09 アンチヒーロー2
それは、もう何度目かに頬を強く殴られたときで、一瞬、耳鳴りか何かだとしか思えなかった。
紅は生まれてから今までにこんなに強く、またこんな風に殴られた経験はなく、意識が飛びかけて朦朧とする頭を持ち直そうと必死で。
歯が折れたかも知れないと危惧したが、舌で探ると無事だった。
「ほお、まだ目が開くか!」
鉄の味が広がる口の中は分かるのに、すぐ側で嘲るダインの声も何だか遠い。
それでも、残る力を振り絞って視線を上げる。
首を押さえつけている、太い腕を握りしめる。
「いいねぇ、俺はお前みたいな女が大好きなんだ。お前みたいな強情な女を泣かせてなかせんのは最高の気分だ」
「……」
どうやらウォッツでは男難の相に付きまとられる運命らしい。
私こそ、嫌いな男の前で涙を見せるのは大嫌いなの。
「…なんだ?」
今度こそ、ダインも異変に気づいたらしい。
紅にも、次第にその音がはっきりと届いてくる。
騒がしさを増していく、“ヘヴンズ”のメンバーが固まる方向へ目をやって。
次の瞬間、人垣が吹っ飛んだ。
「……!」
誇張ではなく、人間が宙を舞って地に次々と叩き伏せられていく。
「リーダー。“砂嵐”が到着です」
「何だ、早えな」
つまらなそうにダインが言って、紅を締め上げたまま立ち上がる。
「何人だ、この様子だと5人はいるか?」
「いえ…どうやらたったの二人で」
「はあ?」
眉を潜めるダインの顔は、ラグに見せてやりたいほど滑稽だった。
苦しい姿勢のまま紅は首を巡らせて、そして見る。
未だ遠い、殺到するヘヴンズのメンバーの先に、あの男がいる。
ラグの鞭は正確に、ひとつの動作で二、三人を叩き伏せ打ち払っていった。
「はいはい通せよ、邪魔するやつぁ、みみず腫れか素敵な刀傷か選びやがれ!」
ラグとは別方向から躍り出たエッジが、背に両手を回して獲物をすらりと引き抜く。
両手にはそれぞれ、反りの入った銀に輝く長刀がある。
「おらァ!たった二人たあ“ヘヴンズ”舐めてんじゃねーぞエッジ!!」
怒号と共に突っ込んでくる一人を、刀の柄で頭を殴りつけて昏倒させる。
「バカかてめーは。お前らごときに二人以上なんてもったいなさ過ぎて給料足りなくなるだろーが」
そんな心配は彼がするものでもないのだが、エッジは一斉に群がってくる殺気だった男達を見渡して、獰猛な笑みを顔中に広げた。
「お前らこそ入院代払えなくなってもしらねーからな」
呟いて、大きく振りかぶられた一太刀を地面に深く沈み込んで交わす。
「おらよッ」
その体勢のまま、腕を左右に振り払う。
「ぎゃっ」
「ぐああ!」
「どあっ!?」
膝以下足の腱を切られてたまらず地面をのたうち回る。
「ッの野郎、舐めた真似しくさって――――ごふ…っ」
すぐに第二派が殺到するが、その先頭の男が頭から血をしぶいて倒れる。
眉間には、小刀。
「おらおらおらどんどん来いやぁッ!」
指の間に挟んだ小刀を手当たり次第に、辺りの男の腕や足や頭部や胸部に刺していく。
当たりどころはまばらだが、数が数なためか一発として外れない。
「おらぁ!」
「おおっと良く俺様の懐まで」
背後から振りかぶられた鉄棒を避けもせず、がら空きの腹に靴底をたたき込む。
「っぎゃああ!」
ふたたび、蹴られた腹から血がしぶく。
高く上げた靴底にも、鈍く光る刃が仕込んであるのだ。
返す刃で“ヘヴンズ”の武器をはじき飛ばしなぎ払い、その連なりを殺さずダンゴ状態の男達を切り刻んでいく。
興奮から震える身体。返り血に頬を染めながら、エッジは絶叫し哄笑を上げる。
「ぎゃはははははははあはァ!!踊れ踊れ!!!」
「……」
遠目なのでよく分からないが、何かものすごい男がハッスルしているような気がする。
間違いがなければ、彼が7人目の砂嵐メンバーと言うことになるが…
何か色々と複雑な心境で紅は知れず溜息をついた。
「キングが来やがる。おい」
「はい」
ダインに呼ばれ、あの丁寧口調の男が進み出た。投げ出された紅を、代わりに後ろ手を押さえて捉える。
「こっちにキングが来たら、見える位置でその女を殺れ」
「はい」
「……!」
ラグの感情を触発しようと言うつもりらしい。
紅が人質にもならない当たりがウォッツに住む彼ら流らしいが、そう大人しく殺されてやるわけにも行かない。
「大人しくしていた方が身のためですよ。とりあえず一撃で殺して差し上げますから」
後ろの男は紅の性格を知っている。おそらく今は、何か行動を起こさないよう紅に意識を集中させているはず。
だから、ラグが現れて、一瞬でもそちらに気が向いた時がチャンスだ。
息を詰めて、こちらからでも確認出来る黒い残像を見つめる。
次第に近づいてくる。
「ぎゃああ!!」
最後の壁が吹き飛ばされて、ラグの姿が現れる。
一瞬、目があった気がした。
―――――――今だ!
その瞬間、紅と、ダインと、後ろの男は同時に動いていた。
「…ぐ、はっ!??」
「!!??」
しかし予想外の展開は紅の背後から起こった。
紅へ向けて突き出した刃も半ばに、男は背後から心臓を一突きにされていた。
途端解放されて傾く紅の身体を、しっかりと支えてくれる腕。
「カッ、カゲロウ!?」
黒服仮面男はその表情は見えないのだが、紅へ笑いかけたような気がした。
そっと、髪を撫でて、傷ついた顔を労るように頬も撫でて。
「あなた、怪我してたじゃない!どうしてこんな所にいるのっ」
喋ると顔中が痛かったが、紅はカゲロウに飛びついた。
かなり場違いな、紅の、怒ったような言葉に、カゲロウは首を傾げて、こつんと頭を寄せてくる。
額を重ねて、紅にしか聞こえない声で、呟く。
しんぱいだったから
きょとんと紅が目を見張ると、カゲロウはもう一度首を傾げて、ひゅっとその場から消えてしまった。
辺りを見渡しても、いない。
“シノビ”は本当に風のように移動が出来るらしい。
「よぉ、大したことねえなあ。砂嵐のキングさんよ!」
嘲笑の声にはっと振り返ると、ラグとダインが対峙していた。
今まで誰にも捉えることの不可能だったラグの鞭の先を、ダインの獲物――長刀だろうか――が絡め取っていた。
びんと、張りつめた二人の間の緊張感と、ラグの獲物。
「……」
今までも表情が豊かだったわけではないが、ラグの顔からは一切の感情が消え失せていた。
ただ真っ直ぐに、ダインの顔を見返す眼光が鋭い。
「笑っちまうぜ。獲物を取り上げられたら怖くて動けねーってか?これが名を馳せ」
ダインの長台詞が終わる前に、ラグは唐突に持ち手から手を離すと。
「なっ…」
地を蹴り、跳んだ。
勢いをつけて振りかぶった拳が、反応の遅れたダインの顔面にまともに入る。
「…が…っ」
正直細長いだけの子供の一撃と油断していたのだろう。
倒れ込むダインの首裏を、反動を利用して裏拳が追撃する。
今度こそ意識が飛びかけただろう男の横腹に、続いて回し蹴りと体重をかけた肘鉄。
ここまで来るとボコり放題である。
ラグはストレス発散と言わんばかりに容赦ない攻撃を、重点的に顔や腹を狙ってとことん入れていた。
「……」
そこまで行くと、当たりに動ける“ヘヴンズ”のメンバーは残っていないと紅も気づいて、膝の力が抜けてぺたんとしゃがみ込む。
未だ苦悶し、喘いでいる者。絶命して呼吸をやめた者もいて、けれどほぼ無傷なのはあの怪物二人だけだと思う。
何だ、そうか。
ラグは、ラグ達はこんなに強いのだ。
紅が必死になって抵抗してもびくともしなかったダインが、子供のように見える。
まあ、ラグの状態が何だか普通じゃないように見えるから、特別なのかは知れないが。
助かった。
助けられて、しまった。
すとんと、その事実が紅の中に落ち着いて、沸き上がるのは安堵よりも落胆だ。
(役立たず)
そう、自分で認めてしまうと、顔を覆いたくなるほどいたたまれなくなるのだ。
「あ…」
どうやらやっと気が済んだらしいラグが、紅の前までやってきて膝をついた。
相変わらず色のない表情で、そんな視線に射抜かれると怖かった。
はっと、紅は自分の姿に気づいて慌てる。服は酷いありさまで、下着が丸見えだった。
両手で覆ってしゃがみ込むが、ラグが見ていたのは傷付けられたことのなかった綺麗な肌よりも、傷付けられた惨状の、赤い腫れとか、青い痣とか。
すっと、ラグが紅に手を差しだした。
つられて紅は顔を上げる。
二人は無言で見つめ合っていた。
影からこの光景を見守っていたカゲロウなどは、てっきり、ラグが紅を抱き締めるものだと勘違いするような、ゆっくりとした動きで。
ぱちん。
小さな音が響いた。
痛みに麻痺した頬でも、横を向かされて、ラグに叩かれたのだと紅は理解した。
こんな状態でもまた、もたらされたのは暴力だった。
「一人で何でも出来るなんて思い上がるな。巻き込まれるこっちの迷惑を考えてみろ」
ラグの口がそう、辛辣に言い放った。
おそらく、紅が分かっているうちで、ここに来て彼がはじめて発した言葉がそれだ。
「あ…の」
紅は、思わず言葉を失って。ラグの目を真っ直ぐ見上げた。
彼の、目には、こえには、いろが、ない。
それが、何だか、彼に軽蔑されたように思えて。
「…たすけろなんて、言ってないじゃない…」
零れたのは、そんな言葉。我ながら乾いた声で。
「じゃあ、ひとりでしねばよかったんだよ」
ごく、当たり前のように、
彼は紅へそう言い放つと、背を向けて歩き出した。
――――――怒ってる。
―――――――ラグが、本気で怒っている。
違う。言いたいのは、そんなことばじゃない。
意地っぱりな紅は、喘ぐように口をぱくぱくさせて、それでも、目の前が真っ暗になる方が早くて。
「…おい」
我関せずでてきぱきと刃の血糊を拭いていたエッジも異変に気づいて、とっとと廃工場から出ていこうとするラグに声をかける。
ラグも視線に促されて振り返る。
紅が気を失って倒れていた。
無意識に口から漏れたのは舌打ちだ。
「カ――――」
カゲロウに運ばせようと、名を呼びかけて、やめる。
ふたたび足を中に進めていった。
跪いて、背中と膝の下に手を入れて抱き上げる。
温かくて、やわらかくて、血のにおいがした。
「……」
多分しばらく腫れが引かないだろうなあと言うほど殴られた頬に、手を添えて。
少なくともカゲロウは見ているという意識はあっても、構わずに、前髪を避けて額へ唇を落とした。
「…ごめんね」
耳元で、小さく呟いて、一度だけぎゅうっと抱き締める。
他の誰にも触らせたくないと思った。
その日のフクロウは休む間もなかった。
治療しようとメイが目を離した隙にカゲロウまでいなくなるし、やっと帰ってきたと思ったら紅は酷い状態で、メイやローザも言葉を失っていた。
「私がその場にいたら二度と男として生きていけない身体にして差し上げたのに…」
目に涙をにじませて紅の身体を拭くメイは、黒いオーラを全身に滾らせているし。
ラグはラグで早々に紅を放り出して部屋に籠もるし。
なんだかもの凄く気まずく重苦しい雰囲気が、家中に漂っていた。
別にカゲロウも紅も命に別状はないのだが。こんな事は初めてだった。
「エッジ、あんた見てたんでしょ?二人になにかあったの?」
「さあな、俺は興味もねえし。知ってたとしても言う気はねえよ」
ローザとエッジのこんなやりとりも交わされたが。
夜中に一度紅が意識を取り戻して、そのあとしばらくしてみんなやっと眠りに就いた。
紅は、体も心も疲弊していて、いくらでも眠れたのだが、全身の痛みが、何より心の衝撃が、なかなか眠らせてはくれなかった。
「…っ、…っ。うー…」
生まれて初めて心の底から、人間のことを怖いと感じた。
どうしようもなく素直にならない自分を、嫌いだと思った。
声を殺して、もうラグに嫌われたかも知れないと、そればかりを恐れては静かに泣き続けた。
ラグは、とても眠れる状態ではなくて、ベッドの上に座ってぼーっと外を眺めていた。
気がつけば震える手を、もう片方の手で押さえつけて、離す。それを幾度と無く繰り返した。
今日は全く自分らしくなかった。我を失って、行動の制御すら出来なかった。
それは、連れ去られたと知って。
紅のことが心配で心配で。気が狂いそうだったからだと。
認められないほど、鈍くはないのだけれど。
(2005.2.9)
はじまる意識。