません」
「まあ良いけど…っておわあ!?お前髪すげえ!!」
「へっっ!?」
頭上から素っ頓狂な声をかけられ、紅はそっと顔を上げる。
ラグよりも軽く頭ひとつ分は高い、しかも革のジャケットの上からも分かる筋骨逞しい男だった。
顔立ちはいかつく黒にほど近い焦げ茶の髪が天に向かって突っ立っている。
右頬にはひっかいたような傷跡。
「見かけ倒し」という言葉もあるが、身ごなしといい圧倒するような威圧感といい、外見を裏切らない実力の持ち主だと見た。
しかしその鋭い眼差しが、紅の髪を見て驚きに見開かれている。
「赤ッ、赤いなー、マジで!何これお前、染めてんの?」
もしかして、違う街から来たのだろうか。見ない顔だとは思ったが。
すでにサーヴに来て数ヶ月が過ぎる紅の容姿を、噂だけでも知らぬものはこの街にはいないだろう。
「えーっと、地毛ですが」
「うわっ、ありえねえー!」
とりあえず困惑しながら答えると、思いっきり眉を潜めた上で笑われた。
こんなあけすけな反応も初めてだ。
綺麗と誉めてくれたり珍動物を見るような目で見られたりはあったが。
「イカしてんなあ、お前。ってことでお前に聞くぞ?」
「はい?」
「この街に少し前から“ヘヴンズ”ってレジスタンスメンバーツラ見せてねえ?いかにも凶悪そうでアレな奴らばっかりでよ、すぐわかっと思うんだけど」
「“ヘヴンズ”…?」
サーヴは大きな街だけあって、“砂嵐”以外のグループも大小様々いるらしいのだが、それは初めて聞く名前だった。
「何だしらねーのかよ。そいつらは女子供老人は特にいたぶって可愛がんのが趣味みてーなのの集まりだからよ、お前みたいな中途半端に女でガキは気ーつけろよ」
「…っ」
褐色マッチョは忠告すると、紅の頭を掴んで撫でると言うより上下に揺さぶって、そのまますれ違っていった。
「な、なんなの…」
いまだ揺れている脳みそにくらくらしながら、ふたたび店に向かって歩き出す。
ふと、大通りに出る一歩手前で、紅は何故かそれを知覚できた。
「……!」
がすんと、かたい音を立てて、紅の足元の石畳に突き刺さった。
一見、剃刀。
「ひゅー。いいじゃんいいじゃーん。嬲りがいありそうでー」
冬の寒気さえからかうような、軽い声が響く。
振り仰ぐと、いつの間にか、塀や街路樹の根本に、三人の人影。
「……」
一目で、ブロウなどとは比べものにならない強さを計る。
緊迫感が押し寄せて、紅の背筋を冷たい汗が伝った。
いけない。あまりにも不利、だ。
「…あなたたち、“ヘヴンズ”?」
思い当たった名前を出してみる。彼らから感じるそれはあまりにも、先ほど耳にした特徴に近かった。
「おや、ご存じでしたか。これは光栄ですねえ」
三人の内、樹の側に立っていた者から声が上がった。
その途端怖気が一気に跳ね上がる。
今感じている圧迫感のほとんどは彼からなのだと悟る。
「赤い髪。蒼い瞳の少女。間違いないようです。あなたは“砂嵐”のお嬢さんですね?」
尋ねながらすたすたと、丁寧な口調の男が紅の側まで距離を詰めてくる。
逃げたい。後退したいのに、身体は言うことを聞かずに硬直したままだった。
「僕達“ヘヴンズ”のリーダーが是非あなたにお会いしたと言っています。来ていただけますね?」
「……っ」
唯一自由の利く思考で、精一杯紅は目の前の男を睨み付ける。
誰が。と、突っぱねてやるつもりだったが、その声はいきなり後ろから腕をねじ上げられてうめき声に変わる。
「…くぅっ!」
「なあ?来てくれるよなわざわざこうして出迎えてやったんだからなー」
あっさりと背後を取られたと言うことは、もう前後左右と囲まれている。右方は壁だ。
「へぇ、その程度の声しか上げないんだ。感心した。美味しいね、この子。長く遊べそう」
最初のからかう声がそう言うが、ちっともありがたくはない。遊んで貰うつもりもない。
「手加減してください。ここで僕達が痛めすぎたらリーダーに怒られますよ?」
「わーってるーよ」
目の前の慇懃無礼男は、子供の悪戯をたしなめる調子で後ろの男へ言うし。
「……」
紅の思考は、いたって冷静だった。だから、ここは大人しくしていた方が痛い目に遭わずに済むと考えるまでもなくわかっているのだ。
だが。
「何だ、もう抵抗しねーのか、じゃあとっとと…ぐ!」
背後の男へギリギリ最低限の動きで回し蹴りをたたき込むと、すいと脱出に成功する。
「おや、まあ」
「そうそう、こう来なきゃねえ」
ひゅっと目で追えない俊足で、軽い口調の男が紅に拳を振り上げる。
避けられない。腕を交差させ耐えようと構えたが、衝撃は来ずに。
っがん!
「っへえ!?」
「カゲロウ…っ!」
目の前に細身の背中があった。
突如降って湧いた彼が紅を庇って拳を受け止めたのだ。
紅はほとんど反射的にその名を呼んでいたが、どうやら間違いはないようだった。
「“砂嵐”のエリート君じゃあないですか」
途端丁寧口調の男の纏う空気が急変する。
「その男は殺しましょう。首を持ち帰れば大手柄です」
「!!」
紅の心臓がぎゅうっときしんで悲鳴を上げた。
恐怖、をも、凌駕する畏怖。
「……っっ」
慢心を捨てた男は腰から長刀を引き抜くと、冴え冴えと笑った。
切っ先が向かうのは、宣言したカゲロウではなく、紅だ。
「―――――――!」
そのまま、深々と刃に貫かれる、逃れようもない確信を、ふたたび衝撃が覆す。
どん、と突き飛ばす勢いでカゲロウが紅を押し出す。
次に、噎せ返る臭気。
「…カゲロウ!」
紅は何とか悲鳴を呑み込むので精一杯だった。
追撃の刃の餌食になることも構わずに、腹を貫かれた黒服の元へ駆け寄る。
「……ぶじ…?」
膝をついたカゲロウは、伸ばされた紅の手を支えて、そう訊いてきた。
はじめて耳にした声は悲しいほどやさしくて、初めて見たカゲロウの顔に一瞬息を呑む。
彼のそれは獣を模した仮面だったから。
「どうして、あなたが代わりに刺されてるのよ!じゃなくって…さっさと逃げてよ!あなた殺されちゃうのよ!!」
そうじゃなくて、言いたいのはそういう事じゃなくて。
「…興ざめですね。情け知らずのシノビの末裔が女を庇って傷を負うとは」
冷え切った声が頭上からして、血糊で濡れたままの刃を振り上げる。
「時間が惜しいので嬲らずに殺してあげます。お嬢さんを汚したくなければ離れることです」
素直に紅の肩を押して放そうとするカゲロウの腕を握って、紅はさせるものかと抱きついた。
思えば自ら他人に抱きつくのは、本当に久しぶりのことだった。
命を、助けるために。
「やめなさいよバカ!!カゲロウを殺したら私も死ぬわ!」
ぴたり、と男の腕が止まる。
我が意を得たりとばかりに紅は声を上げた。流れ出すカゲロウの体温を服越しに感じて、自らも鼓動を早めながら。
「それはあなた達も困るはずよ。あなた達は、リーダーに私を引き渡すまで私を殺せない。そうでしょう」
「けっ、いっちょ前に交渉突きつけてきやがるこのバカ女」
「…良いでしょう。この場でこれ以上その男に傷は付けません。ただしあなたとその男がそれ以上の抵抗をするなら保証は出来ませんよ?」
意外と物分かりが良くて安堵して、紅はカゲロウに視線を戻す。
「お願い、カゲロウ。すぐに戻って傷の手当てをして」
そして、首の後ろに手を回して、耳元で呟いた。
「怪我をさせてごめんなさい。守ってくれてありがとう…大丈夫だから」
そして、死なないでと。
体を離す瞬間。
カゲロウが紅の指を辿って、指先をきゅっと握った。弱い力で。
まだ言うことはないのかと。聞かれているようだったが。
「大丈夫だから」
紅はただそう、繰り返し言うだけだった。
そして紅が連れて行かれたのは、サーヴであるが、まるで行ったことのない外れの廃屋だった。
広い。
もとは何かの工場か何かだったのか、がらんと、広大で殺風景な部屋が、いきなり扉を抜けると広がっていた。
そして、中には30人前後の景気もガラも悪そうな男達。
しかも全員もれなくブロウより遙かに質の悪さが桁違いだ。
その中でもひときわお近づきになりたくないオーラを放った、一番偉そうな凶悪な顔立ちの男が立ち上がった。
「連れてきたか」
年齢は20代半ばと若く見えたが、どこをどう見ても異常な性癖の持ち主であると伺えて、ある意味分かり易くてうちのメンバーより良心的だ。
なんて、感想を抱く辺り随分と肝が据わってきたというか染まった証拠だろうか。それはそれで良いような気がした。
「いい目をしている」
この男がリーダーなのだろう。前に突き出されて、上から下まで値踏みされて、それでも紅は力いっぱい睨み返してやった。
「来い、手始めに可愛がってやるか」
いきなりんな事をほざいて腕をぐいと引っぱられたので、ほとんど何も考えずに空いている方の手で“ヘヴンズ”リーダーの横っ面を引っぱたいた。
紅は、ヘヴンズだろうが砂嵐だろうがリーダーであろうが差別はしない主義である。
「っへえ!」
下手すれば今すぐ殺されるかと思ったのだが、リーダーはにやりと趣味の悪い笑みを浮かべてさらに腕を伸ばしてくる。
「…っっく」
髪をきつく掴まれて、そのままリーダーが座っていたソファの上に投げ出される。
体勢を立て直そうと体を起こしたときには、大きな体にのしかかられていた。
「…あなたは誰?」
紅はほぼ無意識にそう尋ねていた。他意はなかった。
ただ、この状態を無言のまま過ごすのが耐えられなくなったのかも知れない。
「オレか?オレはなあ、“ヘヴンズ”のアタマでダインって名よ」
「ダイン…?」
全く耳に覚えがない。そもそも“ヘヴンズ”自体今日はじめてその存在を知ったのだが。
「私に、何の用なのっ…」
「べーつに?あんたに用ってワケじゃねえが。オレは砂嵐のキングって奴が大嫌いでね」
「……」
奇遇だ。私もよと心中で返してしまうのが何となくむなしい。
「昔から何度も何度も邪魔してきては目の前をちょろちょろしやがってうぜえったらねえ。いつか絶対泣かせてひざまずかせてやるって思ってんだがうまく行かなくてなあ?」
「っ」
唐突に頬をはたかれる。大した衝撃ではないが、それでもじんと痛みがやってくる。
「どうやりゃあ、あのクソガキをぐちゃぐちゃに泣かせてオレの前に跪かせて、内臓生きたまま掻き出しながら殺せるのかってなぁ」
「……」
否が応にも伝わる憎悪に思わず眉を潜める。
ラグはそれほどこの男の恨みを買うことをしたのか。
「納得いかねえようだから教えてやるよ」
片手に髪を引かれたまま、もう片手に顎を掴まれる。頬に食い込んだ爪が、肌を傷付けるのを感じて、必死に表情に出さないようこらえた。
今すぐにでも腕を振り解いて暴れたかったのだが、この男が話をする気のある間は紅も耳を傾ける気でいた。
この程度の痛みなら、耐えられた。
「あの男はなあ、この国の王子様なんだよ」
ダインの臭い息が顔にかかる。お世辞にも端正とは言えない顔を凝視したまま、紅は一瞬身体の強張りを完全に解いた。
その呆けた顔がおかしかったのか、ダインは笑いながらもう一度今度は反対の頬を張る。
「おら、ぼーっとしてんじゃねえよ。オ、ウ、ジ、サ、マ、よ。分かったか?国王イージスの忌々しいバカ息子様だよ」
「…そっ…」
そんなバカな話があるものか。
それではラグは、砂嵐は、自らのリーダーの王位継承権に関わる式典をめちゃくちゃにしようとしているのか。
ラグが王子だとかいう話はこの際どうでも良かった。
本人がいない以上確かめようがないし、紅の関心を長く引きつけておけるほどの話ではない。
「あんたまさかラグが王子だから憎んでるとかそういうんじゃないでしょうねっ!?」
「ああ?他に何があんだよばあか。」
「……っっ!!」
今度こそ拳が紅の側頭部を撲った。拘束されているのでろくに避けられず、傾ぐ身体を掴まれてふたたび起こされる。
「あいつら王族ってのはなあ、その地位にいるだけで毎日うまいモン食って酒浴びて一日中遊んでいい女抱き放題なんだよ。前の国王ぶち殺して玉座に就いたイージスはまだいい。だがあのクソガキは何もしてねえ。年中フラフラアタマのイカレたバカじゃねえか。ああいうの見てると世の中教えてやりてえんだよ」
「……」
紅は、ぐつぐつと頭が煮える音を聞いたような気がした。
下らない。下らなさすぎて、呆れてものが言えない。
「ばっかみたい。そんなのただのやっかみじゃないの。いい年して頭イカレてんのはあんただわ」
だから、言ってやった。
今自分が置かれている状況を忘れたわけではなかったが。
言わずにはいられなかった。
「…あのクソガキは口の利き方も教えねーのか。」
今度こそ全身を押さえつけられて、上からのしかかられる。
紅は一切ひるまなかった。視線で人が殺せるなら十分その威力の籠められた目で睨み付けてやる。
「お前もバカなガキだ。ただアイツに気に入られて毎晩大人しく従ってりゃじき王妃になれたかも知れねえのにな?どうやらお前は随分と大事にされてるらしい」
「何か誤解があるようだけど…私はラグの女じゃないわ。間違えないで」
どんな状況でもその一点は律儀に否定しておかないと気が済まない。
ダインは口元を歪め、紅の襟元を掴む。
「まあ、いい。アイツの手元から何かを奪えば、とりあえずは怒りはするだろう」
どうかしら、怪しいものだわと紅は半眼になって、口を開く。
「触らないで」
「気にすんな。今からするのはセックスじゃねえ。ただの一方的な暴力だ。わざわざ快感なんてやらねーから気にせず泣き叫べ」
紅は次の瞬間、反射的に目を閉じた。
耳の奥に、高い音。
布地を引き裂く音と同時に、肌に感じる冷たい空気。
「っさわらないで!」
もっと、言うことがあるのだろうと。
頭の奥で誰かが囁く声がした。
ここで、物語の可愛らしいお姫様なら、いとしい人の顔を思い浮かべて言うはずだ。
助けて、王子様。と。
そうして、その声に応えて、あまりにも都合の良いタイミングで彼女の王子が駆けつけるのだ。
助けて。と、ひとこと。
願うことも紅の念頭にはなかった。
頭の中の、どこか素直な紅に、
(意地っぱり)
と言われた、気がしても。
紅は助けを求めず、何度も殴られながらも抵抗していた。
助けを求めてはいないのに、頭も、心も、誰も求めはしないのに。
素肌を暴かれて、思い浮かべるのは何故かあのペテン師なのだ。
(2005.2.7)
心の曲げ方を知らない子です。